2つの報告書
※イーディスは出てきません。
ウォルター・ピルスナーは執務室に入るなり、迷いなく椅子へと向かった。そのまま崩れ落ちるかのように腰を落とすと、大きなため息を吐き出す。
「ったく、どうなってやがるんだ」
机に肘をつくと、机上に置かれた二種類の書類に視線を向けた。
片方は数日前に王都から届けられた報告書、もう一方は執事が独自に調査した報告書だ。どちらも同じ事柄について書かれたものだったが、内容や色合いがかなり異なる。
しかし――
「失礼します、旦那様」
「入れ」
扉を叩く音がし、姿を現したのは執事と侍女頭のリリーだった。
両者ともピルスナー家に長く仕え、信を置いている人物である。
「……あいつは寝たか?」
「はい、ベッドに入るなり、すぐに眠りに落ちたようです。いまは、ハンナとレベッカが護衛をしています」
「そうか」
ハンナもレベッカも騎士家系の娘で、一通りの武芸を嗜んでいる。護衛にはもってこいの侍女だ。ウォルターは報告書をめくった。
「この報告書、嘘偽りねぇんだろうな」
「ありません」
執事は即答する。
「魔王が消滅してなお、魔族の被害は増え続けています。
ミッドナイトの森は既に魔の手に落ち、城塞都市のカッルカタも陥落したと」
「だがよ、王都からの報告じゃ違うみたいだ」
ウォルターは王都からの報告書を掲げた。
「ミッドナイトの森制圧やカッルカタが敗れたことに対して、一言も書いてねぇ。
あいつら、どうしても魔族の増大を認めたくねぇらしい。こっちには証言があるってのによ」
ウォルターは舌打ちをした。
数週間前――イーディスと初めて出会った日につかまえた「人さらい」。彼らは幼い子供、それも男の子を浚う命令をある人物から受けていた。ウォルターは騎士団を率いて、その日のうちに人さらいのアジトへ乗り込み、全員の確保に成功した。
しかし、そこで知った事実は意外なものだった。
「あの人さらいは、
『自分の幼い息子を差し出せば、魔族が侵略してきても見逃してくれると聞いた。だが、オレに息子はいない。だから、ガキをさらおうと考えたんだ』
って言ったんだぞ。魔王は消滅したってのに」
「はい。記録によれば、魔王がいなくなれば魔族の力が弱まるとなっています」
「しかし、その兆候は見られません。むしろ、一部地域では被害が悪化しています」
「だよな。そこなんだよな」
ウォルターは自分の髪をぐしゃぐしゃに掻いた。爪先が角に当たり、かつんと乾いた音を立てる。それがまた苛立ちを誘い、ますます掻き乱した。
「ってかよ、だいたいなんで倒したはずの奴が復活するんだよ」
ウォルターは目を瞑った。
今日も妙なことがあった。国境警備の仕事を終え、屋敷に戻る途中、ハンナが血相を変えて走っていくのを目撃したのだ。慌てて、ハンナを呼び止めると、イーディスとジンジャーが洞窟に入ったまま戻ってこないという。ウォルターたちは急いで洞窟探索の支度を整え、向かってみれば、中央付近で二人が倒れているところを見つけたのである。
真っ二つに切り裂かれた魔族の死体の傍で、イーディスたちは眠り続けていた。
「今回の魔族、本当にイーディスが旅の途中で倒した奴だったのか?」
「ええ、そうらしいですわ」
リリーが口を開いた。
「奥様の話ですと、四天王のバエルという魔族らしいです。たしか、エンバス侯爵令嬢の火炎魔術で丸焼きにされ、炭になったとか」
「リリー、あいつのことを奥様と呼ぶな」
ウォルターが短く注意すると、リリーは少しムッとした表情になった。
「正妻は単なる名目だ。オレはあいつを鍛えるために傍に置いてる」
「僭越ながら、旦那様。いつまでも独り身というのは困ります。今後の跡継ぎ問題にも発展してまいりますわ。だいたい、旦那様は悪評のせいで、せっかく奥様を迎えても逃げられてしまうではありませんか! 奥様……イーディス様は……それは、一度逃げられましたが、ちゃんと戻ってまいりました! こんな奇特な女性はいませんわ!」
「だから、あいつは強くなるために戻って来たんだよ。婚姻云々のためじゃねぇっての!」
ウォルターは強く机を叩き、リリーから顔を背けた。そして、リリーが反論する前に、執事に問いかける。
「で、バエルって奴が四天王だって裏は取れたのか?」
「ええ、しかるべき情報筋から裏は取れました。ほぼ間違いないでしょう」
リリーはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、これ以上、話を脱線させるわけにはいかない。
「そもそも、魔族って復活するのかよ。そんな能力聞いたこともねぇぞ?」
だいたい、そんな簡単に蘇ることできるのであれば、なにも、数百年後に魔王が復活するまで待たなくても良い。歴代の聖女たちが油断した隙――もしくは、年老いて衰えたときを狙って、奇襲を仕掛ければよいだけの話だ。いっそのこと、聖女が死んでから「魔王代理」に就任し、世界を滅亡へ追い込むことだって可能である。
それをしてこなかったことは、なぜなのだろう。
そして――
「魔王が死んだってのに、聖女を殺しに来た四天王ってのは、今回が初めてなのか?」
「いいえ、記録によれば……」
執事は手元の資料をめくった。
「ありました。三代前の聖女様の時です。四天王を一人倒さず魔王を滅したことがあったらしく、そのときは四天王が攻めてきたそうです。もっとも、聖女様の反撃で負けたそうですが」
「そうだよな、復活ってのはありえねぇ」
「そうですよね……あ、ですが、こういうものがありました」
執事は目を細めると、ウォルターに資料のあるページを差し出した。
「四代目聖女様の時です。魔王と戦う際、倒したはずの四天王が魔王の術で一時的に蘇り、聖女様が危機に陥ったという記録がありました」
「……復活してるじゃねぇか」
執事の説明を聴きながら、ウォルターも資料に目を通す。
「魔王の力か。……まだ、魔王の力ってのは未知数だからな……ありえるっちゃありえるが、肝心の魔王は滅したんだろ? それなのに、どうして蘇る?」
「それは、私たちには分かりません。
……この一件、王家には報告しますか?」
「当たり前だ。早急に報告しろ!」
ウォルターは苛立ちを隠さずに命令した。
執事は静かに礼をすると、すぐに退出する。執務室には、ウォルターとリリーだけが残された。
「オレはこの仕事を片付けたら寝る。リリーもさっさと出てけ」
リリーはまだ何か言い足りない表情をしていたが、ウォルターが真剣に書類を読み始めると、わざとらしく一礼をしてから出ていった。
「……ったく、なんでオレが魔王のことまで考えねぇといけないんだよ」
ウォルターは書類を放り出すと、背もたれに寄りかかった。
いくら数年前と比べて国境の緊張感がなくなっているとはいえ、隣国を気にしつつ、魔族のことまで気にするとなると骨が折れる。
「だいたい、なんで、あいつをオレが引き取らねぇといけなかったんだ。他にいるだろ、適任が」
不法入国者の尋問のため、屋敷を出ている間に聖女との婚姻が決められ、こちらが準備をする間もなく嫁入りが進められた。そこに、ウォルターの意思など欠片もない。それだけでも、辺境伯に対する侮辱である。
もともと、ウォルターは爵位のわりに王城での地位は低い。
妾腹だということもあるだろうが、原因は明らかに魔族の特徴が強い見た目だ。悪評ばかりが流れ、妻を娶っても逃げられる。そいつらが、家まで帰れたらよいものの、どいつもこいつも途中で良家のお嬢様故、途中で力尽きたり、騙されたりで、まともに家まで帰れた奴はいない。そのせいで、悪評は高まるばかりだ。
「……ま、だから、オレの所にお払い箱にされたんだろうけどさ」
最初にイーディスと会ったときは、聖女だと分からなかった。
分かるわけがなかった。
年の頃や名前が同じで「もしや?」と思ったが、聖女にしては弱弱しく、力をまるで感じられない。ただの少女だった。やることなすことすべてに臆病で、暗くて、いまにも泣き出しそうで、なにをするべきなのかも分かっていない女。
正直、ああいう女は嫌いだ。うじうじしていて、鬱陶しい。だから、あのヘタレた性根を吹き飛ばしてやろうって思った。
だが――
「あいつ、意外と根性あるんだよな」
路地裏で、ジンジャーを守って立ち向かおうとしたときの姿が蘇る。
それまでの怯えたような様子から一変した、凛とした立ち姿は瞼の裏に焼き付いている。イーディスはあの時、どうやれば勝てるのか考えていなかっただろう。否、分かっていなかった。だが、彼女は敵に立ち向かった。
きっと、同じような態度で四天王と戦ったに違いない。
どこか怯えながらも、あの紫の瞳で敵を静かに見つめて。
その時、沈黙が落ちた執務室に、扉を叩く音だけが響いた。
「旦那様、伝え忘れたことがありました」
「……入れ」
執事が再度、やや急ぎ足で近づいてくる。彼は書状を手にしていた。
ウォルターは書状を乱雑に破り、ざっと目を通す。
「これ、マジかよ」
「ええ、マジでございます」
「……そりゃ、現状を知らせる良い機会かもしれねぇけどさ。突然すぎるだろ」
そこには、王都の中央神殿直属の神官が視察に来る、と記載されていた。
「了承する。すぐに日程を調整して、その結果を送れ。いいな」
「かしこまりました、ウォルター様」
ウォルターは神官の名前に目を落とす。
なにを視察に訪れるのか書いていなかったが、この名前から察するに、十中八九、イーディスの様子を確認するために決まっている。
それに、わざわざ彼が来るということは、王城でも報告書とは異なり、魔王の死が疑問視されているのだろうか。
だが、どんな視察になろうとも、ありのままを見せればいいだけの話だ。
それに、イーディスを連れ戻すためなのだとすれば好都合だ。イーディスは聖女の力を身に着けた。ならば、こちらで鍛え上げてやるよりも、王都で専門の神官から教えを乞うた方が良いかもしれない。そして、彼女をあそこまでヘタレさせた奴らを見返してやればいい。
しかし、彼女を手放すことを考えると、どうも胸がもやもやする。
ウォルターは少しばかり考えたが、面倒くさくなって頭を振った。
「……ま、なるようになるさ」
ウォルターは神官受け入れの書類を作り始めた。
数日後、神官が尋ねてきたとき、イーディスがするであろう反応を予想しながら。




