宮本栞の取引
取引開始まで残り十分。取引場所と思われる駅の真下にあるロッカースペースには、既に宮本栞が待機していた。
十分前行動を信念としている栞は、取引相手を待つ間、不安に陥る。この場所は本当に取引場所なのか。取引時間は間違えていないのか。取引相手の特徴は藤岡から聞いていたが、どんな人物なのか。
初めて出会う藤岡以外の暗部の人間。それが危険な男ではないかと彼女は思っている。
それ以上に奇妙なのは、初めてこの場所に来た時に出会った不良が、全くこの場所にやってこないこと。この場所は不良たちの溜まり場になっているはずだった。何かがおかしいと考えていると、ロッカースペースに黒いスーツの前を黒色のスーツを着た男が通過する。一瞬栞の瞳に映ったその男は、サングラスで両目を隠している。藤岡が言っていた取引相手の特徴に似ていると彼女は思った。
その男は周囲を見渡すと、栞がいるロッカースペースへと侵入した。
宮本栞は取引場所に現れた男を凝視する。黒色のスポーツ刈りに長身の体型。サングラスからスーツまで全身を黒で統一していて、ネクタイの色は赤色。
この男が取引相手なのかと思っていると、男は突然スーツのポケットから拳銃を取り出す。それを見て栞は思わず身震いする。初めて実物を見たそれは、本物なのか。咄嗟に考えるが、それは分からない。
男は栞に銃口を向けている。目の前にいる男から殺気を感じ取った彼女は、スタンガンを相手に見せた。スタンガンで相手を制圧できるとは考えられないが、何もやらないよりはマシではないかと考えた末の行動だった。
その行動を受け、男は白い歯を見せ笑う。
「勇気があるな。スタンガンを使ってハンドガンを持っている俺と戦うとは。唯一の武器がそれだってこともあるんだろうが。その勇気を称えて、合格にしようと思う。ギリギリだが、合格に変わりない」
言っていることの意味が分からないと栞は思った。拳銃を持つ相手と対峙したことから生じた恐怖から一歩も動けない栞が目を丸くしていると、目の前にいる人の服装と同じ男達が三人、ロッカースペースに現れた。
この段階で彼女の思考回路は追いつかなくなる。取引相手と思われる服装の男が四人も現れたのだから。それは無理のないことだろう。
「何が起きているのか分からないって顔をしていますね」
同じ髪型に同じ服装。ネクタイの色さえ同じだったら、識別できない。四人の男達の内青いネクタイが人差し指を立てながら、きょとんとした栞の顔を見る。
「ハッキリ言うと、取引なんて最初からなかったんですよっと」
変な口調のピンクネクタイの男に続き、彼の隣にいる黄色いネクタイの男が補足する。
「実際の取引同様、取引場所の周囲一キロ圏内に仲間を張り込ませ、邪魔者が取引場所に潜入しないかを監視させてるっす」
「続きは近くに停車させた車の中で話そう」
「信用できるの?」
警戒心を強める栞が四人の男たちに尋ねる。それに対し男達は一斉に腹を抱え笑う。
「失礼。まさか一人でこの場所に来たのに、今更取引相手のことを疑うなんて想定外でした。そろそろ行きましょうか」
そうして青色のネクタイの男は拳銃の銃口を栞の頭に近づける。
「歯向かったら殺すってこと?」
栞が脅えながら尋ねる。
「ああ。そういうことになるな。その前にゲストを呼ぼうかな」
赤色のネクタイの男が腕を組むと、栞のスカートの中にあった携帯電話が震え始めた。
「電話に出ろ。その代り妙なことを言ったら撃ち殺す」
緊迫した空気がロッカースペースに流れ、栞はスカートから携帯電話を取り出す。頬から汗が落ち、携帯電話を開くと藤岡さんという文字が映る。通話ボタンを押すと、彼女に取引を依頼してきた男の声が聞こえて来た。
『久しぶりだな。お嬢ちゃん』
なぜこのタイミングで藤岡が電話してきたのか。その答えが分からず混乱する宮本栞は、首を傾げる。
「どうして藤岡さんが電話してきたのですか?」
『取引相手のことを信用しないだろうと思ったからな。この黒服の男達はお嬢ちゃんの仲間だ。こっちの世界の親代わりの俺が言えば信用できるだろう。そういえば、あの男達のワンボックスカーは五人乗りだったな。黒服の男たちもゆっくり話がしたいだろうから、自宅まで送ってもらえ。俺からは以上だ』
たった一言だけ告げた藤岡は一方的に電話を切る。だが栞は半信半疑の状態から抜け出せない。ここにきて信用できる藤岡の発言が聞けたが、まだ信用するには値しない。
それから数秒後栞の四方が、拳銃を構えた四人の男達によって囲まれる。
「俺たちと一緒に来るか。ここで死ぬか。好きな方を選べ」
いつの間にか逃げ場を失った栞は唇を噛む。ここは男達と行動を共にして、それでも危険と判断したら最終手段を実行する。そんなつもりで彼女は男達に囲まれ、ロッカースペースを後にする。
人通りの少ないロッカースペースを右に曲がり、一直線の通路を通過した先にある歩道に沿うように、一台の黒いワンボックスカーが路上駐車してある。赤色のネクタイの男が自動車の鍵穴に鍵を刺し、ドアを開け助手席から体をスライドさせながら、運転席に座る。それに続き青色のネクタイの男が助手席に腰を落とす。
黄色いネクタイの男が後部座席のドアを開け先に乗り込むと、栞は黄色いネクタイの男とピンクのネクタイの男に挟まれるように座らされる。この状態では逃げ出すのも難しいと栞は考えたが、まだ最終手段が実行できるという考えが頭を過り、自信がある表情を作る。
それからワンボックスカーのハザードランプが消え、自動車が走り始める。
車内で早速青色のネクタイの男がサングラスの位置を調整しながら、話を切り出す。
「あなたを自宅まで送ります。それまで話をしましょうか。今回の取引の目的は、試験だったんですよ。あなたがあの暗号を解読して、私たちの前に現れたら合格。それとは別に私たちがあなたを監視して、暗部でも生きることができると判断できたら合格。そんな試験です」
「それではUSBの中身は……」
栞が目を丸くして尋ねると、隣に座っていた黄色いネクタイの男が代わりに答える。
「ただの書類ファイルっす。その口調だとザドキエルの指示に素直に従ったってことっすね」
「素直な女の子と一緒に仕事できて幸せですよっと」
黄色いネクタイの男に続くようにピンクのネクタイの男が発言する。その後で栞はジド目でピンクのネクタイの男を見た。
「先程から気になっているのですが、その変な語尾は癖ですか? 聞いていて少しイラつくのですが」
「ご名答。あれは癖だ。ネクタイの色と口調で個性を出さないと、誰が誰だか分からないだろう」
赤ネクタイの男がハンドルを握りながら笑う。脱線した話を元の戻すため、青色のネクタイの男が咳払いする。
「話を戻しましょう。私たちは夏休みが始まる前日。ザドキエルがあなたに暗号を渡した直後から、監視を続けてきました。スタンガンに内蔵された発信機と盗聴器を使い、常の行動を監視したり、通行人に混ざって尾行したり」
「発信機と盗聴器」
まさかあのスタンガンにそんな物が内蔵されていたとは。栞は全く疑っていなかった。
それ以上に驚いたのは、知らない間に関しされていたこと。衝撃の事実に驚いていると、続けてピンクネクタイ男が口を開く。
「入浴中や着替えの場面は聞いていませんよっと」
「発言を慎め」
交差点を右折するためにハンドルを切りながら赤ネクタイが注意する。それを受けピンクは肩を竦めた。
「その反応だと、やっぱり監視に気が付いていなかったようだな。この車で自宅前を張り込んだりしていたんだが。初心者だからそこは多めに見るが、不良相手にスタンガンで制圧した所は評価に値する」
運転手が褒め、助手席に座る男は後ろを向きながら、本題を話し始める。
「私たちはあなたを暗部の脅威から守るために結成された暗殺のプロです。依頼人の指示通り、あなたをお守りします」
「依頼人って藤岡さん?」
栞は男の話を聞き思ったことを口にする。だが男達は一斉に首を横に振った。
「書類上はそうっすけど、真実は違うっす。本当の依頼人はお嬢ちゃんの本当のお父さんっすね。親心としてボディーガードを付けようって考えだと思うっす。あっ」
黄色いネクタイの男は説明を終わらせると、何かを思い出したのか自分の口を両手で塞ぐ。
「アウト」
他の三人の男達が一斉に口を開いた頃、信号が赤に変わり、自動車は停止線の前で停まる。何のことかと栞が考えていると、赤色のネクタイの男が補足した。
「最初にお嬢ちゃんって言ったらアウトだってルールだっただろう。罰として娘に缶ジュースでも奢れ」
どうやら男達の間で謎のゲームが行われていたことを栞は察し、思わず目を点にする。
「依頼人は私のお父さん。彼のことが知りたいのですが」
この男達なら何かを知っているのではないかと思い、栞は男達に尋ねる。
「ウリエルのことっすね。活動資金調達を主に行う支部の最高幹部っす」
「余計なことを言わないでくださいよっと」
ピンクネクタイが注意すると、黄色ネクタイは反省したのか、額に手を置きしょんぼりする。
「反省するっす」
「もう一つ気になっていることがあります。あなたたちが私のことを守るというのは分かりましたが、あなたたちのことを何と呼べばいいのですか?」
栞は人差し指を立て尋ねる。その後でハンドルを握った赤ネクタイが、彼女と視線を合わせず答える。
「鴉って呼べばいい。個人ごとの呼び方は自由だ。俺たちにはコードネームがないからな」
「それでは鴉さんって呼びます」
「これからも監視を続けますが、気にしないでください」
青ネクタイが告げた頃、ワンボックスカーは宮本栞が暮らすマンションの前で停車する。
「ここでいいか。次会う時、黄色が缶ジュースを用意する。また近いうちに会おう」
赤ネクタイの話に首を縦に振りながら聞いた後で、栞はワンボックスカーから降りる。それを目撃した人はいない。走り去る黒色のワンボックスカーを見送りながら、栞は自宅へと戻った。
自称暗殺のプロたちが宮本栞を守るとすれば心強い。鬼に金棒だろう。しかし彼女は暗部の仕事について何も知らない。具体的な活動内容が不明な状況にあることに彼女が気が付いている。
目標が漠然としている。この状況を何とかしなければならないと考えながら、一歩を踏み出すと、マンションの出入り口から見覚えのある男が躊躇なく出て来た。ベージュのスーツの初老の男性。その男は藤岡だった。
なぜ藤岡は、栞が住むマンションから出て来たのか。栞は疑問に感じ彼に声を掛けようとする。しかしそれよりも先に藤岡は栞の視界から消えていた。
栞は彼を追いかけることができず、そのまま自宅マンションのドアを開けた。また探偵事務所に行けば、藤岡になぜマンションに立ち寄ったのかを聞けると栞は思った。
だがそれを聞く必要はなくなる。玄関のドアを開けた先には、宮本一輝が立っていた。
「栞ちゃん。まさかあの探偵の所に行っていたのか。俺に黙って、あの探偵と関わっていたのか!」
一輝は怒っている。普段彼は矢継ぎ早に質問しない。そのことを察した栞は疑問を口にする。
「探偵って藤岡さんのことですか?」
「そうだよ。あの探偵は栞ちゃんの本当のお父さんと関わりのある危険な男で……」
「それは分かっています」
「だったらあんな奴と関わるな。もう一つの世界のことを知ったら、平和な生活が崩壊する。だから俺は接点を断ち切るために尽力してきたんだ」
一輝は暗部のことを知っている。全てを察した栞の表情は暗くなり、彼に告げた。
「手遅れですよ。私はあの世界の住人になっていますから。そんなことより、教えてくれませんか。先程藤岡さんとマンションの前ですれ違いました。多分この部屋で一輝叔父さんは藤岡さんと話したんでしょう。その時のことやお父さんについて隠していること。全てを教えてください」
一輝は一瞬驚き、右手を額に置く。
「分かった。全てを話そう」