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払いの聖女 ‐悪役令嬢が無双したあとの世界で生きていく‐  作者: 寺町 朱穂
第5章 聖女、監獄迷宮から脱出できるか?
53/69

42話



 遠くで鐘の音が聞こえる。


 鳩の優しく鳴く声も、重なるように聞こえてきた。

 うっとりするような甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。

 まさに、心地の良い春の陽気だ。日差しも温かく、頬に当たる風も心地よい。

 


 このまま――何も考えることなく、もう少しだけ、うつら、うつらと微睡んでいたい。



「お姉ちゃん!! もう、起きなって!」


 しかし、その願いは叶わずじまい。

 弟の元気な声と身体をゆする感覚で、イーディスはゆっくり瞼を開けた。


「……アキレス?」


 寝ぼけ眼をこすりながら、笑みに満ちた弟の顔を見上げる。

 いつも病弱だった弟だが、今日は凄く調子が良いらしい。唇は健康的な赤色で、肌艶も良く、黒い瞳を輝かせている。辺りの陽気を春だとしたら、今の彼は夏真っ盛りだ。姉として、健康的な弟を見るのはこの上なく嬉しい。


「……あれ?」


 だが、なにかが引っかかる。

 イーディスは僅かに目を細めて、弟の顔を注視しようとした。


「お姉ちゃん、行こうよ!」


 しかし、その違和感の正体を確かめる前に、アキレスはこちらに手を差し伸べてきた。

 そこで初めて、イーディスは孤児院の前庭にいることに気づいた。丸太を削り出した長椅子に横になっていたのである。


「私……こんなところで寝ちゃってたんだ」


 まるで、長い間眠っていたような気怠さを感じながら、アキレスの手を借りて立ち上がる。

 眠る前の最後の記憶を呼び起こそうと、考え込むが、どうにも靄がかかったように思い出せない。イーディスは右手を額に乗せた。


「ごめん、どれくらい寝てた?」

「心配しないで、そんなに寝てないよ。それよりさ、一緒におやつを食べようよ!」


 気がつけば、彼は茶色の包み紙を抱えていた。袋の中央には、近所の洋菓子屋のロゴが刻まれている。


「ちょっと手伝ったらね、貰ったんだ! お姉ちゃん、ここのお菓子好きでしょ?」

「うん、好きだけど……」


 イーディスは、今は何も食べたくない気分だった。

 身体は自分の物ではないかのように重く、指先も少し震えている。眠る前のことも思い出せないくらい頭もぼんやりとしていて、熱にでもかかったかのようだ。


「ごめんね。アキレスが貰ったモノだから、アキレスが食べて。

 お姉ちゃん、ちょっと風邪っぽい感じなんだ」

「風邪……?

 ……ああ、今回は長かったからか……」


 アキレスは心配そうに首を傾げたが、すぐに、やや合点が言ったように小さく、本当に小さな声で呟いた。


「え?」

「大丈夫、風邪じゃないよ。これを食べれば、すぐに元気になるって!」

「でも、アキレスに移っちゃったら大変だから。

 なんだかね、身体は怠くて熱っぽいし、寝る前の記憶があんまり思い出せないの」


 イーディスは彼を心配させないように、少し笑いながら軽い口調で言った。アキレスは心配そうに、こちらの顔を覗き込んできた。

 

「別に気にしなくてもいいんじゃない? だって、疲れてそこで寝てただけでしょ? 

 思い出せなくても、たいして問題じゃないよ」

「そうかな?」


 思い出せなくても問題ではない、なんてことはあるのだろうか。

 そこまで考えたとき、イーディスは小首を傾げた。

 寝る直前の記憶は、確かに思い出せなくてもさして問題はないかもしれない。けれど――


「なにか、もっと大切なことを忘れてる、ような……」

「そんなことないよ!!」


 突然、アキレスが怒ったように叫んだ。

 あまりにいきなりだったので、イーディスは驚いて固まってしまう。


「あ、ごめん……でも、特に気にしなくていいと思うよ」

「そう?」


 あまり釈然としない気持ちがしたが、アキレスのしょんぼりと落ち込んだ顔を見ていると、なんだか無性に申し訳なくなってくる。


「そうだよね。こっちこそごめんね。アキレスのことを心配させちゃって」

「僕も気にしてないから大丈夫! それよりさ、早く食べちゃおうよ!」


 アキレスと一緒に長椅子に腰を下ろすと、茶袋の中から菓子をとり出した。

 淡い茶色っぽい色をした焼き菓子だ。それを見て、イーディスは目を丸くした。記憶が正しければ、柔らかい生地の中に樹の蜜が詰まっている高級品である。

 神殿へのお布施で一位・二位を争う高級品であり、よっぽどのことがない限り口に入ることはない高嶺の品である。


「ちょ、それ、本当に貰ったの!?」

「うん! 僕って運がいいね!」

「へぇ……じゃあ、早く食べちゃわなくちゃ」


 こんな高級品、他の孤児たちに見つかったら横取りされるのは明白である。

 アグネスやマリアのように優しい子であっても「半分は欲しい」と目で訴えてくるだろうし、乱暴者のロルフたちなら力づくで奪い去っていこうとするだろう。

 今の自分なら、ロルフ程度は簡単に倒せるだろうが、アキレスを守りながら戦うとなると少し厳しい。一応、■■■■■を守りながら戦うことはできたが、あのときも、■■■■■の助けがあったから人さらいを退治することができたのであって――


「痛ッ?」


 ちりちりと眉間の辺りが痛み始め、イーディスは再び額に手を置いた。

 どこか見覚えのない路地裏が脳裏をかすめた。それと同時に、知らない男の子や魔族の顔が蘇ってくる。


「私……誰かを……」

「お姉ちゃん?」

「う、ううん。なんでもない。それよりも、早く食べちゃわなくっちゃね! ほら、こんなところを、ロルフに見られたら大変なことになるからさ」


 イーディスが慌てて取り繕った笑顔を見せると、アキレスはほっと安心したように顔を綻ばせた。イーディスは彼から菓子を受け取ると、ゆっくり口に運んだ。だが、どうしても食べる気になれない。自分が一生、食べることはない高級品なのに、どうしても、お腹が重く、唇が開かないのだ。

 かといって、食べなければ、アキレスが心配するだろう。

 イーディスは齧った振りをすると、一口も食べていない菓子を胸の位置まで下げた。


「そういえば、ロルフと言ったらさー」


 アキレスは安心したように、他愛もない話しをし始めた。ロルフがいじめている子犬をこっそり世話しようとしている、という日常会話。アキレスは、ころころと表情を変えながら、その時の情景を説明する。


 そう、他愛もない日常会話。

 この場にふさわしくない。それこそ、ロルフに見つからないうちに、さっさと菓子を食べさせて、袋を捨てて証拠隠滅しなくてはいけない――と思っているのに、いまはアキレスに話させて、別のことをじっくり考え込みたかった。


 イーディスが気になるのは、アキレスの話ではなく、さきほど脳裏に浮かび上がった見知らぬ光景だ。

 そもそも、イーディスは生まれてこの方、一度も魔族になど会ったことがない。しかしながら、あの凶悪顔の魔族が瞼の裏から離れなかった。

 命と同じくらい大切な弟が熱心に話しているというのに、どうして気味悪い魔族のことに思いを馳せてしまっているのだろうか。


「……ちゃん……お姉ちゃん!」


 はっと気づくと、アキレスは話を止めてこちらを不思議そうに見つめていた。

 

「お姉ちゃん。どうしたの? なんか、急に黙り込んじゃって……」

「なんでもないの」

「それならいいけど……ん?」


 アキレスは急に立ち上がった。

 まるで、なにかに気づいたように孤児院の方へ顔を向ける。

 彼の気配は、まるで研がれたばかりの剣のように鋭い物へと変わっていた。とてもではないが、いままで自分の知っていた弟とは比べ物にもならない。


 病弱で真綿でくるまないと生きていけないようだった弟が、どうして、こんな殺伐とした空気を纏っているのだろうか。


「アキレス?」

「ごめん……ちょっと、神殿の罰掃除を忘れてた」

「お姉ちゃんも手伝おっか? 2人でやった方が早いよ」


 だがしかし、イーディスが立ち上がろうとする前に、手で制されてしまった。


「いいの。すぐ終わるから。それまで、お姉ちゃんは、()()()()()()()()


 ああ、まただ。

 彼が呟くと、頭の中に靄がかかり始める。

 眠たくないのに、瞼が重くなり、不思議と何も考えられなくなるのだ。


「……また?」


 ここに、また違和感が一つ芽生えてしまう。

 自分は()()と感じるほど、アキレスからこの言葉を受けてきた。

 いままですっかり忘れていたが、これで何回目なのだろうか。


「すぐ戻ってくるから、また眠っててね」

 

 アキレスは黒い瞳の奥に、小匙一杯分ほどの寂しさをにじませると、そのまま駆け足で孤児院の方へ走って行ってしまった。


「……アキ、レス……」


 自分そっくりな白い髪が遠ざかっていくのを見つめながら、イーディスは手を伸ばした。

 そのまま横になりたくなる身体に鞭を打ち、足に力を籠めて立ち上がった。


「……おかしいでしょ……これ」


 鉛のように重たい足を無理やり進ませる。 

 草地のはずなのに、沼のような地面に足がとられて先になかなか進めない。


 だが、足を止めてはいけない。


 ここで、足を止めたら最後、また眠ってしまう。何度目か分からない意味不明の眠りに落ちるのはうんざりだし、それをうんざりだと感じる自分が腹立たしい。


「だって……アキレス……一人で罰掃除なんて……」


 そんなこと、ありえないのだ。

 問題児の自分なら話は別だが、優等生のアキレスが罰掃除なんてありえるはずがないのだ。



 「また」と感じるほど強制的に落とされる眠気、罰掃除のアキレスと異様な雰囲気、見知らぬけど懐かしい魔族――。

 

 確実に自分は何かを忘れている。

 アキレスは「気にしないで」と言っていたが、そんな軽いレベルではない。きっと、今の自分が絶対に忘れてはいけない大切な記憶が欠けている。


「わたしは……まだ……」


 ここで、足を止めるわけにはいかない。

 そう思った、その時だった。


『――やっと』


 囁くような声が、イーディスの耳に届いた。

 声がした方向を探ろうと顔を上げたとき、胸の辺りが紫色に輝き不思議な首飾りが浮かび上がってきた。イーディスが呆気に取られている間に、紫色に淡く輝く首飾りは美しい女性を投影した。


『回線がつながりましたね、六代目の聖女よ』


「……は? 聖女って、誰が?」










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