43話
「あ……すみません」
イーディスは、自分の口が引きつっているのを感じた。
反射的とはいえ、とても失礼な言い方をしてしまったのだ。相手が気を悪くして当然である。事実、目の前の美少女は寂しそうに項垂れていた。
「その……えっとですね、物凄く申し訳ないんですけど、たぶん、人違いだと思いますよ」
慎重に言葉を選びながら答え直してみるが、一度、放たれた言葉は取り返しがつかない。
イーディスは気まずくなってきた。
そもそも、彼女は何者なのだろうか。
イーディスは自分の身を庇うように、胸の前あたりで両手を交差させようとした。すると、腕に硬い何かが当たる。視線を落とせば、見覚えのない首飾りを身に着けていた。
いつの間にか、身に着けていた紫色の首飾りも不気味極まりないが、その光から現れた美少女も怪しさ満点である。
まず、顔が作りものじみている。
青いガラス球を埋め込んだような澄んだ瞳、金髪に波立つ長い髪、すうっと通った鼻筋、バラ色の頬に林檎色の唇。そして、なにより整い過ぎた輪郭が異質さを際立たせていた。
そのうえ、神話から抜け出してきたような、一枚の布を滑らかな身体に巻き付けている。ゆったりとした着こなしで、神官たち以上に落ち着いた雰囲気をしているが、時代錯誤な服装に怪しさは頂点を突破している。
「貴方は……」
しかしながら、なぜだろうか。
イーディスは少し首を傾げてしまった。
どういうわけか、この怪しさ満点の人物と初めてあった気がしない。
無論、ただの孤児に過ぎない自分が、この世のすべてを持っていそうな完璧な貴人と会うわけがない。たとえ、今までの人生で接点があったとしても、忘れるはずがない。
思い出そうと意識を集中させてみるのだが、すぐに靄がかかったように思考が塵切りになってしまう。再度、集中しようとすると、胸の辺りに鉛が圧しかかったかのように重くなってくるのだ。
「ふわぁ……」
イーディスの口から、あくびが溢れた。
なんだか、考えるのも億劫になってきた。瞼を閉じて眠ってしまいたい。うとうととした微睡みに身を委ねたい。
そんなときだ。
「眠っては駄目です!!」
美少女の喝が鉛を吹き飛ばした。
その声は清涼剤のように、イーディスの意識を引き戻す。いまだに、どこか頭がぼんやりとしているが、かなり眠気は吹っ飛んでいた。
「あっ……」
イーディスは眠ってしまおうとしていた自分に呆然とした。
アキレスが一人、罰掃除をしているというのに、眠ろうとしていた自分が情けなくてしかたなかった。
「その、起こしてくれてありがとうございます」
イーディスは、改めて怪しい美少女を正面から見据えた。
相変わらず瞳はガラス玉のようだったが、その瞳の奥に尋常ならざる意思を感じる。
「礼には及びません。貴方は、私の大事な聖女なのですから」
美少女は口元に微笑を浮かべた。
こちら側からの面識はないが、彼女はイーディスを知ってる。それが、イーディスにはどこか歯がゆく感じる。一刻も早く、アキレスの後を追いかけたいが、それよりも先にこの少女の素性と自分との関係を知るべきである。
だから、イーディスはややおそるおそる、少女に話しかけた。
「すみません。私、貴方のことが思い出せなくて……貴方は……誰ですか?」
「私は神です」
前言撤回。
目の前にいるのは、頭のおかしい貴人である。
これは、面倒なことに巻き込まれる前に、首飾りを外して逃げ出すのが得策だろう。
イーディスはそう判断すると、ゆっくりと首飾りに手を伸ばした。
「そうですか……その……私、弟を追いかけないといけないので、ここで」
「いえ、追いかけては駄目。勘付かれてしまいますよ」
しかし、美少女は首を横に振った。
「それも外しては駄目。
外したら最後、貴方は完全に囚われてしまいます」
「囚われる?」
イーディスの指がぴたりと止まった。
「ええ、イーディス。ここは、幻影の世界……貴方は、ここに囚われているのですよ」
「幻影?」
「夢みたいなものです。夢の監獄です。
おかしいと思いませんか? 自分が、いつからここにいるのか? アキレスの様子は本当にいつも通りですか?」
イーディスはまじまじと美少女を見据えた。
すべてが作り物みたいで信用できない存在だが、彼女の言葉には妙に説得力を感じた。
確かに、ここ数日の記憶を思い出したくても、靄をつかむようにあやふやだ。
記憶の糸を手繰ろうとするのだが、そこに触れようとした途端に霧散してしまう。数人の男女の顔が頭に浮かんだが、誰だか思い出せない。
きっと、また詳しく思い出そうとすると、強烈な眠気が襲ってくるのだろう。
それに、おかしいのは、アキレスも同じだ、
自分が大切に想っていた弟なのに、どこか記憶とズレている。
か弱くて優しい弟だったのに、その瞳に今までになかったはずの冷酷な色がチラつくのだ。そう――見た目は変わらないのに、イーディスの知らない修羅場を潜り抜けてきたかのようで――思い出すと、実の弟なのに背筋が凍ってしまいそうだ。
「思い当たる節があるようですね。それが証拠です」
「……つまり、これは全部……私が見ている夢?」
イーディスは、戸惑いながらも口を開いた。
この風も、甘い香りも、心地よい春の日差しも、奇妙なアキレスも、すべてが夢なのだ。
にわかに信じがたいことだったが、それを静かに受け入れている自分もいた。
「その通りです。
貴方は強制的に眠りに落とされ、延々と夢を見続けさせられているのです。
この世界から出て、現実に戻るためには目覚めなければならないのですよ」
「目覚めるって言っても……」
イーディスは眉間に皺を寄せた。
具体的に、どうやれば目を覚ませるのか分からなかった。
ひとまず「瞼よ開け――ッ!」と眉間の辺りに力を込めて念じてみたが、特に周囲が変わる様子は見当たらない。
「この夢は強く支配されています。
私でさえ、貴方に干渉するのが精いっぱい。もう……それも持ちそうにありません」
美少女は申し訳なさそうに呟いた。確かに、先程よりも美少女の姿が霞み、身体の向こうの風景が透けて見え始めていた。イーディスは小さく悲鳴を上げた。
「だ、大丈夫なんですか!? 身体が、透けて――ッ!?」
「だから、時間がないのです。
よく覚えていてくださいね。貴方はここ数年分の記憶を忘れています。それをまずは取り戻さなければなりません」
美少女の必死な声も、幕を隔てているかのように聞こえにくくなっていく。
もう下半身は消え失せ、上半身も目を細めないと見えなくなってしまっていた。それでも、彼女はイーディスに言葉を伝えようと声を張り上げ続けている。
「記憶に完全な削除はありえません。どこかに復元の手がかりが残っているはずなのです。
それを見つけ出すことができれば……」
――貴方は目覚めることができます――
その言葉を最後に、美少女は空に溶けるように姿を消した。
イーディスは孤児院の前庭に一人、立っていた。
雑草が程よく伸びて、ろくに剪定もされていない木々が生い茂っている。とてもではないが、ついさっきまで、この世のものとは思えない絶世の美少女がいたとは思えなかった。
しかし、あれは夢ではない。
イーディスは、いまだに胸に残る紫の首飾りを握りしめた。
「……復元の手がかり……といっても……」
イーディスは肩を落とすと、孤児院に目を戻した。
イーディスにとっての世界は、ほとんど孤児院に限定されている。
失われた記憶を探すためには、孤児院に戻るのが1番なのだろうが、いま、孤児院に戻ると罰掃除中の弟と鉢合わせしてしまう。
先ほどの美少女は『アキレスを追いかけてはいけない』と強く指摘してきた。
愛する弟を疑いたくはないが、この世界のアキレスは記憶の復元を阻害してくる存在なのだろう。
「……ごめんね、アキレス」
彼の罰掃除を手伝ってあげられないのは心苦しい。けれど、いま1番大事なことは早く目を覚まして、本物の弟のところへ帰ることなのだ。
夢の中の弟より、現実の弟である。
いまも自分が夢を見ているのであれば、きっと心配していることだろう。
「さてと、そうなると……まずは、コゼットのパン屋あたりかな」
わずかに辿れる記憶を引きずり出すと、イーディスは孤児院に背を向けた。
孤児院以外で思い出に残っている場所は、かなり限られていた。
元・孤児院仲間の働くパン屋や洋裁店、仕事を手伝った商店に年越し祭りの中央広場など指で数えるほどだ。回るのはすぐに終わるはずで、そのどこかに復元の鍵が落ちていると考えると、ずいぶん気が楽になった。
これなら、案外、はやく目覚めることができそうである。
しかし――
「お姉ちゃん! どこに行くの!?」
イーディスが右足を踏み出そうとした直後だった。
後ろから、甲高い声が聞こえてきたのだ。
イーディスが驚いて後ろを振り返ると、アキレスが必死の形相で駆け寄ってくる。足取りも確かで、踏み込みの一歩一歩が力強い。これも、記憶の中にない――気弱で病弱な弟がするはずがない姿だった。
「行きたいところがあるなら、一緒に行こう!」
「ごめんね、お姉ちゃん……ちょっと、一人で行かないといけないところがあるの」
だが、やはり夢で違和感があるとはいえ、アキレスはアキレスだ。
無下に突き放すこともできず、やんわりと同行を拒むことにする。
「一人でって……どこか、具合でも悪いの?」
「そうではないけど……」
イーディスはアキレスが心配そうに顔を覗き込んでくる姿を見て、胸が締め付けられる思いがした。イーディスは気持ちを抑え込むように首飾りを握りしめる。
その瞬間だった。
アキレスの表情が一変した。
まるで、親の仇でも見るかのように首飾りを睨み付けていたのである。いつもの柔らかい雰囲気は完全に消え去り、深い憎悪の感情を放っていた。気のせいか、黒い靄のようなものまで発しているように見える。
「お姉ちゃん! それ、どこで手に入れたの!?」
「アキ、レス?」
「答えろ、そんな汚らわしいものをどこで手に入れたんだ!?」
アキレスは口調まで変わり、両腕を握ってくる。
イーディスの腕が軋むほどの握力で、激痛に涙を滲ませてしまう。それでも、優しいはずのアキレスは手を止めない。むしろ、つかむ力が増幅していた。
「いたい、やめて、アキレス!」
「神の手引きか!? はやく答えろ!!」
激しい口調で問いただしてくる。
これは、絶対にアキレスではない。完全に別人である。
イーディスは身体全身の力を込めて、振りほどこうと腕をひねる。しかし、完全に固定されてしまい、そうやすやすと振り払うことができない。それでも、身体を捻り、渾身の力を込めて逃げようとする。
「はやく、僕の質問に答えろ!!」
「――ッ、だから、痛いってば! 離せ、この偽物――ッ!!」
耐えきれずに、イーディスは叫んだ。
すると、虚を突かれたように、アキレスから表情が抜け落ちた。わずかに力も緩み、動きが止まる。その隙を狙ったかのように、ぱちぱちと首飾りが紫色の火花を散らし始めた。火花は瞬く間にイーディスの腕を伝い、拳を包み込んでいく。その紫色の火花が偽物に触れた途端、彼は苦悶の声を上げて、イーディスから離れた。
「――ッ、ぐわわあああ!!!」
アキレスは身体を前に俯かせ、草地に座り込む。
よほど紫の火花が堪えたのか、心臓辺りをつかみ、人目をはばかることなく嘔吐していた。それも、口から出てくるのは普通の吐しゃ物ではなく、黒い木炭を煮詰めて液状にしたような薄気味悪いものである。
あまりの恐怖で腰が抜けてしまいそうだ。
イーディスは髪の毛の先端まで震えあがると、脱兎のごとく走り出した。
あれが本来の弟であれば、すぐに手を差し伸べたい。
しかし、あれはアキレスの皮を被った偽物であって本物ではない。
だから、今のイーディスには嫌悪感しかなかった。
さっさと逃げて、この世界から脱出しよう。
「……おのれ、おのれ、おのれ……!! 逃げるな、イーディス!!」
苦しそうな怒鳴り声を背中で受け流し、イーディスは脇目も振らずに走り続けた。
逃げるな、といわれて待つのは愚か者だ。
このまま言葉通り残っていたら、なにをされるか分かったものではない。
「そうか……そうだな、お姉ちゃんは鬼ごっこをしたいんだね。だから、僕を怒らせたんだ。
そんなまどろっこしいことをしなくても、ずっと一緒に鬼ごっこできるのに」
違う!!と叫びたかったが、それを叫ぶ余裕すら惜しい。
振り返らなくても、あのアキレスそっくりの偽物が不気味な微笑みを浮かべているのが分かった。
「お姉ちゃんの要望通り、僕が鬼で追いかけるよ。だから、僕が勝ったら――おとなしく首飾りを捨てて、ずっと孤児院にいようね」
偽物はおそろしいことを口にすると、地面を蹴る音が聞こえてきた。
イーディスに確認する暇もない。確認しなくても分かってしまう。
アキレスそっくりな優しい声に柔らかな雰囲気を意識しているが、物凄く激怒している。殺しはしないが、それと同等な扱いを受けることは間違いない。
後ろから追跡してくる足音を強く感じながら、イーディスは必死になって足に鞭を打ち続ける。
つかまったら、デッドエンド。
絶対に負けられない、鬼ごっこの幕が切って落とされた。
次話は明日の5時に投稿予定です




