7章 グラビティ・ゼロの暴走
視界が開けた先には、彼女が知ることの概念を外れた別領域の世界が広がっていた。
彼に連れられた場所は深淵庁と思われる建物の内部である。其処では、多くの人たちがパソコンを打ち込む姿が見えた。
それに一番驚くべき点は、皆が皆、男と同じ黒いシルクハットに黒いスーツ服、黒洞々とした外套を纏っていた点だ。
男女構わず、暑苦しそうな服装を纏っていた彼らは画面に依然として睨み顔を浮かべている。
すると、彼女と共にいた男は一言、帰ってきたと伝えるや否や、その場にいた全員が急に起立しては、右手で敬礼して見せたのである。
彼らの視界に映った、幼さが否めない少女の姿に困惑や戸惑いが生じていたが、男は毅然たる態度で望んでいた。
「―――チルノ、紹介しよう。彼らが深淵庁で働く職員一同、捜索機動隊の面子だ。
お前の存在を永らく待ち詫び、律城世界メタトロンへの反逆の糸口の切り札となろうお前に、彼らは期待を抱いているのだ」
彼女はそう言われた時、自身に対して向けられた敬礼に何処か新鮮さを感じたのであった。
彼女は何処か内心、心情の興奮が収まらなくなりそうで、不意に笑顔が浮かび上がっていた。
其れは幻想郷と言う檻に閉じ込められていた、1人の氷精なら仕方のない感情だったのかもしれない。
「ようこそ、深淵庁へ!…君が噂で聞く、チルノちゃんかな?」
敬礼していた彼らの中から搔い潜っては2人の前に姿を現したのは、彼女と同じ背丈ほどの少女であった。
白くサラサラの髪の毛を靡かせては、笑顔を作って優しく接する。
チルノも無論、そんな彼女に好感を持てた気がした。
男と同じ、黒いシルクハット云々の正装を纏っており、顔は少しばかり流汗が垣間見せる。暑さの恩賞だろうか。
「…あたい、チルノ」
「ふふ、そうだよね。…チルノちゃん、怖がらなくていいんだよ。何たって、私たちはチルノちゃんの仲間だよ!
―――私の名前はセーラ=オルハ。セーラって呼んでくれたら嬉しいよ!」
天真爛漫に振舞う彼女は、重々しい服装ながらも彼女に親和的に自己紹介した。
多少声が高いが、其れは少女の生まれ癖だろうか。氷精と呼ばれる彼女に右手を差し伸べ、笑顔で立ち振る舞っていた。
対するチルノも笑顔を浮かべ、右手を差し伸べては握手した。セーラの掌は柔らかく、御淑やかな感覚が伝導する。
セーラ自身は氷の能力者である彼女の手は冷たいため、背筋が一瞬震えた。
だが、彼女は全く嘘偽り無しに振る舞う。明朗快活、とは当に此の事を言うのであろう。
「セーラ、ちゃん…」
「ふふっ、ありがとっ!私ね、チルノちゃんと握手した時、冷たかったから吃驚したよ!
もしかして、なんかジュースでも飲んだ後だった?…セーラね、ちょっと驚いた!!」
「…セーラ=オルハ主任、立場を弁えろ。…彼女は凍てつきの能力者だ」
チルノの横に突っ立っていた男はそう忠告するや、セーラは下を俯いた。
彼女は落ち込むセーラの右肩に手を掛け、心配そうな面を浮かべると彼女は笑ってくれた。
本当に純粋無垢で、一切の苦りや滲みを知らないのであろう。
「…へへっ、チルノちゃんは氷の能力者なんだ!…凄い能力だね!」
眼を輝かせて述べるセーラに、男は溜息混じりに呆れていた。
チルノはセーラと接していくうち、彼女が非常に良い人物に見えた為、何時の間にか笑顔を作っていた。
不愛想な男とは対照的に、彼女は接していくうちに好感を覚えていったのである。
セーラもまた、元気に話す解条者を友人のように接し、共に笑顔を作っていた。
話すうち、幾分か経過して尚、会話は一向に止まず、敬礼している彼らも草臥れそうになっていた。
「―――チルノ、セーラ主任。話はもう終わりだ」
「…わ、分かったよ。…チルノちゃんはとっても優しいのに、貴方は優しくない…」
「優しくないって決めつけるのは結構。しかし、律城世界の侵攻を阻止出来ないなら其れは結構じゃないな」
「…数分話しただけで、そうやって世界がどうやらこうやら…。…酷いよね、全く」
セーラは男に指摘を受け、口を尖らせては管を巻き、遂には彼女に同情を乞うた。
全く以て世界云々の話は分からないが、取りも敢えず首を縦に振った。
彼女の同情に、セーラはいい気になったのか、男に不平たれた顔を浮かべ、男は苦々しい顔を相反的に浮かべた。
「…まぁ、話はここまでかな。…ホントの事を言うと、私が此処の主任を任されてるの。
今まで解条者探しに苦労してたけど、見つかってホントに嬉しいし、喜ばしいことだよ。
―――此処に何時まで居たって、仕方ないか。…外に行こうよ、私が案内してあげる!!」
◆◆◆
黎明都市フィッツジェラルドが展開する世界観は、彼女のいた幻想郷とはまるで相容れないものであった。
車が走り、電車が駆け抜け、巨大なビル群の合間を多くの人々は歩いて行く。
茫然としていた彼女に、セーラは一から十まで教える。易しい説明で、彼女にとっても簡単に理解出来るものであった。
やがて2人は深淵庁を出てから、まるで親友になったかのように腕を組み合い、馴れ合いながら歩んでいったのである。
深淵庁の建物の外観は周囲と比肩して大きい、ガラス張りのビルであった。
セーラは慣れた感覚で彼女に説明を施し、チルノは黎明都市の公共性を理解し、設備を覚えた。
太陽が燦爛と照る中、道半ばに置いてあったベンチに2人は腰かけ、談話を始めた。
「…この世界は、チルノちゃんが住んでいた世界とは違って、"科学"が主流なんだよね。
科学は人に幸せを与えると同時に、人に恐怖を与える。…誰でも使える、恐ろしい力でさ。
チルノちゃんの住む世界は能力性と言って、誰もが能力を使える訳じゃない。でも、科学は誰でも使える。
―――人に啓蒙させ、人としてどうあるべきなのか、科学は教えるんだ、私たちに」
「…じゃあ、みんな科学が使えるから、みんな強いって事なの?」
「科学を使役出来る人は、ごくわずか。…みんな、科学が怖いんだよ。
―――以前、この世界で戦争があってね。…聞いたことある?」
「…聞いたことあるよ。蒼穹而戦争ってやつでしょ?」
彼女はセーラの問いに対し、自信満々に答えるや、セーラは頷いた。
しかし、彼女はとても重たそうな顔面を浮かべ、終始悲嘆しているかのようであった。
話していくうち、彼女は重々しい過去をその口で述べた。チルノもまた、胸が痛くなる思いであった。
「…蒼穹而戦争は、律城世界メタトロンって世界が私たちの世界を攻撃してきたんだ。
あの日、私は覚えてるよ。私はその日、家にいてさ。…お兄ちゃんの帰りを待ってたんだ。お夕飯、作ってさ。
でもね、あの日は…お兄ちゃんから電話が掛かってきてさ、言ったんだよ。
―――いいか、セーラ。絶対家から出るなよ、いいな!!
そう言われた時、私は怖かったんだ。…すっごく。
…何時もはすっごい優しいお兄ちゃんが、急に怒鳴り声を上げて。…私、その時泣いちゃって。
―――私、何言ってるんだろう。あはは…」
彼女は涙腺を静かに描き、過去の追憶に更けていた。
黒いスーツ服に、雫の一滴が落ち、また一滴が落ちていく。あの日の事を、彼女は永遠に記憶していた。
チルノは重苦しそうな彼女の、何処か辛辣な話を聞いていくうち、何時の間にか寄り添ってあげていた。
若干、冷たさが感覚に残る。しかし心は何処か暖かくなっていくのを、セーラは右手を胸に充てて理解した。
「…あたい、戦争とかさ、そう言うのは知らない。でも、あたいの世界でも色んな人が戦い合ってた。
紅い霧が立ち込めたり、地震が起きたり…。…言っちゃえば、枚挙に遑がないよ。
多くの人が傷つけ合い、そして嗤い、泣いて…。……でも、あたいは誰かに寄り添ってあげられる人になりたい。
人が戦うのは、一種の理性のように記憶され、どう足掻いても逃れられない。だけど、あたいは…」
「…チルノちゃんは、ホントに優しいんだね。セーラ、嬉しいよ。
蒼穹而戦争は、2つの世界で多くの人が死んじゃった。多くの人が、泣いた。…私もその一人だったんだ。
お母さんとお父さんが、戦争の犠牲になっちゃってさ、死んじゃったんだ。
でも、チルノちゃんの言う通りだと思う。人は争う事をやめないんだ。其処から多くの悲しみが生まれるのを他所に、一部の人が笑うんだ。
…アリスノート・ノエル・フィンランディア……チルノちゃんと同じ解条者だからって、多くの人を陥れたんだ、彼女は…。
―――アイツの所為で、私のお父さんやお母さんは死んだんだ。…私は、セーラは、…赦したくない」
その時であった。
突如、車の流れが混乱し、道路の中を巨大な掘削機が暴走していたのである。
何処かの工事で際していたものであろう、深紅の二本腕の先に回転するドリルが附属された、堅牢なる機器。
其れが2人の前に無理やり現れるように姿を見せては、巨大な腕のドリルを向けたのだ。
中では操作室みたいなものがあり、其処にいた1人の男性が急いで脱出していくのを2人は見た。
操作放棄しても尚、掘削機は暴走を続け、2人はすぐさま立ち上がっては怪訝な顔を浮かべた。
機械は黄色のボディを太陽に輝かせており、淡々とドリルを回転している。
しかし掘削機は2人を視認したのか、右腕の巨大なアームで一気に叩きつけてきたのである。すぐさま反応したチルノは、茫然としていたセーラを押し倒し、攻撃を辛うじて回避した。
先程まで座っていたベンチは潰され、今や藻屑の塊となっている。
「…あ、ありがとう、チルノちゃん」
「セーラちゃん、一体何が起きたのかな!?」
「分からないよ……」
しかし、掘削機はそんな2人にも追撃を仕掛けんと身体の向きを変えた。
すぐさま立ち上がったチルノは自身の能力で氷の剣を作り出すや、掘削機と対峙した。
自動運転で動く掘削機は剣を構える勇猛果敢なる少女をセンサーで捉えた。
周囲は車が玉突き事故の連続が発生し、辺りは炎などが舞い上がっているが、周囲の人々は掘削機と対峙する1人の少女と、かの有名なセーラのツーショットを異端に思っていた。
やがて掘削機はそんな2人に襲い掛かろうとするが、チルノは怯え震えるセーラに急ぎでに口走った。
「セーラちゃん!逃げて!此処はあたいが何とかするから、早く!!」
「う、うん……!!」
セーラは離れ、遂に掘削機と対峙して見せる解条者。
黄色いボディは頑強さを醸し出し、彼女に畏怖さえも押し付ける恐ろしさが存在していた。
しかし、彼女は決して背を向けない。自分自身に襲い掛かってきたのなら、対抗してやるまでだと言う意思が其処には存在していた。
多くの人に、そしてセーラに心配の眼差しが向けられていたが、彼女はそう言われて足を引く性分では無かった。
掘削機に恐れず、止めて見せると言う意思。其処には、明確に其れが存在していた。
「―――あたいが相手だ!!」
◆◆◆
掘削機は重たいドリルの腕を振り上げた。
その瞬間、彼女は回転回避して攻撃を避け、機械の間隙を窺った。
重機の一撃は地面を舗装するコンクリートをも易々と粉砕し、粉々にしてしまう。
「…チッ、なんか弱点さえあれば…!」
彼女は余る動きづらい機械の弱点を活用し、全力で重機の周囲を疾走した。
彼女を追いかける重機は遅い動きで身を回転させていたが、その隙に彼女は剣で斬りかかった。
だが、重機の装甲は極めて硬く、剣の攻撃さえ寄せ付けない。寧ろ、氷の剣に罅が入る程度だ。
重機はその間にも彼女をセンサーで視認し、一気に腕を振り下ろしたのである。
「うわわっ!」
彼女は咄嗟に腕振り下ろしを回避する。其れも、ほんの数秒の差と言う僅差で。
剣を構え、ただ重たい図体を活かして腕を振り下ろすだけの単純行動である事に気づくや、すぐさま彼女は機械の前に出た。
掘削機はそんな彼女を絶好の機会と捉え、狙いを定めて腕を振り下ろした。
だが、彼女は口元に笑みを浮かべるや、其れを待っていたかのようにジャンプしては、振り下ろされた腕の上に乗ったのである。
腕は堅牢な鋼鉄製で、掘削機はそんな彼女を振り下ろそうとするが、其れは不可能であった。
そのまま、彼女を捉えていたと思われるセンサーを見つけては、彼女は一気に剣を突き刺した。
その瞬間、掘削機は視界を失い、更なる暴走を開始した。
「チルノちゃん!…そいつを止めるには、操作室の赤いボタンを押すんだって!」
「わ、分かった!」
彼女はすぐさま操作室に飛び移っては、内部へ侵入した。
椅子の前には多くのレバーやボタンが設置されており、彼女を振り落とさんと重機は遅い速度で左右に揺れる。
しかしチルノは全く重機の足掻きを受けず、セーラに言われたがままに赤いボタンを捜す。
案の定、其れは右足元の近くに存在していた。
「止まれ!!」
彼女がボタンを指の腹でしっかり押したと感覚を得た時、掘削機は静かにシャットダウンしたのである。
◆◆◆
「―――止まったよ」
勇猛果敢たる勇者は、操作室から顔を出し、周囲の人々に其れを伝えた。
セーラは彼女の行為を称賛し、褒め称え、大きく手を振っては笑顔を浮かべていた。
「やったねチルノちゃん!止まったよ!」
「うん!」
彼女はそのまま地面に降り立ち、改めて今まで相手をしていた重機を見渡した。
掘削機は先程までの威勢のよさを失い、反省したかのように佇んでいる。
そして、1人の人物は彼らの前に姿を見せては、深々と頭を下げたのである。
「弊社の重工掘削機グラビティ・ゼロが本当に申し訳ございません……」
やがて関係者と思われる人たちが集まり、重機暴動問題に際して責任を取るとその人物は口を開いた。
そして、重機を止めた1人の英雄を、彼らは褒めたたえたのである。
黎明都市フィッツジェラルドで起こった、とある事件の一角である。
◆◆◆
「いやー、凄いねチルノちゃん。セーラね、乗り込める自信無いよ」
「あたい、みんなを守らなくちゃって使命感に駆られてさ。…昔から、そう言う性格なんだ。
人一倍、そう言う事に敏感でさ。多少、空回りしていたとこもあった。でも、あたいは其れをいいって思ってる。誰かを守るに、損は無いからね」
そう彼女が述べた時、セーラは彼女の言葉に何処か感銘を受けた気がした。
心に突き刺さるような発言。其れは、誰もが笑顔でいて欲しいという純粋な気持ちの表れであったのかもしれない。
チルノは剣を空中に溶かしては、目の前に大きく佇む深淵庁のビルを見据えた。
ビルは天高く聳え立っており、彼女の知らない世界にまで通じてそうな気がした。
すると、セーラの懐が震えた。…彼女はスマホを取り出し、画面を展開する。
幻想郷出身で、全くこういう事も知らないチルノであったが、セーラに色々教わったため、基礎は身に着けていた。
相手は深淵庁の、不愛想なあの男であった。
「―――セーラ、戻れ。解条者に、武器を渡したい」
「とうとう出来たのね?…じゃあ、チルノちゃんを連れて行くから待ってて」
簡単にあしらうや、笑顔を浮かべてチルノに報告した。
男が言っていた、"渡したい武器"…其れを脳裏に思い出しては、彼女は唖然とした。
そして、何処からか不意に喜びが漏れだしたのである。科学を駆使して使ったであろう、解条者の武器が。
「急いで取りに行こうよ!セーラちゃん!」
「うん!」
2人は仲良さそうに、そのまま駆け足で深淵庁へと向かった。
天高く太陽は燦爛としているが、何処か黎明都市ではおかしくなっているのを、2人は頭の片隅にさえ思い浮かべずにいた。