宮本栞の外出
宮本栞は自分の部屋に籠り、暗号文と睨めっこする。藤岡から取引に関する暗号を受け取ってから数日が経過して、現在は八月一日。
この日が取引を行う日ではないかと思うと彼女は生きた心地がしなかった。
あの日から宮本栞は自分の部屋に引きこもっている。食事と入浴以外は自分の部屋にいる時間が増えている。幸い帰宅部の宮本栞には外に出る必要性がない。その生活に宮本一輝は心配になる。しかし彼ができることは一つだけだった。
栞の部屋の前で一輝が深いため息を吐くと、突然インターフォンが鳴った。彼は栞の部屋の前から玄関へ移動して、ドアを開ける。その先にいたのは新田隆宏だった。
「新田君。待っていたよ。早速だが電話で指示したことをやってくれ。頼む」
一輝が早速隆宏に声を掛ける。それから隆宏は三日前のことを思い出す。
三日前、新田隆宏は自分の部屋で宮本一輝から電話を受けた。
『新田君。夏休みが始まってから栞ちゃんが自分の部屋に引きこもっている』
一輝の口から明かされた突然の事実に新田隆宏は驚きを隠せない。
「引きこもりって大丈夫か。食事とかはしっかり摂っているんだよな」
『ああ、食事の時間になったらリビングに顔を出す。それに風呂にも入るから清潔感という観点だと何も問題ない。だけど反抗期という言葉だけでは説明できそうもないんだ。だから彼女を外に連れ出してくれ』
「まさか栞さんとデートをしろってことかよ」
『そういうことになるな。あれが反抗期だとしたら、親は手出しできない。親公認でデートして良い。いつでもいいからデートに誘え』
その無茶ブリを新田隆宏は忘れない。電話から三日が過ぎ彼は決断する。宮本栞をデートに誘おうと。
「その顔はやっと決心したって顔だな」
不意に一輝が隆宏に声をかけ、彼は笑みを浮かべる。
「早速だが上がらせてもらうよ」
隆宏はそのように伝え、玄関で靴を脱ぎ栞の部屋のドアの前に立つ。
「栞さん。俺だ。分かるか」
ドアを挟み栞の耳に隆宏の声が届く。それを聞き机に向かっていた栞は手を止めた。
「新田君。何の用ですか?」
「夏休みの宿題に読書感想文があっただろう。図書館で本を借りて、一緒にやらないか」
「どうして新田君と一緒に夏休みの宿題をやらないといけないのですか?」
「栞さんは俺よりも頭が良いから、一緒に宿題をやった方が効率的だと思ったから」
「随分自分勝手な考えですね。私は忙しいので行きません」
このままでは断られてしまう。そうなれば一輝からの指示でデートもできないだろう。そのように危惧した隆宏はドアを強くノックした。
「一日中自分の部屋に籠って何をやっているんだ。夏休みの宿題か高校入試の勉強を一日中やっているんだったら、少し気晴らしに俺に付き合えよ。少しくらい遊んだ方が勉強の効率が上がるってもんだ」
新田の考えは一理あると栞は思った。一日中自分の部屋に籠り、頭をひねっても暗号は解読できない。もしかしたら外に暗号を解く鍵が隠されているのではないかと彼女は最近思い始めていた。
ここは新田隆宏に付き添い図書館に行った方が良いのかもしれないという考えが栞の頭を過る。そうして彼女はクローゼットを開け、水色のワンピースに着替え始めた。
一分後、彼女は自分のドアを開け新田隆宏と顔を合わせる。
「早く行きましょう」
宮本栞に促され、新田隆宏は彼女と一緒に図書館へと向かう。その場所は宮本栞の住んでいるマンションから歩いて十五分の位置にある。八月ということもあって道路のアスファルトは熱を帯びている。暑くなった道を久しぶりに歩いた宮本栞は、頬から汗を落とす。
その道中新田隆宏は宮本栞の隣を歩きながら、彼女に声を掛ける。
「そういえばこうやって一緒に歩くのは一か月ぶりだな。あの日から俺は栞さんの隣を歩いていない。前から聞きたかったんだけど、あの日からどこで何をやっているんだ」
新田は栞の隣を久しぶりに歩けるという事実に興奮して、ついストレートに質問してしまった。少し反省した彼は自分の口を両手で塞ぐ。それに対して栞は冷たく彼に言い放つ。
「新田君には関係ないから」
気まずい空気が流れ、新田は話題を変える。
「栞さんは学校の宿題はどこまで進んだんだ」
「あと少しで終わりそうなところまでですよ。別のことの気分転換としてやっていたから。毎年七月中に学校の宿題は終わっているのに」
「別のことって高校入試の勉強か?」
「そんなところ」
「もう一つ聞くけど、栞さんの志望校はどこだ。進学校の東都高校か?」
「まだそこまでは考えていないけれど、勉強して成績をキープできたら、どこの高校に行っても絶対合格だって先生も言っているから」
「自慢にしか聞こえない。俺なんか推薦入試が落ちたら、高校に行けないって言われているのに」
新田隆宏が自虐ネタを披露したにも関わらず、宮本栞は笑わない。一か月前の彼女だったら笑っていたはずなのにと、新田は落胆する。彼女は一か月前から変わってしまった。彼女を笑わせようと新田は考えているが、何度やっても空回りしてしまう。そのことに彼は落ち込む。
そうこうしている内に二人は図書館へ辿り着いた。図書館は白い壁に覆われた円形の建物になっている。
二人が自動ドアを潜る。その先には様々な人がいた。本棚の前に立ち本を探す青年。椅子に座り、中庭の日本庭園を眺めながら本を読む老人。椅子に座り新聞を読む人もいれば、貸出しコーナーで絵本を借りる子供連れもいる。様々な過ごし方ができる図書館は、静寂を保っていて、雑音が存在しない。
「読書感想文と言えば小説だろう。俺は二階堂晴男の漆黒の積乱雲で書くけどな」
新田が小声で彼女の耳元に話しかける。しかし彼女には新田隆宏の声は届いていない。彼女の頭は暗号で一杯になっている。
少し間が空き、新田は再び彼女の耳元で小さな声で話しかけた。
「栞さんは何の本で読書感想文を書くんだ?」
「踊る人形」
「あれで読書感想文を書くのか」
その一言で宮本栞は気が付いた。無意識に暗号について呟いてしまったことに。変なことに他人を巻き込ませないために、彼女は暗号について黙っていた。だが彼女は暗号解読に夢中で、つい暗号のキーワードを呟いてしまった。彼女は内心焦っていたが、それとは裏腹に安心してしまう。なぜなら新田隆宏は踊る人形のことを小説のことだと思っているのだから。彼は暗号のことも、宮本栞が暗部という危険な世界の活動に手を染めていることにも気が付いていない。彼女は機転を利かせ、新田の顔を見る。
「ごめんなさい。少しぼーっとしていて。確か読書感想文の話でしたね。踊る人形。一度読んでみたかったんですよ」
「栞さんはいいよな。どんな小説でも感想文が書けて。俺なんか何回も読んだ本じゃないと書けないよ。俺は一年前から来年の読書感想文の準備をするんだ。一年前から同じ小説を読み続けないと、感想文が書ける気がしない」
宮本栞と新田隆宏はヒソヒソ話をしながら、綺麗に並ぶ本棚から目的の本を探す。五分後彼女は本棚の前で立ち止まる。本棚に手を伸ばし、目的の本を手に取る。すると彼女の背後から文庫本を手にした新田隆宏が小さな声で話しかけてくる。
「見つかったか。俺は借りて来たから、栞さんも借りよう」
「そうですね」
栞は小さく頷き、貸出コーナーに出向く。そうして小説を借りると、二人はそのまま帰路に着く。新田隆宏は道中を歩きながら、図書館に向かう時と同じように栞に話しかける。もちろん彼女の右隣りを歩きながら。
「思ったより早く借りられたな」
宮本栞は新田の声を聞き、無表情で彼に尋ねる。
「そういえば私より先に小説を借りていましたね」
「いけないのか。俺はあの図書館で何度もあの小説を借りているんだ。だからどこにあの本があるのかをちゃんと覚えている。そうでもしないと時間がないからな。一か月なんてあっという間だろう。限られた時間は大切にしないといけない」
新田の隣を歩く彼女は無言を貫く。それでも彼は話を止めない。
「読書感想文は原稿用紙五枚以内だったな。最初の一枚であらすじを纏めるとしても、残りの四枚はどうしようかな」
「その作品を読もうと思った理由。一番共感できた場面とその理由。その作品のテーマに対する考察。これだけ書けたら原稿用紙五枚なんて余裕ですよ。最初の一枚で作品のあらすじをズラズラと書き連ねるのは幼稚です」
「優等生。それができたら苦労しない」
それから少し間が開き、新田は栞に尋ねる。
「そういえばもう一つ聞きたいことがあったんだった。どうしてそんなつまらなさそうな顔をするんだ」
突然の質問に宮本栞は足を止める。
「質問の意図が分かりません」
「だって俺と一緒に過ごしても楽しそうな顔を見せないから。一か月前は明るかったのに、今は暗い。絶対この日常生活がつまらないって考えている」
新田の口から出た言葉を聞き、栞の顔が曇っていく。
「それを聞いてどうするつもりですか?」
「決まっている。退屈だったら俺が面白くする。だからそんな顔をするな」
「大丈夫。新田君は心配しなくていいから」
マンションへと向かう一本道で、栞は隆宏に一言告げ彼と別れる。彼女の後姿を、新田隆宏は静かに見つめることしかできない。
「俺は何もできないのか」
そうして彼は悔しそうに拳を握る。
自宅に戻った栞は、再び自分の部屋に籠る。持ち歩いていた暗号文を鞄から取り出し、机に置く。その後で彼女は鞄から図書館で借りた小説を取り出し、読み進めた。
十分程で読破した栞は、机の上に置かれた暗号文に目を向ける。
『最初の皇帝と二回目のトーテムポール。そこから十八体目から二十一番目の踊る人形が盗まれた。馬と羊の間で音の響く四十八個の箱の前で待っている』
「踊る人形」
小声で呟いた彼女は、先程読んだ小説の内容を思い出す。その小説ではアルファベットを人形の絵に当てはめた暗号が出て来た。
十八体目から二十一番目の踊る人形はRSTU。それが盗まれたということは、暗号文から該当する文字を抜けば何かが分かるのではないのか。
そのように考えた栞は、プリントの裏に解読した暗号文を記してみる。まず暗号文をひらがなに直して、そこからローマ字に変換。そこからRSTUという文字を抜いて、再びローマ字で変換してみる。
『あいほのこえいおにかいめのおーえmぽー。おこかあjはちあいめかあにじちばんめのおどにんぎょがんまえあ。まおひじのあいだのおおのひびきょんjはちあこのはこのまえでまえl」
意味不明だと彼女は思った。全く日本語になっていない。
暗号解読方法が間違っているのか。やはり小説の踊る人形は、この暗号文とは無関係なのか。
宮本栞は時間を無駄にしたと落胆する。
その時彼女の頭に小説の台詞が浮かんだ。
「中間の推理を全て抜き取り出発点と答えだけを相手に示せば、安っぽいがビックリさせる効果は十分にある」
それは先程読んだ小説の一節だった。もしかしたらこの台詞の中に暗号解読のヒントが隠されているのかと疑った栞は、暗号文を凝視してみる。それから数秒後、彼女が閃く。
その後で空振りに終わった暗号文解読の過程で書いたひらがなに変換した暗号文を見る。
「もしかして……」
栞は最初の文章を数え始め、十八番目から二十一番目の文字を消してみる。
『最初の皇帝と二回目のトール』
解読した暗号は、RSTUという文字を抜くという解読方法と比較して、綺麗に見える。
しっくりくると感じた栞は、次に二番目の文章に横線を引く。二番目の文章は一番目の暗号文を解読するためのヒントという意味しか持たないのではないかと彼女は思った。
そうやって解読された暗号文はこうなる。
『最初の皇帝と二回目のトール。馬と羊の間で音の響く四十八個の箱の前で待っている』
宮本栞はやっと暗号解読の糸口を掴めた気がした。しかしこの文章を読んでも、意味が分からない。
暗号解読はここで行き詰り、宮本栞は悩み続けた。