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宮本栞の母親

 十五年前。東京都内にある小さなカフェ、ロゼッタハウスに一人の妊婦がいた。茶髪のショートカットに二重瞼が特徴的な低身長な彼女に対面する形で、パンチパーマの男が座っている。その男、宮本一輝は彼女の父親ではない。

 その女、桜井真はティーカップを唇に近づけ、一口だけアールグレイと呼ばれる紅茶を飲んだ。

「寿々白が淹れた紅茶と同じくらい美味しいわ」

 真は笑顔を見せ一輝に感想を伝えた。一輝は自分の顎に手を置き、思い出す。

「お前の幼馴染。江口寿々白か。俺は一度も会ったことがないけど、そんなに紅茶を淹れるのが上手いのか?」

「うん。この店だって紅茶通な寿々白がオススメするカフェだから」

「そうだったのか。ところで話って何だ。夕暮れ時に二人きりで呼び出した理由を教えてくれ」

 一輝が尋ねると真は大きくなった腹を摩った。

「お腹の中にいる娘のこと。もしかしたらこの子を危険な目に遭わせることになるかもしれないから、その時が来たらあなたに娘のことを守ってほしい。それを伝えに来たのよ」

「意味が分からないな。どういうことか詳しく教えてほしい」

 一輝は合点が行かないような表情を見せる。それを受け真は小さく首を縦に振った。

「ここだけの話。寿々白の双子の姉、寿々奈が悪い人たちとつるんでいるみたいなの」

「それって暴力団か?」

 真は静かなクラシック音楽をバックに首を横に振ってみせる。

「寿々白が言うには、そんな生易しい連中じゃないみたい」

「分からないな。何か危険な奴が命を狙ってくるかもしれないんだったら、警察に事情を話せばいいだろう。東都大学経済学部卒業を控えた俺に話すべきことじゃない」

「一応警察も動いているみたいよ」

「一応?」

「この娘の父親は警察官だってことは話したよね。私のことを捨てた罪滅ぼしのつもりなのか、彼は寿々奈が所属する組織について調べているみたい。まだ収穫はゼロらしいけど」

「本当にあんな奴のことを信じるのか。あいつはお前を捨てた。それは事実だろう」

 一輝は捨てられても夫のことを信じる真の態度に呆れる。だが真は表情を一輝の心情とは裏腹に笑顔に変えた。

「確かにそれは事実だけど、この娘を産むと決めたから。もしかしたら女手一つで育てることは難しいかもしれないから、その時はサポートして。母親からの愛を知らないから、どうやって娘と接すればいいのか分からないの」

 真はどこか哀しそうな表情を見せた。この場で真の過去に触れてはいけない。そう思った一輝は言葉を飲み込んだ。

「大丈夫だ。いざとなったら俺が何とかする」

「ありがとう」

 真は一輝の目の前で微笑む。その後で一輝は思い出したように、両手を叩いた。

「そういえば夫とはどうやって知り合ったんだ。職業が警察官ってことしか聞いていないんだが」

「高崎君が誘ってくれた高校の学園祭で知り合ったのよ。面白い人だったから、勢いでメールアドレス交換を申し込んだら、とんとん拍子に交際がスタート」

「それで交際から2か月後に、お腹の子供を残して破局。結婚詐欺の被害に遭いそうだと思っていたが、まさかこれほどとは」

 真は一輝に事実を突き付けられ、頬を膨らませる。

「結婚詐欺じゃないから。現役警察官が結婚詐欺したら不祥事だから」

「分かった。ここは俺が奢るから許してくれ」

「本当?」

 真は不機嫌そうな顔付きから明るくなる。それから真は言葉を続ける。

「だったら追加注文でサンドイッチとスコーン、それからシュークリーム。それぞれ二個ずつ追加ね。少し遅いけどイギリス式のアフタヌーンティーを楽しみたいな」

「男に二言はない」

 一輝は店員を呼び、注文を伝える。十七歳で子供を産もうとする真の無邪気さには敵わないと思いながら、一輝は一口冷めた紅茶を飲んだ。


 十二年前。宮本一輝が暮らすマンションを桜井真が尋ねた。三歳になって歩くことができる栞は母親と手を繋いでいる。玄関のドアを開け二人と顔を合わせた一輝は目を丸くする。

「お邪魔します」

 真は笑顔で頭を下げた。彼女の右隣りにいた栞は母親の真似をして、同じように頭を下げる。一輝は突然の訪問客を快く受け入れ、二人を部屋の中に招く。

 リビングの椅子に対面するように一輝と真が座る。栞は母親から離れた床に座り込み、渡された着せ替え人形で遊んでいた。楽しそうに遊んでいる栞の姿を横眼で見ながら、一輝が尋ねる。

「本当に女手一つで育てているのか。大変だろう。大学に通いながら子育てというのは。無理するな。児童養護施設に預けてもいいんじゃないのか」

「それだけはダメ」

 温厚な雰囲気を漂わせる真が突然怒りを露わにした瞬間だった。この時一輝は地雷を踏んでしまったと後悔して、額に手を置いた。

「俺が悪かった。同じ境遇を経験させたくなかったんだろう。だから施設を拒む」

「確かに寿々白のような同じ境遇の幼馴染と出会うことができて嬉しかったけれど、基本的には居心地が悪かったから。だから私は栞を一人にさせるわけにはいかない」

 真の悲しそうな表情を見た一輝は、席から立ち上がり彼女の後ろに回り込み、真の右肩を優しく叩いた。

「一人で戦おうとするな。俺にできることがあったら何でも言ってくれ。一時的に預かってほしいって言ったら、いつでも受け入れるから」

「やっぱり優しいね」

 真の瞳から涙が零れる。栞は真が泣いていることに気が付かないように、夢中でお人形遊びをしている。一輝は言葉が見つからず、席に戻ることしかできなかった。

「それで話って何だ。栞ちゃんと俺を合わせることが目的じゃないんだろ」

「この二人の顔を覚えて」

 真は鞄から二枚の写真を取り出し、机の上に並べた。一枚は白髪交じりの短髪のベージュ色のスーツを着た男の証明写真。もう一枚は黒色のベリーショートに黒いスーツを着た男の写真だった。

「こいつらは?」

 一輝が尋ねると真は二枚の写真を彼に差し出した。

「三年くらい前に話したよね。寿々奈の悪い友達。ベージュのスーツを着ている男は藤岡さんで、寿々奈を暗部に誘った張本人らしいよ。もう一枚の写真は、暗部に潜入中の私の夫」

「暗部?」

「一般的には知られていないけど……」

 真は何かを言いかけて、黙り込む。その後で彼女は首を大きく横に振った。

「ダメ。これ以上のことは他言無用だから。あの人からの話で、どれだけ危険な組織なのかが分かったから。もう一つの世界のことを話したらダメ」

 一輝はそれ以上のことを詮索せず、瞳を閉じた。

「この二人の顔を覚えてどうするんだ」

「この二人が栞に近づいてくるかもしれないから警戒して。栞には平和な生活を送ってほしいから、暗部というもう一つの世界のことは教えないで。そして三年前にも約束したけれど、私に何かがあったら栞を守って」

 それから真は栞を連れて一輝の部屋を、三か月に一回ペースで尋ねた。これ以降真は暗部について一切口にしなかった。


 そして今年一月。新年を迎えてから数日が経過した夕暮れ時、桜井真はマンションの屋上から投身自殺する。

 その事実を聞かされた宮本一輝は自宅マンションの一室のリビングの机を思い切り叩く。

「だから私は栞を一人にさせるわけにはいかない」

 桜井真の言葉が蘇り、一輝の瞼から涙が零れた。

「栞を一人にしないんじゃなかったのかよ」

 涙を止めることができず、再び真の言葉が頭に浮かんだ。

「私に何かがあったら栞を守って」

 その言葉で一輝は理性を取り戻す。このまま何もしなければ、栞は親戚にたらい回しされる。そして最終的な児童養護施設に預けられる。真はそれを望んでいない。

「やっぱり俺が預かるしかないな」

 一輝は決意を固め、葬式の日に栞を預かることを弟や姉妹たちに伝えた。こうして一輝は栞と一緒に暮らすことになった。

 その電話を受けたのは四月のことだった。栞が中学校の始業式に参加するために登校した直後、宮本一輝は思いがけない人物からの電話を受けた。

『そろそろ答えを教えてくれないか。関係ない奴は巻き込ませないから、栞を俺たちの仲間にしたい』

「今更何の用だ。言っただろう。栞ちゃんの日常を壊すようなことをしたら、許さないって。だから俺はお前に手を貸さない」

 一輝は激怒して受話器の通話ボタンを押し、強制的に電話を切った。その後で彼は机に飾られた写真盾を見つめた。

 桜の樹の下で、中学校の制服姿の宮本栞が笑顔を見せ、立っている様子が写真として収められている。

 藤岡と呼ばれる男からの電話は毎日のようにかかってくる。その事実を宮本栞本人は知らない。

 全ては宮本栞という少女から不安因子を取り除くため。そのためなら、真実を隠蔽してもいいと一輝は考えていた。父親が暗部組織の幹部という事実を知れば、栞は傷ついてしまうだろう。


 月日が流れ、七月一日の午後。この時間から運命の歯車が回り始めた。大工健一郎衆議院議員の記者会見で傷ついた栞は、この場所を飛び出した。その日以来栞は変わってしまった。このタイミングで栞は藤岡と接触して、暗部と呼ばれるもう一つの世界を知ってしまったのだろうと一輝は思ってしまう。

 現在一輝に相対するようにリビングの机を挟み、宮本栞が座っている。皮肉にも十三年前真が座っていた席に娘の栞がいる。

「これが俺の知っていること。全てだ。栞には平和な生活を送ってほしいって真が言っている。今からでも遅くないはずだから、暗部から手を引け」

「どうやって心の穴を埋めればいいの? あの記者会見を見て私の心に大きな穴が開いたんですよ。どうやってもこの穴を埋めることができなくて、暗部の住人になったら絶望感から救われると思ったのに」

 一輝の口から語られた母親からの想いを、栞は無視してしまう。確かに母親の意見は正しいと栞は思う。しかし心が満たされない栞には、母親の言葉で穴を埋めることができない。

 その葛藤によって栞の表情は暗くなっていき、彼女は席から立ち上がり玄関に向かった。

「どこに行くつもりだ」

 一輝が聞いても栞は無言を貫く。そうして栞はあの記者会見の日と同じように、自宅を飛び出す。


 栞は夢中になって街中を走った。その行き先は藤岡の探偵事務所がある摩天楼。どうすればいいのか。その答えを藤岡が知っているような気がして、彼女は藤岡を尋ねた。しかしそれは叶わない。

 何かが爆発するような音が栞の耳に届いたのは、探偵事務所まで残り数十メートルまで到着した時のことだった。

 事務所の周りには野次馬たちが集まっている。周囲に漂う煙の匂い。メラメラと燃える音。嫌な予感を覚えた栞は、野次馬に混ざり藤岡探偵事務所を見上げた。

 探偵事務所のフロアから黒煙が昇り、その煙の隙間から大きな炎が見える。

 業火によって燃えている事務所を外から見ていた栞は、妙な胸騒ぎを覚え、その場に座り込んだ。


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