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運命の秒針

作者: imaginary

これを原作にただいま映画製作中です。


 赤原美鶴が会社を解雇されて、かれこれ四ヶ月ばかりの月日が経過した。


 近頃は経営が上手くいっていなかったのか、破綻を恐れた会社側が放胆な人員削除を決行した。紙飛行機に社員の名前を書いて飛ばし、飛距離の短い飛行機から手当たりしだいに解雇する社員を決めているなどという、でたらめな噂が立つほどに解雇される契約社員は多種多様であり、解雇されて当たり前な無能社員もいれば、何十年間も会社を支え続けた年配の社員もいた。


 そんなロシアンルーレットのような解雇の矛先を美鶴もたまたま向けられたという成り行きである。


 あとさきの生活には一抹の不安があったが、書類に埋もれる日々から抜け出せると思うと、肩の荷が下りたようで、美鶴はそんな理不尽な解雇を受け入れてしまっていた。


 しかし、ここにきて美鶴はやっと後悔を抱いた。何年間も懸命に働いて稼いだ貯蓄も底を尽きようとしている。アルバイトで穴を埋めなおそうと試みるが、預金金額の低空飛行ぶりは相変わらず上昇を見せず、ここ数年の自分の頑張りがたやすく水泡に帰するのを肌で痛感していた。仕事に四苦八苦しながらも充実感を覚えていた頃が馬鹿馬鹿しく感じることすら、美鶴にはあった。


 二ヶ月あまり経った現在は、ハローワークへ週に何度か通っている。しかし、美鶴自身の根気や闘志はとっくに消え失せており、ハローワーク通いの日々は生活の一部として馴染みだし、もはやハローワークに就職の希望は見出していない。特に意味はないが、事務的に足を向けているというような感じである。それゆえに定まった就職の話しはなかなか浮き上がってこない。


 日が進むにつれ自宅に引き篭りがちになっていることが、はなはだしく感じられていた。必要最低限の食料を買うためにコンビニへ行くか、ハローワークに行くかのどちらかが主である。それ以外は狭い自室で寝そべっている。


 寝そべって天井を見ていると、美鶴は何となく安心感が湧いてくる。理由はさだかではないが、きっと幼少の頃から何一つ変わらない天井の木目や、節穴や、板の傷や凹凸などが、これからも何一つ変わらずそこにあるような気がしてくるからだ。そんな永続的な天井を見ていると、美鶴もその存在に該当している感じがしてくる。これからも何一つ変わらずに生きていくのだと、不確かな未来に安定感を覚える。それが美鶴には妙に心地よかった。


 美鶴はおもむろに起き上がると、部屋を見回した。


 小学生の頃から使っていた学習机、ずっと昔から続けている日めくりカレンダー、くすんだ色の布団、何度も読み返した漫画が並べてある本棚、隅に押しやられたクッション、中身が溢れかえったゴミ箱、砂埃を付着させた硝子窓。


 布団の脇に目的の財布を見つけて、美鶴は手を伸ばした。黒い長財布の中身を確認すると、ため息混じりの独り言を呟いた。


「何か買いに行こうか」


 寝癖を直すように頭を何度か撫でると、やつれた顔を少しだけ引き締めて外に出た。


 初秋であるが、外に出るとしぶとく蝉が声を張っていた。微風がぼさぼさの髪を揺らし、哀愁が漂った秋の虚空に吹き消えてゆく。気温は暖かかったが、どこか寂しげな町並みに美鶴は原因の分からない身震いを起こした。


 美鶴の自宅から一番近いコンビニは、大通り沿いの加盟店であり、そこには徒歩五分程度でたどり着く。区画の端に大きないちょうの木が一本ぽつねんと立っており、遠くからでも目印に出来ることから一部の世帯から『待ち合わセブン』呼ばれているコンビニである。


 そこで美鶴は弁当とカップアイスと紅茶を買って、早々と出てきた。片手にポリ袋をぶら提げて、今来た道を行き返す。


 脇目も振らずに黙々と歩いていくと、ちょうど自宅が遠目に見えたあたりで、美鶴は道端の電信柱の足元に小さな水色の置時計が落ちていることに気がついた。アラビア数字のデザインが個性的なフォームを描いている、少し洒落た置時計だと美鶴は思った。


「ああ、壊れているのか……」


 ポリ袋をアスファルトの上に置いて時計を手にした美鶴は、鑑定でもするような目付きで置時計を見ながら呟いた。時計の外装を軽く叩いてみたり、裏のリュウズを摘み回して針を動かしてみたり、目先に持ってきたり遠めに見たりして傷を探してみたりもした。


「もらっとこ」


 美鶴はこっそり手にした時計をポリ袋に忍ばせた。おもむろに再び自宅へ足を向ける。


 部屋に戻ってポリ袋を布団の上に投げやると、美鶴は崩れ落ちるように床へ寝そべった。手を伸ばしてポリ袋からカップアイスを取り出すと、蓋を開けて美鶴は怪訝な顔をした。


「溶けてるし……」


 アスファルトの上で熱せられたアイスは、半分ほど固体部分を残して溶け始めていた。蓋裏についたアイスを丁寧に舐めながら、ふやけた容器を手にする。


 アイスを食べていると、放られたポリ袋の口から例の時計が姿を覗かせていることに、ふと気がついた。美鶴はそれを取り出して、観賞するように目の前に置いた。


「時間合ってないや」


 置時計と部屋にある掛け時計を交互に見つめ、その差を比較してみる。


 現在時刻は十四時二十六分。それに対比して置時計は十三時五十九分である。二十七分のずれである。美鶴はそれを直そうと時計を手にとった。


 その時、不意に時計のてっぺんにある銀色の凸部分に手が触れた。それと同時に辺りの景色が目まぐるしく回転を始めた。特急電車が目の前を通り過ぎた時のように轟音と激しい風が流れ、景色がすさまじく動く。


 目がくらんだ美鶴は床に手を付いて、じっとうずくまった。エレベーターの降下時のように内臓が上に押しあがってみぞおちが苦しくなり、悲鳴を上げようにも上げられない。


 やがて、景色の回転も消え、普段の静けさが戻ってきた。ゆっくりと顔を上げるが、美鶴の目に映るのは、いつもの自室でしかない。


 しかし、念入りに見てみると、どうやら奇妙な現象が起こっていた。


 まずは、先ほどのアイスが固体に戻っている。正確に言うならば新品の状態に変わっていた。蓋まできっちり封をされている。まるで美鶴がうずくまっている間に誰かがアイスを新品に取り替えたような感覚である。もう一つは長財布が布団の脇に移動している。最後は掛け時計の針が置時計と同じ時刻まで遡っているということである。


 美鶴は確かめるように長財布を手にして中身を取り出した。


「コンビニのレシートがない。お金がもとに戻ってる!」


 そして、コンタクトを落としたかのように床に手を這わせてアイスに手を伸ばした。蓋を開けてみると、やはり新品の状態である。


「時間が戻ってる」


 立ち上がると美鶴は窓を開けた。窓枠から身を乗り出して外の景色を確認してみる。しかし、特に変わった様子はなく、頭上の青空をのどかに雲が流れているだけである。町は眠ったように静寂としている。


 美鶴は部屋の壁に寄りかかって座ると、自分を落ち着かせるようにアイスを食べ始めた。木のスプーンでアイスをすくい取って、口へ運ぶ。美鶴の口へ入ったアイスは舌の上で音もなく溶け、飲み込めば咽頭をから食道にかけて冷たいものが通った感覚がする。


 何度かそれを繰り返しているうちに、美鶴は目の前の置時計に気がついた。手に取って目先に持ってくる。


「これを押したから、時間が戻ったのか……?」


 そう言って、美鶴は凸部分を指で恐る恐る触れてみた。


 すると。


 また視界が目まぐるしく回り、美鶴は床にうつぶせた。まるで、巨大ごまの中にいるような感覚で気持ち悪く思うが、今回の回転は割りと早く治まった。


 目を開くと、手に持ったアイスを見て美鶴は再び息を呑んだ。アイスがまた新品になっている。そして同じく、掛け時計の針が置時計の時刻まで遡っていた。そして、開けたはずの窓が閉まっている。しかし、その窓の向こう側に流れる雲の位置は、意外にも戻っていなかった。


 美鶴は表情を破顔させて、自分の思考を整理するように喋りだした。


「そうゆうことか。この時計は、この部屋の時間だけを遡っているんだ。証拠に雲の位置は戻ってないし、アイスだって、正確に時間を遡るならコンビニの冷凍庫に戻るはずだ。つまり、この時計は世界規模で時間を戻すんじゃなくて、この部屋の空間内だけを針のさした時間に戻せるんだ!」


 美鶴は武者震いに近い身震いをすると、何かを思いついたように指を鳴らした。


「時間を旅しよう」


 美鶴はそう言って、時計のリュウズを懸命に回し始めた。


 時間を遡れるという非現実的な事実に対して、美鶴はあまり疑問や懸念はなかった。どちらかというと好奇心が勝っていて、疑問や懸念を掻き消しているようにも思えた。時間が変わるのはこの部屋だけという小規模なのもあってからか、あまり恐怖もなかった。もしも、目の前の時計が世界全体の時間軸を捻じ曲げるような代物であったなら、美鶴はとっくにおののいて投げ出しているはずである。


 一度ひねると、おおよそ半周ほど長針が回転する。つまり、二回で一時間を遡れ、四十八回で一日が遡ることになる。その計算でいくと一年を遡るには十七万五千二百回ひねる必要があり、元の時間に戻るには巻き戻さなければいけないので、二倍の三十四万七千五百二十回ひねらなければいけない。


 そんなことをしていたら、遡るどころか日が暮れてしまいそうである。しかし、美鶴はできるだけ遠い過去へ遡ろうとするように、必死に針を巻き続けた。


 しばらくすると、家のインターホンが鳴り響いた。我を忘れて針を戻していた美鶴は十二時を回ったことに気が付いたシンデレラのように、ハッとして立ち上がった。


 訪ねてきたのは江坂博人であった。小柄で運動がたいそう苦手な男であったが、知識や行動力は群を抜き、進んでリーダーシップをとるような男であった。そのせいか、美鶴とは違い一流の印刷会社でも高い位置についている。けれども、美鶴とは縁を切ることなく執拗に訪ねてくる男でもあった。


 また一段と高級になった彼のスーツを気にしながら、部屋へ招いた。


「どうだ、仕事は見つかりそうか」


 博人は部屋に入るなり、飛び回るハエを目で追うように室内を見回して、やがて床に腰を下ろした。


「まあ、ぼちぼちだよ」


 美鶴はごまかすように笑むと、一度部屋から出て行き、やがてプラスチックのコップを二つ持ってきて、「紅茶でいいか?」と博人に言った。返事も聞かずにコンビニのビニール袋から紅茶を取り出してコップに注いだ。


「ありがとう」


 気の抜けた返事をして、博人がそれを受けとる。


「今日は何か用があるのか?」


 美鶴が言うと、「うーん」とどっちか判らないような返事をした。博人はコップに注がれた紅茶の水面をじっと見ているようで、どこか元気がなかった。「何か悩みでもあるのか?」と訊いたが、同じように「うーん」と言うだけだった。


 無言が続き、空気が重くなってきたと思えたところで、話を変えようと美鶴は例の時計を博人にお披露目した。「なにこれ」と博人は首を傾げたが、時間を巻き戻せる時計であることを話すと、さらに首を傾げた。


「冗談ならやめろよ。そういう気分じゃないんだからさ」


 博人は目を細めて嫌な顔をした。


「冗談じゃないさ」


 美鶴は少しむきになって、「じゃあ、試してやるよ」と銀色の凸部分に触れた。


 すると、視界が動き始めて時間を遡りはじめた。机も窓も天井もその輪郭をなくして、空間に溶け込むように回り始める。美鶴は「うずくまれ」と指示をだした。「どうなってるんだ?」と声を張り上げながらも博人は言われた通りに頭を抱える。光の速さとも言えるスピードで回転しているのに遠心力がなく、みぞおちが凹んで気持ちが悪い。


「とめてくれ! 目が回る!」


「無理だよ、我慢してくれ!」


「いつ、とまるんだ!」


「けっこう回したから、まだ掛かるかも!」


 美鶴はそう言いながら、はっとした。巻き戻す時間と回る時間が比例しているのであれば、この回転はいつまで続くのかと。先ほどの二十七分のズレを巻き戻したときは三十秒ほど掛かった。つまり一秒で一分ほど巻き戻すことになる。


 そして、博人が来るまでの間に、美鶴は懸命に何度も針を回していた。一年や二年も遡ることはないが、一ヶ月単位でなら戻ってしまう可能性が十分にあった。一日が千四百四十分であるから、一日を巻き戻す時間は千四百四十秒になる。つまり、それだけで二十四分も掛かってしまう。それが一ヶ月分も掛かれば、とうてい耐えられない時間になった。


 青筋を立てながらも、それが時間を遡るということの代償なのだと美鶴は反省していた。しかし、なんということはなく、回転する速度が次第に速くなっていくのを感じた。


「限界だ! 吐きそうだ!」


「我慢してくれ! 俺の部屋だぞ!」


「もう無理だ、こんなの俺はた――」


 回転が速くなると、もはや博人との会話も騒音に掻き消され、視界も見えず音も聞こえず、完全に外界から切り離されたような感覚を受ける。視界のなかで、自分の輪郭さえも歪みはじめ、掻き回された水の中に溶ける絵の具のようであった。


 しばらくすると騒音が消え、回転もしだいに遅くなった。やがて止まる。部屋には力なく二人の男が大の字になっていた。


「勘弁してくれよ、まったく」


 博人は怒ったり驚いたりする気力も残っていないような声でそう呟いた。


「吐いたか?」


「ああ、たっぷりな」


 美鶴は少しだけ首を持ち上げて、隣の博人の方を見た。


「いや、嘔吐物は見当たらないけど」


「へ? 本当だ」


 博人が起き上がって、興味なさそうに言う。


「時間を遡るどこかの地点で吐いてきたんだろうな」


 少し間をあけて、博人が訊ねた。


「いま、いつ?」


 いま、いつ? というフレーズが少し可笑しく思えて美鶴は少し笑んだ。日めくりカレンダーの方を見る。


「驚いたことに四ヶ月前だ」


 美鶴がそういうと、博人は眉をひそめた。


「おいおい、元の時間には戻れるんだろうな?」


「大丈夫だよ、遡ってるのは部屋の中だけだから。室内は四ヶ月前でも、外の世界は変わらず現在だよ」


 美鶴は立ち上がって窓を開けると、「八月にこの寒さはないだろう?」と言った。博人も納得したようで、「なるほど」と声を低くした。


「でも、なんでそんなに凄い物がここにあるんだ?」


 博人はそう言って紅茶を飲もうと手を伸ばしたが、そこにコップはなかった。ここは四ヶ月前の部屋であるため、コップは現在の部屋へ置いてきたことになる。よく見回すとコップだけではなく、家具の配置が少しずれていたり、ゴミ箱の中身が変わっていたり、あったものがなく、なかったものが多々あったりしていた。


「さあ。拾ったんだよ。そとの電柱の下で」


「何だよそれ、ファンタジーだな」


「まったくだ」


 それっきり無言になると、美鶴は窓を閉めて博人に向き直って座った。そして、森林の新鮮な空気でも吸うかのように胸を張りながら部屋中を見回す。そして、何かに気が付いて「あ」と声を上げた。


「どうしたんだ?」


 博人の言葉を遮って美鶴は立ち上がると、ゴミ箱の脇に置いてある貯金箱へ近寄った。手にとって、感触を確かめるように「これこれ」と笑っている。


「どうしたんだ?」


 博人がもう一度――今度は少し口調を強めて言うと、美鶴はようやくニヤニヤした顔を博人に向けて、説明した。


「ちょうど四ヶ月前ぐらいに貯金箱が割られたんだよ。何者かによって中身もごっそり取られてた。結構貯めこんでたし、リストラ受けてあまり日にちも開いてない時のことだったから悔しくてさ、よっぽど警察に通報しようか迷ったけど『犯人は親でした』みたいになったら面目たたないからやめといたんだ」


 そう言って、美鶴はすでに貯金箱を振りかざしていた。


「おい、馬鹿、何する気だ」


「どうせ誰かに取られるぐらいなら、その前に貰っちまおうぜ。どれくらい貯まってたかも知りたいところだし」


「そうじゃなくて、それって――」


 博人の言葉にかぶさるように、貯金箱の破片が砕ける音が部屋に響いた。


「おお、結構あるよ」美鶴は子供のようにはしゃぎながら貯金箱から出てきた金額を調べ始めた。


「全部で三万六千円だ」


 美鶴は手のひらから溢れそうな小銭を博人に見せると、またにやにやと笑った。


「いや、事の流れから考えるに、四ヶ月前に貯金箱を割って中身をごっそり持ち出した何者かはお前じゃないか」


 博人に指摘されて、美鶴は雷に打たれたような顔をした。


「ほんとうだ」


 舌を抜かれて喋ったかのような、切れのない声をやっとのことで美鶴は絞り出した。両手の上で小山を作っていた小銭が、音を立てて床に落ちた。小銭が全部落ちきって、空になった両手を頭にあてた美鶴は「おーまいがー」とわざとらしく叫んだ。


「おいおい、片付けるの大変だろう」


 床の上でまだクルクルと回っている小銭もまるごと掻き集めながら、博人は眉をひそめた。美鶴は博人を笑わせようとおどけたつもりだったが、博人がくすりとも笑わないので、「……あ、ごめん」と表情を冷ました。


 美鶴も一緒になって金を集め終えると、やがて学習机の引き出しから黒い布袋を取り出して、「そういえば、この入れ物も無くなってたわ」と苦笑しながら小銭をそこに入れた。


「結局、元の時間に持ち帰るんだな」


「まあね、金には困ってたところだし……」


 美鶴がそう言うと、博人はあからさまに嫌な顔をした。そこで、何やら博人の様子がおかしいことに美鶴は気が付いた。いつもであれば、美鶴の持ち出した話は親身に聞くし、おどけて見せれば面白くなくても笑った。しかし、今日の博人はどこか陰鬱で、不満げに見えた。


 紅茶の水面を眺めていた先ほどは、何か悩みがあるのかと感じたが、どちらかと言うと、何か別の理由があるのではないかと美鶴は思い始めていた。


「あのさ――」博人はため息を吐くように呟くと、首を傾けて美鶴を睨んだ。


 しかし、反射的にそれを遮って美鶴は声をかぶせた。「あ、そうだ!」


 博人は話に水を差した美鶴をさらに睨んだが、美鶴が子供のようにはしゃぐので我慢して「なんだ?」と訊いた。


「また少し過去に戻って貯金箱を割って中の金を取ったら、また少し過去に戻って貯金箱を割って金を取る。そうしてどんどん金を集めていけば、一生金に困らなくないか?」


 さっそく美鶴は床の時計を取って、針を回そうとする。しかし、それを博人が立ち上がって制止した。「ああ、あの空間の回転が嫌いなのか?」と美鶴は言ったが、博人はいいからやめろよ、と時計を取り上げた。


「おいおい、大丈夫だって、お前にだって金はあげるし、あの回転を味わいたくないなら廊下に出てればいい。遡るのは部屋だけだからな」


「違うだろう。お前、間違ってるよ」


「え? 何が? せっかく良い物手に入れたのに使わない手はないって」


 半笑いで両手を広げる美鶴に対して、ついに博人は怒りをあらわにした。


「そうじゃない! 今はそんな時期じゃないだろう! 早く働いて元の生活に戻ることを優先に考えろよ! 心配して来てみれば、オマエどんどんだらしくなってるじゃないか! 前はコンビニの紅茶なんかじゃなかっただろう! 美味いコーヒー出してくれたじゃないか! 高いコーヒー買う余裕もなくなってるんだろ? 今のオマエを見てると情けなくなるぞ!」


 美鶴はうっとうしそうに耳を弄ると、「うるさいな」と低い声を出した。


「俺の勝手だろう。この時計さえあれば金は何とかなる。働く必要なんかないさ」


 美鶴は博人が憤慨しても、焦ることなく、どちらかというならば反発さえしているようにも見えた。嘲るような半笑いを崩さない。


 突如、博人が時計を投げ出して美鶴に飛び掛った。拳をめいいっぱい振りかぶって、美鶴の顔面にそれを叩きつける。もともと小柄なせいか威力はなかったが、それでも美鶴はおののいて表情を硬直させた。


「金とか、そういう問題じゃないだろ! 今のオマエには以前の人間味がないんだよ! いつからそんな性根の腐りきった野郎になったんだ!」


 美鶴の口角に血がにじむ。


 無言が続いて二人はしばらく見詰め合っていたが、ややあって博人が息をついた。


「今日は、おまえに仕事の話を持ってきたんだ。俺の会社の系列で人員不足のところがある。おまえがその気なら俺が顔を利かせてやるから」


 博人はそこで、言葉を区切って一拍おいた。「また、頑張ってみないか?」


 美鶴には、なぜか人生最大の決断に思えた。当然のことながら、本心は『働きたい』と思っていたに違いないが、殴られたあとの悔しさ、友人に世話を焼かれているという不甲斐なさ、リストラは会社側の身勝手なものだったのに、まるで自分が一番悪いと決め付けられているような言い草への怒り、それらが交差しあって、本願の『働きたい』という地点まで気持ちが到達するのを邪魔している。


「いや、俺は自分の生き方でやっていく」


 美鶴はそう言って固唾を呑んだ。


「自分の生き方か……」


 博人は無表情で呟くと、「その自分の行き方ってのが、時計に頼った人生じゃないことを願っているよ」と言って部屋から出て行った。


 部屋の戸がバタン、と音を立てて閉まると、独りになった美鶴はその場にへたり込んでしばらく黙り込んでいた。閑散とした室内に、時計の針が時を刻む音だけが響く。


「くそう」


 美鶴は何に対してか分からない台詞を言った。仕事の誘いを断ったことに対してか、自分より小柄な男に殴られたことに対してか、現在までにおける自分の人生の不毛さに対してか、本人にすら分かっていなかった。


 美鶴は何か思いついたように床を這って時計の元まで行くと、一生懸命に針を回し始めた。時計の針が幾度となく回され、それが何時間も続いた。無我夢中で回しているうちに、美鶴の目からは涙が溢れてきていた。


 やがて、気が晴れるまで回すと、美鶴は一呼吸置いてから凸部分へ触れた。


 急速に室内が回りだし、騒音が大きくなるにつれて、意識までも持っていかれそうになる。美鶴は回転する世界のなかで、手元の時計だけを神妙な顔で見つめていた。


 回転が止まると、美鶴はゆっくりと時計から視線を外し、部屋の内装を見た。


 そして、絶望した。


 そこは、二年後の部屋であった。


 内装も、雰囲気も天井の木目も節穴も何も変わっていない。


 変わらない部屋の情景が、安心できる空間が、美鶴は好きだったはずだが、このときばかりは、その変わらない情景が悪夢のように見えた。なぜならば、その情景は今後の美鶴の人生に何の変哲も好転もないことを表していたからである。もしも、この先の未来にて美鶴が大成し、安定した生活を送っていれば、家も買い替えるだろうし、暖房器具の一つや二つは購入しているだろう。しかし、部屋は何も変わらず、ただ古びていた。たとえ、金を手に入れようと、時を行き来しようと、自分は何も成長することができない。今の草臥れた生活を続けるしかない。そして、何の意味も残さずに死んでいく。それを裏付けられたような気がして、美鶴はその場に崩れ落ちた。


 しかし、泣きながらも、まだ先の人生であれば部屋の様子は変わるかもしれないと、もう少し先の未来には人生の転機が起こっているのではないかと、また針を必死に回し始めた。鼻水が唇からあごに伝わり、時計のフェイスに滴り落ちる。時折、髪をかきむしっったり、癇癪を起こして無闇に暴れたりしながらも、針を懸命に回し続けた。


 突如、どこからともなく、かつての友人の声が聞こえてくるような気がした。


――早く働いて元の生活に戻ることを優先に考えろよ!


――美味いコーヒー出してくれたじゃないか!


――金とか、そういう問題じゃないだろ!


――今のオマエには以前の人間味がないんだよ!


 それぞれの言葉がリフレインされ、次第に針を回す指が止まっていった。


 博人が自分のために口に苦いセリフを向けてくれたというのに、自分は何をしているのかと。彼は決して優越感に浸るためだとか、馬鹿にするために自分へ憤ったのではない、自分のことを心配してくれていたのだ。なのに、自分はなにをやっているのか、と。


 そう思うにつけ、涙が止まらなかった。いつのまにか、時計は放り出していた。


――また、頑張ってみないか?


 美鶴は子供のように、声を上げて泣き喚いた。


 自分が取り返しのつかないことをしてしまった事実に対して、やるせない思いを涙に変換して放出することしか頭に浮かばなかった。


――その自分の行き方ってのが、時計に頼った人生じゃないことを願っているよ。


 美鶴は、何度か独りでに頷くと、傍らの時計を掴んで立ち上がった。


「これでいいんだよな」時計を持った腕を、天井に振りかざす。


 次の瞬間には、床に時計が打ち付けられていた。破片が散らばる。


 時計はいとも容易く破損した。美鶴は自分自身に言い聞かせるようもう一度つぶやく。「これでいいんだ」


 美鶴が肩で息をしていると、時計がいきなり発光をはじめた。次第に光は強さを増して、最後には、視界が真っ白になるほど強烈な閃光が室内に広がった。


 美鶴は、その光の中で自身の意識が失われつつあることを感じた。


 しかし、めげずに大きく一歩を踏み出す。


「こんな人生で終わってたまるか!」


 最後にそう叫ぶと、光が収まって視界にいつもの自分の部屋が広がった。


 カレンダーを見ると、それは元居た日付になっていて、まるで今までの出来事が嘘だったかのような印象を受けた。


 部屋を見回しても、小学生の頃から使っていた学習机、くすんだ色の布団、何度も読み返した漫画が並べてある本棚、隅に押しやられたクッション、中身が溢れかえったゴミ箱、砂埃を付着させた硝子窓、コンビニのレジ袋や床に置かれた紅茶入りのコップ。すべてが元の通りなので、本当に夢だったんじゃないかと美鶴は思った。


 しかし、美鶴はふと足元を見ると、満面の笑みを浮かべて「あのやろう」と呟いた。


 美鶴が踏み出した床の地点には、嘔吐物が現実味を交えて佇んでいた。


          (了)


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