宮本栞の疾走
「分かった。それで防犯カメラの映像は……」
麻生陽一は、宮本一輝と栞が暮らす部屋の中で電話を受けた。
「ありがとう」
麻生は電話を切り、リビングのソファーに座る宮本良子の顔を見た。
「良子さん。あなたは午前十時四十五分頃、アクセサリーショップでアクセサリーを購入したそうじゃないか。それも現場に残された奴と似ている奴だ。そのアクセサリーショップから西木野神社は徒歩十分で辿り着ける距離にある。だから良子さんにも犯行は可能ということだな」
麻生の推理を聞き、良子は慌てて首を横に振った。
「だからって私が姉さんを殺したと言う証拠にはなりませんよね」
良子が正論を振り下ろすと、麻生は黙り込んだ。沈黙の時間が数十秒流れ、麻生は一輝へと視線を移す。
「一輝さん。確かこのマンションの近所にあるコンビニと西木野神社は、目と鼻の先だったな。だからあなたにも殺す機会があったはずだ」
「強引な推理だ」
一輝が思ったことを口にすると、突然麻生に携帯電話がスーツのポケットの中で震えた。
「失礼」
麻生は頭を下げ、電話に出る。その相手は部下の刑事だった。
「何だ。久保田か?」
『不審者が着ていたと思われる黒色のトレンチコートと野球帽が、公園のゴミ箱の中から発見されました。それと携帯電話が同じ公園の共同トイレの便器の中で水没していました。被害者の物かどうかを鑑識で調べてもらいます』
電話から漏れて来た声を聞き、宮本栞は密に頬を緩ませた。
麻生は電話を切り、一輝と良子に伝える。
「不審者の服装と野球帽が、このマンションの近くの公園から発見された。俺たちは、その見つかった証拠品を調べて、犯人検挙を目指す。今日は貴重な時間を頂戴し、ありがとうございました」
麻生を含み数人の警察官は、頭を下げて、一輝たちが暮らすマンションの一室から立ち去る。
その後で良子はソファーから立ち上がった。
「そろそろ私も帰ります。栞ちゃんが元気で暮らしていることも分かったので」
「それは口実でしょう?」
宮本栞が静かに良子へと歩み寄った。
「言っている意味が分かりませんが」
「それなら、ハッキリ言います。自首してください。良子叔母さんが恵美伯母さんを殺したってことは分かっているので」
ハッキリとした口調で伝えられて真実に一輝は途惑う。
「ちょっと待て。どうして良子が恵美を殺したって言えるんだ」
「一輝叔父さん。初歩的な推理です。麻生刑事が言うには叔母さんは、午前十時四十五分頃、アクセサリーショップで現場に残された物と同じアクササリーを購入したそうですね。しかし、今は、そのアクササリーを身に着けていない。それはなぜか? その答えは、叔母さんの失言の中にありました」
「失言だと」
一輝は真剣な栞の瞳を見つめ、聞き返した。
「階段から突き飛ばした犯人を捕まえてほしい。こんな趣旨な発言を叔母さんはしましたね。しかし、この証言は不可解なんです。どうして叔母さんは、恵美伯母さんが階段から突き飛ばされて殺されたって知っていたのか? その理由は、叔母さんが犯人だった場合。もしくは、偶然現場に居合わせたかのどちらかしか説明できないんですよ。偶然現場に居合わせたとしたら、警察に話した行動と矛盾しますね。その時間帯、叔母さんはアクセサリーショップから叔父さんが暮らす自宅マンションへと向かって歩いているはずなのに、階段から突き飛ばされたことを知っている。それはどういうことですか?」
宮本栞は真顔になり、良子の顔を見つめる。良子の頬から汗が流れ落ちる。その後で栞の叔母は瞳を閉じた。
「そうよ。私が殺したの。私は恵美姉さんを許すことができなかった」
午前十時五十八分。西木野神社。
石畳の階段の上で立ち止まった、宮本恵美は黒いトレンチコート姿の宮本良子と言葉を交わした。
「こんな所に呼び出しといて何だけど、お金貸してくださいよ。どうせアクセサリーを買うための金が残っているはずでしょう。何ならそのアクセサリーコレクションを売ってもいいのよ」
暗く曇った恵美の瞳を見て、良子が激怒する。
「お姉ちゃんに何が分かるのよ。お金がなくて困っているのは私も同じよ」
良子は怒りに身を任せ、恵美の体を階段から突き飛ばした。恵美は良子の首からぶら下がっているネックレスを咄嗟に掴む。
だが、ネックレスの鎖は、すぐに切れ、恵美の体は真っ逆さまに階段に叩きつけられた。
目の前に広がるのは、血を流して倒れている姉。良子は咄嗟に恵美から携帯電話を奪い、現場から立ち去った。
階段を駆け下りながら、良子の頭はトリックを思いついた。
「現場付近に勇兄さんを呼び出して、容疑者候補を増やすことで、疑いの目を分散させる。そして黒色のトレンチコートと野球帽を公園に捨てて、恵美の携帯電話は公園のトイレに水没させた。何の目的もなく現場付近を歩き回るのは妙だから、栞ちゃんが元気にやっているのかを確かめるという建前で一輝のところへ行ったのよ」
想像通りの供述を聞いた宮本栞は、良子に尋ねる。
「これからどうしますか? この推理を裏付けるような証拠は、警察が見つけるはずですよ。その前に自首した方が、罪が軽くなるかもしれません」
良子は全てを諦め、肩を降ろした。
「分かったわ。自首する」
それから、宮本良子は自首するために、警視庁へと向かった。
犯行当時の行動。黒色のトレンチコートと野球帽から毛髪が検出。被害者が握っていたアクセサリーは、宮本良子が購入した物。
次々と宮本良子犯人説を裏付けるような証拠が出てきた。これだけの証拠があれば、送検も簡単だろう。
事件解決から数週間後、麻生陽一は暗くなった捜査一課の一室で、警視庁のパソコンを使い、捜査資料を閲覧していた。
『平成十六年 投身自殺』
警視庁のデータベースにこのような文字を入力して、エンターキーを押す。
すると、モニターに数件の自殺として処理された事件の捜査資料の文字が欄の中で表示された。
「これか」
麻生陽一は呟き、一番上の欄をクリックする。
『平成十六年。一月。東都マンション屋上から桜井真という女性が投身自殺を図った。彼女は大工健一郎衆議院議員の秘書を務めており……』
一通り捜査資料に目を通した彼は、インターネットで桜井真という名前を検索する。
『桜井真。大工健一郎と不倫関係中』
『大工健一郎衆議院議員の秘書桜井真は、脱税しているらしい』
ネット上では、桜井真を誹謗中傷するような書き込みが多い。
嫌な気分になった麻生は、インターネットを閉じ、机の上で頬杖を付いた。
「宮本栞。やっぱりそういうことか」
ノートパソコンをシャットダウンさせ、麻生陽一は、スーツのポケットからUSBメモリを取り出し、窓から漏れて来た月光に翳す。
「そろそろデータを活用するときがくる」
その直後、麻生陽一の携帯電話にメールが届いた。
『七月一日。ラグエルと仕事して。詳細は後日』
短いメールを読み、麻生は頬を緩め、USBメモリをスーツのポケットへと仕舞った。
七月一日。宮本栞はいつものように、同じ帰宅部の新田隆宏の隣を、歩いていた。
放課後の時間帯の歩道には、学生たちが溢れている。宮本栞は同じように歩道を歩いている学生たちを見据えるように見て、隣を歩く新田に尋ねた。
「こうやって二人で歩いていると、カップルの用に見えますね」
突然の問いかけに、新田は思わず頬を赤くした。
「学校で俺たちが交際しているのではないかという噂が出回っているのが、そんなに気に入らないのかよ」
「もちろん、冗談ですよ。ただこうやって歩いていると、世間からカップルのように思われるのが気に入らないだけで」
「やっぱり噂を気にしているじゃないか。そんなこと気にするな。それか開き直ってこのまま交際するか。好きな方を選べ」
「何ですか? その選択肢」
宮本栞は交差点で立ち止まり、新田の顔を見た。
「それでは、私はこちらですので、また明日学校で会いましょう」
「何だ。良かったら家まで送るのに」
「そこまでしたら、カップルと認識されるでしょう」
そうして宮本栞は、新田から離れた。
「結局何がしたいんだ」
新田は静かに前方を歩く宮本栞の後姿を見ながら、小声で呟く。
「ただいま」
宮本栞が玄関のドアを開ける。その音が聞こえたのか、室内にいた宮本一輝が慌てて、玄関先へと駆け寄る。
「大変だ。早くリビングに来い」
一輝の顔はどこか慌てているように、宮本栞は感じ取った。
「どうしたのですか。血相を変えて。叔父さんらしくありませんよ」
「詳しい話は後だ。玄関先に立っていないで、リビングに来なさい。今すぐ」
宮本栞は一輝の言動に違和感を覚えながら、リビングへと向かう。
リビングに入った直後、彼女の耳に、テレビの音が聞こえた。
『なぜこのタイミングで辞任したのですか』
『私の愛していた秘書が半年前自殺しました。この半年間自殺の原因を考えつつ職務を遂行してまいりました。ある時、自殺の原因は私にあると思うようになりました。あの時、私は秘書を愛していました。愛する者を自殺に追い込んだ責任を取り辞任します』
テレビから聞こえたのは、物凄いシャッター音と憎い者の声。
テレビに映っているのは、記者会見場で大工健一郎衆議院議員の辞職記者会見であった。
その会見を聞かされ、宮本栞の頭は真っ白になった。
彼女はテレビの前で立ち尽くす。その間も淡々と記者会見が続く。
『それは秘書と不倫関係だったいう解釈でよろしいですか』
『はい。妻には申し訳ないことをしました。妻とは離婚します』
『それで慰謝料は払いますか』
『もちろん払う。金額は弁護士に聞いてくれ』
記者会見場から大工健一郎衆議院議員が立ち去り、テレビ画面に二人のアナウンサーと数人のコメンテーターが映る。
大工健一郎衆議院は、桜井真との不倫を認め、辞職した。
その事実を知り、宮本栞の顔が暗くなる。
「大工健一郎衆議院議員からの慰謝料……」
一輝が宮本栞の心情を気にしない言葉を漏らすと、突然玄関のドアが強く閉まる音が、聞こえた。
「栞ちゃん」
一輝は周囲を見渡すが、そこには栞の姿はない。
「まさか」
一輝は嫌な予感を覚え、慌てながら彼女の友人である新田隆宏に電話する。
「新田君。栞がどこに行ったか分からないか?」
『家に帰ったんじゃないのか?』
「帰ってきたんだが、大工健一郎の記者会見を聞かせたら、飛び出して行ったんだ。俺も探すが、できれば新田君にも探してほしい。友達ならどこに行ったのかくらい分かるだろう」
宮本一輝が強い口調で、新田に栞を探すよう指示する。その指示を聞き、新田は電話口で一回首を縦に振ってみせた。
『分かった。俺も探してみるよ』
その頃宮本栞は、シャッターが多く閉まっている商店街で足を止めた。
思い切り走り、息切れを起こした彼女は、一言呟いた。
「許せない」
心が深い闇の中に引きずり込まれたかのような感覚。
大工健一郎が自分の母親との不倫を認めたと言う事実を、彼女は許せない。
いつしか宮本栞の瞳は、憎悪という感情に囚われたかのように、暗く重たい色に染まった。
「良い目をしているな。殺意に満ちた暗い瞳。どうだ。そこの女子中学生。俺たちの世界で暮らさないか?」
彼女に耳に、突然誰もいないはずのシャッター街から初老の男の声が届いた。
その声を聞き、宮本栞は周囲を見渡す。すると、右の方向にあるシャッターが閉まった店の前で、白髪交じりの短髪のベージュ色のスーツを着た男が座り込んでいた。
その男との出会いは、宮本栞自身の運命を変えることとなる。
この事実を彼女自身は知らなかった。