36話
「別に今さらどうでもいいだろ」
こちらがすべてが言い終える前に、ウォルターは手近なグラスを手に取った。
「ったく、最近、妙に何か聞きたそうにそわそわしてやがると思ったら……そんなことは魔王討伐の鍵になるってわけでもねぇ。お前には必要がない情報の極みだ」
彼はこれ以上、話すつもりはないのだろう。興味がなさそうにグラスを静かに回し始めた。水面と一緒に角ばった氷が揺れ、からんからんと軽い音を立てた。
「たしかに、そうかもしれません」
正直、彼の祖先や容姿、思考は聖女として活動していく上で必要ない知識だ。
そんなことを尋ねる前に、もっと戦略やらなにやらを話し合った方が時間が有効に使える。だが、そこまで自分は理屈で動ける人間ではなかった。
「ですが、知りたいんです。あ……嫌なら、かまいませんが……」
イーディスは目を伏せたくなるのを堪え、なんとか彼の目をまっすぐ見つめた。
知りたいこと、気になることを聞く努力はしたい。その努力もせずに逃げた過去は、きっといつか後悔するような気がするのだ。
ウォルターはグラスを構えたまま、しばらくこちらを探るような目つきで見つめ返してきた。その視線が痛くて、つい逸らしてしまいそうになる。
「……はぁ……なにか、あの新入り侍女に吹き込まれたな?」
しかし、先に逸らしたのは、ウォルターの方だった。
右手でがしがしと頭を掻きながら、大きく息を吐いた。
「大方、オレが王族の末裔で虎視眈々と狙ってる、とかそんな話をされたんだろ?」
「違うんですか?」
「末裔ってことは正解だ」
そのままグラスをテーブルの上に置くと、彼は腕を組んだ。
「オレの曽祖父は王家の第三王子だったと聞かされてる。ま、いろいろあって臣下に落とされたらしいぜ」
「いろいろ、ですか?」
「……当時の兄貴と仲が悪かったんだと。なんでも、五代目聖女絡みでいざこざがあったらしい」
五代目聖女。
つまり、自分の先代の聖女だ。イーディスはつばを飲み込むと、五代目の能力について思い起こした。
「たしか『仲間を作る力』を手に入れた聖女、でしたよね?」
「聞こえはいいが、要するに『洗脳の力』だ。
五代目が力を解放すれば、周囲にいる魔族の全員が無条件で仲間になる。いや、違うな。自分が聖女の仲間だと信じ込むようになる、だ」
たとえ、その魔族が聖女に最愛の人を殺されていたとしても、この力の前に逆らうことはできない。事実を覚えているにもかかわらず、激しい怒りよりも「聖女は大切な仲間である」という意識が前面に強く出てしまう。
その力の前では魔王すら抗うことが困難であった。
五代目聖女と対峙したとき、魔王は彼女の力によって自害に追い込まれたと記録に残されている。歴代魔王の中で、もっともあっけない最期だった。
「だがな、これを当時の王家は勘違いした。『洗脳の力』は魔族だけではなく、人間にまで及ぶってな」
「いや、それはないですよ」
イーディスは自分の手を握りしめた。
事実、自分の使う「払いの力」は魔族のみを払う。人間には使用することができない。たとえば、芝居の中の初代聖女が繰り出す「守護の力」も魔族の前では鉄壁の守りとなるが、人間の攻撃は通してしまう弱点を有していた。
他の聖女まで詳しく調べてはいないが、おそらく同じように能力が効く相手は「魔族」に限定されているはずだ。
イーディスはそのことを伝えたが、彼は面倒そうに首を横に振った。
「五代目聖女の人柄がよかったらしい。彼女の周りは常に人だかりができる。おまけに強い正義感を持ち合わせていた。やれ奴隷制度を廃止しろ、貧民街の孤児たちに仕事を与えろ、税率を下げた方がいい、とかな。国を動かすような連中からしてみれば、目の上の瘤だ。かといって、魔王討伐の功労者を無下にすることはできねぇ」
「だから、五代目はひっそりと旅に出た」
イーディスは静かに呟いた。
五代目は自分のせいで争いがおこり、国がこれ以上の混乱に陥ることを避けるため、密かに旅に出た。その先で自分の正義を貫いたのだろう。
そこが、クリスティーヌとの違いだと感じた。
クリスティーヌも五代目と同じように周りには人だかりができている。浮浪者たちに食事を恵むなどの善行も率先して行っていた。
だが、五代目と違うのは、クリスティーヌ自身が国を動かし、そして、彼女より上に諫める人物がいないことだ。たとえいたとしても、彼女が素直に引き下がり、五代目のように城から去る姿は想像できそうになかった。
その点、五代目はクリスティーヌより周りが見えていたのだろう。
「ところがだ、国の混乱は収まらねぇ。そりゃ、五代目の側近連中は聖女に付き従って城を後にしたが、全員が全員、簡単に旅ができる身分でもねぇ。そのなかに、オレの曽祖父もいたってわけだ。
五代目の考えに染まり切った曽祖父様は、まあ難癖をつけられて辺境伯になった。……んで、リリーや執事の先祖はその頃から仕えていたからな。ま、復権……つーか、先祖の名誉回復を虎視眈々と狙ってるのはあいつらだ」
「そうなんですか……だから、リリーは……」
だから、リリーはエリザの振る舞いを大目に見ていた。
同じ行動をハンナがしていたなら、リリーはお茶など淹れず、代わりに鉄槌を繰り出していただろう。それをしなかったのは、エリザが主家の名誉回復を手助けする重要な札になるからだ。いつもは冷徹な鬼侍女な彼女が大人しかったのは、その理由があったとしか考えられない。
「……ま、オレはそんな面倒なことは考えてねぇから」
ウォルターは腕を解くと、再びグラスに手を伸ばした。緊張も緩み、いつもの笑顔に戻っている。
「そりゃ、あいつらの思惑に乗せられるってことはあるかもしれねぇが、お前の意思を無視して王妃にするとかはねぇから安心しろ。表向きは正妻ってことになってるが、正式な婚姻も交わしてねぇしな」
彼はそこまで言うと、グラスの水を一気に傾けた。
最後の言葉を聞けただけで、イーディスは少しだけ気持ちが楽になった。
今後、どのようなことが起きるか分からないが、とりあえず、無理やり国の頂点に立たされることはなさそうだ。もし、そうなってしまったときは、五代目のように旅に出るとしよう。
「お待たせしました」
扉を叩く音が聞こえたのは、丁度よい頃合いだった。
女中が慣れた手つきで盆を運んでくる。からっと揚げた肉の塊と思われるなにか、柑橘系の果物と赤い肉らしきものの切り身を盛りつけた皿など、イーディスが城でも見たことがなかった料理が並んでいた。イーディスが目を丸くしていると、ウォルターは愉快そうに笑った。
「初めて見るだろ。ここはミズーリ帝国料理の専門店だ。氷系の魔術でミズーリ帝国産の魚介類を凍結し、新鮮なまま提供してるんだ。この国だと王都か大きな交易都市じゃねぇと食べられねぇ代物だ」
「え? ミズーリ帝国ですか?」
海に面した隣国だ。
王国には巨大な山河はあるが海はない。
「これは……」
一枚の肉を、おそるおそるフォークで持ち上げてみる。
牛肉でも豚肉でもない。獣の肉とは思えないような形状の食べ物は、薄桃色をしている。しかも、それは向こうが透けそうなほど薄く切られていた。おそるおそる口に入れてみると、口の中に広がるさわやかな酸味と一緒に、いままで食べたことのないような生臭さが広がった。とてもではないが、果物の酸っぱさで消しきれる臭さではない。
「生臭っ!」
イーディスは女中がいるにもかかわらず、つい呟いてしまった。
しまった、と思ったときには、もうすでに遅い。ウォルターも女中もおかしそうに笑っている。
「そりゃ、イーディス。これは魚だからな。生臭いだろ」
「魚っ!? 魚を生で食べるんですか!?」
「ミズーリ帝国の風習だとよ、そうだよな」
「ええ、帝国では新鮮な海魚を生で食べるのです。
そう、それから――イーディス様、でよろしいですか? さきほど、貴女様にとお預かり物をしていますの」
イーディスが茶で口の中を清めていると、女中が一枚の封書を差し出してきた。女中は封書を渡すと、そのまま一礼し、去って行った。
「これは……?」
差出人の名前はない。蜜蝋で閉じられていたが、いままで見たことのない印だった。
「ウォルターさん、これって……?」
「分からねぇな。開けてみたらどうだ?」
ウォルターは身を乗り出しながら封書を一瞥したが、彼にも見覚えがないものらしい。
イーディスは少し悩むと、指を使って端から切り開いた。 中に入っていたのは小さな鍵だった。掌にすっぽり収まりそうな古い鍵だ。ところどころ錆びついてはいるが、黒い光沢を放っている。
「メッセージカードは、これかな……って、なにこれ?」
添えられたカードを見た瞬間、イーディスの顔色が一変した。
カードを持つ手が小刻みに震える。手だけではない。足も唇も、そのすべてが震えあがっていた。
「そんな、ありえない」
そこに記されていた言葉は、ウォルターから聞いたこと、そして口の中に広がる生臭さ、舞台への緊張感、それらすべてを吹き飛ばしてしまうくらい衝撃的だった。
それは――
明日の投稿はお休みします。




