25話
―数日後―
「……ありえない」
イーディスは、鏡に映った自分の姿を見て呟いた。
化粧などしたこともなかったが、ハンナに丁寧に施されたため、一瞬わが目を疑った。
『化粧は人を変えるのよ』
と、遠い昔――孤児院から花街へ働きに出た子が教えてくれた。
いままでは「化粧なんて、多少変わるだけで、元のパーツが変わらないから結局は同じ」と思っていたが前言を撤回する。化粧の力は凄い。別人とまではいかないが、目はぱっちり大きく開いているし、唇も魅惑的な輝きを放っている。肌も日に焼けていたはずなのに、少し白くなっている気がした。
「そこまで濃い化粧はしていませんわ。奥様はもっと自分に自信を持つべきです」
「さあ奥様、こちらで最後になります」
リリーに「聖女の首飾り」が小気味のよい音を立てながら付けられて、ようやくイーディスは解放された。
化粧もそうだが、ドレスも目を見張るほど可愛らしかった。上は気品のある濃い紫色でキャミソールみたいだ。上から薄い布で覆われているとはいえ、背中が大きく開いているので気恥しい。腰は薄い紫色のリボンで絞め、その下は白いフレア状のスカートが翻っている。
「奥様は可愛らしいものが似合いますから」
暗に「色気がない」と言われたが、それはとっくの昔から知っていることだ。むしろ、ない色気を前面に出したような衣装にならずホッとする。
「着るのが私でなければ良かったのに」
化粧で普段よりもよくなっているが、いかんせん。イーディス本人がドレスに負けてしまっている。そのことを呟けば、リリーから喝が飛んだ。
「なにを言っていますか!さあ、これで奥様の魅力を最大限に引き出しました。
ピルスナー辺境伯正妻にふさわしい武運をお祈りいたしますわ」
「武運?」
「夜会は戦場と同じです。特に今回は王国の中枢に根を張りつつある悪党を討ち取り、王家に恩を売り、ピルスナーの名を上げる絶好の機会!
奥様として飾り立てするのは当然のことですが、それ以上に、ピルスナー家の威信がかかっているのです! しかも、その悪党が奥様を貶めた仇敵とあれば、魅力を最大限――いえ、それ以上に引き出すのは、侍女長として当然の務めですわ」
リリーは拳を握りしめながら、強く言い放った。まるで、周りが燃えだしそうなほど熱い演説である。イーディスは少し引きそうになった。
だが、少し強張っていた気持ちが和らいだ気がした。
この屋敷に来てから、リリーはウォルターとは別の意味で怖かった。彼女が第一に考えているのはイーディスではなく、ピルスナー家の繁栄だ。礼儀作法や授業、とにかく行動が逐一厳しく採点され、常に「奥様らしく」を求められる。彼女の傍にいるのは、あまりにも窮屈で根を上げたくなった。
今回も、イーディスのためではない。彼女がイーディスを飾り立てするのは、ピルスナー家のためだ。けれど、彼女が「奥様」だけでなく、少なからず「イーディス」としての自分も考えてくれている。それが分かっただけで、ほんのり心が温かくなった。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。仕事ですから」
リリーはきっぱりと言い放った。
「さあ、参りましょう。旦那様がお待ちです」
イーディスは準備を万端にすると、ウォルターが待つ玄関へ向かった。
「遅くなりました」
今日はベールをしていない。いつも通りの凶悪顔だ。
パーティー用のスーツに身を包み、普段はぼさぼさしている髪もワックスで整えている。角も磨いたのだろうか、鋭く輝いていた。
「あの、凄くいいですけど……今日はベールは大丈夫なんですか?」
「当たり前だ。王家の主催の夜会だぜ? 顔を隠して参加するのは、どう考えても不敬だろ」
ウォルターは嫌そうに答える。
それから、さして興味もなさそうに、イーディスを頭からつま先まで眺めた。
「……お前は……よく化けたな」
「化けたとは、ちょっとひどくないですか? いや、事実ですけど」
「まあ、いい。それじゃ、敵陣に乗り込むぜ」
先日と同じ馬車に乗り込むと、ゆっくり城へ向けて動き出す。
先日同様、ウォルターと向かい合って座る。
「いいか、なるべく夜会中はオレから離れるな」
馬車が走り出して早々、ウォルターは念を押すように言ってきた。
「もちろん、祝福の加護を使えば、魔族なんて一撃だ。だけどな、あれは一度きりしか使えねぇ切り札だ」
「分かっています。むやみやたらに攻撃しない」
「それから、魔族だって分かっても――」
「勝手に魔族の後をつけるのは駄目。それに、誰かに誘われてもついていかない。ウォルターさんと神官様以外は知っている人でもついていかない、ですよね」
もう何度も確認したことである。最初の言葉を言われただけで、暗唱できるほどだ。それほどまでに、自分は信用されていないのだろうか。イーディスは少しそっぽを向いた。
「本当は神官野郎も危険なんだがな。なにせ、あいつは一度憑かれてる」
「それなら……」
ウォルターさんが憑かれたらどうするんですか?
そう聞こうとしたが、それは野暮な質問だ。自分がウォルターの傍にいれば、彼が憑かれることはない。万が一、はぐれてしまったとしても、不思議と彼が魔族に憑かれている姿を想像することができなかった。
「どうした、イーディス? お前、はっきり言えよ」
「えっと……そういえば、結局、コゼットと会うことはできませんでしたね」
「本当にその話をしようとしたのか? ま、いいけどよ」
ウォルターは苛立ったように、右足を左足の上に乗せた。
「完全に無駄足……とまでは言い切れねぇが、どうもきな臭い話だったよな」
「パン屋の女将さんは『コゼットは風邪で部屋から出られない』なんて言ってましたよね。
でも、近所の人は、コゼットのところに医者が訪れたことは1度もないと言っているとか、ちょっとありえないです」
孤児ならいざ知らず、王都のなかでも繁盛しているパン屋だ。医者の往診代や薬代くらい出せないはずがない。少なくとも、イーディスの知るコゼットは、そのようなところで金銭を節約する娘ではなかった。
「女将さんか近所の人、どちらかが嘘をついている、ということでしょうか」
「そうなるだろうな。……あー、くそ。もう少し時間があれば調べられたのによ」
ウォルターは頭を掻こうと手を伸ばしたが、これから夜会に出ることを思い出したのだろう。行き場を失った手は宙を彷徨うように2,3度振った後、足の上に肘をついた。
そうこうしているうちに、馬車が城の門をくぐったらしい。
ゆっくりと止まり、扉が開いた。
「まあ、夜会自身は心配するな。正妻のふりをするのは嫌だと思うが、オレの隣で黙っていればいい。なんとかなる」
ウォルターは先に降りると、こちらに手を差し出してきた。
イーディスはきょとん、と差し出された手を見つめ返す。
「いいから、さっさと手を取りやがれ」
「あ、はい」
イーディスは、ウォルターの手に慌てて自分の手を重ねた。
表向き、今日は「聖女」として招かれたわけではなく、「ピルスナー辺境伯の正妻」として招かれている。周囲からは「正妻」として見られるのだ。そのことを今さらながら実感した。
「本日はよくお越しくださいました。どうぞ、こちらへ」
侍従に案内された部屋は、昼間よりも明るく感じた。
イーディスたちの到着は遅い分類に入るらしく、すでに大勢の人が詰め寄せていた。
調度品も高価なものばかりだったが、部屋の端には背筋を伸ばした音楽隊や唾を飲み込みたくなるほどの料理が勢ぞろいしている。つい、今まで見たこともない料理に目がいきそうになるが、そこは堪えて貴族たちに視線を向けた。
貴族たちもこちらに視線を向けている。
嫌悪や侮蔑、好機の色が多い。これでもかと飾り立てた令嬢たちは額を合わせ、扇で口元を隠しながらひそひそなにか話している。
「……ねぇ、あれって……」
「……うそでしょ? 本当だったの?」
「……が……だって聞いたけど……驚いたわ」
視線もそうだが、漏れて聞こえてくる会話からも、好意的に受け入れられていないことは分かった。
「……あ」
その中の何人かに、一瞬――黒い靄が纏わりついているのが見えた。
やはり、貴族たちの中に魔族は潜んでいるのだ。そう考えると、背筋がぞっとした。
「いたか?」
ウォルターが耳元に顔を近づけて尋ねてくる。イーディスはこくりと頷くと、その貴族の特徴を声を潜めて、伝えようとした――そのときだった。
「聖女様」
忘れるはずもない――絶対的に可憐な声が、イーディスの背中に突き刺さった。
「聖女様、お久しぶりですね。お元気でしたか?」
イーディスはゆっくり振り返った。
案の定、そこには、全人類の視線を釘付けにしそうな美少女が立っていた。イーディスは震えを呑み込むと、彼女に向き合って――精一杯の笑顔を向けた。
「お久しぶりです、クリスティーヌ様」




