少年少女少年
幼稚園の時から、私の口癖はこうだった。
『じんせいは、たたかいなの』
ママは、ぽっこりとしたお腹を張って主張する私に呆れていたけれど、それは曲げようもない事実だった。私だって、できれば平穏に過ごしたいという気持ちで山々だったけれど、弱冠五歳にして、それは不可能だと悟ったのだ。
『はじめまして、ぼく浩介っていうんだ。よろしくね』
砂場で遊んでいたにもかかわらず、やって来て微笑んだ男の子は背中にパンジーを背負っていた。私はその頃、パンジーとチューリップしか花の名前を知らなかったのだ。
(しらゆきひめだ……)
透けるような肌に鴉の濡れ羽のような髪。ぷっくりと色づいた唇の愛らしさに、私は目まいさえ覚えた。無言で彼の言葉に頷くことしか出来なかった。そんな私を差し置いて、すっくと立ち上がった人物がいた。
『おれ、武。あっちで遊ばないか。ヒーローごっこしよう』
喜ぶ彼を誘導―――エスコートした人物は、振り向き様に私を鼻で笑った。ついさっきまでの砂遊びの楽しい雰囲気は、表面上のものだったのだと、私は理解した。憤然と立ち上がって、砂場に両足を踏ん張る。オレンジのスモックが舞い上がって、映画のワンシーンみたいだった。
『あたしと、しょうぶよ!』
これが私の生涯にわたる敵、馬門武との最初の戦いの日。そして、人生で最も素晴らしい瞬間、香坂浩介と出会った日であった。
*****
綾里高校の正門から続く道の両側には、見事な銀杏の木が整然と並んでいた。黄色く色づいた葉っぱが、一枚、また一枚と舞い落ちるさまはため息が出るほど風流である。新築の校舎にはそぐわない、洋館で見るような門を潜り抜けて、丁度三十本目の銀杏の木の下から白い建物を見上げると、三年B組の教室がちらりと見える。窓際の一番後ろの席に座っている、眩いばかりの美少年。彼のもとに重箱を持って近づいた女子がいたならば、それは私しかいないだろう。
「浩ちゃん、お弁当食べよ!」
私は意気揚々と浩ちゃんの元へと駆け寄った。いけ好かないアイツがいないことは確認済みである。ひとまず先制攻撃に成功したようで、笑顔も二割増しに輝いているに違いない。
浩ちゃんの前の席の子には了解をとって(彼は昼休みも委員会活動らしい)、私は三段重ねの重箱を広げる。漆の箱に金魚の絵が泳ぐ重箱は、私のお気に入りだった。
「今日の弁当も豪華だね」
「うん。浩ちゃんの好きなものばかりでしょ」
「麻美は僕の好物しか入れないじゃないか」と浩ちゃんが苦笑するので、私は慌てて言い添えた。
「でも、栄養バランスはバッチリよ。今日のメインは、鱈の西京焼なの」
魚は浩ちゃんの大好物だ。他にも、インゲンの白胡麻和えに、だし巻き卵、かぼちゃの煮物等など。月々五千円のおこずかいとバイト代を全て費やしたことあって、充実した中身になっている。浩ちゃんは、和食が好きだった。
「それじゃあ、食べようよ。お昼休み短いんだもの」
「うん……でも、武が来ていないよ」
―――ここで顔をしかめなかった私は偉いと思う。
(せっかくアイツがいないのに、ここで出し抜かなきゃ意味ないじゃない)
努めて優しげな微笑みを浩ちゃんに向ける。
「武の奴、先生に呼び出されたみたい。ほらアイツ、文化祭の実行委員でしょう?」
「そうなんだ。それじゃあ仕方がないね」
箸を手に取った浩ちゃんにガッツポーズしたところで、本日の私の運は尽きたようである。私の頭が強烈な肘鉄を喰らった次の瞬間には、向かい合った浩ちゃんと私の間に割り込んできた人間がいた。
奴である。にっくき敵である。
浩ちゃんを巡る、恋のライバル。
「待たせたな、浩。怒ってるか?」
さわやかな笑顔で、武は浩ちゃんの顔を覗き込んだ。叫びだしたかったが、頭がじんじんと痛んで上手く声が出せない。
「怒るわけないじゃない。武こそ、先生の話はよかったの」
「ああ。大したことじゃなかったよ」
武は、机の下で私の足を踏みつけながら、置いてあった赤い箸に手を伸ばした。
「ちょっと!これ私のお箸だから」
武は、私をちらりと見たが、すぐに浩ちゃんとの談笑へと戻ってしまう。抜け駆けしたことを相当怒っているようだった。
武の大きな足から逃れ、今度は私が足を踏んでやる。狙って小指を踏んでやったが、上履きのせいでそれほど効果がなかったようだ。残念なこと。
「しゃべってないでご飯食べようよ。浩ちゃんお腹空いたでしょう」
「そうだな浩介。お前、西京焼好きだもんな」
私からすばやく箸を取り上げた武が、西京焼を浩ちゃんの口許に運んだ。
(なんでアンタが食べさせてるのよ!)
心の中で絶叫した私は、鞄から水筒を取り出した。朝入れてきた緑茶は、保温機能で温かいままだった。浩ちゃん専用のコップにそそいで、小首を傾げながら差し出す。
「どうぞ。身体冷えてるでしょう」
「ありがとう麻美」
武が、鬼の形相でこちらを睨む。私も負けじと睨み返した。今日こそはこいつを撃退して、浩ちゃんと二人きりのランチタイムを手に入れるのだと意気込んで。多分向こうも同じ気持ちなのだろう。
だけど、勝負はいつも持ち越し。
「二人と食べると、おいしいね」
浩ちゃんの微笑みは、百カラットのダイヤより価値があるのだ。
そうやっていつものように過ごしていた私たちだったけれど(私は浩ちゃんとの仲を進展させたくてたまらないのだけれど!)、放課後になって異変が起こった。
なんと、浩ちゃんが呼び出されたのだ。先生とかじゃなくて、ハートのシールで封がされた手紙によって。差出人は、二年生の女の子だった。浩ちゃんは私の王子さまだけど、他の人から見ても素晴らしい男の人なのだ。だから、こういうことは時折どころか頻繁に起こる。特例に従って、一時共同戦線を結んだ武が、無駄に明晰な頭脳で彼女のことを探り当てた。武の頭には、綾里高校生の顔と名前が一通り入っている。浩ちゃんを狙う可能性がある奴は、欠かさずチェックしてるんだって。敵ながら見上げた根性である。
「野中真理、二年E組の生徒だ。園芸部所属だな」
「園芸部ってことは……ああ、花壇のお花を浩ちゃんに褒められてってところかしら」
「大方そんなところだろう」
私たちは、ひそひそこそこそと放課後の学校を移動する。野中真理が指定したのは、学校の屋上だった。前々回もそうだったのだが、偶には捻りが欲しくなる。
屋上へつづくドアに、二人してピタリと体を押し付けて耳を澄ますと、浩ちゃんたちの声がアルミの板を伝って聞こえてきた。丁度女の子が、浩ちゃんへの愛を語っている。毎度の思うのだけれど、どうやったらあんなに手短に浩ちゃんの素晴らしさを語ることができるのだろうか。武でさえも、浩ちゃんの魅力を語るには一日じゃ足りないと悩んでいたのに。私に至っては、三日三晩かけても語り足りないと感じてしまう。
『だから、香坂君、私と付き合って下さい』
私と武は、落ち着いて彼女の告白の行方を見つめていた。より正確に言うならば、彼女が見事玉砕する様を見守ろうとしていた。
―――だって浩ちゃん、これまで誰の告白にも頷いたことないんだもの。
最初の三十人は、やきもきして嫉妬で夜も眠れなかった私たちも、五十、六十と数をこなすうちに諦観できるようになった。武の奴なんかは、自分の告白シミュレーションに利用するという外道な行いをしていた。
そういうわけで、私は浩ちゃんとの帰り道に思いを馳せながら、「早く終わらないかな」となどとのんびり呟いていた。隣からは、「手繋いで帰りてえ」という武畜生の下劣な考えが漏れ聞こえてきたため、無言で鉄拳を喰らわせた。
油断大敵なんて、余計な御世話だと思っていたのに。
『……少し、考えさせてくれるかな』
直接目にしなくても、二人の幼馴染の脳裏には、頬をピンクに染めて恥じらう浩ちゃんのヴィジョンが浮かんできた。
―――一体全体どういうことなの?!
私たちは、ただただ動揺することしか出来なかった。おろおろとして腕を上下させた時に、中指の爪がアルミを引っ掻いて不快な音を立てる。私たちの心にヒビが入った音でもあった。
「どういうことだよ、浩!」
憤りと混乱も露わに、武が浩ちゃんを壁に追い込んだ。主に身長のせいで壁ドンすることがかなわない私は、浩ちゃんの左手を胸に抱きこむ。
「浩ちゃん、どうして?」
上目づかいで尋ねると、浩ちゃんは眉を八の字にして困ったように笑う。
「二人とも、そんなに慌ててどうしたの。何の事だかわからないよ」
武が、苦しそうに顔を歪めた。私も多分、おんなじ表情をしている。
「なんで、告白断らなかったんだよ。いつもは見向きもしないじゃないか」
浩ちゃんが、私と武を見つめた。大きな黒目が私を魅了してやまない。
「ダメだよ、覗き見なんかしちゃあ。女の子たちに失礼だ」
「それは……」「ごめんなさい、浩ちゃん。でも、でも私たち、浩ちゃんを……」
それっきり、私も武も口をつぐんだ。胸が痛くて何も言えなかった。浩ちゃんは、あの子が好きなのだろうか。明日にでも、浩ちゃんから好きだと伝えるのだろうか。私のお弁当は、もう一人分しかいらないのだろうか。
考えれば考えるほど、未来が真っ黒に塗りつぶされて、いつの間にか私の目尻から大粒の涙。放課後の長い廊下に、しゃくり上げる声が響く。赤いラインの入った上履きの上に、涙がぽたりと落ちる。顔を上げたら、隣で俯く武がいつになく辛そうな顔をしていた。
浩ちゃんは、ずっと困ったような顔をして、私たちが離れるのを待っていた。
その日の夕方、私たちは初めて別々に帰路に着いた。コンクリートに伸びた一つだけの影が、綺麗な夕日と相まってやけに物悲しく感じた。
翌日の放課後、女の子を呼び出した浩ちゃんは、拍子抜けするほどあっさりと交際をお断りした。「ごめんね、そういうこと、まだ考えられないんだ」と。当然のことながら、私と武は唖然とし、浩ちゃんに詰め寄った。
「浩ちゃん、もしかして最初から断るつもりだったの?!」
「うん、今は恋人とかいらないから」
「何だそれ?!」
にっこり顔の浩ちゃんに、私たちは一気に脱力する。昨晩枕を濡らしたのは、一体何のためだったのか。浩ちゃんは、私たちのお揃いの隈(とても不本意だが)を見て、くすくすとさも可笑しげに笑っている。
「なあ、お前、そんなに告白されて、なんで片っ端から断るんだ?恋人いらないって言っても、興味くらいあるだろう。試しに一人くらい、って思ったことはないのか」
「ちょっと武っ」
武の発言を制そうとした時には手遅れだった。武は、怖いくらい真剣な瞳で浩ちゃんと見つめている。そりゃあ、私だって気になる。気になるけれど。
ぐっと浩ちゃんに迫って身を乗り出している武の背後から、私は静かに浩ちゃんの答えを待った。武と見つめ合っていた浩ちゃんが、不意に私の方に視線を移す。そうして柔らかく目を細めた。
「興味がなかったと言えば、嘘だけど」
私と武の眦が一斉に下がり、口がへの字になった。浩ちゃんは、そんな私たちに身を寄せて、耳元で囁いた。
「きれいな花束が二つあるのに、他に飛んでく蝶はいないでしょう?」
武の背中が、急に強張った。私は、よく分からなくて頭を捻る。ぐるぐると悩む私の頭を浩ちゃんが優しく撫でた。
「つまり、両手に花以上は望まないってこと。武と麻美がいれば満足だよ」
その言葉に、武が拳を握りしめる。浩ちゃんの綺麗な指に髪を好いてもらっていた私は、浩ちゃんのとろけるような笑みに誤魔化されて、ついつい聞きそびれてしまった。
―――ねえ浩ちゃん。右手の花か、左手の花か、いつか選ぶ気はあるのかな。
でも多分。そう尋ねたところで、浩ちゃんのダイヤモンドの微笑みで誤魔化されてしまうのだろう。
浩「偶には二人が悲しむ顔も見たいなって思ったんだけど、放課後一緒に帰れないのは辛いから、もうやらないよ(様々な前科アリ)」