第一部
第二次世界大戦中、二度の原子爆弾をその懐に食らった日本。しかし昨今、それを忘れてしまっている事態はどういうことだろうか?
広島に原爆が落とされたのはいつだっただろう?
では、長崎に原爆が落とされたのは?
いずれにせよ、生まれも育ちも都会っ子、本よりも液晶好きの世代のさきがけを生きたわたしには分からない。
ただ、東京に原爆が落とされた日は忘れない。
あの日がわたしのすべての命日なのだから。
2007年 12月 24日
「総理」
補佐官の一人が首相官邸最上階にある執務室に入るなり、手にした書類をかかげた。
「どうやら本当のようです」
総理の机にたたきつけるように置いたその書類は先ほどプリントアウトされたばかりのもので、まだ機械のぬくもりが残っている。
総理は老眼鏡を取り出し、かけるなり、その文書に食い入るようにして挑んだ。
「本当だ・・・・・・。すぐにアメリカ大統領に連絡を・・・・・・!」
「すでにしております」
補佐官の声は上ずっていた。それもそのはず、日本が破滅するやもしれない危機なのだ。
しかし補佐官は自分の任務を心得ていた。補佐官の表情は硬い。
「総理、すぐさま準備をお願いします」
総理は上目遣いに自分の補佐官を見た。補佐官の男はゆるぎない、断固とした口調で言った。
「避難です」
「メリー・クリスマス!!」
ミニスカサンタという、寒い寒い冬の夜景の中には似つかない格好をした、まだ大学生ほどであろうかという女性の声だ。振り返るなり、その手元に風船が押し当てられた。ヘリウムのはいった、上にふわふわと浮いてしまうタイプのものだ。
「お子さんにでもどうぞ!」
若い女性は満面の笑顔でそういってくれた。その笑顔があまりにも自然で、私は不覚にも笑顔でうなづいていた。
さっと、若い女性は横に一歩ずれた。あっと気づいたときには、もう一人の女性――ベテランの店員にケーキの箱を押し当てられた。
「今日という夜にはケーキです!」
わたしは払わざるをえないな、と直感した。
「あ、おかえりなさい」
時刻は9時を少し回ったころだろうか。わたしは家庭の温かみに帰ってきたころを素直に心から喜んだ。この日だけは早く帰ってこれてよかった。
「克弘は?」
私は何よりも先に妻に向かってそういっていた。しかし、それを聞く、台所でこちらに背中を向けながら料理をする妻は言葉をにごらせた。
「その・・・・・・そこの部屋よ」
え?、という呆然とした思いを引きずりながら、わたしは背後の引き戸をそっと開いた。
あちゃあ。
わたしは心なしに落胆した。
わたしの息子、克弘はすでに眠った後だった。その手には日曜日の早朝に放送している戦隊ヒーローのソフビ人形が握り締められている。去年のクリスマスに購入してあげた代物だ。まだ大事につかっているところを見ると、相当のお気に入りだ。一度はがっかりしてしまったが、心の中に湯水のような暖かさが流れ込んだ。
「メリークリスマス!」
パン!という音が鳴った直後、振り返ろうとする肩にふわりと乗るものがあった。
妻はクラッカーを持ち、にっこりと、白い歯をいっぱいに見せていた。肩に紙ふぶきが乗っていた。
「お疲れ様、パァパ」
これでもいいな。わたしはフッというため息とともにそう思った。
『(こちらG−1機、こちらG−1機)』
『(こちら司令部、こちら司令部。感度良好、どうぞ)』
『(投下予定地点に近づいた。天候最良。雲ひとつないとはこのことだ)』
『(こちらも確認している。速やかに決行せよ)』
『(了解)』
『(こちら司令部、G−1機。幸運を祈る)』
『oh,No』
『(どうした、G−1機)』
『(いや、何。あんたの言葉におもわず言ってしまった)』
『what?』
『(本当に神のご加護が必要なのは俺らじゃない。日本国民だ)』
『(通信終了)』
わたしがそれを見たわけではない。よって、わたしは無防備なところを襲われたというわけだ。
「何かしら?」
「え?」
「あの音」
確かに耳をすましてみると、地響きに近い音がする。それが近づいてくるのも分かる。急にわたしは底知れぬ不安に襲われた。それは妻も同じなようだ。
カタカタ。テーブルの上に乗っかった、七面鳥を切るためのナイフとフォークが皿にふれあい、不協和音を奏でた。そのときだった。
わたしは吹き飛ばされた。すべてが吹き飛んだ。わたしも妻も、皿も、椅子もテーブルも。わたしの家も。
妻の悲鳴がかすかに聞こえたが、すべて轟音にかき消された。わたしの悲鳴もそうだろう。ハスキーボイスとカラオケではひやかされるわたしの声は決して小さくなく、甲子園球場でもよく通るはずだ。しかし、自分の声さえ聞こえなかった。
自分の体が地面に叩きつけられたときの痛みをわたしは鮮明に記憶している。グシャッといってわたしの腕が折れた音も。強烈な一撃が過ぎ去った後、わたしは目を開けることさえしばらくの間はできなかった。
目をつぶりながら、自分におきた出来事について、思惑をめぐらせた。ありとあらゆる仮定も、自分を襲ったあの一撃を証明することなどできない。自分はいったい何に襲われたのだろう?
目をようやく開けられるようになったとき、自分の神経も同時に活動を再開しはじめた。一度は植物人間のようにすべての情報を遮断したわたしの脳も、奇跡的に視神経とともに復活を遂げることができたのだ。
わたしはよろよろと立ち上がった。
妻はすぐそばに横たわっていた。わたしと違い、妻は運が足りなかった。そういってしまえば簡単なことなのだが、その姿はあまりにもむごすぎた。ちくしょう。それが開口一番の言葉だった。だが、泣くことはできなかった。一度毒づいたまま、わたしはどこに向かう意志があるわけではないのに、よろよろと歩き始めた。一歩一歩を歩くとき、体を電撃のような痛みが突き進んでいった。
あたりは火の海だった。わたしの家はあとかたも残っていなかった。日照権を侵害してきた超高層ビルの群れは下の三階ほどしか残っておらず、代わりに高々と真っ赤な火の手が上がっている。
焼ける臭いと煙の臭い。その二つが一挙に鼻腔へと襲い掛かってくる。脳の動きがそのせいで鈍ってしまうほどだった。
肉の焼ける臭い。
脳裏に妻の姿が思い出された。妻の足には火が灯っていた。
わたしはそれでも歩き続けた。
よく見慣れたコンビニエンスストアもやはり倒壊した後だった。何か物資を手に入れよう、そう思っていたわけではないが、知らず知らずのうちにわたしは衝撃が起こる前と変わらないものを探していた。だが、すべてが変わってしまった。なぎ倒され、瓦礫の山となり、踊りまくる火に包まれた。
遠くに歩くにつれ、わたしは人と出会うようになった。その大半がすでに死人となっていたが、必死に助けを求め、うめき、わめき、悲鳴をあげていた。が、わたしに力はなかった。気力もなかった。
わたしは歩き続けた。背後から誰かが襲いかかり、鈍痛が走ったのはそのときだった。
目が覚めたとき、わたしは自分と同年代の女性に顔をのぞきこまれていた。一瞬、妻かと思った。しかしその顔には妻には絶対になかった大きな傷――やけどがあった。
「ここはどこだ?」
わたしは開口一番に尋ねた。果たして天国か地獄か。けれど、女の声は明らかに現実世界の響きをもっていた。
「ここは避難場です」
女は弱弱しい笑みを浮かべたのか、やけどで浮き上がった肌がくしゃりと紙のようにひび割れた。痛みが走るのだろうか、少しばかり顔をしかめているようにも見える。
「いったい何が起こったんだ?」
わたしの質問は女の顔色を暗くさせた。しかしそれだけは絶対に確かめなければいけないのだ。
「いったい何が!」
わたしは自然と声を荒げていた。
「妻は!美智子は!いったいどこにいったんだ!」
女は顔を苦痛に歪ませ、わたしを見下ろしていた。とても辛そうな顔。女はついに一言発した。
「東京は原爆を落とされたの」
わたしはにわかには信じることなどできなかった。できるはずがない。
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