42話
紫に輝く粒子が風に巻き上がり、空へと昇っていく。
それは、まるで星々が降ってきたように感じた。
だが、その幻想的な光景に見惚れる余裕などない。なぜならば――
「き、きゃあああ!!!」
このように、コゼットの悲鳴が夜空を引き裂くように木霊したからである。
豪風と紫色の光のせいで、コゼットの身体は黒い影のようにしか見えない。だが、その完璧に整った肢体の身体のいたるところに、細い長い切り傷が生じるのは分かった。ポタリ、ポタリと生暖かい液体が降ってくる。液体の正体なんて、頬を拭い確認するまでもない。
「な、なんで!? わ、わた、わた、わたしは、わたしの、カラダはーー!!」
コゼットの絶叫が、途切れ途切れに聞こえてきた。
予想的中。
祝福の加護をたっぷり付与された風の刃は、魔王の力が染み込んだ肉体に効果抜群だったようだ。いかに無敵の肉体であっても、魔を払う力の敵ではない。
つまるところ、彼女は、聖女に喧嘩を売った時点で終わっていたのである。
「いや、いや、いや―――っ!!」
悲鳴は途切れることなく続く。
しかし、それも徐々に小さく、静かに、そして聞こえなくなった。
いつしか、苦しみ悶えていた身体も風に切り刻まれるがままになっている。イーディスは慎重に風をやわらげ、コゼットを地面に降ろした。無論、そのまま風を止めて、地上に落としても良かった。だが、それをしなかったのは、まだ心のどこかに彼女に対する「仲間意識」があったからなのかもしれない。
もちろん、イーディス的には彼女がアキレスの存在を魔王に教えて、その死を利用した時点で、すでに孤児院の仲間とは思いたくない。だが、これは、同じ鍋のスープを食べた仲間に対する最後の慈悲である。
「……コゼット」
イーディスはコゼットの身体を見下すと、彼女の名を小さく呟いていた。
もはや、彼女は虫の息だった。
全身を切り刻まれ、怪我をしていない場所を探す方が困難だった。傷口からは夜の闇でも映える赤い血がとめどなく流れ続けていた。予想通り、祝福の加護で負った傷は自然治癒できないらしい。
念のため、祝福の加護は剣に付与したままにしてあるが、さらに致命傷を負わすまでもない。
コゼットは、もう間もなく死を迎えるだろう。
「……う、うそよ、こんな、こと」
コゼットは肩で荒い息を繰り返しながら、最期の言葉を口にし始めた。
その声も、やっとイーディスに届くか届かないかという囁きで、彼女の死が間近に迫っていることを実感する。
「わた、しは……しにたく、なかったのに……だから、あいつ、に、協力、したのに……」
「あいつ?」
イーディスが聞き返すと、コゼットは絶望と憎悪が入り混じった瞳を向けてきた。
「……そう、ね……せっかく、だから……おしえて、あげる……」
そして、わずかに口角を上げる。苦悶に喘ぐ表情に、小匙一杯分ほどの愉悦の色が浮かんだ。
「……わたし、に、今回の、取り引きを、持ちかけて……来たのは……」
赤く染まった指を重たそうに上げ、どこかを差そうとする。
「あんたの……そばに……ぐッ!!」
ここで、コゼットの言葉が途切れた。
見開いた目から血が流れ落ち、手を出していないのに首がありえない方向へと曲がり始める。
いつかだったか、エドワードに憑りついていた魔族が口封じされたときと同じ現象だ。あの時同様、口から白い泡まで沸き上がり始めている。
「……ふ、ふふ」
だが、あの時と違うのは、口封じされる側の反応だ。
あの時の魔族は、自分が殺されたくない一心で最期の瞬間まで懇願をしていた。しかし、コゼットはそれをしなかった。
自分が生き残るためだけに、魔王と契約を結んだのにもかかわらず、だ。
彼女はもう命乞いをしなかった。いや、しても無意味だということを察していたのかもしれない。痛みに苦しみながらも、イーディスから視線を逸らさなかった。
「せいぜい、気をつけることね……身の程、知らずな聖女様」
最期の言葉を囁くように口にした瞬間、首が完全に折れ曲がった。
それっきり、コゼットは沈黙する。
イーディスは舞台にいることも忘れ、ただただ茫然と彼女を見下した。
「いったい、どういうこと……?」
コゼットが最期に残した言葉は、「あんたのそばに」。
これではまるで、魔王の配下がまだ自分の周りに潜んでいると言われたようなものではないか。そう思った瞬間、イーディスの背筋が凍った。
ウォルター、エドワード、ジンジャー、リリー、ハンナ、エリザ……他にも名前の知らない騎士たち屋敷仕えの人たち、それからオークバレーの住人、そのなかの誰かが魔王の手先だというのだろうか。
そうなったが最後、自分は立ち直ることはできない。
「くくく、ふはははは!!」
呆然とした心を現実に戻したのは、ウォルターの高笑いだった。
魔王役になり切った彼は、一瞬でイーディスの意識を舞台に引き戻す。
「見事だったぞ、小娘。まさか『守護の術』の応用で、風の牢獄を形成するとはな」
あのようなことがあったにもかかわらず、彼は平然としていた。
しかも、風に宿した『祝福の加護』についてのフォローまでしてくれている。イーディスがちらりと観客の方へ視線を奔らせれば、首を傾げている観客もいたが、大方は『そうだったのか』と納得しているように見えた。
「それでこそ、倒しがいがあるというものだ。
おい、そこの下僕。目障りな死体を、さっさと片付けろ」
「は、はい」
彼の指示を受け、舞台袖に待機していた黒子がコゼットの死体を運び出す。
彼女が横たわっていた場所には、依然として生々しい血の跡が残っていたが、遠目からでは分からないだろう。
「さて、聖女。まさか、『今の戦いで、力尽きました。降参します』などと抜かすつもりではなかろうな?」
魔王は、剣をこちらに向けるよう目で訴えてきていた。
鋭い眼が「さっさと、芝居の本筋を再開するぞ」と言っている。イーディスは己の剣に目を落とした。
「……魔王」
いまだに、イーディスの剣は紫の光を放ち続けている。
祝福の加護を使った副作用で、少しずつ身体から体力が抜けていくような感覚が出始めていた。足もなんだか感覚がなくなり始めている。
「とはいえ、力尽きた状態の聖女と戦っても何の面白みもない」
イーディスは顔を上げた。
ウォルターの視線は、まっすぐこちらを見据えていた。
「ここで一度引き、万全の体勢を整えてから、再び攻めてくるがよい」
人を殺せそうなほど凶悪な視線なのに、その奥の奥に、こちらを心配している色を感じる。
その優しさを感じただけで、イーディスには十分だった。
「いいえ、気づかいは結構です」
足の感覚がなんだ。疲れている? それがどうした。まだ我慢できる範囲だ。まだまだ、自分は頑張れる。
イーディスは歯を食いしばると、剣を掲げ上げた。
「次は貴方の番ですよ、魔王」
イーディスは魔王と向き合うと、初代聖女を演じ続けた。
「初代聖女の名において、全力であなたを打ち倒します!!」
コゼットの最期の言葉が、心の片隅に針のように刺さったまま。
「行きますよ、魔王!」
イーディスが一歩、前に踏み込んだ。
次の瞬間だった。
『……やっと……つながった……』
耳の奥に声が響いた。
どこかで聞いたことのあるような、幼い声だ。
その声に戸惑い、その場にとどまってしまう。ウォルターも困惑しているのか、怪訝そうに眉間のしわを寄せた。
「……あれ?」
ウォルターとの間に、黒い靄が沸き上がってくる。
その靄を注視しようとした、途端――
※
「……お姉ちゃん、どうしたの?」
気がつくと、イーディスはアキレスの小さな掌を握りしめていた。
2人寄り添うように手を握りしめながら、王都の石畳を歩いている。
オークバレーの市とは比べられないほど賑やかな喧噪が、イーディスたちの周りを覆いつくしていた。イーディスは周囲を一瞥すると、疲れたように肩を落とした。
「……そうか、また夢を見てるんだ」
イーディスは断言する。
アキレスが傍にいる時点で夢なのだが、そうでなくても、いまこの瞬間まで辺境の地にいたのに、王都の中央通りを歩いているなんて夢以外のなにものでもない。
「夢? お姉ちゃん、なに言ってるの? 早く行くよ」
アキレスは怪訝そうに眉を寄せたが、すぐに足早に歩き始めた。
イーディスは彼に引きずられるように、歩みを進める。
アキレスが出てくる夢は、久しぶりだった。
舞台の練習が始まってから、一度も彼が出てこなかった。だから、この優しい夢に浸りたいのに、嫌なことばかり脳裏に浮かび上がってくる。
「……はぁ」
イーディスは小さくため息をついた。
年越しの舞台は、なんとか成功に終わった。
戦闘中、ウォルター以外の演者たちは舞台袖へと避難していたが、本筋が再開されると「これからは、私たちの出番だ」とでも叫ぶかのように盛り上げてくれたのである。
今回の成功は、ウォルターの存在感もあっただろうが、演者たちの手腕も大きかった。
これまでの練習を無駄にしないため、誰もが役になり切った。
コゼット戦は、魔王戦の前座でしかなかったのだと思い込ませられるように。
イーディスも懸命に演じ切った。
祝福の力を使い続けた影響で、最後の方は立っているのがやっとだったが、それでも、気力で演じ続けた。舞台終了後、拍手喝さいを浴びながら袖へ下がったとき、ウォルターから「よくやった」と肩を叩かれたが、そのあとの記憶がない。
おそらく、そこで寝落ちしてしまったのだろう。
「あー、駄目だ」
イーディスは雑念を振り払うように、首を横に振った。
孤児院時代の夢を見ているというのに、現実のことばかりが脳裏に浮かんでは消えていく。
アキレスとは夢の中しか会えない。それなのに、その貴重な機会に完全に浸らせてくれないとは、これはもう本当に悪夢である。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
さすがに、夢の中の彼も奇妙に思ったのだろう。
不思議そうに首を傾げ、こちらを見上げてきた。
「なんだか、とっても不安そうだよ?」
「そんなことないよ。こうして、アキレスと一緒にいると安心するし」
「僕もお姉ちゃんと一緒にいると安心するんだ!!」
イーディスが務めて優しい微笑みを返すと、アキレスも無邪気な笑顔を浮かべた。
「ねえ、お姉ちゃんは一緒にいて安心するのは僕だけだよね!」
「え……う、うん。今はそうだよ」
一瞬、イーディスの脳裏にとある人物の姿が浮かんだが、アキレスの前で口にするのは憚られた。
「今はって、ひどいよ」
アキレスは拗ねたように唇を尖らせると、こちらに右腕を絡ませてきた。
「だって、僕たちは血の繋がった姉弟なんだよ? 血も繋がっていない他人と一緒にいても、安心するわけないよ」
「ちょっと、それは過激だよ」
イーディスは彼の頭を軽く撫でた。
聖女として旅に出た直後の自分であれば、その言葉に同意していただろう。
だが、今は違う。
アキレスの柔らかくて穢れのない掌は、確かに尊くて大好きだ。
しかし、それと同じくらい、武骨で硬くて、だけど優しく包み込まれるような掌が恋しかった。
「アキレスも、きっと出会えるよ。
血の繋がりがなくても、安心できる誰かが」
夢の中にしか留まれない彼に、それを伝えるのは酷だった。
けれど、そう口にせずにはいられなかった。
たとえ、夢でもいいから、アキレスには誰かと大事な人と出会って、添い遂げて、家庭を持つ――そんな、どこにでもあるような小さくて幸せな日常を謳歌して欲しい。
もっとも、その彼が出会った「大事な人」を、イーディスが認めるか認めないかは別問題だが。
「……僕にはいらない」
アキレスは怒ったように頬を膨らませた。
イーディスはその姿が可愛らしくて、つい噴き出してしまった。
「笑いごとじゃないよ、お姉ちゃん。
僕はね、お姉ちゃんとずっと、ずっと一緒にいたいんだ!」
アキレスはイーディスの前に回り込むと、ぐいっと顔を覗き込んできた。
「ここで、ずっと、ずっと一緒にいよう! そうしたら、お姉ちゃんは苦しまずにすむんだ」
「アキレス……」
自分と同じ紫色の瞳を覗き込む。
どこか聖女の首飾りと似た色彩が、爛々と輝いている。その瞳の奥には、不安と期待の両方が入り混じっているように思える。
どこまでも、姉と一緒に生きたい。
イーディスはアキレスの純粋な想いを直接に受けて、断れるほど図太い神経の持ち主ではなかった。
「そうだね……一緒にいよう」
イーディスは「できるかぎり」という言葉を飲みこんで答える。
この場で「できるかぎり」なんて現実の言葉を出すのは、良くない気がしたからだ。
すると、アキレスの若干強張っていた表情が一変した。花が咲くように、ぱあっと明るい笑顔が広がっていく。
「よかった、お姉ちゃん」
アキレスはイーディスの身体に飛びつくと、首に手を回してくる。
首を折らないように優しく、だけど、蛇が巻き付くみたいにねっとりと。
「大丈夫。
あの世間知らずな王妃も、失礼な王も、誘拐犯の神官も、お姉ちゃんの心を弄ぶ最低男も――」
アキレスが耳元で何かを呟いているが、その声がとても遠い。
そのまま倒れ込まないように踏み込んだ足の感覚も、アキレスの背中に回した手の感覚も、いままでないくらい薄く感じる。
「みんな、僕が排除してあげる。それまでは、この夢で暮らそう」
意識が、遠くなっていく。
なにか、アキレスが言うはずもないことを囁かれている気がしたが、それらはすべて流れるように消えていってしまう。
「だから、ちょっとお姉ちゃんの身体を借りるよ」
イーディスの頬が熱を持ち始める。
その熱の正体に考えを巡らす前に、アキレスの紫色の瞳が砕かれるように反転する。
そこにある色は、どこまでも深くて、暗い――漆黒。
「アキレス……その、目……」
自分の声も遠く感じる。
だけど、これは指摘せずにはいられない。
しかし、その続きを言おうにも口が鉛のように重くて開かない。
イーディスは薄れゆく意識の中、アキレスの黒い瞳を見ていることしかできなかった。
「おやすみ、お姉ちゃん」
アキレスが睦言のように耳元で囁く。
「……アキレス、お姉ちゃんは……」
まだ眠くない。
疑問が山ほどある。否、あったはずだ。
しかし、それらすべてが、どうでもよくなっていく。
すべてが、静かに遠くなっていく。
遠く。
遠く。
第4章、これにて終了です。
次回から第5章となります。
よろしくお願いします!
 




