侍女頭は見た
侍女長 リリーは部屋の前で佇んでいた。
窓の向こうで星が瞬く様子を眺めながら、部屋の主が来るのを待つ。
やがて、廊下の奥から小さく――誰かが近づいてくる足音が聞こえると、背筋を伸ばした。暗闇へ視線を向け、じっと見つめると、足音は徐々に大きくなり、そして、窓から差し込む月明りがその人物の顔を映し出す。
「お待ちしていました」
予想通りの人物に、リリーは安堵の息を零した。
「……なんだよ、リリーか。どうしたんだよ、こんな時間に」
自分が生涯をかけて仕える主――ウォルター・ピルスナーは一瞬、訝しむように足を止めたものの、どこか面倒くさそうに頭を掻いた。
普段、リリーが彼の私室まで訪れることはない。
ましてや、今は夜。誰もが寝静まる時間帯である。こんな時間にやってくるなど、厄介ごと以外のなにものでもないことなど、とっくに明白だろう。
「仕事か? んなら、執務室に来ればいいだろ。さっきまでいたんだからよ」
「ええ、ですが……イーディス様の件について、でして」
「分かった。とりあえず入れ」
彼女の名を出した途端、ウォルターの表情が一変した。
呆れたような腑抜けた表情は消え、研ぎ澄まされた獣の顔になる。それから、彼はさして悩むことなく鍵をとり出すと、扉を静かに開けた。
「では、お邪魔させていただきます」
リリーは一礼すると、主の部屋へ足を踏み入れた。
滅多にここを訪れないとはいえ、自分はピルスナー辺境伯邸の侍女頭だ。屋敷の隅から隅までを把握しなければならない都合上、2月に1回はこの部屋も点検している。
そのたびに思うのだが、この部屋は殺風景すぎた。
1つ1つの調度品は辺境伯の名にふさわしい高価な代物なのだが、身の回りの生活に必要最低限の家具しかそろっていない。ところどころに立てかけてある剣や戦斧が唯一、この部屋に人間味を感じさせるのだが、これではもはや武人の部屋だ。
歴史あるピルスナー辺境伯家当主の部屋にしては、あまりにも品位がなさすぎる。
リリーはついつい、
「……まったく、全然変わっていませんね」
と、指摘が口から零れ落ちてしまった。
「もう少し、辺境伯らしく家具を新調したらいかがです?」
「そんなことに金を使うくらいなら、防衛費を増やしてるっての」
ウォルターは不満そうに口を尖らせる。
「つーか、私室なんて誰も見ねぇだろ。
どうするもオレの勝手だ」
「ええ、ですが、軍人である前に誉あるピルスナー家当主であらせましてーー」
「……あー、はいはい。分かった分かった。
それよりも、イーディスのことだ。調査の方は、どうだった?」
彼は手近な椅子に腰を下ろすと、単刀直入に切り出してきた。
リリーは気持ちを切り替えると、どこか囁くような声で報告を述べた。執務室のように誰かが尋ねてくることもないが、用心に越したことはない。
「ええ。やはり、人格に変化が起こっているとしか思えませんわ」
実際に口にしてみて、リリーは身体を震わせた。
年越し祭りの日以来、イーディスは変わった。
舞台の上で立ち眩みのようによろけたときは驚いたが、持ち直した後の彼女はまるで別人のようだった。
練習以上に完璧に立ち振る舞い、拍手喝さいを一身に浴びていた。
それだけではない。
演劇が終わった後も、別人のように言葉遣いが上達し、立ち振る舞いも貴族の子女のように、お淑やかで上品なものへと変化を遂げた。しかし、それでいて外交的で、明るい笑顔を常に浮かべる。
そう、屈託のない笑顔と慈愛を振りまくその姿は、あまりにも聖女らしいのだ。
「初代聖女様を演じられ、そのまま聖女としての自覚に目覚めたのかと思いましたが……それにしては、上達しすぎですわ」
「ああ、そうだよな」
ウォルターは腕を組むと、深く頷いた。
「他の侍女はどんな反応だ?」
「それが……悲しいことに、見る目がない者ばかりで……」
リリーはさっと目を伏せた。
新入り侍女のエリザが
『聖女様が“王都で苦しむ民を救うため、クーデターを起こすしか他に方法はありません。今こそ、クリスティーヌに鉄槌を下すときです!”とおっしゃっているだなんて……! 私、感動しましたわ!』
と喜ぶのは仕方ない。
彼女はイーディスとの付き合いも浅く、イーディスの経歴を考えれば、「自分を蔑ろにしたクリスティーヌたちに復讐を!」と望むのは当然だと思うし、そもそも世間一般的な聖女像と照らし合わせてみても、「苦しむ民のために立ち上がる」ことはあまり不自然ではないからだ。
しかし、これらはイーディスをよく知った者であれば、きっと違和感を覚える。
第一、リリーの知る「イーディス」は、よく人々が思い浮かべる「聖女」と程遠い人間だ。
彼女はさして世界のことを考えていないし、民に心を痛めることもない。
イーディスの行動理由の大半は「亡き弟のため」であり、聖女の力を極めるのは、ただ他人から認められたいだけだった。彼女は「イーディス・ワーグナー」を見てくれなかった人達に、「がんばったね」と褒められたかっただけなのだ。
だから、彼女はクリスティーヌを羨み、やや嫌ってはいたが、殺したいほど憎んではいなかった。
リリーがこの点に気づいたのは、イーディスをピルスナー辺境伯の正妻に迎え入れるべく、常日頃から所作振る舞いに目を光らせ続けたからであり、普通に接していれば見過ごしていたかもしれない。
しかし――と、リリーは頭を抱える。
「……まさか、傍仕えのハンナまで変化に気づかないなんて……申し訳ありません。私の教育不足です」
「教育不足……か」
ウォルターは何やら訝し気に呟くと、薄く目を閉じた。なにやら悩み始めた様子に、リリーの中に不安な感情が渦巻き始める。
「旦那様?」
「……いや、何でもない。引き続き、イーディスの監視を続けてくれ」
ウォルターは頭を軽く振ると、再びこちらに向き直った。リリーはいくつか質問をしたい気持ちに駆られたが、彼はこれ以上、話すつもりはないらしい。下手に詮索するのは時間の無駄というものだ。リリーはそう判断すると、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。
それでは、お休みなさいませ」
リリーは、どこか釈然としない思いを抱えながら退出する。
明日の朝も早い。自室へ戻ろうと足早に廊下を進むが、ウォルターの言い淀んだ言葉が気になって仕方なかった。
「……なぜ、旦那様は……」
まるで、ハンナがイーディスの変貌に無頓着なことは教育不足ではなく、もっと別の要因があるかのような言い方だった。
確証がついていないので口に出さなかったのだろうが、彼が疑う原因はいったい何なのだろうか。
「……まさか」
その考えに至り、リリーは足を止めた。
イーディスが変貌したのと同様に、ハンナも変わってしまったのだろうか。
しかし、それはない、と、リリーは首を横に振る。
リリーはイーディスよりも、ハンナの方が遥かに付き合いが長く、彼女が幼い頃から侍女として教育をしてきた。
ハンナはどこまでもハンナのままだった。
どこか抜けていながらも、やるべき仕事は完璧にこなしている。
たとえ、魔族に憑かれていたとしても、ここまで所作振る舞いまで完全に演じることは不可能だろうし、なにしろ、イーディスは魔族を見抜く瞳を持っている。
いくら変貌したとしても、彼女は聖女。傍仕えが憑かれたら、すぐに異常を発見することができるだろう。
つまり、彼女がイーディスの変貌に気付かなかった理由が教育不足、もしくは、魔族に憑かれたわけでもない。彼女が単なる阿呆でもないとすれば、残された答えは一つだけだ。
「……最初から演じていた?」
そこに思い至った瞬間だった。
「リリーさん、そこでなにをされているのです?」
背後から、聞きなれた声が聞こえた。
それと同時に、濃厚な殺気が首の後ろ辺りから急激に膨れ上がるのを感じる。
「そんな、まさか!?」
リリーが弾かれたように後ろを振り返った時には、もうすでに遅かった。
「おやすみなさい、永遠に」
リリーが最期に見たのは、不敵に微笑む少女の姿だった。
次話は、本日の夕方に更新を予定しています




