38話
星も踊り出すような夜だった。
この時期、夜空の星々は瞬くことを忘れ、凍り付いたように固まってしまう。
しかし、今日は特別だ。地上の賑やかな空気に合わせるように、赤や黄色の星々が輝いている。
イーディスはそっと目を閉じた。
明るい空気を肌で感じる。街中の華やかな喧噪が聞こえてくるし、肉を焼く香ばしい匂いも漂っている。衣装も厚手で、時折、肌を刺すような風が吹いたとしても、防寒魔術のおかげで寒く感じない。
それなのに、イーディスの身体は小刻みに震えていた。
「奥様、大丈夫ですか?」
ハンナの不安そうな声色が聞こえてきた。
「……大丈夫」
イーディスは目を瞑ったまま答えた。
問題はあり過ぎる。正直、自分の演技だけでいっぱいいっぱいなのに、これ以上のことを求められているのだ。自分の実力以上のことを発揮しろ、失敗は許さない、だなんて、無茶ぶりにもほどがある。
もちろん、なにも起きなければいい。何も起きなければ、あのような無謀な演技をしなくてもいいのだから。
だが、十中八九――あの手紙を受け取った以上、なにか起きてしまうに決まっている。
「大丈夫……大丈夫だから」
イーディスは自分に言い聞かせるように呟くと、そっと目を開けた。そして、自分の手を見下ろす。硬く握り締めた手の中には、アキレスの写真が入っていた。今、この瞬間にも助けを求めているかもしれないーー世界で1番大切な弟。彼のことを思うと、さらに胸が苦しく締め付けられる。
失敗は許されない。
それが怖くて怖くてたまらない。
彼の安否を確かめるためにも、姉として、聖女として、自分がしっかりやり遂げなければならないのだ。
「奥様……あまり思い悩まないでください」
握りしめられた手の上から、ハンナの白くて細い指が絡んできた。
「奥様は自然体でいいのです」
ハンナは強い口調で訴えかけてくる。
「自然体……?」
「そうです! 奥様は奥様なのです。自分の感情の赴くままに動けば、きっと大丈夫ですわ!」
自然でいい。
自分の感情の赴くままに動けばいい。
イーディスは少し呆れてしまった。言うのは楽だが、それが1番難しい気がする。だが、ハンナの朗らかな笑みを見ていると、なんとなく心にのしかかっていた重荷がわずかに軽くなった気がする。
「ありがとう、ハンナさん。なんとかやってみます」
イーディスは口元が綻ぶのを感じながら、舞台の方へ歩き始めた。
もう怖くない、と言ってしまえば嘘になる。
だが、先ほどまで感じていた身が震えるほどの恐怖は薄れていた。このまま自然体で、自分の感情の赴くままに演じきる。恐れることはない。なぜなら、自分は――
「私は、イーディスなんだ」
自分に言い聞かせるように呟いてみる。
歴代の聖女たちのような活躍もできず、無理やり役目を押し付けられ、常に流されてきた。しかし、自分は聖女なのだ。これはもう目を背けても変えられない現実だ。自分の行いが、良くも悪くも、すべてそれが「六代目聖女の行い」になってしまう。いままで、それが聖女として相応しい行動をとらなくてはならない、と思っていた。特に人前に立つ以上は、聖女として振る舞わないといけないと思っていた。歴代の聖女に恥じることのないように、振る舞わないといけないと思い込んでいた。
だが、自分は聖女である以前に、イーディスだ。
孤児で貧民街出身の弟想いな町娘だ。
正直、未来の王妃とかクリスティーヌや魔王を倒すとか、自分の知ったことではない。
自分が大切なのは、アキレスの安否、それだけだ。
だから、六代目聖女は自分らしく本能の赴くままに行動する。
きっと、初代も歴代の聖女たちも、それぞれが自分の感情に従って行動して来たはずなのだから――。
胸元の首飾りが、きらりと怪しく輝いた気がした。
※
「凄い、凄いや!」
気がつくと、ジンジャーは夢中になって拍手をしていた。
ジンジャーは、もう完全に目の前で繰り広げられる劇の虜になっていた。
いつもは8の刻になると、両親から『子供は早く寝なさい』と無理やり子供部屋に連れて行かれるのだが、今日だけは特別。年越し祭りの最後のイベント『初代聖女の魔王討伐』を観るまで、起きていても許される。
だから、今年もジンジャーは学舎の先生たちと一緒に劇を観ていた。
両親が仕事のため一緒に観ることができないのは寂しいが、今年は例年になく興奮していた。
「イーディス姉ちゃん!」
ジンジャーの目は、舞台の中心に立つ少女に注がれていた。
彼女の周りには仲間たちが集っていたが、誰もが不安そうに顔を歪ませている。そのなか、少女だけが気持ちの解れるような笑顔を浮かべていたのだ。
「大丈夫です!」
舞台の中心に立つ少女――イーディスが、とんっと拳で胸を打った。
「この力があれば……私の仲間には、指一本触れさせません!」
イーディスの声が夜空高く響き渡る。
拳が若干震えているように見えるが、それでもまっすぐ背筋を伸ばし、自信に満ち溢れた気高い姿だ。
「やっぱり、イーディス姉ちゃんは凄いや! かっこいいなー」
ジンジャーにとって、イーディスは自分の命を2度も救ってくれた大恩人だ。
両親の店を訪れるときは、決まって疲れたように死んだ目をしているが、ここぞというときは世界中の誰よりも輝いて見える。
今日もそうだ。普段は着ないであろう赤や金で縁取りされた白の神官装束を身に纏い、堂々と振る舞う姿は神話の聖女そのものだった。松明に照らされた白い髪の一本一本が銀色に光り、大きな紫色の瞳も輝かせていた。もちろん、昨年度まで聖女役を務めていた美女たちに容姿は敵わないが、それを補うだけの圧倒的な存在感がある。誰にも文句を言わせない聖女っぷりである。それなのに――と、ジンジャーは隣に視線を向けた。
そこには、いかにも怪しい少年が立っていた。
重たそうな外套を身に纏い、フードで顔まで隠している。それだけでも怪しいのに、外套の隙間からちらりと見え隠れするのは、れっきとした神官服だ。重々しい灰色の外套の中に牛乳よりも白い神官服を纏うなど、なにか訳アリとしか思えない。しかも、それ以上に怪しいかったのは、彼の言動だ。彼は先程から小声で
「まったく、あの程度の演技しかできないなんて……クリスティーヌであれば、もっと……」
と、口にし続けている。
ジンジャーは最初こそ劇を集中して見ていたのだが、あまりにも悪口が過ぎるので、ときどき劇に注意を向けながらも、横目で神官を盗み見るようになっていた。
「クリスティーヌが本当の聖女であれば、馬鹿な魔王は完全に滅されていたのに。なぜ、あのように演技力も色気もない小娘が魔王を退治する聖女なのか……理解しかねますよ、本当に」
いかにも怪しい神官だ。常にイーディスに視線を向け、ぶつぶつと文句を口にし続けている。他の人が見せ場の時も、そちらの方を見ようともせず、好意的とは到底思えない視線を送り続けていた。
「そんなに姉ちゃんのことが嫌いなら、観なければいいのに」
ジンジャーは唇を尖らせると、小さく呟いた。別に聞かせるつもりはない。ただの独り言だったつもりなのだが、神官の耳に届いてしまったらしい。彼は心外だ、とでも言うように眉を潜めた。
「別に彼女が嫌い、というわけではありません。ただ、あまりにも演技になっていない、と言っているのです」
神官も劇の邪魔にならないように考えているのか、囁くような小さな声で答えてきた。
「いいですか、あの仕草・口調・目線・そのすべてをとっても、本職の女優には程遠い。クリスティーヌであれば、あの程度の演技は朝飯前ですよ」
「でも、イーディス姉ちゃんはイーディス姉ちゃんだよ。かっこいいならいいじゃん」
「聖女にカッコよさを求めてはいけないのです。聖女とはすなわち、クリスティーヌのように清純潔白な美しさとお淑やかな静けさと優しさを兼ね備えた者であるべきでして、特に初代聖女はそうあるべきなのですよ」
「……本当にそうなのかな?」
神官は諭すように言い聞かせてきたが、ジンジャーは首を横に傾けた。
「初代聖女様って、けっこう活動的な気がするよ?」
ジンジャーはそう言うと、再び舞台へ視線を戻した。
ジンジャーは貴族社会に詳しくはないが、お淑やかで清純潔白なお嬢様が、自ら一部の精鋭を率いて魔王城に直接乗り込む芸当ができるとは到底思えなかった。
今も初代聖女演じるイーディスは、襲い来る魔王四天王の前に立ち塞がり、守護の防壁を発動させていた。後ろから守護の術を発動させてもかまわないのに、身を危険に冒してまで先陣に立ち、仲間たちを守ろうとする。その姿は、お淑やかや清純さというより、やはりカッコよく思えた。
「そのクリスティーヌって人はどうだかわからないけど、僕にとってイーディス姉ちゃんは、カッコいい聖女だよ」
「……ですから、イーディスは聖女ですが、初代聖女とは違い……ッ!?」
ここで、神官の様子が一変した。
何か言おうとしていた口を閉ざし、急に後ろを振り返った。そして、舞台を楽しむ群衆に視線を奔らせる。先ほどまで文句を言い続けていた不満そうな顔ではなく、まるで喉元に剣を突き付けられたかのような険しい表情で。あまりの変わりように、ジンジャーは恐る恐る彼に話しかけた。
「……ねぇ、どうしたの?」
「少し黙っててください、あなたの言葉は連中に刺激的すぎるようです」
神官はジンジャーの耳に届くか届かないかくらい小さな声で囁きながら、真剣な視線で群衆を見渡している。
劇も終盤に差しかかろうとしていた。誰もが舞台に目を向け、神官の変貌ぶりに気付かない。直接的に戦う術を持たない聖女と魔王が対峙するこのシーンは、この劇最大の見どころだ。展開を知っていながらも不安そうに見つめる者、このシーンをどう演じるのか楽しみに待っている者、とにかく聖女を凝視している者――。誰もが舞台のみに目を向けていた。
「さあ、聖女。これで残りはお前だけだ。
どう戦うのか、それとも……剣を捨てるのか?」
ジンジャーの耳には、魔王扮するウォルターが聖女の仲間たちを一瞬で蹴散らす音が遠くから聞こえてきた。
「確かに、私は……戦える術をあまり持ちません。でも――!」
イーディスの不安そうで、しかし、芯の通った声が夜空に木霊する。
「私は、絶対に逃げるもんか!!」
腹の奥から出された鋭い声は、会場を貫いた。
ジンジャーもつい神官から目を逸らし、イーディスの方へと目を戻してしまう。彼女は今、剣を掲げていた。月の青白い明かりを受け、その刃は白銀の輝きを帯びている。
「魔王が世界を滅ぼそうがなにしようが、正直さ、私には知ったことじゃない。
でもね、あなたのせいで私の仲間が傷つくのは嫌。だから全力で私は貴方と戦う。
……だけど、まずはその前に――そこに隠れてる不届き者を成敗しないとね」
イーディスの目が、魔王から群衆に向けられる。
群衆も――それも、ジンジャーの方に。ジンジャーは困惑した。昨年までの劇にはなかった展開、そして、イーディスの熱の籠った瞳が自分の方を貫いていることに。
「え……僕?」
「そこに隠れているんでしょ? 私、知っているんだから」
「なんだ、聖女。もう気づいていたのか」
イーディスの問いを受けて、魔王も愉快そうに笑った。
しかし、ジンジャーは困惑するばかりだった。
「え? いや、僕は何も……?」
「私が気づいていないとでも思っていたのですか? バレバレよ、ずっと殺気を感じるんですもの」
ジンジャーはますます困惑した。
殺気も何も放った覚えはない。むしろ、イーディスのことは大恩人とさえ思っている。敵意を持つわけがない。この場所に集った町中の目が自分に集うのを感じる。
ジンジャーは急いで首を横に振った。
「知りません! 僕は何も知らないんです!!」
「……聖女、時間稼ぎはいりませんよ」
ジンジャーの言葉にかぶせるように、神官の言葉が会場に響き渡った。
先ほどまで自分の隣に立っていたはずなのに、いつの間にか後ろに移動している。その彼は、誰かの腕をつかんでいた。ジンジャーの記憶が正しければ、先ほどまでイーディスを食い入るように凝視していた人だ。
「つかまえましたよ、内通者」
神官は神職者らしい人を安心させるような笑みを浮かべた。
「これでも、本神殿の神官ですからね。人の悪意には敏感なのですよ」




