1話
ここから本編です。
よろしくお願いします。
「おめでとうございます、イーディス・ワーグナー」
「はい?」
畑に水をまき終え、ちょっと一休みしようかと思った矢先だった。突然、見知らぬ神官が話しかけてきたのである。
イーディス・ワーグナーは空になったじょうろを握りしめたまま、ぽかんと固まってしまった。
「あなたは、イーディス・ワーグナーで間違いありませんか?」
「えっと、たしかに、イーディスは私ですけど……」
イーディスは、まじまじと目の前の神官を見た。
ここは、貧民街の隅に佇む神殿併設の孤児院。
神殿が運営、といっても、実際には名義を貸しているだけで、その日の暮らしにも困るような貧しい孤児院である。
そこで生まれ育った孤児が「おめでとう」と祝福されることなど、就職か結婚して外に出ていくことくらいしかないが、そのどちらにも心当たりはなかった。
しかも――
「そもそも、あなたは本当に神官様ですか?」
十数年間、いろいろな神官を見てきた。
だが、目の前の人物は、その中でも飛びぬけて異質であった。
なにせ、子どもだ。
どうひっくり返しても、身長はイーディスの肩くらいまでしかない。
せいぜい、5つ下の弟程度の年齢だろう。
「神官様になるためには、治療魔術を習得しないといけないって聞いたんですけど」
あまり勉強は得意ではなかったが、神官になるためには、途方もない年月がかかると聞いている。なにせ、難易度の高い治療魔法を習得することはもちろんのこと、それを効率よく使用するために人体の仕組みや病や怪我の種類など膨大な量の知識を蓄える必要があるのだ。
それなのに、目の前にいるのは、やはり子どもだ。
近隣の子供の神官ごっこだろうか? しかし、それにしては、神官服は孤児院の神官よりも白く滑らかで、細い腕には金の輪までつけている。
偽者やごっこ遊びが、ここまで金をかけるのだろうか。
イーディスが頭を悩ませていると、神官は疲れたように肩を落とした。
「身分証です、これで満足でしょうか?」
神官は面倒そうに言い放つと、なにやら文字が書かれた手帳を提示してきた。
もっとも、イーディスは文字が読めない。ただ、ここまで手の込んだ偽者はいないだろう。
「はぁ……なにか御用でしょうか?」
はたして、彼は貧しい孤児に何の用があるのか。
そもそも、どうして、この神官は自分の名前を知っているのか。
「あなたは聖女としての神託を受けました」
「……は?」
「さあ、参りましょう」
呆然と口を開けて立っている間に、腕をつかまれ、あれよあれよという間に馬車に押し込まれてしまった。あまりにも突然のことで、座っていることしかできない。煌びやかな壁紙で目がちかちかする。椅子も柔らか過ぎて尻が沈む。まるで、現実感のない出来事ばかりだ。
車輪が固い音を立てて回り、椅子がゆったりと揺れ始め、ようやく我に返った。
「え、聖女って、だれが?」
イーディスは、やっとの思いで質問を口にする。
だが、その問いに答えてくれる人などいない。広々とした馬車にいるのは、自分だけだった。自分を連れ去った子ども神官は御者台にいる。
外の様子を確かめようにも、窓はない。ただ絶えず振動と馬の蹄の音、そして時折鞭の音が聞こえてくるので、おそらくどこかへ移動しているのだろう。
しかし、どこに連れていかれるのか見当もつかなかった。
「……誰かと勘違いしてるのかな?」
少し考えてみたが、イーディスには心当たりがなかった。
そもそも、自分は孤児である。その日の生活にすら苦悩する貧しい孤児院で、弟と二人、寄り添うように生活を送っていた。
もちろん、聖女という名前くらいは知っている。
幼い頃、神官たちが寝物語に――と、「国を救った奇跡の聖女」や「邪気を打ち払う清浄の聖女」の話を語ってくれたのを覚えている。いつだったか、イーディスの友人――もう、とっくの昔に栄養失調で死んだ――が、「聖女になりたい」と神官にせがんだことがあった。そのとき、神官は優しく微笑み、彼女の頭に手を乗せながら、柔らかく甘い声で囁いていた。
『聖女とは、心優しく、賢く、誠実で、神に忠実なるものが神託を受けるのですよ』
と。
「うん、ない。ありえない」
イーディスは断言する。
あの友人は目を輝かせ「私、絶対に聖女になる」と励み始めていたが、自分は良い子ではなかった。おなかをすかした弟のためにパンを盗み、疑われたときは平気で嘘をついた。そもそも神の存在すら疑っている。神様がいるなら貧しい孤児が飢えて死ぬようなことにはならないはずだし、自分たちは両親に見捨てられることなどなかった。
世の中は、不条理で満ちている。
故に、神などいない。
さて、ここまで信仰心のない貧しき少女が聖女とは、いったいどういうことなのだろうか。
イーディスは、じょうろを握りしめたまま考え込んだ。
自分の所属する孤児院がなにか働きかけたのか?とも考えたが、それはないと即座に否定する。住所は王都の貧民街、孤児院としても神殿としても階級は下の下。聖女云々の要求を通す前に、食料や経営資金など必要な要求が山ほどあるはずだ。
「それに、私なんかより、アグネスやマリアの方が信仰心あるし……駄目だ、まったく心当たりがない……うわぁっと!?」
急に馬車が激しく揺れ、前に身体が飛び出てしまった。受け身をとることもできず、がつんっと額が壁に激突してしまう。これは、確実に痣になっているに違いない。ひりひりと痛む額を擦っていると、派手に扉が開いた。
「つきました。来てください」
先ほどの神官だ。
むすっとした表情で、こちらに手を伸ばしてくる。
「ま、待ってください。たぶん、勘違いです! 私、聖女なんかじゃ……きゃっ!?」
「いいから来なさい」
こちらの言い分など聞く耳を持たず、やはり強引に馬車から引きずり降ろされる。外の光は眩しく、一瞬目が眩み、足元がふらついてしまった。それでもなお、ぐいぐい引っ張るものだから、身体の重心が揺れ、前のめりになってしまう。彼が腕をつかんでいなければ、きっと転んでいただろう。
「本当に聖女ですか? しっかり歩いてくださいよ」
彼は面倒くさそうな口調で言いながら、足を遅くすることもなく先に進む。
まるで、愛玩犬の散歩以下だ。
おかげで、ここがどこなのか、周囲を見渡す暇もない。
ただ、永遠と続く白い石畳――しかも、その隙間から雑草が一本たりとも生えていないことから察するに、よほど権力を持った貴族の屋敷か神殿か、はたまた王城か、そのどれかだろう。どこにせよ、いままでも、おそらくこれからも、自分程度の孤児が一生足を踏み入れるはずもない場所だ。
「はぁ……なんで、こんな薄汚い小娘が聖女なのでしょうか。クリスティーヌの方がずっと……神様も何を考えているのだか」
気がつけば、神官がなにか文句を言っている。
神官よ、同感だ。イーディスは内心頷く。クリスティーヌという女性がどのような人物なのかは知らないが、おそらくその女性の方がよっぽど聖女にふさわしいはずである。
「こちらですよ、聖女様」
神官がようやく足を止めたとき、イーディスは思わず歓声を上げてしまった。
目の前に広がっていたのは、数本の大きな柱に支えられた白亜の神殿だった。細部に施された彫刻の先まで、徹底的に計算されて尽くされているのを感じる。いままで暮らしてきた古びた煉瓦を適当に積み重ねた神殿とは雲泥の差だ。
「本神殿です。なかには王族や神官長らが待っています。せいぜい粗相をしないでくださいね」
それだけ言うと、また神官は歩き出す。
つい神殿に見惚れ、反応が一歩遅れたが、慌てて神官に足取りを合わせることができた。引きずられ慣れた、と言い換えることもできる。
粗相も何も、いまだ自分は事態が呑み込めていないのだが……なんて言葉を口にする間もなく、神官は重厚な扉を開け、ずかずかと中へ入ってしまった。もちろん、自分も彼に引きずられて。
「……すごい」
外観通り、内容も感嘆してしまう。
神の祈りや神話の再現を彫刻された壁、しみ一つない白くて高い天井、色彩豊かなステンドグラスを嵌めた窓からは、柔らかい午後の光が差し込んでいる。そして、埃一つ落ちていない広々とした大理石の床には、一際美しい数名の男女が騎士や神官を率いて佇んでいた。
そう、ここは広い。
数十人もの騎士や神官が勢ぞろいしていてもなお、広く感じるのだから。
ここまで広い神殿は世界広しといえども、王城ないにあるといわれている神殿の総本山「本神殿」しかないだろう。
「それが聖女か?」
あからさまに落胆した声が広い空間に響き渡った。
視線を向ければ正面前方、一人の金髪碧眼の男性が腕を組んでこちらを睨み付けている。
触りたいほど柔らかそうな金髪、美術品のように整えられた顔立ち――まさに、神の生み出した最高傑作のような青年である。
イーディスが見惚れていると、見目麗しい青年は吐き捨てるように言い放った。
「そいつは偽者だ。さっさと追い出せ」