宮本栞の犯行
「ここじゃない」
宮本栞はデパートのロッカースペースの前で深いため息を吐いた。そのデパートのロッカーの数は六十個で、音も響いていない。この場所は暗号文に合致しない。
これまで彼女は街中のロッカースペースを手当たり次第に訪れた。しかしどこも暗号文と条件が合致しない。
偶然ロッカーの数が四十八個の場所があったとしても、音が響くという第二の条件と一致しない。
取引開始まで残り三日。それまでに取引場所を特定しなければならないが、それがどこなのか彼女には全く見当が付いていなかった。
そもそも四十八個の箱が示しているのがロッカーだという自分の推理が、間違っているのではないかとさえ思ってしまう。
こんな時こそ原点回帰。取引日を特定した時と同じように、頭をリセットさせ簡単に考えてみる。
普通取引は人目を避けるはずという一般人の価値観が頭に浮かぶ。ということは、取引は人通りが少ない場所で行われるのではないか。そのように考えた彼女は手にしていた手提げかばんから街の地図を取り出した。
人通りが少ない場所は、防犯上危険な場所と言い換えても構わない。その場所に普通の女子中学生が乗り込むのだから、相当の覚悟が必要だろう。人通りが少なければ、誰かに助けを呼ぶことさえできない。こんな時こそ藤岡から受け取ったスタンガンの出番だと考えた栞は、ハーフパンツのポケットの中にあるスタンガンを握った。
それから彼女はデパートのロッカーの前で地図を広げ、考え込む。その間彼女の周囲を多くの買い物客が通り過ぎていった。その中には全身黒ずくめの服装にネクタイの色を奇黄色にした男もいる。その男はロッカーの前に佇む栞の顔を見ると、周囲の買い物客たちに混ざり二階へと続く階段を昇った。
そのことに気が付かない栞は目で地図を追い、手提げかばんから筆記用具を取り出し丸印を付ける。
人通りが少なくて、ロッカーがありそうな場所。尚且つ音が響きそうな場所は一つしかない。駅の真下にあるロッカースペース。そこなら列車の走る音が響くのではないかと彼女は思った。
栞はそこが条件に合致するのかを確認するため、駅へと向かう。栞がデパートの自動ドアを潜り、東の方向へ歩き始めた頃、デパートの駐車場から一台の黒いワンボックスカーが発進した。
「あの方向は駅ですねっと」
自動車の助手席に座るピンク色のネクタイを身に着けた全身のコーディネートを黒で統一した男が、ノートパソコンを膝の上に置き、画面を見つめる。
その横の運転席に座っている青色のネクタイの男がそれを覗き込むと、彼は白い歯を見せた。
「やっと気が付いたのかもしれませんね。先回りしましょう」
青色のネクタイの男の意見に、ピンクネクタイの男は反論しなかった。間もなくして青ネクタイの男が運転するワンボックスカーは、駅へと向かう。
駅の真下にあるそのスペースにロッカーが設置してある。白色の壁に埋め込まれたロッカーしかない四畳ほどの広さがあるこの場所は、人通りが少ないためか栞が訪れた時には誰もいなかった。この場所はこの街に住んだことがある人しか知らない穴場スポットでもある。
ロッカーの数は四十八個。おまけに防犯カメラまで設置されていない。これで何かの音が響けば、この場所が取引現場ということになる。そんなことを考えていると、人が来ないはずのスペースに柄が悪い不良高校生たちが数人彼女の前に現れた。
「何だ。俺たちの溜まり場に女が来ているぜ。ちょっと遊んでやろう」
不良グループのリーダーらしきリーゼントの男の呼びかけで、回りにいた仲間たちが栞の周囲を囲む。
宮本栞は完全に不良グループによって逃げ場を失う。その様子をロッカースペースの出入り口の壁の前に張り付いたピンクネクタイの男が見ている。
男は小声で隣に立つ青色のネクタイの男に尋ねた。
「助けますかっと」
「その必要はありません。この程度のことを処理できなかったら……」
青色ネクタイの男が何かを言いかけた頃、宮本栞は瞳を閉じ、ポケットの中からスタンガンを取り出した。それから彼女はスタンガンのスイッチを入れ、先から流れる電流を直に見る。
それと同じタイミングで不良たちが一斉に中心にいる栞との距離を詰める。
「ちょっと俺たちに付き合えよ。お嬢……」
リーダーの声はここで遮られる。宮本栞は透かさずリーダーに近づき、彼に首筋にスタンガンを当てた。それによってリーダーの体に電流が流れ、彼はその場に倒れてしまう。
「なるほど。一撃ですか」
藤岡が言っていたことが正しいと納得していると、不良たちは栞に対して殴りかかる。
「お前。俺のリーダーに何をしやがった」
栞はその攻撃を避ける。不良たちの攻撃はなぜか遅く感じられた。隙を見せた不良たちの体にスタンガンをお見舞いさせると、一分程で無益な戦いは終わりを迎える。
彼女のフィニッシュを飾るかのように、列車が走る音がロッカースペースに響いた。
宮本栞は確信する。この駅の穴場ロッカースペースが八月十一日午後一時に行われる取引の現場だと。
やっと全ての暗号を解読できた。宮本栞は安堵した表情を浮かべながら、帰路に着く。
いつものように通行人が行き交う歩道を歩いていると、彼女の身に異変が起きた。
「えっ」
全身に凍り付きそうな悪寒が走り、体の震えが止まらない。なぜか足が異常に重たく感じる。
あの時、栞は不良たちをスタンガンで気絶させた。あれが正当防衛なのは、分かっている。あの時は無我夢中でスタンガンを振り回し、男達を失神させた。しかしそれが彼女にとって生れて初めての犯罪行為だとしたら。
幾つもの考えが頭を過り、宮本栞は理解する。あの瞬間、宮本栞は犯罪者になったと。
この震えの正体が罪悪感だとしたら。スタンガンで不良たちが感電死したとしたら。様々な悪い考えが浮かび、彼女はその場に立ち尽くす。
すると突然背後から誰かが栞の右肩をチョップした。
「大丈夫か。栞さん」
彼女の背後に立っていた新田隆宏が、栞の前方に回り込む。そのタイミングで栞の横を通過する車道から、一台の黒いワンボックスカーが走り去った。
新田は歩道上でなぜか震えている宮本栞のことが気にかかり、彼女の顔を覗き込む。
「何があった。大丈夫か」
「大丈夫。少し体調が悪くなったみたいで」
宮本栞は咄嗟に嘘を吐くことしかできなかった。犯罪者になったことを彼は困惑するはずで、暗部の存在を知らない彼に事情を説明しても理解できない。
「珍しいな。栞さんが体調不良なんて。毎日健康に過ごしているのが取り柄だったのに」
「私だって人間だから、体調不良になりますよ」
「それだったら俺がお前の家まで送ろうか。そんな感じだと無事に帰宅できるか、こっちまで心配になる」
「ありがとう」
栞は優しく微笑み感謝の意を新田に伝えると、そのまま彼の隣を歩き、自宅へと帰る。
しばらく彼の隣を歩いていると、体の震えが消えていった。その瞬間宮本栞は理解した。
新田隆宏の隣を歩くとなぜか安心する。汚れてしまった自分のことを忘れさせてくれる。それほど新田隆宏は宮本栞の中で一番大きな存在になっている。
これが恋というのか。宮本栞には理解できない。ただ新田隆宏という同級生が、栞にとって大切な存在になっていることだけは分かる。
そんな彼の横顔を見つめていると、彼は頬から汗を落とす彼女の顔を見る。
何かがおかしい。あの日から彼女は変わってしまった。彼女が何をやっているのか。彼は散々調べたが、真相には辿り着けない。幼馴染として彼は彼女のことを気にかけている。
幼稚園から一緒に過ごしてきた彼女が、何をやっているのか。何を悩んでいるのか。宮本栞の全てが気になってしまう。
これが恋というのか。新田隆宏には理解できない。ただ宮本栞という同級生が、隆宏にとって大切な存在になっていることだけは分かる。
沈黙の空気が流れながら、二人が暫く歩いていると、突然宮本栞は新田隆宏に尋ねた。
「新田君。もしも私が殺人事件の容疑者になったら、どうしますか?」
質問の意図が分からないと新田隆宏は思った。
「珍しいな。栞さんが突拍子もない質問をするのは。もしそうなったらどうするのか。俺にも分からないが、信じると思うな。栞さんが人を殺すわけがないって」
少々臭かったかと新田隆宏は恥じ、彼女がドン引きしていないか一瞬栞の顔を見る。だが彼女はドン引きどころか安心しているようだった。
「良かった」
「その言い分だと、まさか殺人事件の容疑者になったというのは事実かよ」
「だから仮の話だって言いましたよね」
「そうだよな」
宮本栞の言葉を信用した新田隆宏は、そのまま彼女の隣を歩き、宮本栞を自宅へと送り届ける。途中二人の横を自動車が走ることもあった。その時は車道側を歩く新田隆宏が自動車を避けるため、隣を歩く宮本栞の方へ体を近づける。自分から自動車から守ろうとする彼の仕草に、宮本栞は思わず赤面した。
そうやって宮本栞は新田隆宏に付き添われ自宅へと戻った。玄関のドアの前で栞は新田と顔を合わせる。
「新田君。今日は送っていただき、ありがとうございました。体調不良は寝たら良くなりそうなので、心配しないでください」
栞は新田に対して頭を下げ、自宅の玄関のドアを開けた。それから彼女はドアを閉め、一輝に帰宅したことを伝え、そのまま自分の部屋に籠った。そして彼女はベッドの上にダイブする。
その頃新田隆宏は宮本栞が暮らすマンションを見上げながらため息を吐く。
「夏祭りまで残り三日。また誘えなかったな」
その日の夜、マンションの一室に四人の男が集まった。その男達の服装は、全員黒色のスーツを着ている。室内であるにも関わらずサングラスで瞳を覆っている男達。見た目での違いは、それぞれネクタイの色が違うことのみ。
机を囲むように立っている男達の内、赤色のネクタイの男は机の上に一枚の写真を置く。その写真に映っているのは、中学校のセーラー服を着て通学路を歩く宮本栞。カメラに視線を合わせていないことから、隠し撮りされたものだろう。
「やっと彼女は暗号を全て解読したようだな。残り三日。ギリギリ合格と言ったところか」
「そうですね。中学生にしてはよく解読できたと思いますよ。偶然現場に居合わせた不良グループも一分で制圧したようですし」
青色のネクタイを身に着けた男が赤色のネクタイ男の顔を見ながら拍手すると、彼の右隣りにいた黄色のネクタイの男が深刻な表情を浮かべる。
「厄介っすよね。その不良たちがあの女に襲われたと証言したら、警察が動くっすよ」
「その心配はありませんよ。被害者は全員処分しましたから」
青色ネクタイの男のサングラスの奥にある瞳が光り、空気が凍り付く。それに対して赤色ネクタイの男がサングラスの奥から仲間を睨み付ける。
「許可は受けたんだろうな」
「もちろん。全員爆弾が設置された牢獄に監禁しています。今頃爆弾が爆発している頃でしょう。あの不良グループのリーダーを殺してほしいっていう依頼もあったから、一石二鳥ですよ。仲間まで巻き添えにしたけど、対象が容疑者にならないよう配慮しましたから」
「あまり関係ない奴を殺すなよ。無差別テロは絶対にやらない。それが組織のやり方だ」
「反省しています」
青色ネクタイの男が頭を掻くと、彼の左隣にいたピンクネクタイの男が呟く。
「それよりも対象の友人が厄介ですねっと」
「ああ。色々調べた所、あの男は対象のことが好きらしいっす」
「その報告だったら俺も受けている。彼女から笑顔を取り戻すために積極的に対象と関わろうとしている。その過程で暗部の存在を知られてしまったら厄介だな。対象には悪いが、早い段階で消した方がいいかもな」
男たちが代わる代わる宮本栞の友人について話していると、青ネクタイの男が突然右手を挙げた。
「ここは見逃しませんか。表舞台の接点がないと、面倒なことになるでしょう。対象もあの男のことが好きみたいですし」
「両想いかよ」
ストレートに伝えられた事実に男達は驚く。
衝撃の事実も去ることながら、男達は三日後に控えた取引の段取りを再確認する。
そして迎えた八月十一日。正午丁度に昼食を済ませた栞は一度自分の部屋に籠り、藤岡から渡されたスタンガンとUSBメモリを握る。一時間後、彼女は初めての取引を体験することとなる。