24話
「そこにいるのは……イーディスちゃん?」
孤児院を去ろうとした直後だった。
入り口の方から、か細い声が聞こえてきた。視線をあげてみれば、そこには一人――線の細い女が花を抱えている。猫みたいな目をしている子だ。ひどく驚いたような視線をこちらに向けてきている。イーディスはどこかで会ったことがあるような、心に触れる何かを感じた。
「あなたは……?」
「イーディスちゃんだよね?」
一瞬、女は呆けたように立っていたが、ゆっくりと歩み寄って来た。
「覚えていない、のも無理ないわね。私がここを出たのは、たしか……あなたが7歳の頃だったから。でも、よく遊んだのよ? 私の妹――アグネスと貴方は仲が良かったから」
アグネスと聞いた途端、イーディスの記憶が弾けた。
毎朝、誰よりも早く礼拝堂へ赴き、自主的に掃除をしていた女の子が蘇る。そこに寄り添うように立っていた長身の少女――。アキレスと遊んでいたボールが枝に引っかかったとき「仕方ないな」と笑いながら、するすると木に登ってくれた。
結婚でここを出るときに「もういらないから」と、じょうろを渡してくれた気もする。
「……うっすらと覚えています。……あの木に引っかかったボールを取ってくれたお姉さん、ですよね?」
イーディスは焼け残った木を指さした。あの当時は見上げんばかりの巨木のような気がしたが、今思えば何のことはない。大人より少し高い程度の木だ。イーディスたちは怖くて上ることができず、簡単にボールを取ってくれたアグネスの姉が英雄のように思えたのだ。
「そういえば、そういうこともあったわ。あの時のあなたときたら、この世が終わったかのような顔をしてたわよね」
ふふふ、とテレサは懐かしそうな笑みを浮かべた。
「あと、それから、じょうろをくれましたよね?」
「そうそう、あのじょうろ! よく覚えているわね! もっといいモノを渡せなくてごめんなさい」
「気にしていませんから。それに、あのじょうろ。まだ持っているんです。実は、ここから連れ出されたとき、手で持ってて……」
いまも、王都の部屋に置いてあるじょうろを思い出した。高価な家具から明らかに浮いている古びたじょうろは、やはり室内でかなり浮いており、リリーからは「捨てたほうがよろしいのでは?」と言われている。だが、孤児院とのつながりを示すものは、もうあのじょうろ以外に残されていないのだ。
だから、どうにも捨てられず、大切にしている。
「そうね……イーディスちゃんは、聖女に選ばれたのよね」
テレサは、そのときのことを思い出しているような表情で言った。
「あなたが聖女に選ばれたって聞いたとき、息が止まるかと思うほどびっくりしたわ。なにしろ、イーディスちゃんときたら信仰心とは程遠い子だったもの。礼拝にも参加しないで、パンを盗みに行ったり喧嘩をしていたり……ほら、あなたは『アキレス君さえ無事なら、世界がどうなろうとかまわない』って子だったじゃない?
だから、魔王を倒し、世界を救う聖女になったなんて……びっくりしちゃった。成長したのね、イーディスちゃん」
「あはは……あまり変わっていませんよ」
イーディスは頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「私もどうして自分が聖女になったのか……分からないです」
「でも、生きて帰ってこれてよかったわ」
テレサはそこまで口にすると、少し寂しげな顔になった。
「ここにいた頃は、大変だったけど楽しかったわ。アグネスがいて、イーディスちゃんがいて、アキレス君もいて……まるで大きな家族みたいだった。
……私は17歳で嫁に行くことが決まって、ここを出たけど……結局、妹は連れて行くことが許されなかった。あのとき、無理にでも連れて行けば……」
テレサは言葉をつまらせる。
彼女の妹――アグネスは、あの冷たい墓石の下で眠っている。おそらく、彼女が抱えた花束は、アグネスの墓前に添えるためのものだろう。
「アグネスは……こんなことにはならなかったのに……」
彼女はそのまま俯いてしまった。
イーディスが彼女のことを思い出せなかったのは当然だ。彼女は嫁いでから一度も、この孤児院に顔を見せに来たことはない。おそらく、彼女は妹を置き去りにしてここを出たことに罪悪感を抱いていたのだ。
「……お悔みします」
「ありがとう。でもね、アグネスはまだ良かった方なのかもしれないわ」
テレサは目元に涙をにじませながら、ゆっくりと話を続けた。
「孤児院が焼失したという知らせを受けてね、『妹で間違いないかどうか確認して欲しい』って言われたの。炎に焼かれた痕もなくて、本当に眠っているようだった……」
「あの……聞きにくいことなのですが、アキレスは……その、どうでしたか?」
本来なら、妹を失った悲しみに暮れる人に聞くのは礼儀知らずかもしれない。
だが、1人でも多くの人に尋ねたいという気持ちには勝てなかった。
「ごめんなさい、アキレス君は見ていないの」
「見ていない?」
「ええ。私も探したんだけど、結局、他の人が遺体を検分したらしいわ。聞いた話だと、やすらかに眠っていたそうよ」
そのとき、かすかな物音がして、2人は弾かれたように音がした方を見た。
ウォルターだった。イーディスが身体をそちらに向けようとすると、ウォルターは手を挙げてそれを制し、気にするなというように手を振ると、孤児院の柱に身体をゆだねた。そのまま顔を上げ、空を行く雲を眺めている。
「あの人は……?」
「えっと、師匠です」
「そう、イーディスちゃんの師匠ね」
テレサはウォルターを警戒しているのか、肌に緊張感を纏っている。
「いい人ですよ。ベールを覆っているのは……顔に傷を負っているからで、怪しげな人に見えますが」
「それならいいんだけど……」
テレサはまた一歩、イーディスに近づくと耳元に顔を近づけるように話しかけてきた。
「そこの入り口にね、妙な馬車が止まってるのよ。あれは、ピルスナー辺境伯の馬車だわ。
あそこの伯は、魔族のように凶悪で、若い娘を喰い散らかすって噂を聞いたことがあるの。その、師匠さん? と一緒なら大丈夫だと思うけど、帰り道は気をつけて」
「ありがとうございます」
その辺境伯が師匠です、とはとてもではないが言えなかった。
「これからどこに行くの?」
「とりあえず、コゼットのパン屋へ行こうと思っています。彼女が第一発見者でしたから」
「コゼットちゃんの、ね」
テレサの顔色がやや曇る。
「あの子ね、ここのところ様子がおかしいのよ。あの子のパン屋には買い物に行くんだけど、いつ行っても顔を見せないのよね。女将さんたちは、ただ風邪で寝込んでいるだけだって言うけど……もし会えたら、私もよろしく言っていたって伝えてね」
テレサはイーディスの手をぎゅっと握った。
「会えて嬉しかったわ。アグネスやアキレス君の分も、元気に長生きしなさい」
「私も……テレサさんに会えて嬉しかったです」
「今度、私の店にも来てね。王都の金羊通りにある『テルジア洋裁店』よ。割引するわ」
テレサは名残惜しそうに手を振りながら、墓石の方へ去っていく。その後姿をずっと見送りたかったが、時間も惜しい。なにより、ここからさきは、テレサとアグネスの二人の時間だ。邪魔する方が野暮である。
「お待たせしました」
イーディスがウォルターの所に戻ると、彼は気にしていないというように手を振った。
「別に待ってねぇよ。で、あの女は?」
「友だちのお姉さんです。あの、じょうろをくれた人です」
「ああ、あの古いじょうろか」
ウォルターはたいして興味がないのか、素っ気なく答える。
彼にとっては古いじょうろかもしれない。事実、古びたじょうろである。水を撒く以外、他に使用用途はない。辺境伯の屋敷には専属庭師がいるため、そこで暮らす限り必要のないものだ。しかし、イーディスからすれば思い出がつまった代物だ。付与系魔術を重ねがけした切れ味の良い剣よりも、ずっとずっと大切なものである。
「あ……!」
そこまで考えたとき、ある考えが脳裏に閃いた。
それは、貴族たちへのちょっとした意趣返しだ。魔族であろうとなかろうと、向こうは嫌がるだろうが、決して拒むことはできない。
「どうした? やけに嬉しそうじゃねぇか」
「ええ、実は――」
これに成功すれば、きっと心躍る展開になる。
イーディスは憂鬱だった夜会が、小匙一杯分くらい楽しみになった。




