44話
イーディスは、がむしゃらに走った。
もつれそうな足に鞭を打ち、無理やり動かし続ける。
立ち止まったが最後、アキレスの偽物につかまってしまう。
「はぁ……はぁ……」
かすれたような呼吸をしながら、必死に走り続けている。
走って、走って、とにかく走り続けて、自分が足を動かしているのか、足が勝手に走り続けているのか分からなくなってきた頃――ようやく、王都の大通りが見えてきた。
大通りは、いつもと変わらない。呼び込みやら笑い声、活気に満ちた多種多様の人で溢れかえっている。
イーディスは躊躇うことなく大通りに飛び込むと、行き交う人の波を押し入り、かき分けていく。事情を知らない人たちからしたら迷惑千万な行為だが、いまはとにかく偽物から距離を取ることが大切だ。
「おねーちゃん! どこー?」
人の波を隔てた向こう側から、甲高くて甘い声が聞こえてくる。
もちろん、返事などするわけがないし、足を止めるわけにもいかない。
しかしながら、イーディスの足は次第に疲れを訴えてきていた。じんじんと刺すような痛みが足の裏から上がってくる。速度も落ち、息も上がってきているのが分かる。
「もう、だめ」
イーディスはふらふらと中央広場に入ると、大舞台に近づいた。
年越し祭りで設置される大舞台は、奈落という床下が存在する。演者の通路であり、演出のための装置が設置されているのだが、一時的な隠れ場にはちょうど良い。イーディスはさして悩むことなく、奈落へと滑り込んだ。
薄寒く、湿った空気が鼻をつく。
イーディスは腕を抱えながら、じっと息を潜め――ふと、妙なことに気づいた。
「……あれ? なんで、私は舞台のことを知ってるの?」
イーディスは生まれてこの方、舞台の上に立ったことは皆無である。
専門知識はもちろん、奈落への入り方など、知るはずもないのに、どうして身体が勝手に動いたのだろう。
「お芝居に関する仕事をしていた、とか?」
小さく呟いてみて、すぐに考えを打ち消した。
容姿はさして良い方でもなく、面白いことを言える口もない。なにか、一芸に秀でているわけでもなかった。芝居小屋に勤めていたとしても、せいぜい裏方だ。
「でも、体力もないし、衣装づくりの針仕事ができるわけでもないし……」
イーディスはため息交じりの苦笑を零した。
自慢ではないが、腕力もなければ、手先が特別器用でもない。きっと、自分は裏方業務も満足にこなすことはできないだろう。
なら、なぜ――自分は奈落を知っていたのか。
よほど、手が足りていない劇団に所属していたのか。それとも――
「……はぁ」
イーディスは足を抱え込むと、息を潜めて考え込んだ。
いままでの人生で記憶にない以上、答えは失われた記憶のなかに答えはあるはずだ。
そして、それに辿りつくことができれば、記憶が蘇り、こんな悪夢から覚めることができる。
「……とはいえ、思い出せないものはな……」
やはり、記憶を辿ろうとすると、頭の中に靄が広がってくる。
記憶を復元するキッカケは、自分の足で探さなければならない。まさかの自分が奈落を知っていた、ということに気づけるように、意外と鍵はそのあたりに落ちているかもしれない。
だから、あの偽物のアキレスは焦っているのだ。
「ま、私を夢に閉じ込めて、なにか起きるとは思えないんだけどさ」
そこが一番、いまだに分からないところである。
イーディスは胸元に目を落とす。紫色の宝石が怪しく揺れていた。
これのおかげで偽アキレスから逃げ出し、一時的に撃退することができた。そのことには、非常に感謝している。しかしながら、と、イーディスは悩む。
このいかにも魔力が込められていそうな首飾りは、どうして自分のものになったのだろうか。
この謎は数多くある疑問点のうちで、頂点に君臨するものだ。
偽アキレスが、この首飾りを見たときの反応も気にかかる。
明らかに動揺して、偽物であると露見するような行動に出ていた。
イーディスは、彼が首飾りを欲しがっているようには見えなかった。むしろ厄介で憎むべきものを見たかのような反応だった。
「……偽物が嫌ってるから、たぶん、大切にしないといけないものだよね」
イーディスは首飾りを握りしめると、ゆっくり立ち上がった。
これ以上、うだうだ考えていても何も始まらない。
ならば、いっそのこと外に戻り、別の手がかりがないか調べるべきだ。
イーディスはそう判断すると、出口に向かった。しかし、そのときだった。突風が襲ってきたのだ。
突然の風に顔を覆い、薄目でドアを確認する。入口のドアが吹き破られている。
入口に、アキレスが立っていた。
アキレスはイーディスに、そして、その後ろのドアを一瞥すると、ゆるく手を挙げた。すると、手も触れていないはずなのに、出口が閉められていく。イーディスが慌てて出口に滑り込もうとしたが、無情にも鼻先でバタンと閉まってしまった。
イーディスはドアノブに手をかけ、小さく悲鳴を上げた。
「熱ッ!!」
業火で熱せられたように熱い。
これは、自分で開けることはできない。イーディスは火傷した右手を庇いながら歯を食いしばった。
「さあ、もう逃げ場はないよ! 一緒にここで暮らそう、お姉ちゃん!」
「いや。私は、元の世界に帰るの」
「いいや、ここが新しいお姉ちゃんの世界なんだよ」
そう言いながら、偽物は手を指し伸ばしてきた。
相手を慈しむような声色、柔らかな雰囲気……髪の毛の先一本まで、そのすべてがアキレスだった。
「おいで、お姉ちゃん!」
ほんわかとした無邪気な笑顔が、まっすぐこちらへと向けられる。イーディスは思わず、その手を取りそうになった。
しかしーー
「私は……」
伸ばしかけた手が躊躇する。
いまは、あの小さな手が欲しいわけではない。
否、大事なはずのアキレスの手も握りたいが、もっと欲しい手があった。
「私の欲しいものは……お前じゃない」
あのどこまでも可愛らしく柔らかな手も魅力的だが、それではなく、もっと無骨でぶっきらぼうで、それなのに、優しく労ってくれるーーもっと、頑張ろうと思えるような誰かの手が欲しかった。
名前も顔も、声すら思い出せない。
それでも、イーディスは自分の知らない「あの人」の手が欲しかった。
それはここにはなく、偽物の支配する世界では手に入らない。
「私の欲しいものは……私の帰る場所は……!!」
だから、イーディスは挑戦的にハッキリと宣言する。
「ここじゃないから!」
叫び声が、暗い奈落を震わせたときだった。
再び、首飾りが淡い紫色の光を放ち始める。光を浴びると、偽物のアキレスが途方もなく嫌そうに眉をしかめ、数歩後ろによろめく。だが、孤児院の時の輝きとは異なるらしく、偽物に直接的な損傷を与えるものではなかった。
その代わり、首飾りから細い何かが飛び出してくる。
イーディスは考えるよりも先に、それを引き抜く。さほど力を入れずに引き抜いたのは、細身の剣だった。驚くほど掌に馴染む。
きっと、この剣は自分のものなのだろう。
イーディスは思い出せないことが歯がゆかった。
どうして、ただの孤児に過ぎない自分が、剣を知っているのかも疑問である。今の自分は、忘れている者が多すぎる。
……だが、それを思い出すためにも、名前も思い出せない誰かと会うためにも、この状況を打破し、夢から目覚めなければならない。
イーディスは手の中で剣を回転させると、その切っ先を偽物へと向けた。
「どいて、偽物。私の行く手を邪魔するなら……容赦はしない」




