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29話


「……いただきましょう」


 クリスティーヌは、はっきりと宣言した。

 グラスをとる指先こそ一瞬震えていたが、グラスを口元まで掲げた姿は王妃にふさわしい堂々したものだった。


「さあ、皆さんもいただきましょう。清浄な水、神の祝福です。それを受けないことは、神への不敬に当たりますよ」


 クリスティーヌの宣言で、取り巻きの貴族たちの顔色が一変する。

 取り巻きの貴族たち、その半数が魔族に憑かれている。今、この瞬間にも、貴族たちの肩辺りで黒い靄が動揺したように揺れていた。あの水を飲んだが最後、自分たちの正体があぶり出され、最悪、死に至ることを予期しているに違いない。


「し、しかし……クリスティーヌ様」

「あら、神の祝福を受けないのですか?」


 クリスティーヌは目を細めると、異議を唱えた貴族たちを睨みつけた。まるで、氷のように凍てつく視線だった。あの視線を正面から受けたら、反論することなどできるわけがない。取り巻きの貴族たちも、そして、他の貴族たちも渋々と言った様子でグラスを手に取った。

 だが、誰も飲まない。王でさえ、飲もうとしなかった。皆が皆、クリスティーヌの挙動に注目している。夜会会場の視線は、いまや彼女に向けられていた。

 ただ――やはり、クリスティーヌも飲むことに抵抗があるらしい。グラスを口元まで近づけたものの、唇は固く結ばれたまま、なかなか開こうとしなかった。しかし、観念したのだろう。クリスティーヌは目をぎゅっとつむると、一思いに飲み干した。


「……ええ、なるほど……たしかに、とても上品な水でしたわ」


 クリスティーヌは絞り出すように言葉を口にした。

 そう口では言いながらも、じょうろで入れた、という点が気になるのだろう。そっと白いハンカチーフをとり出すと、唇を丁寧に拭き始めた。一見、失礼と思われても不思議ではない仕草だったが、クリスティーヌの身から溢れ出るような気品と堂々たる態度が打ち消していた。


 やはり、この人は凄い。

 イーディスは改めて感心した。

 クリスティーヌは、完璧な王妃として存在している。胸の内には嫌な感情を抱いているとしても、すべて自分の存在感で打ち消すことができる――1つの才能である。とてもではないが、イーディスに真似することはできない。きっと、いくら努力したところで、彼女の完璧さに追いつくことは不可能だ。

 イーディスにとってクリスティーヌは、依然として好きになれる相手ではないし、むしろ苦手だ。

 しかし――なんだか、彼女がひどく羨ましく思った。


「それでは、皆様もどうぞ」


 クリスティーヌは明るい笑顔を浮かべながら、皆に飲むように勧めた。

 王妃が飲んだ水を拒絶する臣下はいない。貴族たちは顔をしかめながらも、グラスを傾けた。

 

 瞬間、水を打ったかのように会場が静まり返る。


「――うっ」


 会場の静けさを打ち破ったのは、呻き声だった。いたるところから首を上に向け、苦痛で歪む声が上がる。そして、彼らから零れ落ちたグラスが地面に落ち、散乱する音が後に続いた。


「み、皆さま! どうかなさいまして!?」


 クリスティーヌに、初めて焦りの色が浮かんだ。

 イーディスは、予想範囲内の状況だったため冷静でいられるが、クリスティーヌはそうではない。いきなり自分の取り巻きを含め、数多の貴族たちが顔面蒼白になり、泡を吹き始めたのだ。あまりにも予想外の状況に直面し、完璧な王妃としての仮面がはずれるのも無理ないことだ。

 

「イーディス! 貴様――毒を盛ったのか!?」


 それは、王も同じだった。

 彼は半分飲み干したグラスを投げ捨てると、こちらに詰め寄って来た。眉目秀麗な顔立ちは、いまや怒りで醜く歪んでいる。いまにも胸ぐらをつかみ上げ、断罪する勢いだった。イーディスは身構えたが、王がこちらに手を伸ばす直前、誰かが間に割って入った。神官のエドワードだ。


「いいえ、王よ。彼女は祝福の加護をかけただけです」

「その加護が、毒なのではないかと聞いている!?」

「確かに毒ですね。……魔の者にとっては」

「魔の者、だと?」


 ここで初めて、王は気づいたのだろう。

 苦しみで倒れた貴族たちの身体から、いままさに浮かび上がろうとしている黒い靄に。


「な、なんだあれは……!?」


 クリスティーヌの取り巻きから、イーディスに絡んだ3人の令嬢から、まったく会話もしなかった貴族から、ありとあらゆる場所に倒れる貴族たちの口から、黒い靄が噴出し始めていた。数多の人々から噴き出された靄はシャンデリアの下で一つに集まり、人の形を創り出そうとしている。クリスティーヌが、小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。


「……誉めてやろう、イーディス・ワーグナー」


 黒い靄は細い青年へと変化する。

 眼の細い男だった。口元に得体のしれない笑みを浮かべている。白いパーティー用のスーツに身を包み、山高帽を被っていた。貴族の一人とされても不思議ではないほど高貴な雰囲気をしていたが、額に浮かぶ複雑な刺青に、山羊のような角が魔族だと主張している。


「我が分体だけにとどまらず、本体をも引きはがすとは」


 魔族の青年はシャンデリアに腰を下ろすと、優雅に足を組んだ。


「明らかに、先日より加護の精度が上がっている。これは、我々も本腰を入れなくてはならないようだ」

「てめぇ……なんで、加護の力を知ってやがる!?」


 ウォルターの声が会場全体に響き渡った。

 魔族が逃げ出そうとしたら、即座に束縛の魔術をかけるつもりなのだろう。魔族の青年に右掌を向けていた。


「無論、先日――イーディスに切られ、君の鎖に拘束されたのが、我の分体であるからだよ。 

 そうだな……本体をあぶり出した褒美を与えよう」


 魔族は人をからかうような笑みを浮かべたまま、ゆっくりと右掌を上にあげた。


「我の能力は自分を分かち、人へ憑くことだ。もっとも、精神が強い人間には効果がない。よって、そこで伸びてる大臣には本体である我が憑いていた」


 絨毯の上で白目をむいた白髭の老人を一瞥する。記憶が正しければ、前王の傍らに控えていた老人だ。詳しい人間関係は分からないが、魔族の方利用から考えるに前王の重鎮だったに違いない。


「分体が消滅したとき、その情報は本体に蓄積される。

 ありがとう、諸君。おかげで、かなりの情報を集めることができた」

「……生きて帰ることができると、本気で思っているのですか?」


 エドワードが静かな怒りを身に纏いながら、一歩前に出た。

 その姿を見て、魔族はおかしそうに噴き出した。


「っくくく。分かっていないな、我の分体程度に憑りつかれた神官よ。

 周りをよく見て見ろ、我と戦える人間が残っているか?」


 イーディスは「そんなことない!」と叫びたかった。

 だが、現状はそうも言っていられない。

 自分は祝福の加護を使ったせいで、そろそろ立つのも限界だ。周囲の貴族や警備の騎士たちは、突然の展開に唖然と佇むか、腰が抜けて座り込んでいる者が多い。王はもちろん、あの王妃然としたクリスティーヌでさえ、わなわなと震えてしまっている。クリスティーヌのことなので数分もすれば、いつもの彼女に戻るだろうが、それまで魔族がここにとどまる保証はない。


「戦えるのは、せいぜい神官かそこの辺境伯くらいだろうよ。そのうち1人は、我に憑かれた愚か者。勝負は見えている」

「そんなもの、やってみなければ分からない!!」


 神官は歯を食いしばると、一気に跳躍した。


「ピルスナー、援護を!!」

「分かってるっての! ウォルター・ピルスナーの名のもとに! 土の素よ、その魔族を縛り付けろ!」


 床から銀の鎖が宙に向かって一直線に伸びる。

 跳躍する神官を追い越し、鎖は魔族の退路を塞ぐように後ろへ回り込んだ。


「……馬鹿の一つ覚えとは、まさにこのことだ」


 魔族は後ろから迫りくる鎖をつまらなそうに睨むと、気軽にシャンデリアから降りた。背中から黒い靄が沸きだし、素早く人を形成する。ウォルターの鎖が捉えたのは、本体ではなく、たった今生み出されたばかりの分体だった。拘束された分体はそのまま用済みとばかりに四散する。


「ッ、この野郎!」

「なにやってるんですか、まったく!!」


 エドワードは文句を叫びながら、たった今まで魔族が座っていたシャンデリアに着地する。そして、追いかけるように飛び降りた。


「ですが、これで逃げられませんね!!」


 空中で身動きを取ることは難しい。

 エドワードは右手をひくと、そのまま落下中の魔族に向かって狙いを定めた。


「くたばりなさい、魔族!!」


 彼が放った拳は、周囲の風を巻き込み、轟音を立てながら魔族に襲いかかる。

 しかし――魔族本人は、笑っていた。


「その程度だから、憑かれるのだ……エドワード・バドワイザー」


 魔族は嗤った。

 構えることもしなかった。否、する必要がなかったのだ。


「え……?」


 一人の少女が跳びあがり、魔族の盾になったからだ。

 それは、先程――イーディスを助けてくれた令嬢だった。エドワードの攻撃をその身に受け、失墜する。


「……どうして?」


 イーディスはここで初めて恐怖を覚えた。

 先ほどまで、いや、今この瞬間にも、彼女から黒い靄は感じられない。しかし、彼女は確かに自分の身を犠牲にしてでも、あの魔族を護ったのだ。


「なんで、その人は憑かれていなかったのに!」

「さあ、何故だと思う、聖女よ」


 魔族は華麗に着地した。

 続けて、エドワードも倒れ込むように着地する。しかし、彼はもう戦えない。うなだれたまま、顔を上げようとはしなかった。普通の令嬢を殴ってしまった、という衝撃で戦意を喪失してしまっている。


「魔族に忠誠を誓う人間は多い、ということだ。そう、たとえば……貴方の周りにも潜んでいるとか」


 魔族はそう言いながら、イーディスたちに視線を向けてきた。


「さて、これで魔王様へのいい土産話ができた」


 魔族は攻撃の余波を受け、ずれた山高帽を直しながら、窓へと歩みを進ませた。


「させるか!!」


 ウォルターが術を詠唱しようと構えるが、それは他の貴族たちに押さえ込まれてしまう。


「ってめぇら、なにしやがる!!」


 ウォルターは悪戦苦闘していた。

 彼の腕力があれば、引きはがすことは可能だろう。しかし、野盗の類とは違い、今回の相手は貴族だ。明らかに常軌を逸脱した行動をとっていたとしても、下手に怪我をさせるような行動をとるわけにはいかない。


 これで、まともに戦える人間はいなくなった。


「魔王……は、生きているの? うそ、倒したのに」


 クリスティーヌは、もうすっかり王妃としての仮面が剥がれ落ちてしまっていた。


「ああ、そうだ。愚かな王妃。お前のせいで魔王は生き残り、こうして我らは活動を続けることができる」


 魔族はくっくっくと嗤った。


「良い情報を楽に収集できた。愚かな王妃よ、お前の行いは、我らが魔族の歴史に刻まれるだろう。

 魔族に政治中枢まで入り込まれていたのに気づかず、夜会に明け暮れていた愚かな王妃と」

「そんな……嘘よ、嘘でしょ……」


 ふるふると震え、涙目になる様子は、もはやそこらに転がる令嬢と同じだ。もう頼りにならない。再起するのは、当分先か――もしかしたら、永遠に元に戻らないか。そのどちらかだ。


「ッ――、ま、待ちなさい!」


 唯一――戦えるのは、自分だけだ。

 イーディスは気力に鞭を打つと、じょうろを剣のように魔族に向けた。ひどく間抜けな格好だが、夜会会場に剣を持ち込む無粋者はいない。祝福の加護やら付与魔術やらで硬化し、殺傷能力を上げれば、なんとか倒すには至らないにしても、時間稼ぎをすることはできる。


 せめて、ウォルターが解放されれば、何とかなるかもしれない。


「答えて、魔族! まさか、あんたが魔王なの!?」

「いやいや、魔王など恐れ多い」


 だがしかし、魔族はイーディスの構えを意にも介さない。かつん、かつんと誰に邪魔されることなく窓へと歩み寄っていった。


「我はしがない魔王三騎士のクラウン・パペット。ああそうだ、イーディス。君には、魔王様からの伝言を預かっている」


 窓を開け放つと、新鮮な夜の風が吹き込んできた。

 シャンデリアの蝋燭が消え、辺り一面が暗闇に包まれる。そのなかで、クラウン・パペットの白い姿だけが、ぼうっと浮かび上がって見えた。 


「もうすぐ、貴方にふさわしい舞台を用意する。そのときは、かならず迎えに行く……とね」


 最後に言い残すと、クラウン・パペットは窓から身を躍らせた。

 あの目立つ白い姿にもかかわらず夜の闇に消溶け込み、瞬く間に消え失せてしまう。



 だが――最後に囁くように告げられた言葉だけは、いつまでも耳の奥に残り続けていた。






中ボスの登場。

次回、クリスティーヌ視点です。

※タグを「ハッピーエンド予定」から「ハッピーエンド」に変更しました。




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