第十八章 希望を乗せた舟
ロックゴーレムを倒して2日後のレムジン…
大教会は臨時の救護施設に変わっていました。
各家のベッドを運び込み、椅子をどかして幾つも並べられています。そこでは未だ治療を終えていない患者であふれかえっていました。
「おい! そっちのは火傷の治療より、出血を先に止めろ!!
そこ! ガラスの破片をとってから、治療魔法だ。なんでも、魔法かけて治せばいいってもんじゃない!!
あ? 腹痛だ。それなら、あの棚の3段目に薬があるから渡してやれ。
なに? あっちで息してない? わかった。すぐに行く!
ああ、この患者の包帯たのむ。あとは巻くだけだからな!」
地元の病院関係者に的確に指示をだしながら、自身も数十人の患者を相手に、息をつく間もなくバーボンがかけずり回っていました。かれこれずっと、戦いが終わってから不眠不休で働いているのです。
「オイ! バーボン!!」
松葉杖をついたバッカレスが、入口から声をかけます。心臓マッサージを終えて、額の汗を拭っているバーボンにはその声は聞こえていませんでした。再び大きな声で呼びかけると、ハッとして振り返ります。
「忙しそうだな…。話できっか?」
「ああ。重篤な患者はほとんど治療を終えたしな…。あとは治療魔法でもなんとかなるだろ。急変は気を付けなきゃいけねぇが」
そう言うバーボンの顔は疲れていましたが、その眼光は全く衰えていませんでした。こういう時のバーボンのタフさは、バッカレスが一番良く知っています。どんな患者を相手にも少しも手を抜きません。これがレムジンに認められた優秀な医師の姿なのでしょう。
バーボンは血にまみれた白衣を脱ぎます。バッカレスが顎で外を差すと、二人で大教会の外に出ました。
外では、コネミとファラーの二人が立っています。どうやらバッカレスと共に来たようです。
2人とも怪我をしていて、包帯を巻いていたりはしましたが、それほど大きな傷ではないというのは診察したバーボンには解っていました。
「バーボンさんがいなければ、多くの犠牲者がでていたところでした。それが最小限に止められたこと…。レムジンを代表して御礼申し上げます」
ファラーが深々と頭を下げるのに、バーボンは火を付けたタバコの煙を払いながら手を振りました。
「俺だけじゃねぇさ。俺が残していった医療マニュアルを未だに勉強していたヤツらがいたおかげだ。ずいぶんと仕事がしやすかったぜ。それに、メリンの魔法もなきゃ間に合わない治療もあったしな」
「そんな謙遜しなくともいいじゃないですか。バーボン医師は、聞いていた噂以上だと改めて知りましたよ」
コネミが大きな腹を叩いて笑います。
「よく言うぜ…。あんたこそ、気絶してたと思いきや、治療もろくに受けずに瓦礫の下のヤツら助けに行ったじゃねぇか。さすが守護者と呼ばれるだけはあるな」
バーボンは煙を吐きながらニヤリと笑います。
「やめてくださいよ。隠居した身ですから…。おっと、まあ、こんなことを話すためにきたわけではなくて…。バッカレス親分」
コネミがバッカレスの方を見やります。バッカレスはもったいぶったようにゴホンと大きく咳払いしました。
「あれから2日が経ったが…。ノアたちからは何の連絡もねぇ。ちぃとランドレークにまで様子を見に行こうかと話してたんだが」
その言葉に、バーボンは思わず、バッカレスの怪我の箇所を数えました。
「…その身体でか? 自殺行為だぜ。無事を確かめに行くなら、俺が行くぜ」
バーボンの言葉に、バッカレスは苦々しい顔つきをします。
「こんなのかすり傷にもはいらねぇ! それに大司教のジイサンもついてきてくれるって言うしな」
「魔法力が回復すれば、私も足手まといにはならないだろうからね」
ファラーが人差し指を立てて笑います。
「猊下が行かれるなら、面倒ではありますが、私も共しなければならないでしょう。本当に面倒ですが…」
コネミの失礼発言は相変わらずでしたが、それに慣れているのかファラーの顔色は寸分も変わりません。
「…チッ。どいつもこいつも怪我人のくせに。絶対安静…っても、どうせ聞かねぇんだろ」
バーボンが仕方ないと肩をすくめます。もちろん、医者として同行するつもりです。
「それでは、さっそくドレード元老長に移送魔法陣の使用許可を…」
そうファラーが口にした瞬間でした。
「おーい! 何かが海岸に来たぞッ!!!」
ウィリアムに乗り、高速でやってくるステラが叫びました……。
それより数時間前…。ラグナロク遺跡。
スタッドが地面に聖剣を突き刺し、そこから眩い輝きが放たれます。今いる地面が崩壊していくのを感じます。一瞬の無重力感。エレベーターで降りるときに、スーッと抜けるようなあの嫌な感じです。
「さあ! 見せよう! これが…真のラグナロク遺跡の姿!! 魔神バルバトスを倒すために僕が隠し続けてきた本当の切り札だ!!! ノア、今こそが“時”なんだ!!! 導きたまえ! 聖剣エイストよ! その意思のままに!」
聖剣エイストの輝きが強まったことによって、皆が思わず目をつむります。いま自分がどこにいるかも解りません。方向感覚が全くなくなってしまったのです。
やがて光量が少しずつで薄れていきます。ノアは恐る恐る、ゆっくりと眼を開いてみました。
「なん…だ?」
変な感じがします。なにか視界が暗闇で覆われているようです。
ノアはまたスタッドによって幻術をかけられたのではないかと思いました。
「…さあ、抜けるよ!!」
どこからか解りませんが、スタッドの声が響きます。
ノアが暗闇に目をこらす間もなく、グラグラと大きく周囲が揺れました。
「うわ! 地震!!?」
「きゃああ!」
「ま、またかよ!!」
「ニャー! グラグラはもうイヤだニャー!!」
「何も見えないボー!!」
「お姉ちゃん!! どこぉ!?」
周囲が見渡せないせいか、皆がかなり動揺しているようです。
「大丈夫。もう収まるよ!! 封印は解かれたッ!!」
スタッドの声と共に、先ほどとは違う光が遠くから輝きます。それはグラグラとする振動と共に徐々に、徐々に大きくなっていきます!!
シャキィーーーーン!!!
パアッーーーーン!!!!
何かが砕ける音が響きます。スタッドが何かしたのだろうというのは予想するに難しくはありません。スタッドが聖魔法を放つときは、そんな音が響いていたのですから…。
まずノアが感じたのは、潮風の心地よい香りでした。釣り人の海で、そしてバーボンの住んでいた家の裏庭で、胸一杯に吸い込んだあの香りです。それらが顔に吹き付けられ、ノアは頭を揺すって、ゆっくりと眼を開きました。
最初に見えたのは、青い海をバックに、にこやかに微笑んでいるスタッドでした。聖剣エイストを杖代わりにして立っています。
「…時は進み、黄昏によって、うやむやに隠されていた事象の真実が明らかになる。薄闇のベールははがされ、ノアと聖剣エイストという2つの鍵が古の扉を開いたんだ」
スタッドの言っていることの意味はノアにはまるで解りませんでしたが、周囲を見回してノアは驚きに目をグルリンと回しました。
「な、なんだこれ!! アタシたち、う、海のど真ん中にいる!!?」
そうです。辺りのすべてが海なのです。果てしない海原のど真ん中に、ノアたちは不安定な足場の上にいるのでした。
波に揺れて地面が斜めになったことで、ノアたちは落ちないようにと慌ててしゃがみます。
「お、落ちるボー! 水は怖いボー!!」
「うわあんッ!」
ボーズ太郎は青い顔をしてガタガタと震えます。シャリオはノアの腰にしがみつきました。
その時、ゴッ! ゴッ! ゴッ! という腹の底から響く重低音の振動がしました。波によって揺れているだけでなく、どうやら足場自体が動いているようでした。
「おや。どうやらまだ封印が完全には解けきっていないらしいね。まだ揺れるかもしれないから気を付けなさい」
スタッドは小首を傾げて言います。
「これは…どういうことだ? この音は…あの地震?」
足場に耳を当てて、音を聞きながらレイは眉を寄せます。
「ああ。そうだよ。最近、多発している地震は悪魔が暴れているせいじゃない。こいつの封印が解ける音と振動だったんだよ」
スタッドは、コツコツと聖剣で足場をつっつきます。
改めて自分たちの足場をみやると、それは何とも妙な形をしていました。
全体は木の葉のような楕円形っぽく、組み合わされた素材は木のようですが、触った質感は鉄などに近いです。人工的なものに間違いありませんでしたが、ノアたちは今までこういうものを見たことがありませんでした。
「…これは『舟』だよ」
「ふね?」
ノアたちは全く聞いた事がない言葉です。レイだけは思い当たる節があるのか、顎に手をやって何やら考えこみます。
「海を渡るための道具さ。これが…ラグナロク遺跡が隠していた本当の姿。聖剣エイストを鍵にして封印されていた古代の叡智なんだよ」
スタッドが聖剣エイストを掲げます。すると、舟がそれに反応するように振動します。そして、ノアたちの後ろから何かが迫りだしてきました。それは家一軒ぐらいありそうです。
「遙か昔、古代人たちが、僕たちデム、ファル、メリンの祖先を連れて…ランドレークに着いたとされている」
スタッドはゆっくりと歩きながら、説明をはじめます。
「そして、役目を終えたこの舟を、ラグナロク遺跡という形に変えて、聖剣エイストと共に隠したんだ。やがて来るであろう脅威…魔神バルバトスの暴走を防ぐために」
「それをスタッド…。あなたが見つけた」
レイが続けて言うのに、スタッドはコクリと頷きます。
「でも、この舟をみつけるまで…。つまりは、ラグナロク遺跡の秘密を探るまではさらに月日がかかったけれどもね」
苦笑いしながら、スタッドは迫りだしてきた部分に昇っていきます。両脇に階段がついていて、上部に昇れるようになっているのです。ノアたちもそれに続きました。
「…この舟には、聖剣エイストと同じく強大な力が隠されているはずだ。でも、まだその一部ぐらいしか僕には解らない」
スタッドは辺りを見回し、銀色の台座を見つけます。そこに聖剣エイストを差し込みました。
ウィイイイーーン!
ガッコン!
グゥーーーイン!!
何かが動き出します。ノアたちは警戒して身構えました。すると、スタッドの目の前に大きな半透明の画面が浮かび上がります。何やら、チャカチャカと画面が切り替わり、赤や緑に忙しなく点滅します。
『キーの照合をマスターと確認。ログイン完了。システム再起動……“ノアの方舟”、スタンバイOK。
システムチェック中……宙域全方位GPSエラーを確認。…現在位置を修正中。日時時刻方位修正中。…完了。誤差0.05イル…許容範囲内に設定。現在海洋航行モードを継続。エンジンコネクトOK…フィードバック確認中……OK。システム再チェック中……全システムオールグリーン。
ハロー。ウェルカム。ご機嫌はいかがですか、ミスターカムナシ。本日もよりよい航行を…』
画面がしゃべり出します。抑揚のない口調でしたが、ノアたちは度肝を抜かれました。
「い、生きているのか?」
「いや、生物じゃない。操作に対して決められたパターンの返答をするようにできているんだろうね。『機械』という仕組みのものさ」
スタッドが大きく鼻息を吹き出して言います。どうやら、未知のものに対する興奮を抑えられないようです。好奇心にあふれ、眼がランランと輝く姿は子供のようでした。根からの学者なわけです。
「ノア…いま、ノアの方舟って言いましたよね? 聞こえました?」
メルは口に手を当てて言います。皆がノアを見やりました。
「え? あ? い、いや! アタシはこんな大層なもん知らないよ!! 知らない知らない!!」
慌ててノアは首を横に振ります。スタッドはそれをチラリと見て、ちょっと笑いました。それが何でなのかノアはとても気になりましたが、すぐにスタッドは画面を見やって何やら忙しそうに作業しだしてしまいます。
「…んー。予想よりも難しいね。聖剣エイストさえあれば、楽々と動かせると思っていたんだけれど」
浮き上がっているパネルを色々と動かして、何かを入力していきます。それが何をしているのか、ノアたちにはさっぱり解りません。物知りのレイですら、目をパチパチとさせていました。
「…ボー。メインタービンを動かすには、高出力波動チャージャーをまず動かさなければならないボー。でも、長いこと使ってなかったから、それを起動させるためのアクチュエーターのエネルギーもすっからかんだボー。だから、まずそこにある3番目の緑のボタンを押して、波動コンプレッサーに還元魔法力を蓄えてやる必要があるボー。そこのパネルで操作すると、右左舷のハッチが開いて、周囲の自然エネルギーを魔法力としてバッテリーに蓄えられるボー。あ、その時にタービンから一時的にメインシステムを切り離す必要もあるボー。それには、左の…」
コンソールパネルを見て、ボーズ太郎が流暢に説明しだすのに、誰もが目を見張ります。
「…わかるのかい?」
スタッドがメガネを上げながら尋ねます。今度はボーズ太郎がキョトンとする番でした。
「ボ…。ボー! な、なんで我は…これが解るボー!?」
ボーズ太郎は頭を抱えます。なぜか、画面に現れる意味不明な言語の意味がわかってしまうのです。見たこともない物のはずなのに、何をどうすればいいのか、どうやって動かすのかが自然と頭の中でイメージできるのです。
「やはりか…。ボーズ星人には解るんだね」
「やはり?」
スタッドが意味深に言うのに、レイが眉をピクッと動かします。
「うん。僕たちの先祖を連れて来た古代人というのは、つまりはボーズ星人たちだったということなんだよ。彼らが退化を選択する以前の話だけどね」
「わ、我が…古代人ボー!?」
ボーズ太郎を含め、皆は驚いていましたが、それは何となくノアには納得できることでした。以前、ファラーの長女アルマが、ボーズ星人たちが高度な古代魔法を扱っていたという話と結びつくような気がしたからです。
レムジンとランドレークを繋げる移送魔法陣を作り上げてしまうような種族です。こんな海に浮かぶ舟をもっていたとしても不思議ではありません。
「で、でも、我は…ここには初めてきたボー。長老からも、こんなものがあるなんて聞いたこともないボー!」
戸惑いながらそう言うボーズ太郎に、スタッドはその肩をポンと叩きました。
「一なる全、全なる一…。それが君たちの選択だ。僕はそれを退化だとは考えていない。あまりに強大な力を悪用させないため、君たちは無用な知識や個人を放棄したんだ。それは最善な選択だったに違いない。
でも、全となったものが『個』になることで、記憶の奥底に眠っていた太古の知識が再び呼び覚まされたんじゃないかな。君が『自我』を取り戻したことが起因したとは考えられないかい?」
そう言われて確信を得たのか、ボーズ太郎はゆっくり頷きます。スタッドが言うのだから説得力がありました。
「…操作できるかい?」
スタッドはその場をスッと離れます。精一杯、真面目な顔をしたボーズ太郎が、ズイッと進み出てきました。そして、恐る恐るパネルに指を付けます。
『…個人認識コード変更。ユーザー名を入力して下さい。…ボーズ太郎。これで間違いないですか? 了承致しました。
ミスターボーズ太郎。海洋航行モードを選択して下さい…マニュアルによる通常航行…了解致しました』
目にも止まらぬ速さで、ボーズ太郎はパチパチとパネルを操作していきます。画面が上に行ったり、下に行ったりとでとても忙しないです。
「…これで、動かせるボー」
ボーズ太郎がメインタービンが回転したのを見計らい、システムを接続し直します。動力が伝わりスクリューが勢いよく回転しだす音が響きます。ノアの方舟全体がさっき以上に振動します。
「ニャ! またグラグラ揺れるニャ! 気持ち悪いニャ!!」
ミャオがビクッと首をすぼませます。
「わー。すごいね!」
シャリオが眼を輝かせながら言います。やっぱり男の子です。こういう大きな乗り物に憧れるものなのでしょう。
ウィーンと、ボーズ太郎の目の前に、操舵輪がせり上がって来ます。それと同時に前面のパネルが切り替わり、舟周囲の風景と、航行スピードなどのメーター各種に加え、縮小地図などまで浮き上がります。思うように動くノアの方舟を見て、ボーズ太郎は徐々に自信を強めていきます。
「…ボーズ太郎。なんだかカッコいいですね」
「メル!?」
舵輪を掴むボーズ太郎を見て、メルがポツリと呟きます。それにレイが慌てたように反応しました。
「どこを目指すボー?」
ニヤリと笑ったボーズ太郎が、タフガイのように見えます。さっきまで震えていたのが嘘のようです。
「…とりあえずは、レムジンが気になる。ロックゴーレムだってどうなったか解らないし。ファラー大司教だって」
ノアが言うのに、皆が頷きます。ボーズ太郎はチラッとスタッドを見やりますが、「異論はないよ」と微笑みました。
「解ったボー! 全力前進!!! ノアの方舟、移動だボー!!!」
ズシャアアアーッ!!
波飛沫を立てて、風景が歪むほどの高速でノアの方舟は疾走しだします!
それでも不思議なことに、ノアたちの周りはとても静かです。これだけの速度です。強烈な衝撃波が叩きつけられてもおかしくないのですが、何か目に見ることのできない不思議なバリヤーみたいなもので甲板全体が守られているようでした。
果てしなく広い海を走り続け、遠目にランドレークのそびえ立つ山々が見えます。それらを迂回して、徒歩だと幾日もかかると言われていたランドレークからレムジンへの道のりをアッという間のスピードで越えてしまったのです。
あれだけ苦労したのはなんだったのかと思わせられます。辿り着くまでにほんの数時間しか経っていないのですからね。
ノアたちは少しも疲れることもなく、レムジンの近くまでやってきました。
ガーゴイルたちの爪痕が石壁のあらゆる所に残されています。中には崩れ落ちてしまった部分もあります。街の至る所から、戦火の残り火がくすぶって立ち上っていました。
湾曲した外壁の端、あの海に面した岬…旧バーボン邸がある方向に舟は向かいます。当然、港なんてものはありませんし、グルリと街を囲んでいる外壁のわずかな隙間からしか着陸できないからです。
U字になった岬が天然の防壁になったのでしょうか、それともここからはレムジンに侵入できないと考えたのでしょうか。思ったよりも、ガーゴイルたちの攻撃による被害は少ないようでした。
ボーズ太郎が停止作業に入ります。その頃には、レムジンの様子がくっきりと見える位置まで来ていました。
そして方舟に気づいた人々が、海岸に勢揃いしていました。皆が固唾を呑んで、舟の挙動を見守っています。その手には、武器がしかと握りしめられていました。
集団の中に、バーボンやバッカレスがいるのを見つけます。ノアとメルはたまらずに駆け出しました。そして、船首から身を乗りださんばかりにして手を振ります。
「親分ーー!!!」
「バーボンさん!!!」
武器を手にしていたバーボンとバッカレスは毒気が抜けたような顔をします。
「ノア! なんだ…そりゃ! びっくりさせんじゃねぇぞ!! 新手の敵かと思ったじゃねか!! ガッハッハッハ!!!」
バッカレスが大声で笑い出します。その声はノアのよく聞き覚えのあるものでした。毎日のように聞いていたものです。なんだかとても懐かしい気持ちになります。
「は、ハハハ! あのランドレークに行って、本当に無事に帰ってきやがったのか! 信じられねぇぜ、うちのお嬢様方はよ! こんな嬉しいことがあるかよ!!」
バーボンが目頭をおさえながら言います。
舟が停止すると、ノアとメルが飛び降りました。バーボンが走り出します。そして、ノアとメルを両脇にガッと抱きしめました。
「よく戻った! 良かった! ホントに…良かったぜ!」
ノアは照れた笑いをして、メルはバーボンに抱きしめられて真っ赤になります。
「ガッハッハッ! 一回り成長して戻ってきやがったようだな! よしよし!!」
バッカレスが、バーボンに抱きしめられているノアの頭をグシャグシャに撫で回します。
「ミャオ!!」
「ミャー! お兄ちゃん!!」
飛び降りてくるミャオを、ドレードは片腕で見事キャッチします。いつもクールで表情を変えないドレードが、目を細めて心底嬉しそうな顔をします。ミャオはゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らしました。
「野垂れ死ぬことはありませんでしたか、ミャオ。生きていて、まあ、なによりです」
「ったく、素直な言葉の一つでもかけられないのかい? 普通に生きていて嬉しいって言えばいいじゃないか。なあ、ミャオ」
コネミとステラが笑って言います。その後ろではウィリアムが喜びを隠しきれないでカチャリカチャリとハサミを動かしていました。
「ニャー!! コネミのおじちゃん、ステラにウィリアム! なんでなんで、どうしてどうして!? なんでおじちゃんたちがレムジンに!?」
驚きつつも喜ぶミャオです。はしゃぐミャオでしたが、それでもドレードは二度と離すまいというぐらいに妹をしっかりと抱いています。
「…話せば長くなるよ」
「ファラー大司教!?」
甲板から出てきた階段を下りていたレイが、危うくずっこけそうになります。ファラーが娘たちを引き連れて人々の間から出てきたのです。
「レイ王子!」
「待ってたぜ!」
「信じていましてよ。うっふん!」
「…無事。ほっとした」
「アハハ! 良かった! みんなレイ王子を信じていたんだよ!」
アルマ、フェルデが、グリムアー、エカテナ、テーテがレイを囲みます。なぜか、ファラーの娘たちにモテモテです。鼻の下をのばしながらも、レイは戸惑います。
「あー。娘たちに近づく男は皆、私が始末してきたからねぇ。まあ、レイ王子だったら、ちゃんとした交際をしてくれるならいいかな。ま、ちゃんとした交際…ならだけど」
ファラーがさりげなく怖いことを言います。レイは赤くなったり青くなったりしながら、ファラーの娘たちによってもみくちゃにされました。
「ダーリン!!」
「ゲ! アングリー!?」
末女アングリー…いえ、神官戦士アングリーが、ドドドッと走って来て、もみくちゃにされていたレイの首根っこをヒョイとつまみ上げました。娘たちが抗議の声をあげますが、アングリーは知らん顔です。赤く染まった頬で、ジッとレイを見やります。
「ダーリン! 今宵は、漢と漢。1対1で腹の中をざっくりと!! 互いの勲しを讃えようぞ!!」
「ぜ、絶対にイヤだ! …ぎぇええええッ!!!」
熱い抱擁をされ、レイの背筋がボキボキッと嫌な音を響かせます。そのあまりの光景に、誰もが気の毒そうに失笑しました。
「…おかえり。友よ」
ファラーが細い眼を開いていいます。甲板の上に、スタッドがシャリオと共に立っていました。
「…すべては聖剣エイストの意思のままに」
スタッドはいつもと変わらぬニコニコとした顔のまま言いました。その目は、街の奥にあるロックゴーレムを見やっていたのでした……。
ノアたちは、お互いの持つ情報を交換をし終えた後、旧バーボン邸の部屋をあてがわれました。大教会は患者たちで一杯ですし、宿は壊されてしまったためです。
温かいお風呂に入って汚れを落とし、フカフカのベットでぐっすり横になって眠ります。
起きたら、ドレードが派遣した料理人たちが腕を振るい、ノアたちはご馳走をお腹いっぱいに食べさせてもらいました。いままで乾パンなどの保存食ばかりだったので、それはもう舌がとろけそうなほど美味しかったです。
いくら危機から脱したとはいえ、レムジンがこんな状態で贅沢は…とも思いましたが、ドレードは「お前たちがいなければ、街そのものがなくなっていたんだ。これぐらいはさせてほしい」と言ったのでありました。
久し振りにゆっくりした1日の夜。ノアは潮風に当たりたいと思い、裏庭にと出ます。美しい月明かりが周囲をほのかに照らし、ノアの方舟も気持ちよさそうに月光浴しているようでした。
潮風を吸い、ノアがゆっくり目を開くと、海辺に誰かが座っているようでした。よく見ると、それがスタッドだと解ります。クシでとかしたこともないだろう無造作な髪が風に揺れていました。
その姿をとらえた瞬間、ノアの胸がドキンと高鳴ります。
慌てて引き返し、扉のガラス戸に自分を映し、身だしなみを整えます。服装はいつもとは違うピンクのネグリジェです。バーボンの妻エリムが着ていたものを借りたのです。胸元にワンポイントの可愛いリボンもついてます。こういう服はメルの方が似合いそうだとノアは思いましたが、ノアが着てもなかなか様になっています。いつものノアらしくはありませんでしたが、ヒラヒラのついたそれを着ていると実に女の子っぽく見えるじゃありませんか。
「…よし、ノア。チャンスだ! がんばれ、アタシ!」
ガラス戸に映った自分の顔に言い聞かせるように、ノアは胸に手を当てて言います。そして自分の両頬をパチーンと気合いを入れるために叩きました。
足音を忍ばせて、スタッドの側に向かいます。
スタッドは座ってハーモニカを吹いていました。それは子守歌のようです。どこか懐かしく、物悲しく聞こえるメロディです。ノアの方舟が波に揺られ、ギィー、ギィーと鳴ることによる伴奏が、余計に哀しい気持ちにさせます。
「…ね、ねぇ?」
演奏を中断させることを申し訳なく思いながら、ノアが静かに声をかけると、スタッドはちょっと驚いた顔をして振り返りました。
「と、となり…いい?」
断られたらどうしようとドキドキしながら言うと、スタッドはハーモニカから口を外してニッコリと笑います。
「ああ、いいよ。どうぞ」
スタッドが自分の隣の小石などのゴミを軽く払います。そんな紳士的な態度にもノアはより好感を持ちます。
そこにノアはちょこんと座りました。恥ずかしいので、ちょっとお尻を離してですが、あとちょっとでくっつきそうな位置です。
そして、2人してジッとノアの方舟の方を見やります。
平静をよそおってはいましたが、ノアの胸はドキンドキンと爆発しそうなぐらいでありました。今まで忙しい場面ばかりで、こうやってスタッドと2人きりになる機会なんてまったくなかったのです。
スタッドは決して魅力的といえるわけではありませんが、それでもそのユルユルな雰囲気がノアは良いなと思っていました。バッカレスやバーボンのような精力的なタイプとは真反対でしたが、何事にも動じそうにないスタッドの方が器が大きいのかも知れません。もちろん、それは惚れたのでそうノアがプラス補正してるのもあるのですけどね。
「…これから、どうするの? ミルミ城に行くの?」
沈黙にたえかね、ノアが尋ねます。スタッドは目を細めて頭をかきます。
「んー。いや、まだ別のところで果たさなければならないことがあるんだ。ミルミ城にはそれからだね」
そう言って、スタッドは軽くウインクしてみせます。他意はなかったのでしょうが、ノアは真っ赤になります。薄暗い月明かりだから、それに気づかれなかったのがノアにとっては幸いでした。
「…でも、本当にアタシが。魔神バルバトスを倒す…鍵になるなんて」
ノアはふと自分の手の平を見やりました。ラグナロク遺跡で言われたことが、まだノアの実感となっていないのです。
「大丈夫。ノアは一人じゃない。皆がいる。僕もいる。きっと勝てる」
なんの根拠もない言葉でした。でも、スタッドが言う言葉は、なぜかノアには信じられる気がします。
「スタッドは…。20年も、ずっと魔神バルバトスを何とかするために。皆のために…たった1人で戦っていたんだね。アタシは…ずっと、何も知らなかった」
20年という言葉を口にして、ノアはブルッと身震いします。それは自分が生きていた年数よりも遙かに長いものです。自分の身体を捨てただけでなく、それだけの長い間、ずっと魔神を封ずること、倒すことだけを考え続ける…そんなことができるでしょうか。ノアの想像を超えています。それでも笑っていられるスタッドが、どれだけ凄いのかと思い知らされます。
「…風邪をひくといけないよ」
そう言って、スタッドがノアの背に自分の上着をかけました。震えたのを、寒さのせいだとスタッドは思ったようでした。
体温やスタッドの香りが残るその襟を、ノアはキュッと掴みます。まるでスタッドに後ろから抱きしめられているように感じられます。とても落ち着きます。
「…死んで良い命なんて一つもない。アンタがアタシに言ってくれた言葉…アタシもそう思う。だから、アタシ。戦うよ。アンタと同じように。仲間を守りたいんだ」
ノアが澄んだ眼で、マジマジとスタッドを見やります。スタッドもノアを見返しました。スタッドはニッコリと微笑みます。
そんな笑顔がいつもと違うのは、何となくノアには解りました。ノアにだけ向けられた特別な感情が込められているのです。それを肌で理解した時、ノアは得も知れぬ幸福感に包まれます。お母さんのお腹の中にいたときの安心感、無償の愛に包まれたときに感じられる充足感です。
「…ありがとう」
スタッドのこの礼には、きっと色々な意味が込められていました。でも、それを詳しく尋ね返すのが野暮だということはノアは解っていました。
ズッとお尻を横にずらして、スタッドの身体に自分の身を密着させます。我ながら大胆な行為だと思いましたが、スタッドは嫌がる素振りも見せません。きっと後ろから見れば、仲の良い恋人同士のように見えるでしょう。きっとそうに違いないと、ノアはそう思いました。
「…ねえ、スタッド」
「なんだい?」
「…すべてが終わった時、聞いて欲しいことがあるんだ」
どこから出てくるんだろうと、自分で不思議に思うほど甘ったれたノアの声です。スタッドは返事の代わりに、ポンポンとノアの背中を軽く叩きました。
「…ハーモニカ…吹いてよ。さっきの」
トロンとした眼をしたノアが言います。スタッドは何も言わず、ハーモニカを先ほどのように口に当てました。そして静かにメロディを吹き始めます。
空からやってきた我が子よ。あなたを受け入れよう。
我が愛しき子よ。この地を、海を満たしたまえ。
空からやってきた我が子よ。あなたを見守ろう。
我が愛しき子よ。世界に、平和を来たらせたまえ。
ああ、友よ。いつまでも、いつまでも。
私は願う。私は求める。永久なる祝福を──。
なぜか、ノアの脳裏に歌詞が浮かび上がります。どこで聞いたのか、ノアは思い出すことができませんでした。それよりも、なんだかとても眠くて、ノアは目をつむります…。
メロディを聴きながら眠ってしまったノアは、スタッドの肩に頭を乗せて、静かな寝息をたたえていました。
スタッドはハーモニカから口を外します。そしてノアを起こさないように静かに抱き上げました。ノアを寝顔を愛おしそうに見やります。
「…ごめんね。ノア。君には辛い運命だったね。でも、君が僕と同じ選択をしてくれたことが嬉しいんだ」
そう言ってスタッドは、ノアの額に自分の額を合わせました。まるで祈るように、スタッドは眼をきつくつむって祝福を唱えます。
「起きたら再び戦いに身を投じなければならない。だから、いまだけは…。安らかにお休み」
スタッドはそう言ってから、ノアを大事そうに抱きかかえたまま家に向かいました……。
バーボンの書斎。エリムの写真を見つめながら、バーボンは小さく息を吐き出しました。
「エリム…。またここに戻ってきたよ。ノアを見ただろう。大きくなった。あんなに小さかったのによ」
バーボンが眼帯を外します。そして、潰れた眼窩の周囲をさすります。以前、妻が疲れたバーボンにしてくれた事です。カルテの見過ぎで、よく目がかすむことがありました。その疲れた目の周囲を、エリムは優しく撫でてくれたのでした。その優しい手の温もりを、バーボンは記憶の底から思い起こそうとします。
ガチャリと扉が開きました。バーボンはハッとして振り返ります。
「誰だ!?」
「あ! …ご、ごめんなさい」
バーボンの片目が、怯えているメルを捉えます。
「…いや、メルだったのか。悪いな。俺こそ大きな声をだしちまった」
「いえ。私こそ、ドアが少し開いてたからといって…ノックもせずに入ってしまいましたから」
メルはペコリと頭を下げ、部屋を出て行こうとします。それをバーボンは思わず呼び止めてしまいました。
「いや…。その、何か俺に用か? あー、その。なんだ。紅茶ぐらいは出せるぜ」
バーボンは自分で呼び止めておいて何を言ってるんだろうかと自問自答しましたが、メルはちょっと嬉しそうにしながら中に入ってきました。
慣れた手つきで紅茶を用意します。食器は以前からあったものですが、紅茶はドレードが派遣した料理人からもらったものです。後で飲もうと思っていたのです。
椅子に座ったメルは、ソワソワとしています。バーボンはそれを見て、少し笑います。
「ああ。本とか食器とかそのままだからな。変だと思ってんだろ? ジャストに戻るのはエリムが死んですぐだったからな…。そのまんまで出てきちまったんだ。後かたづけも出来ずにな」
「いえ。変だなんて…」
そう言うメルの目が自分の顔に注がれているのだと気づきます。バーボンは顔に手をやって、眼帯を外していたのをようやく思い出しました。
「わ、わりぃ…。気持ちの悪いもの見せちまったな」
バーボンは慌てて眼帯をつけます。しかし、メルは左右に首を大きく振りました。
「気持ち悪いだなんて思っていません! ただ…その」
「ただ?」
「…バーボンさんの眼帯のない素顔、初めて見たから」
そう言って、メルは顔を真っ赤にさせます。長い耳がペタンと折れました。
「だから、私の前では…眼帯、つけなくても…いいです」
「あ、ああ…」
恥ずかしそうに言うメルです。思わず、バーボンは言われた通りに眼帯を外したままにしてしまいました。
ティーカップを置くと、バーボンもメルの向かいに座ります。
「その傷は…。このレムジンの人たちに?」
メルがカップを包むように持ちながら、バーボンの傷を見やります。バーボンはチラリと義手を見やりました。
「…ああ。そうだよ」
バーボンは義手をさすりながら言います。
「…よければ、話…聞かせてもらえませんか?」
メルがそう言うのに、バーボンは髪をかき上げます。湯気を立てる紅茶を見つめて少し悩みましたが、やがて決心したように語りはじめました。
「…もう6年も前になるかな。どんな命も、命に違いはない。人は定規じゃ計れねぇ。俺がスタッドの論文を引き合いにして、主張した種の平等説。それを面白く思わない反対グループがこのレムジンにはいたんだ」
感情を入れることなく、他人事のようにバーボンは淡々と続けます。
「その中でも暴力も辞さない過激派連中にやられてな。この傷はその時のものだ。当時は天才医師だなんて言われていて天狗になっていた俺への罰さ。自分の主張も、正しければ人々に理解してもらえるって信じていた…」
バーボンは棚の上にあった自分の写真を遠い目で見やります。その目は、まるで自分自身を諫めるかのようでした。
「…いまじゃ、なんでスタッドが持論を強く主張しなかったか解るぜ。人は言葉じゃ動かない。だから、自ら手本となって動くことにしたんだろう」
レムジンにスタッドが現れた瞬間、人々の目に強い光が宿ったことにバーボンは気づきました。同じデムでもこれだけ影響力に差があるのを思い知らされたのです。それを生み出したのは、彼の超然とした態度や行いなのだろうとバーボンは考えていたのでした。
「ヤツは有り余る賞賛や名誉を受け取らなかった。こんな豪邸に居を構え、上からの目線で人々を説き伏せようとしてたのが恥ずかしくなるぜ。そんなヤツの話なんて誰も聞いてくれるわけがねぇわな」
バーボンは自嘲すると、タバコに火を付けます。そして、大きく吸い込んで煙を吹き出しました。
「…結果が、これさ。俺の身体は別にどうでもいい。俺の主張に怒ったヤツらを恨んでもいねぇ」
バーボンの目に悲しみと後悔があふれてきます。淡々と語っていたのに、言葉がよどみます。
「だが、俺は…エリムを失った。エリムはもう二度と帰ってきてはくれねぇ。俺は…俺が許せねぇんだ。俺の愚かさが、エリムを殺しちまったんだッ」
バーボンは頭をかきむしるようにします。喋っている相手がメルだということも忘れ、深く闇の淵に沈み込みます。
思い出したくなかったとバーボンは後悔しました。いや、思い出さない日なんて1日たりともありません。愛していた妻のことを忘れるなんてあるわけないじないですか。でも感覚を鈍くさせ、目をそらして、できるだけその辛い感情から目をそむけてきたのです。しかし、いま口にしてしまったことでバーボンの心をひどく苛みました。自分の心がボロボロに傷ついているのを再認識させられるのです。
「そんなことありません!!」
メルが声を張り上げたことに、バーボンは目を丸くします。闇から一挙に引き上げられた気がしました。
メルは泣いていました。大きな目にたっぷりの涙をためて…。
「…私、最初、バーボンさんは怖い人だと思っていました。メルシーを痛めつけて、それを楽しんでいるヒドイ人なんだって」
バーボンは、退化の大森林での出来事を思い出して、頬をポリッとかきました。
「でも、その後で、そのメルシーをすぐに治してしまう医術…。それを見て、私、本当にすごいと思いました。バーボンさんは、ちゃんとメルシーを治してあげるつもりだったんだって知って。私は誤解してたんです」
メルは涙を指で払って、そしてバーボンを強く見ました。
「…レムジンの人々もそう。ただバーボンさんを誤解していただけ。バーボンさんは間違っていないと私は思います。愚かだなんてとんでもありません。
エリムさんも…私、会ったことないけれど…きっと、そう思っていると思います。バーボンさん。自分のやったことを愚かだなんて言っちゃダメです。エリムさんが悲しみます」
バーボンは額を抑えます。こんな年下の女の子に慰められるなんて思ってもみなかったからです。
「……俺は、間違っていなかったのか?」
誰に問うつもりでもなく、バーボンは小さくそう言っていました。
──大丈夫。私はあなたを信じています──
バーボンはハッと顔をあげました。それはメルの言った言葉のはずでした。しかし、何かが違うような気がしたのです。
メルがそっと、バーボンの目の上を触れます。なぜか解りませんが、バーボンは目を閉じました。そうしなければいけないような気がしたからです。メルが親指で優しく眉から目の回りを優しく撫でます。その感触は、とても懐かしいものでした。思い出そうと思って、思い出せなかったあの感触です。
「エリム!?」
バーボンが驚いて立ち上がります。目の前にいたのはメルでした。でも一瞬だけ、その顔にエリムが重なります。
「……ああ。俺を許してくれるというのか。エリム」
バーボンが、嗚咽を噛み殺して泣き始めます。それを見たメルはちょっと驚いたようでしたが、優しくバーボンの頭を抱きました。
──ええ。大丈夫。大丈夫──
それがもはやメルの言葉なのか、エリムの言葉なのか、バーボンには解りませんでした。
でも、それでも、バーボンの中で今まで抑えつけていた感情が、優しく静かにとき解れていくのを感じていました……。
☆☆☆
旧バーボン邸の裏庭に、皆が集結します。疲れの吹き飛んだノアたちの準備は万端です。
「シャリオくん。君はファラーのところにいたほうが…」
そう言うスタッドでしたが、シャリオはノアの腰をつかんで離れようとしません。
「イヤだ! ボクはノアお姉ちゃんと一緒に行く!!」
こうなるとテコでも動かないでしょう。ちょっと困ったような顔をしましたが、スタッドはそれ以上は何も言いませんでした。
「…シャリオの魔法力は謎が多いけれど、実際にピンチで助けられたしね」
ノアがそう言うと、シャリオは鼻の下をこすって得意気に笑います。
「ほう。ファルで魔法力を持つ子供かい。見た感じ、まったく力は感じられないが…」
同じファルで魔法を扱えるファラーが興味深そうにします。「そうだね」とスタッドも頷きました。
「ミャー。行ってきますニャ! すぐ帰ってくるからね、心配しないで欲しいニャ!」
ミャオが手を振ってノアの方舟に乗り込もうとします。無表情なままそれを見やっていたドレードでしたが、その顔は明らかにやつれています。昨晩、ミャオを引き止めようと試行錯誤して失敗したことによる心労によるものです。
「…やはり、私も行く」
ドレードがミャオを追おうとしたのを、コネミとステラが羽交いじめにして止めました。
「レムジンの元老長なくして、どうやってボロボロのボロ雑巾になったレムジンを立て直せますか! 単なる見かけだおきの飾りでも、トップにはいてもらわないと!!」
「妹離れできない兄貴は嫌われるよ! さあ、さっさと行ってきな、ミャオ!」
ステラが手を振ると、ミャオはニャーと大きな鳴き声を上げました。それを聞いて、ドレードは無表情のままにボロボロと涙を流します。元老長のあまりの変わりように、兵士たちがザワザワとざわめき立ちました。とんでもない妹馬鹿っぷりです。これは後でレムジンの人々のネタ話になることでしょう。
ドレードと同じかそれ以上に、ガリガリにやつれたレイが、ノッシノッシと歩いてくるアングリーに連れられて来ます。どうやら、一晩中、漢談義に華が咲いたであろうことは予想できます。
「ダーリン! 勇ましく、雄々しくあれ!! このアングリー、レムジンで心から活躍を祈っておるわい!」
そう言って、アングリーはポイッとノアの方舟に向かってレイを放り投げました。
べチャンと甲板に落ち、「うげッ!」と悲鳴を上げたことから生きてはいるようです。
ファラーの娘たちが、名残惜しそうにハンカチを振っていましたが、レイは応えられそうにありませんでした。
「…うっし。さて、準備はOKそうだな。俺たちも、このレムジンの復興をちぃっと手伝ってから戻ることにするぜ」
バッカレスがニッと笑って、ノアの肩を叩きます。
「うん。解った。よろしくね、親分!」
何も聞かされていなかったシュタイナもヤグルも「え?」という顔をしました。盗賊の森に帰れるものと思っていたのです。そんな2人の頭上に、拳骨が落とされます。親分の命令は絶対なのです。
「お…。そうだ。ノア。こいつを持ってけ」
バッカレスが腰のダガーを外します。ノアはそれを見て目をパチクリとさせました。
「え? 親分のダガー? 無理無理! そんなデカイの扱えっこないって!」
「いいから、持ってみろ」
バッカレスに無理やり持たされ、ノアはダガーを掲げて見ます。今までノアが扱っていたものよりも一回りは大きいです。これを振り回すのはしんどそうでした。
「重…くない? あれ…。思ったより、軽い?」
以前、持たせてもらった時には重くてどうしようもなかったのです。それが、まるで手に吸い付き、木の棒を握っているだけのような感覚が不思議です。振ってみると、何のことなしにビュッという小気味よい風切り音がしました。
「どうして?」
「そりゃ、ノアだってずっと戦い続けてきてんだ。それが扱えるってことは、もう俺のレベルに達しているってことだな! 弟子の成長ってのは、嬉しいやら悲しいやらだ! ガッハッハ!! とりあえず俺からの餞別だ、持ってけ!! 泥棒!」
「いや、盗賊だって…。親分」
知らずうちに、ノアはバッカレスに認められるまでになっていたのです。ノアはキョトンとしていました。バッカレスと並ぶぐらいのレベルだという感覚が湧かないのです。
「…嫌でもこれから解るようになるよ」
スタッドが意味深にノアに微笑みかけます。それを聞いて、ノアは曖昧に頷きました。
「さあ、そろそろ行こうぜ」
バーボンが医療道具の入った鞄を持って、舟の階段を昇ろうとします。
「バーボン先生も来るボー?」
ボーズ太郎が言うと、バーボンはニッと笑いました。
「なんだ? 無傷で魔神バルバトスなんとかするつもりか? 怪我人は出るだろ。俺が必要じゃねぇなんて言わせねぇぜ」
頼もしい仲間が入ったことをノアたちは喜びます。バーボンの治療はパーティにはなくてはならないものになるでしょう。
皆が乗り込み終え、ボーズ太郎の操作でノアの方舟が動き出します。
「…さあ、スタッド。目的地は? まだ何かやらなきゃいけないことがあるんだろ?」
「ああ。行こう。すべてを決着させるために…。目指すはジャスト城だ!」
スタッドの言葉に、ノアたちはハッとしました。
そうです。ジャスト城にはあのオ・パイがいるのです。そういえばオ・パイはスタッドをジャスト城に連れてこいと言っていたのでした。
「…お父さん」
メルが不安そうな顔をします。バーボンがその肩を叩きました。
「大丈夫だ。俺もいるさ」
バーボンが笑うのに、メルはコクリと頷きます。
「解ったボー! ジャスト城にGOだボー!!!」
オ・パイのことを思い出し、仲間たちの死を再び噛みしめ、ボーズ太郎がノアの方舟を勢いよく発進させます!!
ジャスト城のオ・パイ。ついにノアたちは最強の男を相手に戦いを挑むこととなるのでありました……。