34話
夜。
夕食も終わり、付与魔術の修業も終われば、あとは寝るまで自由時間だ。
数少ない休憩時間、イーディスはだいたい紅茶を飲む。
リリーは「寝る前に紅茶はいけません。快眠の妨げになると聞いたことがありますわ」と小言を口にしながらも、この時ばかりは大目に見てくれる。
イーディスは、孤児院時代から紅茶が大好きだった。
暖炉の火の見張り番になると、こっそり茶葉と火を拝借しては作ったものだ。湯気が立ち込める温かいカップは、寒い夜の手袋替わり。たまに、見つかって
『お湯でも温まるでしょ!』
と怒られたが、紅茶の方がずっといい。
心地よい香りにちょっと感じる渋み、小遣いを叩いて買った砂糖の欠片を落とせば、口の中に甘みが広がる。紅茶を飲むと、心まで温かくなるような気がするのだ。
もちろん、ここでは茶葉を拝借など考えなくてもいい。
孤児院の茶葉よりずっと高級で香りも良く、一口飲めば幸せな気持ちに包まれる。アキレスや孤児院の子たちにも飲ませてあげたいな、と、懐かしい思い出に浸りながら、眠りにつくのだ。
「どうぞ、奥様」
リリーが慣れた手つきでカップを差し出してきた。
「ありがとうございます」
「仕事です、礼はいりませんわ」
いつものやり取りの後、イーディスはカップに手を伸ばした。
力を入れたら折れてしまいそうな持ち手を慎重につまむと、ゆっくり掲げる。鼻に近づけると柑橘系の香りがした。この香りを嗅いだだけで、一日の疲れが吹っ飛びそうだ。そんなことを考えながら、カップの淵に唇をつけようとした。
それなのに――
「本当、もうあの顔と剣だけが取り柄の男には愛想が尽きましたわ!」
エリザの怒りに満ちた声が、イーディスを現実へと引き戻した。
「知ってまして、聖女様? あの男、私という者がいながら、あろうことか他の男がいる女に首ったけなんですのよ? それは、私も貴族の娘ですし、政略結婚には変わりないですし、多少の浮気は大目に見ますわ。
ですが、他の男がいる女はないですよね?」
「まあ……そうですね」
「しかも、それが王妃! 王妃ですわよ、王妃! しかも、慣例から外れ、不謹慎極まりない愚策ばかり打ち出す王妃! 魔族に頭をいじくられたのかと思いましたわ。まあ、おかしかったのは前からでしたけど!」
「そうだったんですか?」
「そうよ、もう昔からあの女に首ったけ! 女を見る目がないとは、あいつのことよ!」
「はぁ……」
イーディスは口に運びかけていたカップを膝まで戻した。
エリザの話を聞き、相打ちを打つことに精一杯だ。イーディスが部屋に戻ってから、彼女はずっとしゃべり続けている。途中、喉が渇くのだろう。そこで話を止めればいいのに、まくしたてるように元婚約者の悪口を言いながら、素早く茶で喉を潤していた。
それに合わせて飲めばいいのだが、イーディスはワンテンポ遅れてしまい、飲むのを逃し続けている。
「私も改心させようと懸命に努力しましたわ。あの手この手を使って……でも、すべて空振りに終わってしまいましたの。そうしている間に魔族に憑かれ、聖女様に救っていただきましたわ。本当に感謝しかありませんの」
「いえ、お礼を言われるようなことは……」
「それで、あの人、私が魔族から解放されたとき、なんて言ったと思います? 心配すらしてくれなかったんですわよ!? むしろ『魔族に憑かれていた時の方が、まともだった』ですって! 信じられまして!?」
先ほどから、ずっとこの調子。
いい加減、聞くのも疲れてきた。そんな自分の顔色を察してくれたのか、優秀過ぎるリリーが咳払いをした。
「エリザベート。
いくら貴方がバジェット伯爵の御令嬢とはいえ、いまのあなたは使用人。奥様に対して無礼が過ぎますわ」
「あら、無礼かしら?」
リリーの凍てつくような視線を受けても、彼女は平然としていた。
「そもそも、聖女様が支度部屋で『どうしてここに来たのですか?』と聞いてきたのですわ。
ですが、あの場では答えにくく、さりとて、今の今まで会話する時間もなかった。だから、いま経緯をお話ししていますの。
すべては、奥様のご要望。私は使用人としてそれに対応しているだけでしてよ?」
エリザは口元を上品に隠しながら、ほほほと笑い飛ばす。
確かにその通り。彼女の言い分はすべて正解だ。だが、この程度のことで、リリーが引き下がるわけがない。エリザの言葉を聞いてもうろたえることなく、リリーは真顔のままだった。
「ええ、そうですわね。あなたは使用人です。奥様付きの侍女です。ですが、その侍女を統括しているのは、この私ですわ」
リリーはエリザを威嚇するように睨み続けている。
「侍女頭として命令します。今日はもう眠りなさい。奥様は疲れておいでです。ゆっくり茶を飲みたい気持ちが分からないのですか?」
「あら、そうでしたの? 奥様は、私との話が退屈でして?」
エリザはリリーの視線を受け流すように、こちらへ話題を振ってくる。
ここで「嫌だ」と正直に言えない。貴族に対して、小市民の自分にはとてもではないが口にできない。無論、以前に比べれば少し自分の意見を主張できるようになってきたが。だが、こうも正面からいきなり言われると答えに躓いてしまう。
「奥様、本当のことを言ってくださって構わないのですよ」
「いいえ、奥様。本当は話を続けたいの、と言ってくださって構わないのですわよ」
2人とも「自分の意見に従うよな?」と脅迫するような視線を向けてくる。
どちらを断っても、あとが怖そうだ。
「えっと……すみませんが、こちらが尋ねた質問にだけ、短く端的に答えてもらう程度でお願いします。……ちょっと今日は疲れてしまったので……ゆっくり一人で過ごしたい、です」
結局、2人の意見の折衷案を口にした。
ややリリー寄りの答えになってしまっているのは、仕方ない。リリーは怖い。その怖さ、魔王をはるかに凌駕し、骨まで沁みついている。
「……まあ、妥協点としては悪くないでしょう」
リリーはやや満足そうに微笑んだ。対する、エリザはやや不服そうな顔をしている。
「それで、『どうして、私がここに来たのか』を端的に答えればいいのですわよね?」
「はい、お願いします」
「そうですわね……短く答えるのでしたら、『バジェット伯爵家は聖女様の味方である』と示すためですわ」
エリザはやや難しそうな顔をしながら言った。その答えに、イーディスは首を傾ける。正直なところ、貴族に対しては悪印象しかなかった。彼らは孤児育ちの聖女を馬鹿にしている。歴代の聖女の中にも平民はいたが、貧しい孤児はいない。おまけに、たいして討伐で功績も上げなかったともなれば、よけい軽んじているはずだ。いくら「魔族の支配から助けてもらった」とはいえ、その程度で手のひらを返したように味方されても正直戸惑ってしまう。
「なら、言葉を変えましょう。
『少しでも生き残る可能性のある方についた』であれば、満足でして?」
エリザはまっすぐこちらを見てきた。
「今の王家はクリスティーヌが仕切っています。細かい話は省きますが、彼女の駄政策のせいで、あと2年もしないうちに国庫は空になりますわ。聖女様は知っていらして? 一部の豪商や貴族が他国へ亡命を始めている、という事実を」
「……そうなのですか?」
イーディスはリリーに確かめる。
リリーも心当たりがあるのだろう。さして悩むことなく、静かにうなずいた。
「ですが、私の実家――バジェット伯爵家は、他国へ亡命したところで、さらに栄えるほど秀でているわけではありませんわ。領民たちを放って逃げるなどできませんし……。
しかしながら、王家と心中するほど忠誠心もありませんの」
エリザはそこまで言い切ると茶を口に運んだ。
「この国に生き残る勝算があるとするなら、それは聖女である奥様だけですわ。
あの腐れビッチ王妃と有害な取り巻きだけに頼っていれば、必ず負けますもの」
「……なるほど。それで、貴方が送り込まれてきたというわけですか。奥様に近づくために」
「あら? それを知ってて受け入れたのではなくって?」
「ご想像にお任せします」
エリザは挑戦的な目でリリーを一瞥すると、再びこちらに視線を戻した。
「腐れビッチで殲滅するしか能がないお花畑女。そして、薄汚い孤児出身でも感覚はまとも寄りの聖女様。 どちらの方が生き残れるか、といえば、もう答えは出るのではなくって?」
彼女は非常に冷めた口調で言い放った。
イーディスはカップをつかんだまま頷いた。
おかしいと思っていた。いくら命を救ったとはいえ、相手は伯爵家の令嬢だ。最初は見下していた相手に仕えるなんてできるとは思えない。それより、こうして感情抜きの損得的な根拠を理由に仕えてくれた方が理解できる。
誰もが生き残るために必死になって、知恵を絞っているのだ。
イーディスは、やっと茶を口に含んだ。
柑橘系のさっぱりした香りが、身体全身に染みわたっていく。
「それでは、よろしくお願いしますね。未来の王妃様。
このエリザベート・バジェット。魔王をうち滅ぼす日まで、誠心誠意、お仕えさせていただきますわ」
「……はい。こちらこそ、よろしくお願い――ん? ちょ、ちょっと待ってください? なんだか、聞き捨てならない言葉を言われた気がするんですけど?」
イーディスは、カップを落としそうな勢いで立ち上がった。リリーから「はしたない」と苦言が飛んだが、それすら気にならないくらい衝撃的な言葉を聞いた気がする。
「あら? 魔王をうち滅ぼす日まで、誠心誠意、お仕えさせていただきますが……足りませんでしたか?
でしたら、魔王を含む国を腐らす逆賊を打ち倒し、国が栄光で満ちる日までに変更しますわ。意味は同じことですし」
「そうではなくて、そのもうちょっと前の言葉です」
「それでしたら、未来の王妃――」
「それです! どうして、そうなるんですか!?」
イーディスの震えた叫び声が、夜の闇に静まり返った屋敷を震わせた。