エンバス侯爵子息の妹事情
有力貴族の筆頭――エンバス侯爵家。
この家には、「密偵部隊」が存在していた。
無論、有力貴族ともなれば、だいたいお抱えの密偵部隊がいるものだ。しかし、そのなかでも、エンバス家は群を抜いて優秀な一族を召し抱えている。
密偵とは、決して表には出ず、大木を支える根のように主家を支えるのだ。根が地面から出てしまったら、どこかで綻びが生まれる。たとえば、そこに子どもが躓いて転ぼうものなら、いかに大木であろうと「危険」とみなされ切り倒されてしまうように。
つまるところ、密偵とは、つまり縁の下の力持ちに値する。
特に、エンバス侯爵家の密偵は、他家より根が深く、太くて丈夫であり、遠くまで伸びている。ゆえに、オーウェンにとって、エンバス侯爵家の密偵であることは誇りであり、次期当主に仕えていることは喜びでもあった。
……過去形である。
「オーウェン、オーウェンはいるか」
オーウェンは主の声を聞くと、静かに天井裏から降りた。
主――ケイン・エンバス侯爵子息は、酷く不健康な顔をしている。人前に出るときは白粉を塗り、疲れを隠している。しかし、こうして屋敷にいるときは、こちらが心配になるくらい青い顔をしているのだ。
今日は一際、顔が青い。
「お呼びでしょうか」
「ああ、実は最近――妹がおかしい」
ケインは額に手を置き、ため息を吐いた。
彼は妹――クリスティーヌのことを心底不安に思っているのかもしれないが、オーウェンからすれば心配しすぎである。
なにしろ、彼が「妹がおかしい」と言い始めたのは10年近く前からだった。
当時はケイン付きの密偵になったばかりだったが、彼から命じられる仕事の大半が「クリスティーヌを見張れ、行動を逐一報告せよ」だったため、ケイン付きなのか、クリスティーヌ付きなのか混乱しそうになったほどだ。
いまでこそ、彼の妹離れは進んでいるが、少しでもきっかけがあると再燃してしまう。
そもそも、クリスティーヌはおかしい。
貴族の令嬢であり、かつ、未来の王妃だというのに、剣技や魔術を極め、挙句の果てには魔王討伐も成し遂げてしまった。そのような規格外の令嬢を「おかしい」と呼んで、なにも悪くない。
「魔王討伐の旅から帰ってきて、どうも浮かれている。やたら社交界に出るようになった。
……いや、社交界に出るのはいい。以前は嫌がって、そもそも出席したがらなかったからね。成長したとみるべきかもしれないが……」
ケインは言い淀む。
どうやら、「規格外妹 クリスティーヌが普通の貴族令嬢のように振る舞うのが、嬉しいけど、おかしく感じる」ということらしい。
「あのクリスティーヌが、いきなり『王妃にふさわしい服装を!』と言い出して、いままで服なんか気にしていなかったのに、服を大量に注文し始めるなんて……。あぁ、本当にどうなってしまったんだい、クリスティーヌ!! お兄ちゃんには分からない!!」
「……」
「だいたい、前王が遺言で許可してるとはいえ、いまは喪に服する時期なのに、慣例を破って夜会を開催するというのも変だ!
これは……クリスティーヌについて魔王討伐に行った連中が、そそのかしているに決まってる!」
ケインは拳を机に叩きつけた。
「……それでは、討伐の旅に同行した方々を再調査する、ということでよろしいですか?」
「いや、それはいい。……しかしな、連中は全員そろいもそろって有望株ばかりだ。このままクリスティーヌにたらしこんでもらい、我が一族の傀儡にするという手もあるが……いや、それでは、クリスティーヌが可哀そうだ!!大切な妹を政治の道具にするなど……いや、妹だからこそ、政治の道具にするべきか?」
「……」
オーウェンは黙ったまま、「早く話が終わらないかな」と待っていた。
ケイン・エンバスは妹のクリスティーヌを溺愛している。口では彼女のことを奇人と言っているが、彼の言う「討伐の旅に同行した連中」に負けず劣らず、クリスティーヌに入れあげているのだ。
その連中が無事でいられるのは、彼らが消えたら最愛の妹が悲しむからであり、それ以外――つまり、クリスティーヌが嫌がっているのに近づいてきた者どもは、オーウェンを使ってことごとく消し去ってきた。
優秀な密偵の悪い活用方法である。
オーウェンとしては、「妹の平穏を掻き乱す連中の排除」ではなく、もっと政敵を探るとか暗殺するなどといった密偵らしい仕事をやりたい。
「――そこで、オーウェン。お前に頼みたい仕事はこれだ」
ケインは机に肘を立てた。オーウェンは跪いたまま、緩みかけていた背筋を伸ばす。
「また、聖女を監視してほしい。
なにしろ、今度開かれる夜会は王家主催のものだ。ピルスナー辺境伯の正妻として参加するらしいが……どうも気になる。
なにしろ、奴はクリスティーヌが恐れた唯一の人物だ。実際、クリスティーヌもこの報告を聞いて、少し怖がっているようだ。今度の夜会に辺境伯だけ招待しない方向で調整を進めていたらしいが、あの神官野郎が押し通したらしい」
「……承知」
正直、彼女を監視したところで結果は見えている。
だが、主の命令に従わないわけにはいかない。オーウェンは素早く頭を下げると、風のように立ち去った。
聖女 イーディス・ワーグナー。
彼女の監視を任されたのは、これで3回目だ。
1回目は聖女として城に呼ばれたとき、2回目は魔王討伐の旅から帰って来た後、そして、今回が3回目になる。
いずれも監視理由は同じで、クリスティーヌが彼女を怖がっているから、というものだった。
『クリスティーヌが、今代の聖女を異様なまでに恐れている』
今でも最初に「聖女監視命令」が出された日に言われたことは覚えている。
『聖女と聞くと昔から震えあがっていたが、ここ最近は特にそれがひどい。
一瞬、未来でも視たのかと疑ったが……最愛の妹に限って、あの禁忌を破るなど考えられぬ。お前も知ってるだろ、我が一族に伝わる”未来視”の力を。あれが見せる未来は断片的だ。そこで未来に捕らわれ、溺れていった者が幾人もいる……と、未来視の話はどうでもいい。そんなことより、聖女だ聖女! 本当は、クリスティーヌのために聖女を殺したいが、さすがにそれはまずい。
だから、お前は聖女を監視しろ! どうして、クリスティーヌが恐れているのかという理由を突き止めるのだ!
そして、聖女が我が最愛の妹に危害を加えた瞬間、抹殺せよ!』
いや、それでも、聖女を殺したらまずいだろ。
そう口にしかけたが、主の血走った眼を前にしたら黙っているしかない。
しかし、実際に聖女を監視してみると、なんのことはない。
ごくごく普通の孤児だった。貧民だった。
朝早くから夜遅くまで修行に明け暮れ、半べそを掻きながら努力していた。クリスティーヌに敵意など毛頭なく、むしろ、わずかながら憧れを抱いているようにも見てとれる。完全に無問題の少女だった。
頑張って魔王を倒して来いよー、と思いながら、旅立つ彼女の背を見送ったのをよく覚えている。
それから1年はごくごく普通の任務が多かった。
ケインは
『クリスティーヌが帰って来たとき、優雅に暮らせるように。いまのうちに、邪魔者を排除する』
と言い始め、ありとあらゆる政敵の情報収集を行い、影で始末してきた。
ケインが「王も今のうちに……」と言いだしたときは、やはりこの主を見限るべきかとも思ったが、「やはり、オーウェンにそこまで頼むのは悪いか」と考え直してくれたので、安心した。
とはいえ、本当に王が死んだときは「こいつ、やりやがったか!?」と動揺した。ただ、オーウェンの父であり現エンバス侯爵家密偵筆頭が「違う」と断定しているので、彼の仕業ではないのだろう。
2回目の聖女監視任務は後味が悪い。
前回同様の理由で引き受けたが、彼女はもうボロボロだった。
晴れやかに帰還したクリスティーヌとは反対に、薄汚れた服を纏い、どこかぼんやりしている。早く帰りたいのに「家はもうない」と告げられ、しかも「どこかの貴族に嫁がせる」と言われた日からは、魂が抜けたような様子だった。
見るも悲惨。こんな監視任務、したところで意味がない。
一度、ケインに「これ以上の監視は無意味だ」報告したのにもかかわらず、彼は
『いや、それは監視されていることに気づいて、演じているだけかもしれない。
本心では、いつクリスティーヌに危害を加えようかとばかり考えているに決まっている!』
と、判断し、聞き入れてくれなかった。
辺境伯領への出発は、討伐の旅の出発とは違い、クリスティーヌ至上主義の神官が義務的に見送っただけの寂しいものだった。
いっそのこと、途中で馬車――という名の護送車を襲って、彼女を解放しようかとも考えたが、それが主に発覚したら最後、死罪にされてしまう。
オーウェンは、彼女に対し「強く生きろ」と祈ることしかできなかった。
過去2回の監視は、失敗に終わった。
はたして、クリスティーヌはどうして彼女を恐れるのか。その原因は、いまだにつかめていない。
「今回は……無事だといいのだが」
聖女は監視をするたびに、状況が悪化している。
今回の監視では、少しは回復しているといい。そんなことを考えながら、辺境伯が滞在する王都郊外の屋敷――そこに与えられた聖女の部屋の天井裏に訪れる。
形だけの正妻らしく、部屋は別々だった。
辺境伯の屋敷でも冷遇されているのだろうか。そんなことを考えながら、板の隙間から下を覗き込む。
白髪が見えた。身なりは、それなりにまともになっている。表情も若干硬いが、前回よりは明るい。
オーウェンは少しだけ安心した。
ただ、剣をもってぶつぶつと何かを呟いている。なにか詠唱しているのだろうか。耳を傍立てるように、隙間に顔を近づける。
すると――
唐突に、聖女が顔を上げた。
紫色の瞳が、まっすぐこちらを見上げている。そして、小さな唇をゆっくり動かした。
「そこにいるのは誰?」
 




