11話
「眠る山猫亭」の朝は遅い。
夕方から夜遅くにかけて店を開け、最後の酔っ払いを追い出したら、もう空は白んでいる。朝はほとんど眠りこけているといっても過言ではないだろう。一応、昼間の時間帯だけはは市で働く関係者のために開けてはおくが、あまり実入りはない。
今日も狭い店内に客の姿はほとんどなく、実際よりも広く感じる。
そんな店内に1つだけ、異質なテーブルがあった。
イーディスと侍女のハンナが座っているテーブルである。ハンナが落ち着かない様子でそわそわしているのに対し、イーディスはテーブルに伏していた。銀髪が疲れたようにテーブルにへばり付いている。
「しっかりしなって、お嬢ちゃん」
シャンディがテーブルに大きなコップを2つ置いた。
大きなコップには橙色のジュースがなみなみと注がれている。
「シャンディさん……私、頼んでいないんですけど」
「奢りだよ、うちの息子を助けてくれたね」
シャンディは嬉しそうに笑った。
先日、助けた子供は、彼女の一人息子だった。それを知ったとき、世界は狭いものだと感じたものだ。人と人はどこでつながっているか、分かったものではない。
「あんたがいなかったら、ジンジャーはどっかに売り飛ばされていただろうよ。ありがとね。
だから、今度はあたしたちがお嬢ちゃんに恩返しする番だ」
「……ありがとうございます」
のっそりと顔を上げる。
「でも、どうしたんだい? いつもは修行なんだろ? その、聖女としての力に磨きをかけるとかなんとか」
「今日は休みなんです」
普段は午前中――騎士たちに混じって剣や魔術の修業を行い、午後からウォルターと一緒に聖女としての適性探しが始まる。だが、今日は、ウォルターが午後までかかる仕事があるらしい。そのため、休養もかねて、一日、自由に過ごして良いとなったのである。
いわば、ご褒美だ。
いままで、どれほど修行に明け暮れても、休みなどもらえたためしがなかったので、ちょっぴり嬉しかったが、特にすることはない。朝の素振りを終えた後、他にすることもなく、気がつけば自然と「眠る山猫亭」に足が向いていた。
「で、ハンナがお嬢ちゃんの護衛ってわけね」
「えへへ、どうも」
ハンナは恥ずかしそうに笑った。
護衛、というより監視に近い。イーディスはぼんやり思う。彼女は、イーディスがまた脱走しないように見張っているのだ。
「もう、ここじゃ浮かない顔は厳禁だってのに! あの角男に嫌なことされたのかい?」
「う、ウォルターさんは、嫌なことなんてしません!」
慌てて反論する。
彼は凶悪過ぎる見た目に反して、とても良い人だ。自分の仕事があるのにも関わらず、しっかり修行に付き合ってくれる。ここに来るまでに聞いていた評判とは異なり、意外と面倒見の良い辺境伯である。
「それならいいけどさ……」
「ごめん、母ちゃん!! いま帰った!」
ちりんっと扉が開く。
それと同時に小さな影が飛び込んできた。ふんわりとした茶色の髪が特徴的な男の子だ。
「こら、ジンジャー!! あんた、店の手伝いがあるってのに、いつまで遊び歩いてたんだい!」
「ひぃ、ごめんなさい! そんなつもりじゃ……あ、イーディスねーちゃんだ!!」
ジンジャーはしゅんと項垂れたものの、緑色の目がイーディスたちを見つけた瞬間、ぱっと花が咲いたように笑った。
「ねーちゃん、いらっしゃい!!」
「いらっしゃいー、じゃない!! さっさと買い出しに行ってきな!」
シャンディはジンジャーの頭に拳を落とすと、メモを渡した。ジンジャーはしばらく頭を押さえていたが、メモを受け取ると、イーディスの袖を引っ張って来た。
「ねぇ、イーディスねーちゃん。一緒に行こう」
「えっ!? 私は――」
「いいじゃないか、行ってきな」
当惑するこちらを他所に、シャンディはあっけなく同行を許した。
「市の活気は、気分転換になるよ。それに、この間のこともあるし……ジンジャーを見張っておいておくれ」
「は、はい」
「じゃあ行こう、イーディスねーちゃん!!」
そう言うやいなや、ジンジャーは走り出した。イーディスとハンナは慌てて彼のあとを追いかける。
市の活気は先日と変わらず、和やかな賑やかさで包まれていた。もし、前回のような狼藉者がいたとしても、いまのイーディスには使い慣れた剣があった。ハンナも同様、腰に短剣を下げている。ハンナの実力は分からないが、少なくとも、あの程度の奴らであれば倒せるから問題ない。
イーディスは無邪気なジンジャーに案内されながら、ハンナと一緒に市を回った。
市にはいろいろなものが売っている。
食料はもちろん、薬から武器に至るまで、ありとあらゆるものが売買されている。それらを見るたびに、ここ数日間の自分の有様が思い出され、胃が重くなった。
あれから、さまざまなことに挑戦した。
薬作りから始まり、武器作り、弓術、槍術、投擲術――そのすべてがすべて、どれもいまいちな出来映えだった。唯一、武器作りだけはなかなか満足のいく出来栄えだったのだが、いかんせん。鉄を鍛える体力がなく、1つ剣をこしらえただけで寝込んでしまった。
これでは、いけない。
なにか、早く得意なことを見つけなければ――
「イーディスねーちゃん、どうしたの?」
ふと、ジンジャーが心配そうに話しかけてきた。ハンナも不安そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
「つらそうな顔をしてるよ」
「奥様、大丈夫ですか?」
「え……っと、平気です、すみません。ジンジャー、次に行くところはどこ?」
急いで気を取り直し、笑顔を浮かべた。
だが、彼らの表情は不安そうに歪んだままだ。ジンジャーは手一杯に持った袋を見下しながら、なにかを考え込んでいる。
「もう帰るだけだけど……そうだ!!」
ジンジャーは弾かれたように顔を上げた。
「ねぇ、イーディスねーちゃん! 一緒に薔薇水晶を探そうよ」
「ちょっと、ジンジャー君。それはいけません!」
きらきらとした笑顔を浮かべるジンジャーに対し、ハンナは頬を膨らませた。だが、イーディスは肝心の薔薇水晶とやらが分からない。イーディスが首をかしげていると、ハンナは口を開いた。
「薔薇水晶とは、この近くの洞窟にある特殊な水晶です。水晶なのですが、薔薇のような形をしています」
「それを見つけるとね、願いが叶うって言われてるんだよ!」
「ですが、あの洞窟には魔物が出ます。危険です!」
「……ハンナねーちゃんも、子どものときこっそり入ったって聞いたけど」
ジンジャーがぼそっと言うと、ハンナは苦虫を潰したような顔になった。
「あのときは……たまたま、運が良かったんですよ」
「今回も運がいいかもしれないじゃん! 駄目なら駄目で帰ってくればいいだけだし。他の子だって、けっこう入ってるよ? 魔物だって、滅多に出ないじゃん!」
「……」
ハンナはどうします?とこちらを見てくる。
どうするもなにも、イーディスは分からない。どのくらい危険な洞窟なのか、本当にその水晶とやらがすぐに見つかるのか。
しばし悩んだ末、イーディスは結論を口にした。
「買い物の荷物を店に置いてから、ならいいよ」
「やったー!」
「奥様っ!」
ハンナはイーディスが断るものだと思っていたのだろう。
驚いたように詰め寄ってくる。
「奥様! 貴方様は――」
「店に帰れば、シャンディさんがいる。シャンディさんなら、きっとジンジャーを宥めてくれると思って」
そう言いながら、自分は卑怯だと感じた。
純粋な好意を断るのが怖くて、他の人に責任を転嫁しようとしている。
なんだか、旅に出てから――自分の性格が変わってしまったようで、とても嫌な気分になった。根暗で意地っ張りで臆病者。なんて、最悪な性格なんだろう。どうしてこうなってしまったのか。
前までは、アキレスのことだけを考えていればよかったのに。
不幸なことに(ジンジャーにとっては幸運なことに)、シャンディは店にいなかった。
ジンジャーは嬉々として書置きを残し、床に転がっていたランプを拾うと、洞窟へ向けて急ぎ足で歩き始める。
「ごめんなさい、ハンナ」
「いいんですよ、奥様。いざとなったら、お二人をお守りしますけど……魔物、出ないで欲しいですよねー、本当」
ハンナはそう言いながら、大きく息を吐いた。
イーディスは空を見上げた。
太陽はちょうど頂点に差しかかろうとしている。洞窟に入ってしまったら、時間の経過を把握することが難点になる。だが、夕刻までに帰れば問題ないだろう。
「ここだよ、ここが水晶の洞窟!」
特別、危険な気配は感じなかった。
魔王城の近くで見た、いかにも禍々しい邪悪な空気を噴き出している洞窟からしたら、あっけないくらい普通の洞窟だった。だから、たいして怖くない。イーディスは手近な石をいくつか拾うと、ポケットの中に入れた。
「入ろう、ねーちゃんたち!」
ジンジャーはそう口にしながらも、どこかおっかなびっくりで洞窟に入っていく。
イーディスとハンナはその半歩後ろを追った。背後の光が白い点になって消えていく。そうすると、もう真っ暗になって何も見えなくなった。
「しまった! ランプに油が入ってない!!」
ジンジャーの悲鳴が洞窟の中に木霊する。嫌な予感が的中した。イーディスは肩を落とすと、石を一個とり出した。
「イーディスの名のもとに。光の素よ、進むべき道を照らせ」
石に魔力を込めながら詠唱する。
すると、石は薄い明かりを放ち始める。石を中心に辺りが照らされ、ジンジャーの泣き出しそうな顔やハンナの少し強張った顔が映し出される。
「ありがとう……。ごめんね、イーディスねーちゃん」
「……ま、油の有無を確認しなかった私もいけないから」
イーディスは出来る限り優しい声でそう言うと、空っぽのランプに石を放り込んだ。
「これで、2時間は灯りが持つ。これが消える頃には外に出る。それでいい?」
イーディスが尋ねると、ジンジャーは半べそをかきながら頷いた。
灰色の壁を伝いながら、ゆっくりと奥へ進んだ。洞窟特有のひんやりとした湿っぽい空気が肺に入る。
「それにしても、奥様! さすがですね!」
ハンナが感心したように話し始めた。
「光の魔術って、使える人は一握りだって聞いたことがありますよ! それをぽんっとできてしまうなんて、さすが聖女様です!」
「いやいや、私は石を媒介にしないとできないから」
あはは、と笑いながら答える。
本当の達人なら、先日の閃光魔術にせよ、今回の灯りの魔術にせよ、石など使わずに無から光を作り出すことができる。
たとえば、クリスティーヌが呼び出した光の玉は彼女を護るように宙を浮き、暗い道を照らしていた。同じく、一緒に旅した魔術師が作り出した光なんて、イーディスの顔くらいの大きさの灯りを5時間近く維持していた。
「でも、凄いと思いますけどね……」
「そうでもないですよ。石に魔力を込めるから、普通の倍は魔力を――あ」
ここで、ふと――前方の道が曲がっていることに気づいた。
分かれ道の向こうには、魔物が巣くっていることが多い。
イーディスはやや緊張気味に、腰の剣に手を添えながら道を曲がった。
そして――。