宮本栞の不穏
「やっぱり分かりませんね」
翌日宮本栞はベッドに横になりながら、暗号文が書かれた紙を電燈で照らしてみる。二番目の文章の意味から、何とか最初の文章に隠された暗号を解読したものの、それ以上のことが分からない。それは電燈で紙を照らしたとしても変わらない。
高校入試の勉強は相変わらず終わっていないが、夏休みの宿題はもうすぐ終わろうとしている。彼女は暗号解読の合間に気分転換として宿題をやっていた。最近では暗号解読の時間より宿題に取り組む時間の方が増えている。それだけ彼女は暗号解読に手間取っているのだった。
そもそもあの暗号は中学生向けではないのではないかとされ、彼女は思ってしまう。
蒸し暑い室内のベッドの上で手足をバタつかせ、栞は悩み続ける。
彼女は考えてしまう。暗号を難しく考え過ぎているのではないかと。栞は一度頭をリセットさせ、再び暗号文と向き合った。これまで栞は漠然と暗号を解こうとしていた。あの暗号文には、日付と時間と取引場所が記されている。そのことに気が付いた彼女の頭に、突然一つの知識が浮かぶ。それを確認するため、栞は一輝に図書館に行くと告げ、手提げ鞄にノートと筆記用具を詰め自宅を飛び出す。
その道中、栞は図書館までの道のりを走りながら考えた。文脈から察するに『音の響く四十八個の箱の前で待っている』という文章は取引場所を示しているのだろう。それがどこなのか彼女には分からない。
問題はもう一つある。それは図書館で確認すれば取引の時間が分かるが、その日付がいつなのかが分からないということ。取引日と取引場所が不明。この状況は過酷だと栞は思った。そんな彼女は藤岡の言葉を思いだす。
「夏休み期間中に行われる取引に関する説明は終わりだ」
その言葉にヒントが含まれていたとしたら。唐突にそのような考えが栞の頭に浮かび、彼女はアスファルトの歩道に立ち止まる。
「答えは7月か8月」
「何のことだ」
突然宮本栞の背後から男の声が聞こえた。その男は優しく栞の右肩に触れる。驚いた栞は咄嗟に左手で男の手を強く握り、後ろを見て男の顔を見る。
そこにいたのは新田隆宏で、栞は肩を落とした。
「何ですか。新田君」
「そんなに驚くことないだろう。この辺を散歩していたら、偶然栞さんを見つけたから近づいただけなのに」
「それならどうして私の肩に触ったのですか。突然女の子の体に障るなんて、変態のすることですよ」
「そこまで言わなくていいだろう。それで何の答えが7月か8月だって」
「推理クイズの答えが7月か8月かっていうことです」
少し強引だったかと栞は思ったが、隆宏はそれに納得したように腕を組む。
「そうか。ところでどこに行くつもりだ」
「少し図書館の用があったので、図書館に行こうかと」
「そうか。俺も暇だから一緒に来ていいか。どうせ勉強するのなら、図書館で教えてもらった方が、成績が上がる気がする」
「構いません」
新田はその一言に喜び、思わずガッツポーズを見せた。
宮本栞と新田隆宏が楽しそうに会話する様子を遠く離れたビルの屋上で、双眼鏡越しに一人の男が見ていた。その男の服装は黒色のスーツに黒色のサングラス。ネクタイの色は赤色。
「ギリギリ赤点の四十点といったところか」
男が呟くのと同じタイミングで、男の携帯電話が鳴る。男がそれを耳に当てると、別の男の声が聞こえた。
『対象は図書館に向かうつもりらしいっす。何か友達らしき男と一緒っす』
「それは分かっている。その様子はしっかりと見たからな。お前は尾行を続けろ」
『了解っす』
男は電話を切り、再び双眼鏡に映る宮本栞の姿を見て、白い歯を見せた。
二人は一緒に歩きながら図書館へ向かった。栞は図書館に到着するなり、すぐに本棚へと足を進める。幾つもの本棚を通り過ぎ、彼女は立ち止まり、ある本に手を伸ばす。『暦の歴史』と書かれた本を手にした彼女は、机のある席に移動する。そうして席に座ると彼女は本のページを進めた。
「やっぱり」
小声で呟き栞は開かれたページに目を通す。
『古来人々は今で言う時間を十二支で表した。現代で定着した幽霊が出る丑三つ時とは、午前二時三十分を表している』
その本のページには丁寧に、現代の時間と昔の時間の対応表まで書かれている。
「これで一つ分かりましたね」
小声で呟き彼女は手提げ鞄からノートと筆記用具を取り出し記した。
『馬が示すのは馬の刻。現代で言う正午のことで、羊の刻は現代で言う午後二時のこと。その間は午後一時』
深くため息を吐くと、新田隆宏が席に座っている栞に近づいてきた。
「栞さん。こんな所にいたのか」
新田が机の上に広げられたノートを覗き込むように見る。それに対して栞はノートを閉じた。
「見ましたね」
「悪い。何が書いてあるかが気になった。それで何を書いていたんだ」
「秘密です。勝手に私の体に障った罰として、ここに百科事典を持ってきてください。は行が書いてある奴でお願いします」
「今更それかよ」
新田は小声で突っ込みを入れると、彼女の指示に従い百科事典が並ぶ本棚へと向かった。
一分ほどで新田は栞がいる机の上に百科事典を置く。
「約束通り持ってきた。こいつで何を調べる」
「秘密です。新田君は私を一人にしてください。調べごとに集中できません」
「静かにしているから、栞さんの近くにいていいか」
新田が頼み込むと、栞は小さく首を縦に振る。
「構いません」
宮本栞は新田のことを無視して、百科事典を開く。
『八月。英語のAugustは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスに由来する』
それが『最初の皇帝』を示しているとしたら取引が行われるのは八月ということになる。
そのことに気が付いた栞は近くの席に座り自分の顔を見つめている新田に近づく。
「新田君。もう一度百科事典をここに持ってきてください。カ行からナ行までの四冊にマ行の一冊。合計五冊程です。もちろん私も二冊持ちます」
「分かったよ」
そうして栞はハ行の百科事典を手に持ち、隆宏と共に百科事典が並ぶ本棚へと向かう。
それから二人は目的の百科事典を手にして机のある席へと戻った。
その後で栞は虱潰しに百科事典のページを捲る。五分ほどで彼女は目的のページを見つけた。
『木曜日。英語の Thursday は、北欧神話の神トールが由来である』
二冊の百科事典で暗号解読が進展した。この二つの知識を合わせて導きだされた暗号文の答え。最初の文章の謎が解けた彼女は頬を緩め、百科事典を元の本棚に戻した。一方の新田は同じように三冊の百科事典を彼女と共に返した。
調べごとを済ませた栞は、そのまま自宅へと帰る。いつものようにマンションの階段を昇り切ると、彼女の目に一台の黒色のワンボックスカーがマンションの前に停車しているのが見えた。だが栞はそのことを気にせず、自宅の玄関のドアを開ける。
彼女は一輝に対して帰宅したことを伝えると、すぐさま自分の部屋に籠る。図書館に行ったことで彼女は暗号解読の手がかりを得ることができた。
それを確信に変えるため彼女は机の上に置かれた卓上カレンダーを見る。
最初の皇帝と二回目のトール。最初の皇帝は八月の英語名の語源を意味している。トールは木曜日の英語名の語源を意味している。つまり最初の文章の答えは、八月と二回目の木曜日。
二回目の木曜日。即ち八月の第二木曜日。それが取引日だとしたら。栞は八月のカレンダーを目で追う。
「八月十一日木曜日」
推理に自信を持った彼女は『馬と羊の間』という暗号の答えと最初の暗号を合わせた。すると八月十一日木曜日午後一時という取引時間が浮き彫りにされる。
残る謎は『音の響く四十八個の箱の前で待っている』という暗号文のみ。この文章の中に取引場所が隠されていると栞は考えたが、暗号解読の糸口が掴めそうにない。
そんな彼女の頭に藤岡からのヒントが浮かぶ。
「取引現場は、この街のどこかというくらいしか言えないな」
おそらく取引場所は暗号文と合致する場所ではないかと栞は思った。
「とりあえず人海戦術で取引場所を探すしか方法はなさそうですね」
宮本栞は明日から忙しくなると思い、深いため息を吐いた。
その頃栞が一輝と共に暮らしているマンションの前に、停車していた一台の黒いワンボックスカーが発信した。動く車内には、黒色のスーツに黒色のサングラスという格好の二人組の男が乗っている。違いといえば、運転席に座っている男のネクタイの色が青色で、助手席でイヤホンに繋がれた受信機で電波を拾っている男のネクタイの色はピンクなことだけ。
「どうでしたか?」
青色のネクタイの男がハンドルを握りながら助手席に座るピンクネクタイの男に尋ねる。
助手席の男はイヤホンを耳から外し、運転手の顔を見た。
「どうやら取引時間まで特定したみたいですよっと」
「間違いありませんか?」
「ちゃんと取引時間を呟いていましたよっと。あの女、女子中学生なのに侮れないですよっと」
「そうですね。まさかあの暗号から取引時間を特定するとは。残りは取引場所だけですね」
青ネクタイの男が赤信号で自動車を停止させるのと同じタイミングでピンクネクタイの男の携帯電話が鳴る。
『そっちはどうだ』
「取引時間が特定されましたよっと」
『そうか。残り九日間。あの女から目を離すな。ところで気づかれていないよな』
「大丈夫ですよっと」
『そうか。分かった。お前らは指示通りホームに戻れ』
「了解しましたよっと」
ピンク色のネクタイの男が電話を切るのと同時に信号が青へ変わり、彼らを乗せた自動車は直進した。
翌日。宮本栞は朝から街へ繰り出した。
彼女は四十八個の箱の前という暗号文を気にしている。この暗号を解読できれば場所まで特定できるだろう。その謎を栞は真剣に考えている。
「単純に考えて。あれがそのままの意味だとしたら」
自分に言い聞かせるように栞は呟く。四十八個の箱の前。その数の箱がある場所と言えば。
突然彼女の頭に幾つもの言葉が飛び合う。その瞬間栞は足を止め、久しぶりの笑みを浮かべた。
「どうしてこんな単純なことに気が付かなかったのでしょう」
宮本栞は自分の推理に自信を持つ。だがその場所はこの街には多すぎる。だから態々音の響くと付け加えられていると彼女は思った。
その後の栞の行動は決まっていた。四十八個の箱の前が示す場所。四十八個もの箱があるのはロッカーしかないだろうと彼女は思いつく。
取引場所の条件は、ロッカーが四十八個あることと音が響くこと。これらを満たした場所は一つしかないということを信じて、彼女は手当たり次第に訪れる。彼女には八日間という時間が残されている。
彼女は刑事にように手がかりを自らの足で得ようと心に誓いながら、歩道を歩いた。
そんな彼女を物陰に隠れながら尾行している男がいた。コンビニの袋に缶コーヒーを入れた黒色のスーツに黒色のサングラスの男。黄色のネクタイを身に着けたこの男は、気配を消しているためか通行人には気づかれない。
宮本栞は怪しい男に尾行されていることに全く気が付いていない。男は宮本栞を見逃さないように目を皿のようにして、彼女の後を追っている。
「人海戦術っすね。流石元刑事の娘っす」
その男は気配を消し宮本栞の横顔を見つめると、そのまま人ごみに隠れた。