34章 現実得ぬ幻想
チルノとブリュンヒルデは、第三次世界へ足を運んだ。
其処は未開拓の自然―――黎明都市や律城世界とは異なり、清々しいような自然に囲まれていて、人間の手に一切触れられていないような端麗さまであった。しかし、其れは雑然として鬱蒼としている。
空を見上げてみると、其処には本来の青空は無く、ただ深紅の濃霧が蒼天を覆い尽くしているのだ。水平線の向こうまでもを、その濃霧は占め尽くしている。見渡す限りの赤に、2人は異常さを感じ取った。
そして其れは、かつて幻想郷で起こった異変に類似していた。―――紅霧異変、確か名前はこう言ったはずだった―――それを意識裡に勝手に思い浮かぶに時間は掛からなくて、チルノは険しい顔を浮かべた。
「―――空が真っ赤だぞ」
「これ、あたい経験したことある」チルノは徐に呟いた。「嫌な予感は正解みたいだ」
「経験したことある、って…第三次世界はそんな物騒な世界だったのか?」
ブリュンヒルデは素っ頓狂な声に至近した、一種の驚きを伴わせた。
しかしチルノは、ただ下を俯いては嫌悪感から逃避しようとしているだけであった。
再三、彼女は天を見上げた。キャンパス一面に、赤いクレヨンで塗りつぶしたかのような光景が目の前に広がっている。居心地の良いものでは無く、何かしらの異変が起きていることは直感でも分かる。
「……此の先に里があって、其処にあたいたちの知り合いがいるかもしれない。兎に角、今は情報収集が大事だよ」
第三次世界出身者の彼女の発言には、信憑が存在していた。
寡黙に頷いただけであったブリュンヒルデは、そんなチルノを先導に後をついて行った。
木々を掻き分け掻き分け、大きな丘に出た一行。其処からは、眼下に広がる里の光景を一望出来た。
ブリュンヒルデは驚いた、と言うのも、里には旧来和式の家々が甍を並べていたからだ。黎明都市や律城世界では決して見ることの出来ないような景色を、今目前としているのだ。
しかしチルノは苦痛以外に何物でもないような感情を鬩ぎあわせている。自分が居ない間に何が起きたのか、みんなは無事なのか、それだけが気がかりで仕方が無かったのだ。
「あたい、何があったのか聞いてくる」
彼女は走りだすように丘を駆け下りて行った。そんな彼女の後を付いて行くように、ブリュンヒルデもまた、小走りの様子を呈しては里へ向かったのであった。
◆◆◆
里はしんと静まり返り、人の気配すら感じさせることは無かった。
一体何故に、どうして喧噪に満ちていた里に誰も気配を感じることが無いのか、チルノは増々不安を膨張させた。家々の扉は締め切ったままで、外の世界を拒絶しているようにさえ見える。
深紅に焼け付く空は、ただ佇んでいるだけで、一種の恐怖性を滲ませている。しかしチルノは、其れに怯える事無く、曾てお世話になった場所へ向かった。其処は、かのユイトをよく世話した場所でもあった。
木製で出来た門戸を開くと、曾ての思い出がふと湧き出るように蘇った。
うっすらと、水彩で描かれた記憶は鮮やかな色を取り戻し、鼻につく懐かしい臭いを嗅いでは過去を髣髴とさせた。しかし、敷き詰められた畳の上に置かれた木机の幾つかは粗雑に置かれているだけで、誰の姿も視えなかった。
チルノはその部屋を訪れると、一番奥の教壇に一枚の白紙が落ちていた。右手で掬い上げると、殴り書きで書かれた文字の羅列が存在していた。チルノはその文字を目で通した。
直感で、書いた人物の表象がぼんやりと浮かんだ。雑に書いてあっても、文字の撥ねや払いを忘れない丁寧な精神、一番身近にいた人物―――大妖精だ。あくまで仮象、憶測や偏見の域を出ないが、そう確信した彼女は紙を懐の中に突っ込んだ。
―――――妖怪の山の麓の洞穴で待ってるよ、チルノちゃん
そうとだけ書かれた内容を理解したチルノは、後ろで柱に靠れ掛かっていたブリュンヒルデに、行こう、とだけ伝えた。
「知り合いさんは此処には居ないみたいだね…しかし、こんな和風な建築様式をまじまじと観察するのは初めてだ。私自身とて律城世界出身だから、新鮮味を感じるね」
「此処は寺子屋と言って、向こうの世界で言う学校の役割を持っているんだ」チルノは簡潔に説明した。「でも、幻想郷は人間以外の種族も多数存在するから、防衛手段や生活手段と言った根本的な事も勉強したりするんだ」
「へぇ」ブリュンヒルデは感心したかのような声を上げた。「そういやお前も確か、妖精だったか?」
「うん。あたいは妖精、自由に空を飛びまわることも出来るっちゃ出来る。だけど幻想郷だけみたい」
彼女は自身の能力を用い、ブリュンヒルデの前で実演しようとした。
しかし、身体が重力に引っ張られてるような感じが否めなく、彼女の前での実演は失敗に終わったのだ。
飛べてないじゃん、とだけ揶揄われたが、チルノは顔を真っ青に染めては、何度もチャレンジした。しかし、幾度もの試しも無駄に終わってしまう。悲壮に近い感情を浮かべる彼女に、ブリュンヒルデも何かを察した。
「―――飛べない。なんで、どうして」
「まさか、本当に飛べるのか?」まともに受け止めていない彼女の本音が心配性によって放たれた。
「能力主義の幻想郷、飛べる人もいるんだ。あたいもその一人。しかし飛べないのはおかしいよ…」
彼女は絶望にひし暮れた。そんなチルノの真面目な反応に、ブリュンヒルデもおふざけを外し、真剣に洞察した。矢張り、何か裏が潜んでいるに違いない―――そう考えるほか、あり得なかった。
空を覆う一面の紅霧、能力の喪失―――先程話した事を今になって思い出したブリュンヒルデは、起き上がっては一つ舌打ちを入れ、状況を呪った。
「カイアスか―――」
そうブリュンヒルデが言った時、チルノは少しの間だけ下を俯き、現実たるものの非道さを鑑みては、すぐに頭を持ち上げた。そして走りだすように次なる場所へ向かったのだ。
突然に駆けだした彼女に腰を抜かすブリュンヒルデ。そんな彼女は、走り行くチルノの背を追いかけながらも何とか質問した。
「ど、何処へ行くんだ!?」
「手紙に書いてあった場所―――洞窟に行く!付いてきて!」
こういう判断性は、あちこちで「無謀」と称されるのがオチである。
何も考えていない、無鉄砲な―――。しかし、この時ばかりは彼女の行動に無謀なんてものは存在しなあった。勇気とは魂が持つ一種の忍耐強さそのもの、行動も忍耐を経た上での無謀は勇気になるのだ。
チルノは家々の前を駆け抜けた。疾風迅雷の如し勢いで、何物をも歯牙に掛けない威勢で。
この姿勢こそ、彼女の勇気の体現そのものでは無いのか。ブリュンヒルデは何処かで彼女の信念を受け止めた。
◆◆◆
妖怪の山には、文字通り妖怪が多数生息している。
人間を喰らうバケモノが多く集まる場所で、人間にとって見れば魔界みたいな場所である。しかし、そんな物騒な山が人間の里から対して離れていないのが何たる皮肉であろうか。
彼女たちはそこまで行くに時間は掛からず、木々の中を掻き分けて行くと、やがて大きな洞窟が登場する。先は真っ暗で、何も中の様子は確認できないが、何処か声がする。改めて耳を澄ませると、何やら燥ぎ立てる子供の声を把握した。
「―――此処にみんなが集まってるのか?」ブリュンヒルデは過呼吸になりながらも聞いた。
「多分。裏付けに声が聞こえる。今はこの状況の顛末を知りたいよ」
そう彼女が言った時、そのまま洞窟の中へ足を踏み入れた。
外とは違って、中は冷ややかな空気が肌に付く。足音が洞穴内に呼応すると、先程まで聞こえた元気そうな声はぴたりと静まり返って、何も無い空間へ変化してしまう。
それでも奥へ足を運ぶと、やがてうっすらと、暗闇の中から人影のようなものが視界に映えた。岩肌は非常に冷めていて、鳥肌も立つぐらいの寒さであるが、そんな中にわざわざ身を潜めている理由は何だろうか、そう考えていた彼女の前には見覚えのある顔があった。
そこに在ったのは、人間の里で暮らしていた人間たちや、寺子屋に通う生徒たちの群像であった。
しかし、突然に姿を見せたチルノを警戒しているようで、「誰だ!」と言う勇ましい声と共にチルノの前に立ちはだかった人物がいた。
「け、慧音先生…!?」チルノはそう、立ちはだかった人物に問うた。
「……お前はまさか、チルノ?」相手は疑心を払拭し、なだらかな声に変えた。
すると、彼女の後ろで隠れていたであろう子供達が一斉に飛び出しては、そんな彼女を歓迎したのだ。
かつてユイトを虐めていた男の子の集団も、敵対していたチルノの帰還には素直に喜んではいなかったが、内心は喜んでいたのかもしれない。仲の良かったルーミアたちの元気そうな顔もあったのだ。
チルノは安堵した、と言うのも、何が起きたのかさっぱり分かってない幻想郷で、とかく友人の生存が確認出来たからだ。
そんな彼女らに、後続のブリュンヒルデを紹介した。最初はそんな彼女を警戒していたが、チルノの言葉もあって信じてくれることになった。紹介も兼ねて、洞窟の中を案内される。
「そういや、大ちゃんは?」
「大ちゃんは奥に居るよ。きっとチルノちゃんの帰りを聞いたら喜ぶと思うよ!」ルーミアは元気そうに発言した。
「それにしてもチルノ、お前が無事でよかった。お前が居なくなってから、幻想郷には様々な事が起こってね。向こうでじっくり話そう、みんながお前の帰りを待ってる」
慧音にそう言われ、洞窟の中を案内される2人。
中は入りくねっていて、やがて炎の光が見えてくると、其処には懐かしい顔立ちがあった。
洞窟の中でも、一段と大きな広間。天井も高いその場所には、椅子や机が押し並べれている。
松明の明かりがあちこちに設置される中、馴染みのある顔が幾つも発見できたのだ。
「―――チルノちゃん」
「大ちゃん、帰ってきたよ」
遠くで、彼女の帰還を最初に気づいた声があった。―――大妖精だった。
親友とも言える存在を、彼女は咄嗟に気づいてくれたのだ。チルノは再会を一入に喜んだ。
おかえり、と言ってくれた。素直に再び会えたことを喜び、尊び、そして抱き合った。
やがて大妖精のほかにも、妖怪の山で暮らす妖怪たちの出迎えがあった。その中に居た鴉天狗こと射命丸文は、そんな彼女の帰還に心を躍らせている。
「文、あんたも此処に居たのね」
「まあ、そりゃあそうですよ!私だって避難したくなくとも避難させられたんですから…。詳しく話しますから、まずは腰掛けて下さいよ」
◆◆◆
流石は情報通の鴉天狗なだけあって、この次第の顛末を早口調で流暢に話していく。
チルノの隣に座ったブリュンヒルデは、背中に黒翼を生やす存在に会えたりと興奮が止まないが、興味津々な自身の本音を抑えて、彼女の話に耳を傾けた。
彼女の席には慧音やルーミア、大妖精も同席しているが、何処か大妖精は暗い顔をしている。
「此処に訪れて気づいたと思いますが、この燃えるような空の赤。あれの原因は紅魔館に居るレミリアが元凶です」彼女は淡々と話していく。
「レミリアは、ある日突然に此の世界の仕組みを知ったかのような素振りを見せたんです。やがて霊夢や魔理沙と言った有力人物を自身のメイドとして雇い、何かを画策していたのが以前の話です。
その画策とやらが、『ハルト・デリート』と呼ばれるものの力の吸収―――確かそうだったはずです。
ハルト・デリートとやらが何を示す語彙なのか、それは私には分かりません。しかし、レミリアはハルト・デリートの事を『幻想郷の萬物の化身』と表現していました。恐らくは、この世界の頂点に立つつもりです」
「ハルト・デリート…!?」ブリュンヒルデが驚いた仕草を見せる。
「其れは一体どういう事なの、文…!」チルノはそんな彼女へ問いかける。
「そのハルト・デリートとやらが、どのような物かは想像もつきません。しかし、其れを利用して悪巧みをしているのは事実です。耳に聞いた話ですが、霊夢さんや魔理沙さんがメイドとして雇われた時、何処か嫌な感情を見せていた―――つまりレミリアに逆らえなかったのではないか、と言うのが今現在の最もな憶測です」
「其れほどまでにレミリアは強くなった…」
「と言う事だと思われます」文は深く思索しながらも、チルノの意見を肯定した。
「あと、私たちが此処に避難している理由ですが、第一は私たちの能力が全て常体の人間に統一されたと言う事です。飛行能力は当たり前のこと、本来の受け持つ力さえジャックされたかのように使えなくなったんです。その事はチルノさんもお気づきだと思われますが…。
……第二が厄介でして。抵抗能力が皆無になった私たちに、銃器を持った武装兵たちが押しかけてきたんです。何とか里の全員は逃げきれましたが、今でも外で奴らがうろついている…そう考えるとゾッとします」
文の言葉を聞いて、ブリュンヒルデは一つの答えに達した。
メテオ計画で利用されようとしている世界の、未だに発見されぬハルト・デリート。能力が喪失し、抵抗さえ出来なくなった存在を脅す武装兵。にべもない襲撃に身を震わせ、洞窟へ避難する住人。
明らかに誰かの介入が存在している―――そう偏見ながらも考えた彼女は、気になった事を質問した。
「…ハルト・デリートの場所が何処か、分かるか?」
「ハルト・デリートですか…」文は困惑しながらも、必死に類推した。「やはり空の赤も考えて、紅魔館あたりに在るのでは無いのでしょうか…。……確証は持てませんが」
此処で口を開いたのは大妖精であった。
彼女は意を決したように、チルノに向かって言ったのだ。大妖精が動きを見せた時、座っていた慧音が眉を潜め、悲しそうな面を浮かべたのをチルノは見た。訃報か、或いは嫌な予感をさせる―――そう勘付いた。
「…ごめんね、チルノちゃん」大妖精は最初に謝罪を入れた。「ユイトが、その…居なくなっちゃったの」
彼の件に、大妖精は重く感じていたのだろう。
涙さえ見せた彼女であったが、その責任感の重さにチルノはただ茫然と前を向いたままであった。
慧音はそんなチルノを括目した。彼女はまるで事の始末を知っているかのような眼で、虚ろに、そしてため息交じりな顔を浮かべていたのだ。
「―――ユイトは、居る」チルノが言った時、大妖精はハッとして顔を見上げた。「そして、アイツが全ての元凶だ」
「げ、元凶…!?」大妖精は何処か怖くなってチルノに聞き直す。
「多分、此の世界に起きてる事象が他世界と関係あると言うのなら、アイツが元だと思う。ユイトは外の世界で騒動を起こしている。そして、アイツは…力を得た」
「そういう事だったのか…」慧音が全て辻褄が合ったかのように言った。「あいつ、お前が居なくなってからと言うもの、訳の分からない単語を一人呟くようになったんだ。パーフェクトワールドだの、みんなが笑えるような世界だの…。何かに憑かれたかのようだった」
「パーフェクト・ワールド…零神主義の第一定義だったな」ブリュンヒルデは付け足すように話した。「新たなる神を作り、似非の平和でも作りだす。やらない善よりやる偽善に近い、平和慈善だ。しかしその正体は…」
「闇が渦巻くおどろどろしい世界そのもの…」チルノは続けるようにして発言した。
「酷いですね。何が"おどろどろしい世界"なんでしょうか」
唐突に響いた、重厚感を持った謎の声。
広間に居た人々は不思議と為って周囲を見渡すも、其処に目だった存在は無かった。
しかし、それは一瞬にして打ち砕かれることと為った。突如、空気を染色しては姿を見せた、1人の人間。
何処かで見たことのあるような顔―――そう思った時、其処に居たのは1人の青年だった。チルノより背丈が高い、若い顔立ちをしている彼は、机を囲むようにして座るチルノたちを睥睨しながら言ったのだ。
「忘れ去られた戦争で、多くの民は犠牲を持った。その所為で人生観を狂わされた我々の悲愴は重く圧し掛かる。―――そんな我々に手を差し伸べたユイト様を侮辱するなんて。また戦争でも起こす気でしょうか」
「あんたは誰よ!」チルノの尖った言葉が彼に向けられた。
「私はアンラ・マンユ。零神主義運動団体、レティスギアの広報部で働いてます」彼は自己紹介をするように言葉を並べた。しかし其処に在ったのは、邪悪に近い正義論だ。「私共々、この第三次世界に派遣されてる身でして。何か声が聞こえると思えばコレですからね」
「コレって何だ、お前らは自分らが一体何をしてるのか分からないのか!?」ブリュンヒルデが必死に論駁する。
「聖戦、ですよ」彼はさらりと言った。「平和を作り出す為の、愚者を戒めさせる最後の聖戦」
「これは聖戦なんかじゃない」慧音が口を開く。「残酷な欲望渦巻いた異変だ」
「異変とは到底言い難いですね。我々は異変を起こしているのでは無く、平和を作り出そうと努力しているんです。その努力を水の泡にしようとする反逆者は―――此処で死んで貰いましょうか」
彼が右手を挙げると、洞窟の外から大きな足音が聞こえてきた。
やがて悲鳴さえ耳に入るようになると、洞窟の中に武装兵たちが沢山入って来たのだ。
恐怖さえ浮かべる避難者に、ただアンラ・マンユは笑みを繕うだけであった。マシンガンを構え、顔さえ見えないほど深く着る甲冑を纏う彼らが牙を剥いたのだ。
チルノとブリュンヒルデも忽ち、そんな彼らに囲まれてしまう。苦い顔を浮かべる解条者に、青年はさぞご満悦だ。
「これはユイト様の考えに従ったまで…」
ここで彼の懐が揺れたのであった。懐の中にあったのはスマートフォンで、すかさず出ると、相手はユイトであったのか急に改まった様子を見せた。はい、はいとしか言葉を言わないのは、自身をへり下っている為なのか。通話を終え、スマホを懐に仕舞うと、左手を上げては兵士たちを撤退させたのだ。
唐突な撤退にチルノたちは猜疑さえ持ったが、彼はぶつぶつと呟くように言い放った。
「今、ユイト様から話があった。…お前らを殺すのは零神主義の教条に反すると。心優しいあの方の命令に免じて、許しましょう。しかし今度会ったら只じゃ済まさない。それだけは覚悟しといてくださいね。それに、私としたことが、"本来の目的"と逸れてしまったのがいけませんでした。
最後に一つ、教えてあげましょう。この空の深紅は紅魔館と言う場所に住む吸血鬼、レミリアがハルト・デリートの力を利用して起こしたものです。彼女は想いのままに世界を操ろう―――そう考えているようですね。
私たちは此れから紅魔館たる場所を襲撃し、ハルト・デリートを奪還します。我らが救世主、ユイト様の手に回帰させる為に」
そう言うや、彼は忽ち空気に身を溶かしては消え去った。
◆◆◆
薄気味悪い感情だった。
彼が何事もなかったかのように立ち去った後、ユイトの名を出していた事実に気づいた慧音たちが、行方不明のユイトの実情を知って、落ちこみに近い嘆きをしていた事に、チルノは居心地が非常に悪かった。
元来、確かに虐められていた哀れな子であったが、このような形で再び名を聞くことになるとは夢にも思わなかったであろう。
しかし、何がユイトを其処まで引き付けるのか。零神主義の実態が未だに掴めないままであったチルノは、彼の真意を探る事を決心した。その真意こそ、此の世界の行く末を案じられる唯一不二の方法であるからだ。今や、彼は三世界を揺るがす存在に成り上がっている。
だが、此処で何時までものさばっている訳にもいかない。
チルノは立ち上がるや、彼の言う紅魔館に行こうと決意したのだ。それとてブリュンヒルデも同じ考えであった。だが、その意向に慧音と文は消極的な顔を見せた。
「…あそこは最早、我々には立ち向かえないほどの力を持ったバケモノが居る住処です。到底敵う訳…」
「そんな事、やってみてから言うんだよ」ブリュンヒルデは怯える文に勇猛果敢に言い放った。「最初から諦めていたら、何事も始まりさえしない」
「だったら、私も途中まで付き合わせて貰えない?」此処で提案したのは慧音だった。彼女はチルノとブリュンヒルデの顔を順番に見てから、徐に言った。「もうすぐ此処の食料が無くなりそうで。外に居る奴らに襲われたら一たまりも無いから、さ」
慧音を含めた3人で、外へ出る事になった一行。彼女らは一切の恐怖心を払い捨て、この異変を解決する威勢を持って前へ進んだ。友人に早い別れを告げると、絶対に生きて帰ってきて、と不安ながらも信頼の言葉を口にされ、彼女はそれに頷いて反応した。
慧音曰く、食糧庫と言うものが在り、まだ洞窟内に在庫は存在するが予備の為に補充しておきたいという。その食糧庫を経由して紅魔館へ行くのに、霧の湖の畔を通るのが最適らしいのだ。
幸い、霧の湖でチルノは友人たちとよく遊んだのを覚えているため、鮮明に記憶が蘇ってくる。
「あそこだ」
霧の湖の湖畔に鬱蒼と茂る木々の中、木造の高床式の食糧庫が淋しそうに存在していた。
慧音は独り走って行くように駆け抜けたが、途中で大きな水飛沫の音と共に彼女は腰を抜かしてしまった。改めて音のした咆哮を見た彼女らであったが、其処には歪な顔をした巨大な蜥蜴のような生き物が、獲物を見つけたかのような鋭い視線を浮かべては慧音を睨みつけていたのだ。
普通なら、本来持つ力で戦えたところ、不幸にして力は奪われている。予定調和のように、ただほくそ笑むような仕草さえ見せる蜥蜴は、湖面から身を乗り出して襲い掛かろうとしている。
そうはさせまいと、此処で慧音を守るように立ち塞がったのはチルノ達であった。
2人は武装しては戦う意向を示したが、ブリュンヒルデはとある事実に気づいた。それは、大蜥蜴の腹部に付けられた謎の紋章であった。
「あのロゴシンボル―――アクシス・オーバー社!?」ブリュンヒルデは一驚しながら発言する。
「どうもしっくり来なかったんだよね―――あたい、こんな生物初めて見たから」チルノは舌打ちしながらもルインタイプライターを抜刀した。「律城世界が派遣した生き物か何かだよ。丁度いい、叩き潰すまで!」
「確かノックスウェル…そんな名前の実験生物を新流潮のスクープ記事で見た事あるな」彼女は深く思索しながら言う。
「チルノ、お前に倒せるのか」慧音はおどけた口調で彼女に問う。昔から無鉄砲な性格が心配をさせる。
「倒せる倒せないの前に、倒さなかったら食われちゃうからね!やるっきゃない!
◆◆◆
ノックスウェルと称された怪物は、まず最初にチルノに食い付かんとした。
しかしルインタイプライターの一撃を蒙らせた彼女に、蜥蜴は怯んで隙を見せた。此処でブリュンヒルデの拳銃の弾が何発か頭部に入り、赤褐色に似た色の血を流すのを確認した。
それでも蜥蜴は腹を空かしているのか、尻尾で一気に薙ぎ払いに掛かったのだ。
「なっ…!?」
突発的な一撃を頬に蒙り、遠くへ吹き飛ばされてしまう2人。
頬に深紅を浮かべるも、痛みを何とか忘れて武器を構える。立ち直りは早かったが、ノックスウェルの次の攻撃もまた、素早かった。
今度は忽ち噛みつきにかかったのだ。それを見極めることを遅れたチルノは、何とか身さえは守れたものの、ルインタイプライターの刀身を噛みつかれ、一向に離れようともしない。
「厄介だな…!離れろ、こらっ!離れてよぉぉ」
此処で助太刀に入ったのはブリュンヒルデで、彼女はノックスウェルの眼に銃弾を撃ちこんだのだ。
右目を射貫かれた蜥蜴はすぐさま怯み、ルインタイプライターを離す。この隙に何とか取り返すも、蜥蜴の唾液が刀身に付着し、切れ味が粘液によって蝕まれてしまう。
近くに在った湖で何とか流し落とそうとするチルノは、その要旨をブリュンヒルデに伝えた。
「今からルインタイプライターを急いで洗うから、応戦お願い!」
「分かった!」
彼女の願いを引き受けたブリュンヒルデは、果敢にも襲い掛かってくるノックスウェルに1人で応戦した。
拳銃で、口を大きく開けては被り付かんとする時に口内を射貫く。狼狽え声を幾度も上げるが、一切身を引くことは無く、それでもブリュンヒルデに襲い掛かった。
此処で大蜥蜴は一旦湖に、飛び込むようにして身を隠し、再び飛びかかるようにしてブリュンヒルデに襲い掛かった。
「しぶといな…チッ」
舌打ちを一つした彼女は、拳銃で左眼に狙いを定めて、そして引き金を引いた。
それは見事狙い通り左眼を射貫き、ノックスウェルは射貫かれた鳥のように堕ち、釣られた魚のように地上で跳ねている。
ここで洗い終わったチルノが、前代未聞のチャンスを窺い、そしてルインタイプライターで一気に斬りかかった。一撃だけでは無く、斬り刻まれるように剣戟を放ったのだ。
姿形さえ見えない疾風怒濤の勢いでルインタイプライターを振るうチルノは、最後に華麗な一撃をお見舞いしては、ルインタイプライターを背中の鞘に納刀した。瞬間、ノックスウェルは多量に出血し、そのまま静かに息絶えたのであった。
「終わり!―――こんなの、あたいたちの敵じゃないね!えっへん!」
◆◆◆
「ありがとう、此処まで送って貰って」
「まあ、あたいたちは最強だからね!!」
慧音はノックスウェルの死骸を傍らに佇む2人の顔を見ては、頭を下げた。
照れるような顔を浮かべるチルノは本心喜んでいて、ブリュンヒルデも其れをしっかりと汲み取っていた。
これから何処へ行くのか。其れははっきりと決まっていて、慧音はその事も踏まえて2人の武運を祈った。
「此れから、紅魔館へ行くんだろう。気を付けろ、ただならぬ気配を感じる」
「分かってる。でも、あそこへ行かなければ…あたいたちの目的は達成されないし、異変も解決しないからね」
「そうだな。…チルノ、行くか」
ブリュンヒルデはチルノにそう呼びかけるや、慧音は最後に2人の手を握っては、帰って来い、とだけ言った。2人もまた、有無言わずに頷き、帰って来ることを約束したのだ。
慧音に手を振られ、見送られながらも歩いて行く。やがて木々を抜け、大きな平原に出ると、向こうに深紅の煉瓦で作られた巨大な館が見えた。空の深紅は其の館の煙突らしき場所から放たれており。原因が其処に或る所以を掴むことが出来た。
確信した以上、踵を返す事は出来ない。確固たる意思を胸の内に秘め、チルノたちは前へと歩いて行ったのであった。




