第二章 記憶をなくしたメリンの少女メルメル
ロウソクが何本も並んだ円形の燭台に、その光を反射板で覆って明るくさせた無影灯。手術で使われる大きなライトと呼べば解り良いでしょうか。もちろん、電球などに比べてしまえば精度は落ちてしまいますが、この世界であればそれは最新の設備でした。
その円形燭台には可動式のアームが付けられていて、より光が当たるような位置にと、男の手でグッと引き寄せられます。錆びたビスが耳障りな音を響かせましたが、幸いなことに落ちることはありません。間接部分がテープでグルグル巻きにされてることから、かなり年季の入ったものだと解ります。
光に照らされた傷口を確認し、銀色のトレーからピンセットを掴みました。ガチャッという重厚な音が響き渡ります。消毒液に浸したガーゼを摘み、丁寧に消毒していきます。
ちょっと大きい裂傷には、針と糸を取りして手早く縫いつけてしまいます。慣れた手つきで、シュルシュルとあっという間に塞いでしまうのです。そこは縫い目も見当たらないほど綺麗になりました。
片目にはめた拡大鏡を外し、少し垂れた感じの目が油断無く全身を点検していきます。見落とした傷はないかを探しているのです。
治療が全て終えたことを確認し終わると、ヨレヨレの白衣の胸ポケットから、タバコを取り出し口にくわます。照明のガラス蓋の一枚を開けると、そのロウソクを利用してタバコに火をつけました。
「どれもこれも傷口は浅いが…。女子供にやる仕打ちじゃねぇな」
煙を吹き出し、椅子から立ち上がって、窓の側に寄るとシャッターを開きました。
ちょうど良いタイミングで、朝靄の奥から、ちょうど山間に登った日の光が部屋の中に差し込みます。その光が治療を受けていた人物…ノアの顔に当たりました。
うなり声を上げて、ノアは眩しそうに目を開きます。
「……う、んん? ここは?」
寝ぼけ眼をこすります。この寝ている床は固くて冷たくて、かなり寝心地が悪いです。
ハッキリしない頭のまま、周りを見渡すと、なぜか自分はダイニングテーブルの上に寝かされていたのでした。
なんだか、ずいぶんと長く寝てたように感じます。腕も足も重くて鈍く、まるで自分の物ではないかのようです。
「よう。お目覚めだな。ま、ほとんど心配はねぇだろうが、もう少し休んでおけ」
窓辺に立つその男がそう言いました。その顔を見て、ノアは驚いて目を見開きます。
「バーボンおじさん!? なんで?」
「なんでってこたぁねぇだろ。それによ、いつも言ってんだろ。その“おじさん”…ってのはやめてくれよ。これでも、まだ25なんだぜ」
白髪まじりの髪をガシガシとかいて、バーボンは苦笑しました。
右目に眼帯、左腕にはフック状の義手。目の下の深いシワに、不健康そうなやせ細った身体。薄汚れた白衣を着たバーボンは、ノアがおじさんと言ってしまってもおかしくないわけです。どう見たって、20代の若さは欠片ほどもありませんでした。
「…アタシ、どうしてここに? 傷を…おじさんが治してくれたの?」
傷口の包帯を見て、バーボンが治療してくれたのだとノアは気づきました。
バーボンはジャスト城下町の外れに住む町医者です。バッカレスとも古い知り合いで、盗賊のようなならず者とも縁がある顔の広い人物です。
ノアとも、もちろん面識がありました。昔から怪我をしたり病気になったりする度に、バッカレスに担がれてこのバーボンの元に来ていたのです。
「夜中に駆け込んでくる患者はごまんといるが、さすがに玄関前で倒れているのは初めてだったぜ。しかも、よく知った顔がな」
「え? だって、アタシはエルジメン橋にいたんだよ? こんなところまで来た覚えが…」
「どういう経緯かまでは知らねぇよ。物音がしたんで、扉開けたらお前が転がってたってのはホントだ」
ようやくノアの頭が回り始めました。ジャスト城に秘宝エルマドールを盗みに入り、大臣オ・パイにやられて、命からがらエルジメン橋にまで逃げ延びたのです。
しかし、バーボン医師が治療を行っている自宅兼診療所は、ジャスト城下町の北側です。盗賊の森やエルジメン橋があるのは南方なので、まるで正反対の方向なのです。瀕死だったノアが自力でバーボン診療所にやって来れたとは考えにくいことでした。
「…そんな話よかだ。まーた危ないことに首をつっこんだんだろうが? あん? どうだ?」
バーボンはため息をつきながら、ダイニングチェアにドッカと乱暴に座りました。
ノアがダイニングテーブルに寝てさえいなければ、このまま食事をしてもおかしくはなかったでしょう。
「えっと…その」
なんと答えていいものか、ノアは口ごもります。
「はー。いいか。よく聞け。今回は本当にヤバイところだったんだぜ」
「ヤバイ…って」
「お前が受けたのは『死至突』ってヤツだ。そいつは生命の根幹を打ち砕いてしまう最悪最低の殺人技だ」
バーボンは、ノアの胸元を指差します。
オ・パイに突かれた時の痛みを思いだし、ノアは知らずのうちに胸の中央をかばうようにおさえました。
「…だが、俺の前に治療したヤツがいるな。それも魔法の類で、適切な応急処置だった。もし細胞が壊死し始めてたなら、俺でも治してやれん」
果物のバスケットに入っていたカルテを取り出し、ペラッとめくって言いました。
診察室でタバコを吸ったり、ダイニングテーブルを寝台にしたりするぐらいにいい加減なところが目立つわけですが、患者の記録だけはきっちり残しているのです。
「魔法…」
ノアは首を少し傾げました。そして、思い出します。這々の体で逃げてきたノアが、エルジメン橋で出会った男のことを。
ボサボサの茶髪に、丸縁の眼鏡の奥から覗く優しげな瞳。乗せられた温かい手。そして、放つ癒しの光によって苦痛を取り除いてくれたこと。
その男のことを思い出した瞬間、ノアの顔から火がでるんじゃなかってほどボッと赤くなりました。なぜだか解りませんが、胸がキュッとして、ドキドキと鼓動が早くなります。
「な、なんだ? まだどこか痛むのか?」
バーボンがノアの顔を見てギョッとしました。熱でもあるのでないかと、ツルツルしたノアのおでこに手を当てます。ですが、ブンブンと首を横に振りました。
「ありえない!」
「え?」
いきなりノアが叫んだので、バーボンが目を瞬きます。
「だって、マッチョじゃないし! メガネだったし! 弱そうだし! たぶん、バーボンおじさんよりもずっとおじさんだし!」
「…はぁ? 誰の話だ? ってか、おじさんって連呼すんじゃねぇよ」
「あー! うー!」
ノアは頭を掻きむしります。自分の意志に反して興奮する自分の体が恨めしく思えてなりません。
必死で頭の中から消そうとしました。それでも、なぜか消えません。消そうと思えば思うほど、あの自分を見る優しげな瞳が浮かび上がってくるのです。
ポンと乗せられた手の温かさなど、今でもハッキリ思い出せるぐらいです。ノアは自分の感情が理解できずに、ただただ首を横に振りました。
そんなノアの心情なんて知る由もないバーボンは、訳がわからないと言わんばかりに肩をすくめます。
「魔法! そう、ここに来る前に魔法で治療をしてくれた人がいたんだ! きっと、その人がアタシをここにまで連れてきてくれたんだよ!」
恥ずかしさを誤魔化すかのように、必死にまくしたてるノアに、バーボンは天井をにらんで少し考える素振りをしました。
「…んー。だがな、『死至突』を治す魔法ってのは俺も聞いたことがねぇんだ。魔法に長けるメリンにだって、そんなモンを使えるヤツなんていないと思うぜ」
バーボンは天才的な医学知識を持ち、かつてはファルやメリンにも認められていた数少ないデムであったのです。そのためジャスト城周辺しか知らないノアなんかよりも、はるかに多くの人脈を持っています。医療関係だけだったら、メリンの魔法使いの知り合いもかなりいます。そんなバーボンをして、『死至突』を治せる人を知らないのです。
「あれは誰なんだろう…。ここらじゃ、見ない顔だったよ」
「どんなヤツだったんだ?」
「んー、なんか、パッとしない、冴えない感じ」
ノアは思ったままを言いました。確かにそのまんまですが、第一印象と聞かれたらそんな感じでしか答えようがありません。
しかしそんな言葉の裏には、なんでこんな相手にドキドキするんだろうという自分自身への疑問も含まれていました。
「なんだそりゃ…。雰囲気じゃわかんねぇよ。その外見的な特徴とか、何か持ってたとかないのか?」
ノアは「うーん」と頭を捻りました。あの時の状況を深く思いだします。
「丸いメガネをかけてて、大きなリュックサックをもってて…なんだか、探検家みたいだった。服装もポケットだらけのヤツ……」
「リュック? ポケットだらけというと、登山服だな。…だとしたら旅人か? …あー、他には?」
決め手に欠けると言わんばかりに、バーボンは眉を寄せながら、ちょっと苛立たしそうにテーブルの端を指でタンタンと叩きました。
ノアは口をモゴモゴと動かして、さらに思い出します。
「そんなこと言われたって…アタシ、あのとき死にそうなぐらい辛かったわけだし。
あ! あと、右手! 右手が何か…変だった! 爪の先から、刺青みたいな模様があったよ!」
ノアがようやく思い出して言うと、バーボンの目が大きく開きました。
「右手に刺青…だと? まさか、“聖剣エイスト”か? いや、そんな。だが、リュックを背負った登山服姿…」
バーボンがアゴに手を当てて思案します。ノアは不満そうに頬をふくらませました。
「バーボンおじさん!? なんだよ! 一人で考えてないで、アタシにも教えてよ! 誰なの!? 知ってるのか?」
ノアがダイニングテーブルから降り、バーボンの腕を掴んで揺すぶりました。
「あ、ああ。にわかには信じがたいが。だが、お前を治した魔法。仮に『聖魔法』だったとしたら、使い手を一人だけ知っている」
「誰? 教えて!! もったいぶらずに!!」
やけに食い付いてくるノアに、バーボンは少し迷う素振りをしましたが、死んでも離さないとばかりのノアに根負けし、ついに口を開きました。
「…20年前、魔神バルバトスを封じた英雄スタッドだ」
ピタッと、ノアの動きが止まります。
「え? えーー!? あ、あの人が、英雄? あの、英雄スタッド!?」
ノアは悲鳴に近い感じで叫びました。バーボンは咄嗟に自分の耳を抑えます。しかし、間に合わず、ノアの甲高い声のせいで耳の奥がキーンと響きました。
いくら自分が生まれる前の話とはいえ、この世界を救ったスタッドのことは世間知らずのノアでも知っています。
でも、それは絵本とかの物語にでてくるような人物です。普通の人なら、いくら同じ時代に生きているとはいえ、そんな超有名人が自分と関わりを持つなんてまず考えられません。そう思っていたのは、ノアも例外ではありませんでした。
「ウソだぁ!」
「いや、お前の見た特徴となるとそれしか…」
「だって、痩せっぽっちのメガネだよ!?」
「…お前、なんかメガネに恨みでもあんのか?」
まあ、その英雄が冴えない容姿をしていたので、そのギャップに驚いたってのもあるんですよ。ほら、絵画とかだと、有名人ってのはどうしても美形になるじゃないですか。そうじゃなくても、お話で聞く英雄ともなれば、妄想が後押しして、ちょっとその主人公を格好良くしてしまうものです。
ましてや20年前といえば、スタッドも20代そこそこのはずです。どうしても、物語の主人公って、その活躍した時の場面だけ語るもんだから、ずっと歳をとることなんてないって思っちゃうんですよね。そんなことあるわけないんですけれども…。
「まあ、可能性としては…ある。20年前に世界を救った後からほとんど誰にも姿を見せてないんだがな」
「うーん、そうなのか。あの人がスタッド…」
まだ半分信じられないような気持ちでしたが、そんなことよりも相手の名前が判明したことにノアは心の中で拳を握ります。
「俺が昔、ファルの首都レムジンにいたときに、確かヤツの論文で“退化神殿”について書いてあったものがあった。遺跡調査で訪れているとすれば、この辺をうろついていてもおかしくはない」
「“たいかしんでん”?」
「このジャスト城下街から、東に抜けた“退化の大森林”のどこかにあるって噂の遺跡だ」
「遺跡…かぁ。確か、スタッドはそういった研究してる人とかだったよね?」
「ああ。考古学が専門だ。そのヤツの著書に、俺たちファル、メリン、デムの三種族以外の『第四の種族が退化の大森林にいる』っていうような記述があったと思う」
「デム、ファル、メリン以外? へー、どんな種族なの?」
「詳しくは知らんが、進化した種族じゃなく、誰にも相手されなくなった“退化した種族”らしい」
「退化した?」
ノアはヨチヨチ歩きの奇妙な生物のイメージを思い浮かべます。
「…本当にいるんだとしたら、スタッドがそいつらと行動を共にしているのかもな」
バーボンがそう言うのに、ノアの目がキラキラと輝きました。バーボンは逆にしかめっ面になります。
「…おい。まさかとは思うが」
「うん! アタシ、その退化神殿ってとこに行ってみる!」
バーボンは自分の額をおさえました。そして大きく首を横に振ります。
「勘弁してくれ。何を考えていやがる? 退化の大森林は、迷いの森だ。それも、初めて入るヤツは間違いなく迷うって言われてる。
その上、魔神バルバトスは封印されたとはいえな、配下の魔物どもはまだそういう未開の地には残っているんだ。危険すぎる場所だぜ」
「それでも、アタシは…行かなきゃ! スタッドに会わなきゃいけない!」
ノアは、スタッドに会って自分のドキドキの理由を確かめなければならないと思います。
「あぁ? 意味が解らねぇぞ。なぜだ? 何のために会うんだよ?」
バーボンに冷静に問われ、ノアは言葉につまります。それでも、グッと胸を張って言います。
「お礼を、お礼を言わなきゃ…いけない! アタシ、まだ、なにも言っていないから!!」
我ながら、言い訳がましい理由だと思いました。でも、本当のことを言うのは恥ずかしかったのです。そんなことを口に出してしまえば、好きだっていう感情を認めてしまうもののようじゃありませんか。今の段階では、その気持ちの正体を確かめるためにこそ会うのです。
バーボンは特に何も言いませんでした。ただ、ただ、小さくため息をつきます。
「礼なら…治療してやった俺にも言ってもらいたいもんだが」
バーボンが皮肉っぽく言うのに、ノアは自分がお礼を言っていないことに気づきました。
「あ、ご、ごめん。バーボンおじさん、あ、ありがと…」
しどろもどろになって言うと、バーボンはフッと面白そうに笑います。
しかしすぐにその笑みは消え、その顔は重く険しくなりました。
「……ノア。正直、今日お前がズタボロで倒れているのを見かけて、俺はな、ハラワタの底から煮えくり返る思いだった」
バーボンが強く拳を握っているのを見て、ノアは何とも申し訳ない気持ちになります。
「バッカレスの馬鹿が何を考えているかは知らねぇが…」
「違うよ。親分が悪いんじゃない。アレはアタシが…」
「子分を見張るのが親分の仕事だ」
「…でも」
しょげているノアを見て、バーボンは気まずそうに軽く咳払いをします。
「…とにかく、だ。俺はお前の幸せを願っている。危ないことはしてほしくはねぇんだよ」
「…うん。ごめんなさい」
ノアはしんみりとして、コクリと頷きました。バーボンがこういう風に言うということは、本当に心配してのことだからです。
バーボンはノアが小さい頃から、お世話になっている人です。
バッカレスが無責任なところがある分(まあ、酔っぱらってノア一人に城に盗みに行かしたことからもすでにお分かりでしょうが…)、このバーボン医師がノアの兄的な存在であり、また保護者のような役割をしていたのです。
バーボンにとっても、ノアに対してはただの患者ではない以上の、妹や娘に対するような思いがあるのです。
「本当は盗賊なんて世間に顔向けできない稼業は辞めてよ、素直に俺んところで働けば…」
「バーボンおじさん!」
ノアが言葉を遮ったので、バーボンは少しだけ苦い顔をします。
「……昔の思い忘れちゃったの? 『人は定規じゃ計れない』。どんな仕事をしようと、アタシはアタシだよ。ノアだよ」
ノアが言うのに、バーボンはガシガシと頭を掻きました。
「あーあ。やめろよ。昔の俺の台詞なんて…出すな。チッ。思い出しちまったぜ」
またタバコを取り出して火をつけます。一口吸って、リング状になった煙を吐き出します。
「……だが、そうだな。ノアの仕事に俺が口だしていいはずねぇな。悪い、今のは忘れてくれ」
ノアは眼帯と義手を悲しげに見やりました。これがバーボンの心に、肉体よりも深い傷を与えたのだと知ってるからです。
「アタシは大丈夫だって。また怪我したら、おじさんが治してくれるし♪」
ノアがガッツポーズをとると、バーボンは満更でもなさそうにかすかに笑います。
「ったく、バッカレスもお前も勝手を言いやがる。
ま、いずれにせよ、俺が治せないような傷なんかは負ってくるんじゃねぇぞ」
そう言ってバーボンは立ち上がり、書棚から四つに折りたたまれた古い紙をとって持ってきます。そしてそれをノアに手渡しました。
「これは…?」
「退化の大森林の地図だ。ま、怪しげな露店で買ったやつだからな。どこまで正確か知らないが」
「マジ!? ありがと!」
「どうせ、言っても聞かないだろうからな。何の宛もなしに森に突入するよりは少しゃマシだろ」
どう止めても無駄だろうと、バーボンは解っていたのです。
「だが、繰り返すが、決して無理はするんじゃねぇぞ。ちゃんと帰り道は確保しとけ」
「うん!」
ノアは心からバーボンに感謝し、大きく頷いたのでした……。
夜が明けても戻らないノアのことを、シュタイナとヤグルは心配していることでしょう。それに酔いもさめてひどく後悔してるであろうバッカレスの顔が頭の片隅に浮かびました。
しかし、いちいち報告に戻っている間にスタッドに追いつけなくなっては大変です。
彼らのことは頭から振り払い、すぐにノアは退化の大森林へと向かいます。
鬱蒼とした緑深い木々。もう昼近くだというのに、太陽の光はわずかな木漏れ日が申し訳ない程度に地を照らしているだけです。
ひねくれたようにグニャグニャと曲がって生えている幹や枝。足を容赦なく絡みとるように群生してるツタ、割れ岩の上にはびっしりと苔。
おっとっと、危ない危ない。油断してるとすぐに転びそうになります。
加えてどこまで行っても同じ風景が延々と続きます。なるほど。ここが“迷いの森”と言われるのも納得がいきます。
さて、ノアのお腹がグゥー! と、一際大きな音をたてました。ちょっと恥ずかしかったですが周りには誰もいません。ちょうどリスが「キキキ!」と鳴きましたが、まさかノアを笑ったわけでもないでしょう。
「お腹すいた~。そういや昨日の晩から何も食べてないや」
ノアは水筒から水を飲もうとしましたが、空だったようでポタポタと数滴しか落ちてきません。水も飲めないとなると、なんだか余計にお腹が空いた気がします。
「あーあ。チェッ! 失敗したなぁ。バーボンおじさんとこで何か食べさせてもらえば良かった。でもなぁ…」
花柄のエプロン姿のバーボンが、菜箸でなくピンセットを使い、怪しげなビーカーから紫色の液体の調味料を、そして、これまた形容しがたいモザイク必須の不気味な肉にかけてる姿を思い浮かべ、ノアは鳥肌が立ちました。
そういえば、以前にバーボンの料理を食べて、ノアは史上最悪最低の腹痛を経験したのです(もちろん、その後にバーボンが治療したわけですが)。
「医学以外まったくダメなおじさんの手料理を食べるよりは、空腹の方がマシかなぁ…」
そんな失礼なことをノアが言ったせいで、いま頃はバーボン先生は大きなクシャミをしているかもしれませんね。
「あー! なんか食べるものないかな~」
ノアは上を見上げます。果物でもなってればこれ幸いなのですが、こんなところに……あら、あった。
ちょっと拓けた場所で、一本だけ大きな木があります。他の木は葉っぱだらけなのに、それだけはいかにも美味しそうなピンク色の実がたわわに実っていました。まさに「食べてみろ!」って言わんばかりです。
普通は怪しいと思うものですが、そこはノアです。ましてや今は空腹状態。ただでさえ心もとない理性がまったく働きません。
よだれを垂らさんばかりの、可愛い女の子にはちょっとほど遠い、そんな危ない顔つきで、いつもより素早い動作で走りました。どれくらい早いかといえば、かの有名缶詰キャットフードを見た瞬間の猫なみです。まっしぐらなわけですね。
尺取り虫の動きのように跳ね上がり、東京タワーによじ登る巨大コングのように、あっという間にその巨木を制覇します。
そして本能のまま、両手でブチッと木の実をもぎとりました。
「へへへ、美味しそう!」
思ったより大きく、バスケットボールぐらいはあるんですが。それを掲げてノアはニヤッと笑います。
皮をむく? いくつかに切り分ける? そんなものは彼女の辞書にはありません。ただ大口を開けて、そのままガブりつこうとしました。
しかし、その時です(だいたいこういうタイミングなんですよね)!
絹を引き裂くような女性の悲鳴が木霊しました。
ノアはもっていた木の実を落とし、目を丸くします。地面にボチャと落ちてもったいなくはあったんですが、今はそんなことに気にするときではありません。
今の声は切羽つまった時の悲鳴。差し迫った危機を告げているのです。
彼女は手馴れた動作で、腰のダガーをサッと引き抜きます。
いやはや、高いところにいるのが幸いしました。ノアは眉のところに手を当てて遠見を試みます。
たいした苦労もせず、声の主らしき人影がいました。見つけました。ピンク色の長い髪をした少女。こんな森深くには不釣り合いなヒラヒラしたドレスを着ています。
逃げようとする少女を追いかけるのは、木…? はい。間違いなく“木”でございます。樹木であり、ウッド…いや、ツリーでございます。
一瞬そうではないと思ったのは、根っこを足のようにして、枝を手のようにワサワサ動かし、鳥がつついて空けたような空洞の目を持つ木だからです。平たく言いますと、“動いている”わけですね。
これはノアが初めて目にする魔物でした。 名前は…『朴念仁』とでも呼んでおきましょう!
ノアは身軽に木から飛び降り、ピンクの髪の少女のいる位置めがけて真っ直ぐに走りました。
「あ! まてまて! まてーい!」
少女と朴念人の間に割って入り、勢い余って、片足で三歩ほどトントントンと、最後に前に手がでていたので、それはまるで歌舞伎役者の見栄きりのようです。最後に首をグルリと回してニラみをきかせました。完璧です! 合いの手が入ればなお良かった!
朴念仁も怯えて…というよりは呆れてたのかもしれませんが、ピタリと動きを止めました。
「魔物にとっちゃ、人を襲うのは本分かもしれないけど、この義賊ノア様の目に入ったとあっちゃあ、見捨てることはできないね!」
言葉が通じのかどうかは解りませんが、朴念仁は邪魔をされたことだけは解ったようでガサガサと頭を振ります。怒っているようです。
「あ、あなたは…」
「いいから逃げなよ! コイツはアタシに任せといて!」
ノアは振り向きもせずに言います。
朴念仁が腕…のように見える四本の枝を広げました。ノアに掴みかかろうとします!
「ヘン! トロいよ!」
ノアはわずかに身を屈めたかと思うと、一気に駆け出し、襲いかかる四本の腕をあっという間に切り落としてしまいました。通販にある高性能高枝バサミでもこうはいきません! 彼女がいればお庭のお手入れに悩むことはないでしょう!
朴念仁は、無くなった自分の手を物悲しそうに見やりました。
「ウォ…ウォオオオローン!!!」
口らしき丸っこい穴の奥から、とんでもない悲鳴を上げます! 自分の頭上に巣を作っていた鳥が驚いて、バサバサと飛び去りました。
「うわ! なんて、声を出すんだよ!?」
ノアは続けて朴念仁の胴体を切りつけます。
「ウォオオオオオオローン!!!!!」
さらに大きい悲鳴をあげ、ノアはたまらずに耳を抑えました。
「うるさぁーい!」
「ダメ! その子は傷つけると仲間を…」
ピンク色の髪の少女が言うが早いか、ドドドドッ! という地響きと共に、朴念仁の群れが姿を現しました。仲間の悲鳴を聞き付けて集まってきたのです。
数は10…いや、20匹はいるでしょうか! どこぞの警備会社並の駆け付き速度です!
「えー!? こりゃ、多勢に無勢だよッ!」
振り回される腕をかわし、ノアは間合いを取りつつ、一体ずつを心掛けて相手をしていきます。
ですが、ノアがダガーを振る度に…
「ウォオオオオオローン!」
「ウォオオオオオオオローーン!!」
「ウォロオオオオオオオオローーーーン!!!」
朴念仁は次から次へと断末魔をあげ、その度に敵の数が増えていきます。キリがありません。
ノアはまだ戦えましたが、なにせ朴念仁の悲鳴のすごいこと。耳がクワンクワン、頭がガンガンしてきて、さすがに攻撃の手も鈍くなっていきます。
「うう、このままじゃ…」
朴念仁の群れに押し潰され、ノアは目を白黒させました。打ち寄せる緑はまるで津波のようであります。
「『火の精霊よ、血潮の如き赤き粉を盛大に散らせ、怒り猛る焔の暴風と為せ! ……ファイヤーストーム!!』」
響き渡る不思議な呪文が聞こえたかと思うと、シャーッ! と、蛇の唸るような音を立てて赤い軌跡が朴念仁の足下に描かれました。それは複雑な魔法陣です。
魔法陣が描き終わると、今度は猛烈な突風が吹き荒れます。チッとどこかで小さな種火がつき、何かに引火しました。瞬く間に火は拡がり、風が巻き上げることで業火と化します! まさにそれは炎の竜巻です!
炎の竜巻はまるで意思を持っているかのように蠢き、朴念仁たちを次から次へと飲み込んでいきます! 悲鳴をあげようにも、炎が酸素を燃やしてしまうので声は響きません。朴念仁は哀れにも無言のままグズグズと崩れて、灰や炭へとなってしまいます。
「うわ、うわわわッ! あっちー! あっちゃちゃちゃッ!!」
朴念仁と共に炎に巻き込まれたノアは飛び上がりました。このままでは一緒に灰になってしまいます!
「あっちゃっちゃッ! って…え? あ、あれ?」
飛び上がっていたノアですが、不思議なことが起きているのに、ようやく気づきます。
周りの朴念仁は次々と崩れていくのに、ノアの身体は燃えないのです。確かに炎に包まれているのですが、熱くも痛くもないのです。そういえば、周囲が燃えて空気が薄くなっているはずなのに呼吸も楽にできます。
「な、なんだ? これ……」
「魔法です。対象をこの子たちにしましたから、私たちはダメージを負うことはありません。安心してください」
後ろから少女にそう言われ、ノアは初めてそこで振り向きました。
ピンクの髪とまったく同じ色の瞳。まるで絵本の世界からそのままの姿で飛び出してきたような女の子です。
とっても可愛い、とっても愛らしいとはこういうことを言うのでしょう。黙っていても保護欲をそそられ、何がなんでも守らずにはいられなくなる存在。そう形容するに相応しい少女でした。
パッチリと開いた目に長い睫。ほのかに朱を帯びた頬、そして食べ頃のサクランボのように艶やかな魅力的な唇。
そんな娘が、これまた絵本のお姫様が当たり前のように着ているような、フリルの沢山ついた可愛いドレスを着ているのです。可愛いに可愛いの乗法でありまして、ノアが男の子だったら、そりゃもう一目でノックダウンしてしまったことでしょう。あまり自分が女の子であるという自覚が少ないノアも、何かよくわかりませんが完全に負けたような気がしました。
ですが、ノアが1番に目がいったのはそこではありません。ピンク色のロングヘアーの上に、2本の白い耳。ピョンピョンと楕円形のそれが生えているのです。音のする方向にわずかにピクピクと動いていることから、それは作り物の類ではないのです。そう、この長い耳は、ウサギが進化したメリンの特徴なのです。
「…メリンの女の子?」
ノアがあんぐりと口を開けます。
遠目にだったら、メリンやファルを見たことがあります。ですが、メリンやファルは知能の低く野蛮なエテ公ことデムを嫌っている節があります。それゆえ、側で見たり、ましてや話すような機会なんてまずありません。一般人にしてもそうなので、ましてや盗賊なんて日の当たらない仕事をしているノアたちならばなおさらです。
そのメリンの少女は、ノアに向かってニコリと笑いました。ですが、すぐに目を伏せ、悲しそうに眉を寄せます。それを見て、なぜかノアの胸は少し痛みました。メリンの少女の目は、燃え尽きた朴念仁たちに向けられています。
「……ごめんなさい。私が、あなたの足を間違って踏まなければ襲ってくることはなかったのに。
怖かったでしょう。熱かったでしょうね。でも、こうするしか他に私にはなかったのです。本当にごめんなさい」
メリンの少女はポロッと涙を零しました。そして、積み重なった灰をわずかにどかします。すると、その下に小さな新芽がありました。
よく見ると、朴念仁が居た場所に、それぞれ小さな新芽が芽生えているのです。これは朴念仁たちの居た数の分だけあるんではないでしょうか。
「また大きくなるには時間がかかってしまいますね。
でも、次に大きくなったときはどうか魔物になりませんように。大きな…大きくて立派な木に成長して下さいね」
メリンの少女はひざまづいて、両手を組んでそうお祈りをします。
ハンカチで目の端を拭い、メリンの少女はゆっくりと立ち上がります。そして、ノアに向かって再びニコリと笑いました。
「危ないところをありがとうございました。私はメルメルといいます」
そう言って、メルメルは深くお辞儀をします。それだけで、優しく礼儀正しい子なんだと解ります。
「あ、あーっと、アタシは…ノア。えっと、ジャスト城の外れの森に住んでいる盗賊なんだけど」
結果的に助けられたのは自分なので、ノアは複雑な気持ちでいました。気まずそうに鼻の下を擦ります。
「“じゃすと”城? “とうぞく”…?」
たどたどしく復唱し、メルメルはちょっと小首を傾げます。
喋っている口をよく見ると、唇はちょっと三ツ口になっているみたいです。上唇の真ん中が少し切れていました。
「え? 知らない? アンタ、メリンなんだろ?」
ノアは不思議に思って尋ねます。
メリンは、盗賊の森を越えた先に住んでいるのです。もしこの退化の大森林に来たとなれば、どのルートを利用したにしてもジャスト城は通過せねば来れないらずだからです。
「ええっと……私、少し前からここに住んでいて」
「え!? ここに住んでる!?」
ノアはビックリして目を丸くしました。こんな危険な森にいただけでも不思議なのに、住んでいるというのだから余計に驚きです。
「その、私、ちょうど1年ほど前からの記憶がなくて。辛うじて覚えているのは、自分の名前だけなので…」
メルメルはしょぼんとした様子です。二つの白い耳が、力無くパタンと前に倒れました。
「記憶がない? 記憶喪失なの?」
「はい。一年前、どうしてかこの森に倒れていまして…。そこを『ボーズ星人』さんたちに助けてもらったのです」
「ボーズ星人? な、なにそれ?」
怪しげな名前を聞いて、ノアは怪しげな顔をします。
「ここに遥か昔から住んでいる原住人さんです。とても優しい人たちで、こんな私をも受け入れて一緒に住まわせてくれているんです。
今日は木の実をとるお使いに出ていて…道に迷ってしまって」
ノアは「ふぅーん」と頷きました。バーボンが言っていた第四の種族というのは、そのボーズ星人と呼ばれる原住民なのかも知れないと思ったのです。
「うーん。よし、なら、アタシが一緒にアンタの家を探してあげるよ。正直、アタシも道に迷っちゃってさぁ」
“アタシも道に迷っちゃってさぁ”は心なしか小声です。あんまり格好が付かなかったので言い辛かったのですが、メルメルは特に気にした様子はありませんでした。
「本当ですか!?」
嬉しそうに両手をパチンと合わせます。
「うん。その、ボーズ星人…ってのに聞けば、もしかしたら退化神殿の場所もわかるかも知れないしね」
ノアの言葉に、今度はメルメルが目を大きくしました。
「退化神殿? あ。そこです!」
「へ? 何がそこ?」
「私が住んでいる場所ですよ!」
「えーッ!? な、なら、スタッドって知っている!? アタシ、その人を捜しにきたんだけど!」
ノアはガシッとメルメルの肩を掴みました。メルメルの耳がピョンと立ち上がります。
「え? スタッド…さん? 私は知りませんけれど」
「えー! なんでもいいんだ! なんか森とかで変わったことなかった?」
「そんなことを言われても…。
あ! で、でも、そういえば、長老様だったら何か知っておられるかも。お客様がどうとか仰っていたので。私、そのためのお持てなしの木の実を探していたので…」
「マジ? おお! いいね! なんか、スタッドに近くなってきた!!」
ノアはテンションが上がってきて、いても立ってもいられずその場を駆け足でグルグル回ります。
「ああ、でも、ノアさんに出会えて良かった。私、これからどうしていいかと心細かったので…」
メルメルは胸に手をあてて、心底ホッとしたような顔をしました。
「こっちも仲間ができて心強いよ!
それで、“さん”なんかいらないから。アタシのことはノアでいいよ!」
「で、でも…」
「たぶん、歳だって同じぐらいでしょ?」
丁寧なメルメルに、ちょっとノアは歯がゆさを感じていたのです。「もっと気楽に話してよ」と、ノアはニカッと笑います。
「ええっと、私は今年で16歳です…えっと、たぶん…なんですけど」
「じゃあ、同い年じゃん!」
ノアはますますテンションが上がります。同い年で女の子の友達なんていなかったからです。
「じゃあ、アタシもアンタのことメルって呼ぶからさ! アタシのこともノアって呼んでよ♪」
メルメルは嬉しそうに、ニッコリと微笑みました。
「はい! ノア、どうか、仲良くしてくださいね! よろしくお願いします!」
「うん! メル。こちらこそよろしくね♪」
こうして、思いがけない出会いによって、メルはノアの旅の仲間となったのでした。
「あ、そういえば木の実を探していたって言ったよね? アタシ、あそこで見かけたんだ!」
ハッと思いだし、ノアは猛ダッシュでさっきのピンク色のバスケットボールみたいな果実をもぎ取ってきました。
「ほら! メル! おもてなしだったらさ! これぐらい立派なのがいいでしょ!」
ノアはニカッと笑い、それにかぶりつこうとしました。そういえば、お腹が空いていたのです。
「あ! ダメです!」
「え? 大丈夫だって。まだ取りきれないくらい木にぶら下がってるんだから一つぐらい…」
「そうでなくて…。ノア。それ、朴念仁さんの“毒の実”…ですよ。食べたら、3秒であの世逝きです」
メルが青い顔をして言うのに、ノアはそのままの姿勢で硬直して、ポロリと木の実を地面に落としたのでした…………。