7話
「イーディス・ワーグナーの名のもとに! 風の素よ、我の足場になれ!」
イーディスは詠唱を口にしながら、眼前の空気を払いのけるように、手を前に出した。
これこそ、三度目の正直。
建物の一階部分に差しかかったところで、ふわりと風が足元に集まる。その瞬間までイーディスの身体は地面へ一直線へ落下していたが、風が柔らかい足場となり、落下速度を緩めてくれる。
本来の落下速度軽減の魔術とはいささか異なるし、一緒に旅した魔術師がいたら「それ、違いますよ。クリスティーヌだったら云々」が始まるだろうが、いまは咎める人は誰もいないし、何はともあれ、落下速度が軽減された。ピルスナーの屋敷を抜け出したときとは異なり、足も痺れることなく着地に成功する。
「な、なんだお前?」
突如、上から降って来た少女に困惑を隠せないのか、男たちの動きが止まった。
男たちの動きは止まったというのに、依然として麻袋はもぞもぞと動いている。小動物にしては大きく、大型動物にしては小柄な袋だ。そう、まるで、その中に入っているのは――
「すみません。その袋の中身、なにが入っているんですか?」
おそらく、子どもだ。
それも、いま、この瞬間に拉致されかけている。
イーディスは右拳に魔力を集中させると、男たちの返答を待った。
「見られちまった以上、仕方ねぇな。おい、この女も連れて行くぞ」
「ああ、身体つきは貧相だが、女だし売れるはずだ」
不自然に動く麻袋を抱えた男以外が、それぞれの剣を構える。
どんぴしゃり。彼らは人さらいだ。
イーディスは、すっと目を細めた。
「私、嫌いなものはいっぱいあるけど、人さらいが2番目に嫌いなの」
脳裏に、自分を孤児院から連れ出した神官が蘇る。
人さらいは勝手に他人の運命を決める。それが良いものであった試しがない。
「ふん、知ったことか!」
2人の男たちが剣を構えて突撃してくる。
イーディスは最初の男が振り上げた剣を避けると、身体を屈め、重心が乗っていない方の足に払いをかけた。目の前の男がよろめいた隙に、男の腹めがけて右拳にため込んだ魔力の塊をぶち込む。
もう一人の男は、そのまま横から切りかかろうとしてきた。だが、渾身の一撃を受けて腹を抑える仲間が邪魔で狙いが定まらないのか、迫る速度が緩まる。イーディスは前によろめく男を盾代わりに隠れると、そのまま背中に飛び乗り、男の側頭部に殴った。
「女だからって、舐めないで!」
これでも、聖女として魔王討伐の旅をした身だ。
仲間たちの足元には及ばなかったが、そこそこの実力は身に着けている――つもりである。
2人倒して、残る男は3人。
イーディスは背中から飛び降り、足元に転がる小石を拾った。
「イーディスの名のもとに。光の素よ、閃光となりて我を守れ」
詠唱と共に小石に魔力を込めると、そのまま男たちに思いっきり投げた。
小石はさく裂し、路地裏は目が眩むほどの光で満ちる。ただの閃光魔術ではない。我が身を護るための目くらまし術だ。ゆえに、男たちは閃光をまともに浴びて行動不能になっているが、術者のイーディスは「ちょっと視界が明るいかな」程度で済んでいる。
ところが、この目くらましは数十秒も持たない。
イーディスは急いで男から麻袋を取り上げると、担いだまま路地の奥へと逃げた。
本当なら通りに逃げて、周りの人に助けを求めたかったが、通りから路地の様子を隠すかのように、連中の馬車が止まっている。通りへ走っても、あの馬車につかまったらおしまいだ。
「おい、袋が盗まれたぞ!」
「っくそ、あの小娘が!!」
「すぐに探せ! 草の根を分けてでも、あのガキどもを探し出せ!!」
案の定、路地を曲がった瞬間には、男たちは再起したようで、怒鳴り声が聞こえてきた。
イーディスはもう少し走ってから、無造作に積まれていた樽の陰に隠れた。荒れた息を整えながら、麻袋を開ける。やはり、そこには子どもが入っていた。
年の頃は、4,5歳だろう。ふんわりとした茶色の髪が特徴的な男の子だ。四肢が縛られているのはもちろん、猿轡を噛まされ、大きな緑色の目は恐怖に染まっている。
「ごめんね、すぐに解くから」
イーディスは縄をほどこうとしたが、子どもを縛るには頑丈過ぎる縄で、自分の腕ではびくともしない。ナイフかなにかがあれば別だろうが、それでも、よほど研いだ刃でなければ、切るのに時間がかかってしまうだろう。
「あーもう、短剣も持ち出してくれば良かった」
衝動的に脱走したことを後悔しながら、ひとまず猿轡だけ外す。
猿轡を外すと、男の子はぷはーっと息を吐いた。
「あ、ありがとう。おねーちゃん。ぼくね、遊んでたら――」
「ごめん、少し黙って。走るよ」
派手な足音を立てながら、追手が近づいてくる音が聞こえたのだ。
イーディスが短く言うと、男の子の身体に緊張が走る。こくこくと男の子は首を縦に振った。イーディスは男の子を再び担ぎ上げると、足音とは逆方向――路地のさらに奥へ走り始めた。
さて、これからどうするべきだろうか。
手に武器はない。土系統の魔術を行使すれば、武器を錬成することは不可能ではないが、時間が足りない上に、魔力を大幅に消耗する。武器を手にしたのはいいが、体力不足で戦えませんでは話にならない。
ならば、魔術で応戦するか。
ただ、これも現実的に難しい。
実のところ、そろそろガス欠だ。
もともと、そこまで魔力は多い方ではない。旅と修行のおかげでスタミナはついたが、この戦闘で風の中級魔術と光の上級魔術を使ってしまっている。攻撃力を上げるため、右拳に魔力を貯め込み過ぎたのも大きい。ここに来るまでにも、風の中級魔術を2つ使ったこともあり、魔力はすっからかんだ。せいぜい、あと中級魔術1,2発が限度だろう。
……本当、どうしてこんなに魔力がないのに、聖女に選ばれたのだろうか。神とやらに会う機会があれば、文句の1つや2つ言ってやりたい。
しかし、魔術も難しいとなれば、どう行動するべきか。
そんなことを考えながら角を曲がると、そこは行き止まりだった。自分の背丈よりも数倍高い壁が立ちふさがっている。
「うそでしょ!?」
運がない。
おまけに、足音はどんどん近づいてくる。
「見つけたぞ、あそこだ!!」
ついに、男たちが追い付いてしまった。
行き止まりの出口を塞ぐように立っている。
……そもそも、これだけ路地で騒いでいるのに、誰一人として「なにごとか?」と様子を見に来ないのは、なぜなのだろう。この路地全体が人さらいの縄張りなのか、それとも無関心なのか。いずれにしろ、叫び声か何かを上げて、助けを期待するのは難しそうだ。
「ここで大人しくしてて」
イーディスは男の子に囁き、壁に立てかけるように降ろした。
「なんとかしてみせるから」
3人の男たちの目は真剣で、まったく隙など見当たらない。イーディスは腰を低くし、拳を構えた。武器もない、魔術も駄目だとなれば、わずかに残された可能性は格闘戦だ。ただ、これも勝てるかどうかは微妙な線である。先ほどよりも敵に隙がないし、何よりこちらはスカートで動きにくい。
「本当、神様ってのは、なにを考えているの」
イーディスは薄く笑みを浮かべた。
頭の出来も容姿も平凡で、魔力も少なく、信仰心の薄い者を聖女に選んだだけでは飽き足らず、こうも試練を重ねてくるなんて。
「なにぶつぶつ言ってんだ、この小娘が」
男たちは剣を構え、じわりじわりと近づいてくる。
自分一人なら、突破できる。最初は普通に駆けだし、途中で足にありったけの魔力を貯め、地面を叩くのだ。そうすれば、一時的に相手の虚をつき、この窮地を抜けることができるかもしれない。だが、それをしたら、後ろの子を見捨てることになる。せっかく救おうとしたのに、すべてが水の泡だ。
戦うしかない。
勝ち目がないとしても。
イーディスはごくりとつばを飲み込み、覚悟を固めた。
「お前のせいで、こっちの段取りが狂ってんだよ」
「おうとも。さっさと、そのガキを連れて行かねぇと――」
「誰をどこに連れて行くって?」
上から声が降って来る。
それと同時に、巨大な影が屋根から落ちてきた。影はイーディスの前に降り立つ。その影は……
「ウォルターさん!?」
「なにやってんだよ、イーディス!」
がつんっと一発、頬を叩かれた。
ただでさえ凶悪魔族顔なのに、相当怒っているのだろう。額には筋が幾本も浮かび、口元はひきつっていた。
「まぁ、お前への説教はあとだ。まずは、てめぇらからだ」
ウォルターは男たちと向き合った。
こちらからは表情が見えないが、背中から沸々と怒りが浮かび上がっているのが良く分かる。直接向けられているわけではないのに、殺気で震えあがりそうだ。
「この市で人さらいとは、いい度胸じゃねぇか。覚悟はできているんだろうな、てめぇら!」
その激しい怒りを正面から受けて、正気でいられるはずがない。
先ほどまでの威勢はどこへいったのだろうか。男たちは恐怖でガタガタ震え、腰も引いてしまっていた。
「そ、その角、その耳……まさか」
「あ、兄貴。やばいですぜ。あいつ、あの――」
「うるさい! 数ではこっちが勝ってるんだ。一気に行けば、勝てる!!」
3人は雄たけびを上げながら突撃する。
3対1。しかし、まったく負ける気がしない。
ウォルターは剣を抜くまでもなく、たった拳を一振りしただけで全員を吹き飛ばしてしまった。その荒々しいまでの威力、一緒に旅をした騎士に匹敵する。否、騎士のは洗練された戦法だったが、彼のは違う。野性的で乱雑。彼に一番近い戦い方は、まさしく――
「こ、この、魔族め……」
倒れ行く男の1人が、そう口にする。
ウォルターはそれを耳にすると、容赦なく男の腹に足を載せた。
「誰が魔族だって? オレは人間だ!!」
それっきり、男は白目をむいて動かなくなった。
「殺したの、ですか?」
「いいや、殺してねぇよ」
ウォルターは足をどかすと、こちらに近づいてきた。
「これからいろいろ聞きたいことがあるしな」
荒々しさは残っているが、もう殺気は感じない。彼はイーディスの横を素通りすると、拘束された男の子の前で足を止めた。
「おう、坊主。無事だったか?」
「ウォルターのにーちゃん! うん。そこのおねーちゃんがたすけてくれたの」
「そうかそうか、それなら良かった」
縄を剣で器用に切りながら、ウォルターはにかっと笑った。
相変わらず凶悪極まりない笑顔だ。ぎらりと光る牙が怖い。ところが、その横顔はどこまでも優しくて、明るくて、今まで感じたことのない温かさが胸の内に広がっていくのを感じた。
「ほら、帰るぞ。そろそろ増援も来る頃だ」
ウォルターがそう言うと、路地の奥から何人もの足音が近づいてくる音が聞こえた。
騎士団だ。人さらいを捕まえるため、ウォルターかシャンディが呼んだのだろう。この辺りの騎士団となると、どう考えても、ピルスナー辺境伯の騎士団しかいない。温かい気持ちが、どこかへ吹っ飛んでしまった。
「また、あなたが倒したんですか」
騎士団の先頭に立っていた男が、呆れかえったように言った。
その男の声を聴き、イーディスは顔を伏せる。たしか、辺境伯の屋敷で「執事」と名乗っていた男の声だ。見つかったが最後、屋敷に連れ戻されてしまう。そろり、そろりと、その場から離れようとする。
「いや、3人だけだ。残りの2人は、こいつがやってくれた。……おい、どこに行くんだ?」
しかし、悲しきかな。
ウォルターに呼び止められてしまった。肩をつかまれ、首に手を回らせる。
「もっとしゃきっとしろよ。オレやシャンディに相談一つもしないで飛び出していくなんて、無謀極まりねぇけどさ、お前のおかげで坊主は助かったんだぜ?」
「おや? そちらの方は……」
執事の声に驚きの色が混じる。
バレた。
これは、確実にバレた。早く話を切り上げて、意地でも逃げないとまずい。
「わ、私。すぐにここを出発しないといけないので、これで――」
「なに言ってんだ、イーディス。行く場所がねぇって言ったのは、お前だろ? 安心しろって、この辺りで一番いい宿屋を紹介してやる」
「いいえ、それには及びません」
彼の申し出を先に断ったのは、執事だった。
ウォルターの顔が不思議そうに歪んだ。
「彼女は屋敷にご案内します。ウォルター様」
「……様? え、ちょっと待ってください」
イーディスは困惑を隠せなかった。
なぜ、この辺境伯の執事は、この男を「様」付で呼ぶのか。嘘でしょ?とウォルターに視線を向けると、彼は面倒くさそうに頬を掻いていた。
「……まさか、伝えていなかったのですか、ウォルター様?」
「別に、伝えるような事柄でもねぇだろ。ってか、今日はどうしたんだよ。屋敷に招待するなんて、今までなかったことだろうが」
「……なるほど、そういうことですか」
執事は一瞬呆けたような顔をしたが、すぐに完璧な執事の顔に戻ると微笑を浮かべた。
「紹介が遅れてしまい、申し訳ありませんでした」
執事はイーディスに礼儀正しく一礼すると、静かに、しかし、はっきりと、こう言った。
「彼こそが、ウォルター・ピルスナー辺境伯。
我らの主であり、貴方様の夫になる御方でございます――聖女様」




