45話
「私の行く手を邪魔するなら……容赦はしない!」
イーディスは宣言と同時に走り出した。
前に行くことがかなわないのなら、アキレスの偽物を倒して突破するしか道はない。幸い、偽物は丸腰だ。剣を持つこちらの方が有利である。
「お姉ちゃん……」
アキレスは苦しそうに顔を歪めた――が、それは一瞬だった。すぐに、苦し気な色は拭い去られ、今まで見たことがないくらい冷酷な表情へと変貌を遂げる。
「そうか……お姉ちゃんとは戦いたくなかったけど……」
それでいて瞳の奥には、どこか寂しそうな色が浮かんでいた。
「お姉ちゃんを眠りに落とそう。うん、それしかない」
アキレスの手に黒い霧が急速に集った。そして、黒い霧のままこちらに切りかかろうとしてくる。イーディスは思わず足を止め、剣で霧を払おうとした。だが、イーディスの耳に届いたのは空気を割く音ではなく、乾いた金属音。払ったのは霧ではなく、霧から生まれた黒剣だった。
「僕だってね、もう無力な子どもじゃないんだよ。僕は剣だって振るえるし、お姉ちゃんを――永遠に守ることだってできるんだ!!」
アキレスは黒剣を握りしめている。
彼はそう叫ぶと、逆に私の方へ向かってきた。
「お姉ちゃん。抵抗しないでね、すぱっと眠らせてあげるから!」
瞬間、アキレスの顔が正面に迫って来る。
目の前に黒い剣先が突き出された。
「――ッ!」
イーディスは考えるより先に、剣で弾き返していた。
そこから先は、剣戟の応酬だった。
刃と刃が激突する。火花が飛び散る。一撃を受ける度、イーディスは呻いた。剣を受けるたびに伝わる振動で、腕は痺れ、余波で今にも身体が吹き飛びそうだ。
「それは、永遠の眠り、かな?」
だけど――身体は動く。
この身に刻まれた記憶が、剣を振るい続けてくれる。
「お姉ちゃんは僕には敵わないよ。それに、忘れているだろうけど……お姉ちゃんはね、ここにいた方が幸せなんだよ。だから、剣を置いて。ずっとここで暮らそうよ」
アキレスが諭すように語りかけてきた。
こちらは必死になって剣を操っているというのに、彼の口調は余裕が見える。力の差は――歴然としていた。
「……確かに、そうかもね」
イーディスは苦笑いを浮かべる。確かに、彼の言い分には一理あるかもしれない。こうして剣を振るってみることで、改めて自分の異変を冷静に感じることができる。
ただの孤児の娘が、剣を習得しているはずがない。
ただの孤児の娘が、剣を取り出せるはずがない。
ただの孤児の娘が――アキレスを名乗る謎の強者と対等にやり合えるはずがない。
イーディスには思い出せないが、あの美少女が語った「聖女」と関係しているのかもしれない。
もし――聖女になったら、魔王討伐の過酷な旅をしなければならない。
その仲間ともなれば、きっと貴族に連なる方ばかりだろう。平民以下の孤児が気やすく接していいはずがないだろうし、当然、討伐が終わるまで最愛のアキレスと会うことも叶わない。
それは、きっと――孤独で辛い旅。
イーディスは、想像するだけで背筋が凍る思いがした。
そんな辛い現実と直面するくらいなら、この幻影の世界で微睡んでいた方が幸せかもしれない。だが――
「でも、残念。夢はいつか覚めるものよ」
それが悪夢にしろ、なににしろ、いつかは覚めて現実に一歩踏み出さないといけないのだ。
「だから――私はここから出る!!」
イーディスは歯を食いしばると、いまできる限りの力を剣に込める。
すると、剣の刀身に紫色の粒子が沸き上がってきた。否、沸き上がって来たのではない。粒子はイーディスの首飾りから腕を伝い剣へと集う。その輝きは、まるで夜明けの光を見たときのように、胸の内にくすぶっていた不安や恐れが払拭されていく。
「そんな――っ、聖女の力が、どうして!? 今のお姉ちゃんに、その力は使えないはずなのにっ!」
「さあ、分からないけど――使えるなら使っておかないとね!!」
煌々と輝く紫の輝きは、アキレスの怯えた顔を照らし出した。
しかし、イーディスは幻影のアキレスに惑わされることはない。柄を握りしめる両腕に渾身の力を込めて、イーディスは紫色の剣を振り上げた。
「消え失せろ、偽物――ッ!!」
光が奔る。
それは吠えるように、空間を貫く轟音を立てながら、アキレスに襲いかかった。彼は黒い霧を盾のように展開させ防御の構えをとったが、紫の大洪水の前では無力だった。黒い盾は濁流に押し流されるように粉砕され、塵となって霧散する。その後ろにいたアキレスは――
「っく、やっぱり写し身だと、この程度か。待っててね、お姉ちゃん。またすぐに――」
その声も、小さな姿も、すべてが紫の光に消えていく。
光が完全に消えたとき、目の前に広がっていたのは見知らぬ天井だった。
天井しか見えないから分からないが、背中に感じる暖かな柔らかさから察するに、どこかのベッドに寝かされているに違いない。
そうなると、自分は夢から覚めたのだろうか。そう思って身体を起こそうとしたが、どっと疲れが押し寄せてきた。身体を起こすことはおろか、指だって一歩も動かせそうにない。
ただ、それは罰掃除を延々としたときの疲れとは違って、どこか心地の良い疲労だった。
「そっか、私……聖女だったんだ」
イーディスはパズルのピースが一つ埋まったような感覚に、ほっと安堵の息を零した。柔らかなマットレスに背を預け、呼吸を落ち着かせながら――1つ1つ、記憶を確認する。
聖女だと思い出すと、糸を紡いでいるかのように記憶が蘇ってきた。
いきなり聖女の認定を受け、旅に出たこと。
クリスティーヌ・エンバス侯爵令嬢が異様に強く、旅の仲間たちからの好意を一身に受けていたこと。
そして、自分は終始お荷物扱いだったこと。
最後の最後まで、ずっとクリスティーヌが活躍し続け、魔王も彼女が一撃で倒したこと。
しかし、その後が思い出せない。
まだ、頭に靄がかかっている。
自分は魔王討伐の旅から戻ってきたはずだ。
魔王討伐の旅から戻ってくれば、孤児院に帰ることができたはず。それなのに、あのアキレスの反応から察するに、アキレスと再会できていない。ならば、帰れなかったのは何故なのだろうか。自分なら、手足を切断されたとしても彼に会いに行くはずである。
……それに、記憶の中では一度も「聖女の力」を使っていない。
つまり、まだ戻っていない記憶がある。
だから、これは夢の続きなのかもしれないし、ただ記憶が一部欠損して目覚めてしまったのかもしれない。個人的には後者の方がありがたい。
これは……聖女の力を無理やり引き出し、夢から強引に目覚めてしまった弊害だろうか。
そんなことを考えていると、遠くから足音が響いてきた。
一瞬、この状況を教えてくれる人だと良いなーなんて甘い考えが浮かんだが、すぐにそれを打ち消す。
人生、そう上手くいくものではない。天井には紋様一つない。ベッドは柔らかいとはいえ、孤児院のよりはマシな程度。しかも、どことなく肌寒く、空気が魔王城の地下牢とよく似ている。
きっと、ここはロクな場所ではない。
イーディスはそう判断すると、身体の気怠さに逆らって身体を起こした。案の定、部屋に家具はない。あるのは自分が寝かされた石造りのベッドのみ。それが、まるで祭壇のように部屋の中央に安置されている。周りには燭台しかなく、なにかの儀式を執り行った場所のようだ。
「……これ、気味悪い」
一刻も早くこの場から離れよう。
イーディスの本能がそう告げていた。直感に突き動かされるように震える足を動かし、唯一ある出口へと向かおうとする。こうしている間にも、足音はどんどん近づいてきている。しかも、イーディスの気のせいでなければ、先程よりも速くなっている。
この場に逃げる場所はもちろん、隠れる場所もない。
捕まったら、鎖で拘束されるのだろうか。それとも、殺されるのか。
「……大丈夫」
イーディスは深呼吸をした。
腰に剣はある。首飾りも胸にある。それに、近づいてくる足音が敵だと完全に決まったわけではない。ならば、まだなんとかなる。そもそも、この部屋に入ってこないかもしれない。
だったら、ここから出ずに留まるべきだ。
イーディスはドアの傍で息を潜めた。とうとう足音がすぐ傍まで来た。ここにきて速度を落とし、ゆっくり近寄って来る。やはり、目的はこの部屋なのだ。そう思うと、イーディスの心臓は激しく脈を打ち始めた。
そして、軋むような音と共にドアが開かれる。
ドアの影に張り付くように縮こまる。できる限り、見つからないように。しかし、わずかに震えたイーディスの視界に、靴の先が入る。やはり、一か八か、ドアから逃げた方が良かったのだ。
なにせ、そこにいたのは――




