第十四章 無敵の四天王…
ミルクの甘い香りがします。とても懐かしく、ほっこりした気持ちになります。
柔らかく優しい産着にくるまれて、大きな手に抱っこされ、ユラユラとどこかへ連れていかれている途中でした。
背の木々から木漏れ日が顔に当たって、ちょっと眩しいです。自分を運んでいる人の顔は、その光の影になっていてよく見えません。
でも、それが男性であり、自分にとても愛情を注いでくれている存在であることを感じます。
自分を抱っこしている男性が急に立ち止まりました。赤ん坊は、なんだかちょっと不安になります。
「…それで、本当にオメェはいいのか?」
これは聞いたことがある声です。
そうです。バッカレスでした。抱っこされている自分の反対側に立っています。
赤ん坊がジッと見ていることに気づくと、わざとらしく鼻を擦り、大きな口を開いて笑って見せましたが、その目までは笑っていません。
「…ああ。この子…ノアに賭けてみることにしたよ」
男が名残惜しそうに、ノアの額を優しくなでます。
それがとても心地よくて、でも同時になんだかとても切なくて…赤ちゃんのノアは泣き出しそうになりました。
そして自分を抱っこしている男の人はコクリと一つ頷くと、思い切ったようにバッカレスにノアを手渡しました。
バッカレスは、慎重に、大事にそうに抱きかかえる位置を確認してからノアを受け取ります。
「後悔…しねぇんだな?」
バッカレスが重々しく尋ねます。
男は答えずに、クルリと身体を反転させて行ってしまいました……。
──行かないで! なんで? なんで…置いていっちゃうの?──
ノアは男が行ってしまうのが悲しくて、寂しくて、大泣きします。
「おー! ほらほら、泣くな。頼むから泣くな」
バッカレスは慌てて太い腕を揺りかごのように揺らしますが、ノアは泣き止みません。もう二度と会えないような気がしたからです。
男は一瞬だけ立ち止まりましたが、それでも振り向くことなく、頭を横に振って行ってしまいます。それが悲しくて、寂しくて、ノアはもっともっと大きな声で泣いてしまいます。
「おい! 戻ってこい! ホントに! ホントに! テメェってやつは…!!」
バッカレスはノアを見て、苦い顔をして、歯を強く噛みしめて、目をギュッとつむったのでした…………
☆☆☆
グニャーと世界が一転して、真っ白な雪原。
ぼんやりと意識が戻ってくると、ザッ、ザッと音を立て、ノアは雪を踏みしめながら歩いていました。
「…あれ? アタシ…なんで?」
フラフラとおぼつかない足取りで、目の前にいるビシュエルの後に付いて歩いていました。
歩きながら寝てしまったとでもいうのでしょうか? ええ、なんだか頭がとってもボーッとしています。
「赤ん坊の…時の夢? え? でも…アタシ、親分に赤ん坊の時に、宝と間違えて拾われたって…
」
混乱する頭で、ノアは必死に夢の内容を思い出そうとします。
あの夢が本当なら、バッカレスは赤ん坊を誰かにたくされたんではないでしょうか。そうだとすると、ノアを抱っこしていた男は誰だったのでしょう?
ノアは赤ん坊の時に、バッカレスが宝と間違えて拾ってきた…そう教えられて、それに何の疑問も抱かずに今まで信じてきたのです。
「あの人は…いったい? 誰…だったんだろ…」
それを深く考えると、頭がズキリと痛みます。
なんだか知ってはいけないことのような気がします。
誰かが記憶の上にヴェールをかけ、さらにそれを見てはいけない物のようにタンスの奥に閉まってしまったように思われます。
「…何も考えなくていいよ。さあ、ラグナロク遺跡に急ごう」
ビシュエルが振り返りもせずに言います。
ノアが顔をあげると、何やら横笛みたいなものを吹いていました。その音色を聞くと、なんだか猛烈に眠気が増してきます。
「んー……。んんっ!!」
ノアは眠気に抵抗しようと首を横に振ります。
そして、周囲を見て気づきました。眠っていたのはノアだけではありません。レイもボーズ太郎もミャオも…なんだかボーッと空を見上げて夢心地だったのです。
歩きながら焦点が合ってないその様は、かなり危ない人のようでした。それが集団なのだからかなり怖い光景であります。
「お、おぉい!! 目を覚ませ!!」
ノアが慌てて、3人の頬を全力で引っぱたきます!
パン! パン! パパンがパン!!
「ボーッ!?」
「ミャッ!?」
「いてえッ!!??」
3人は痛みのあまり飛び上がります!
どうやら完全に目が覚めたようでした!
「わ、我は何を…」
「ミャー!? あれあれ?? 美味しい魚は?? コネミのおじちゃんはどこニャ???」
「おー。いてぇ…。でも、なんで俺だけ…両方のほっぺが腫れてるんだ?」
皆が正気に返ったのを見て、ノアはホーッと大きく息を吐き出しました。
「アタシたち、なんだか寝ぼけていたみたい」
ノアが言うのに、3人とも変な顔をします。
「…は? 歩きながら、寝てたっていうのか? この俺が?」
レイは信じられないと言わんばかりに眉を寄せます。
「凶悪な悪魔がでてくるこんなところで、寝たりなんてするわけないボー!」
ボーズ太郎もコクコクと頷いて言います。ミャオはグルリと目を回しました。
でも、4人とも寝ていたのは確かでした。道中の記憶がまったくないのですから。
「……催眠魔法が得意な悪魔もいるからね。気をつけないと」
先を歩いていたビシュエルが戻ってきて、ちょっとアクビをしながら言います。まるで自分も眠っていたと言わんばかりです。
さっきの笛はもう吹いていません。それどころか手にも持っていません。いつ吹き止めたのでしょう? ノアはちょっと首を傾げました。
「…あ! メル! メルは!?」
ノアがメルのことを思い出します。
そういえば、さっきシャリオの両親を助けに行くのに単独で小屋に乗り込んでいったのです。それから先の記憶がすっぱり全く途絶えています。
メルが雪をかきわけて小屋に向かうところ…そこまでの記憶しかありません。
「い、急いで引き返そう! な、なんでメルを置いてきちゃったんだよ!?」
「ボー! そんなこと我に言われても!!」
いつも冷静なはずのレイが取り乱し、ボーズ太郎の肩をつかんで揺さぶります。
「ニャー! もしあの家が悪魔だったら、メルは今頃バリバリムシャムシャニャア!!」
ミャオの言葉に、ノアもレイもボーズ太郎もサーッと青くなりました。
「た、大変だぁ!! い、いそげッ!!」
ノアたちは慌てて、来た道を引き返して行きました。
「……うまくいかないものだね」
ただビシュエルだけは、冷たい目で走っていくノアたちを見やっていました……。
それは、丸太で作られた簡素な小屋でした。
デッキの手すり越しに、メルは窓から中をそっとのぞき見てみます。ですが、厚いカーテンが閉められていて中までは解りません。
「…シャリオの両親はこの中に」
自分の手が震えていることに今気づきます。そうです。ここら辺にいる悪魔たちは、メルのレベルよりも上の強敵ばかりです。仲間が一緒にいるならともかく、たった1人でどうにかしようというのは無謀なことでした。
メルは心細くなり、無意識にチラッと後ろを振り返ります。でも、そこには誰もいません。
心が沈みそうになる前に、首を横に振って考えなおしました。
「私が…。私がやらなきゃいけない」
そう自分を奮い立たせて、玄関の扉に恐る恐る手をかけます。
どうやら建物自体が悪魔で、そのままバックリということは無さそうでした。もちろんシャリオのことは信じていましたが、その可能性があると言われて腰が多少引けてしまうのはしかたがないでしょう。
ノブはすんなりと回りました。鍵はかかっていないようです。メルはそっと扉を開きます。
滑り込むように中に入ると、薄暗い中でメルは目を細めました。
先の廊下には、絵画や写真立て、靴などが落ちて散乱しています。これは何者かと争った痕跡でした。
ドキンドキンとメルの鼓動が徐々に早くなります。状況を見るに、悪魔が襲ってきたのは間違いないからであります。
魔法を使って灯りを出したいところですが、敵に気づかれてしまうからやめておきます。
薄暗いのを我慢して、メルは壁を背にし、足音を忍ばせてゆっくりと奥へと進んで行きます。
廊下の突き当たりに黒い甲冑が置かれていました。それを敵だと思ったメルは、心臓が口から飛び出るのではないかというほどドキッとしましたが、動く気配はまるでありません。
きっとシャリオの父親の趣味か何かなのでしょう。人騒がせなことです。
しかし、なぜか甲冑は背中側を向けて置かれていたのでありますが、メルは特に気にとめるでもないと思って近づきませんでした。そんなことより生きている人を助けることの方が優先ですからね。
廊下を過ぎて、狭い居間にと入ります。ダイニングテーブルには、食事中だったのでしょうか…3人分のスープやパンが置かれています。しかし、それはすでに冷めきっていて、しかも皿のいくつかは無惨に下に落ちていました。クロスは途中で裂け、椅子も倒れ、グラスは割れています。それだけでここで起きたことの凄惨さが見てとれるようでした。
ガチャン!
居間の奥にある台所から何かが落ちる音がしました。跳ねるように、メルの身体がビクンとします。
しかし、いくら怖くても逃げるわけにはいきません。メルはいつでも魔法を詠唱できるように構えながら、さらにダイニングテーブルを回り込んで前に進みます。
「キキキ。しかし、妙な家だな。ガキ1匹だけ逃げたが…」
「……の加護を得ていたからな。さぞかし強力な魔道士でもいるかと思ったが。これは…………様に」
何やら誰かが話しているようです。メルはゴクリと息を飲み込みながら、そっと台所を盗み見ました。
「誰だ!?」
急にかけられたその声は、台所の方からではありませんでした。メルが入ってきた廊下側…その背中に向かって聞こえたのです! メルは驚きすぎてカチンコチンに硬直してしまいました。
しかしおかしいことです。廊下はさっき自分が確認しながらやって来たのですから、誰もいるはずがありません。もし玄関から入ってきたとしても、メルが耳をすましている中にあって物音1つさせずに入ってくるなんて不可能なはずです。
「逃げたあのガキが戻ってきたのか!?」
ノッシ! ノッシ! 木の床が抜けそうな重い音がします。
廊下の方から、悪魔の1体がやって来る音です。ダイニングテーブルの下から、その姿がようやく見えました。
それはなんとあの突き当たりにあった黒い甲冑ではありませんか!
頭の部分はなく、鎧の胴体から下だけです。そして手には大きな手斧を持っていました。それは『首なし戦士アクス・デュラハン』という悪魔でした。
そして、台所側にいた悪魔2体も入ってきます。人間の身体に獅子の頭がついた『半人半獣ベヒモス』に、アークデーモンの幼体であるカエルのような姿をした『グレムリン』であります。
いずれもビシュエルは1撃で倒していましたが、それは凶悪でとても強い悪魔たちです。
「違う。メリンだ! しかも女だぞ!!」
「なんだと? さっきのファルのガキじゃねぇのか!?」
前後を挟まれます。絶体絶命の最悪な状態です。
「『ファイヤーストーム!!』」
メルはいきなり周囲に魔法を唱えました!
説得が通じる相手でないのはすでに解っています。先手必勝で、1体だけでも先に倒せれば状況が良い方に変わるかもしれません。そう判断してのことでした。
迫り来る炎に、ベヒモスは身じろぎすらしません。大きな口をバクンと開いたかと思うと、炎もろとも大きく息を吸い込んで、なんとその全部を口の中にと入れてしまいました。
「え!?」
口の端からボーボーと火がでて、鬣を燃やしているのですが全く意に介しません。モシャモシャと食べてゴックンと呑み込み、ボフッと煙のゲップを吐き出しました。
「キキキ! そんな下級魔法が我々に効くはずもないだろうよ!」
グレムリンが、プクーッと膨らませたお腹をパンパンと叩いて大笑いします。
「今日はファル2匹だけでなく、メリンの女までもデザートで食えるなんて嬉しいぜ…ゲフフッ!」
ベヒモスがニタリと笑いました。その言葉だけで、シャリオの両親がすでに奴らの胃袋の中なのだと解ります。
「な、なんてことを…!」
「諦めろ! ここは魔神バルバトス様の領土! 立ち入った時点で、死は決まっているのだぁ!」
頭がないのでどこから声がでているのかは不明ですが、アクス・デュラハンはメルの肩を逃れられぬようガッシリと掴みました。
「ううっ! 私に…私にもっと力があれば!!」
悔しくてを歯を食いしばります。そして、メルは死を覚悟しました。
しかし、どんな魔法を使ったとしても、今のメルの力ではかすりキズひとつ付けることはできないでしょう。観念したようにダランと手を落とします。
「よしよし。そう大人しくしていればいいんだよ。一瞬で喰ってやるから痛みはねぇぜ!」
下品な口をベヒモスが大きく開きます。。紫色の舌がヌラヌラしてますし、飛び出した4本の牙は凶悪極まりないです。ダラダラと滴り落ちるヨダレは酸っぱい臭いがしました。今からこの中に行かなければならないのだと思うと、メルはとても気分が悪くなります。
「それでは、いただきまぁーす!!」
食べられることを覚悟してメルはギュッと目をつむりました。
(バーボンさん!)
メルが目をつむって数秒…
(…………?)
いつまで経っても、痛みも衝撃も来ません。メルは恐る恐る目を開いてみました。
「…キ? おい。どうした? さっさと喰っちまえよ」
メルは目の前にいるというのに、口を開けたままでベヒモスは動かなくなっています。
グレムリンは変に思って、その体を拳で小突きました。それでも、ベヒモスは一向に動こうとしません。
「…あ、アガガガガ!」
途端、ベヒモスの身体が激しく痙攣しだします!
メルは何事かと目を見張りました。ベヒモスの血管が浮きあがり、それがドス黒く変色していきます。
「お、おい!!」
「どうした!?」
グレムリンとアクス・デュラハンが心配しますが、ベヒモスの様子はますますおかしくなっていきます。
グリンと白目をむいて、泡を吹き出し、その場でゴロンと倒れてしまいました。
そして、ブチッ! という音がしたかと思うと…全身から血が噴き出します!
「な、なんじゃこりぁー!?」
2匹がオロオロとうろたえるなか、やがて痙攣が止まり…ベヒモスは動かなくなってしまいました。
「…し、死んだ? なんだ、何が…おきた?」
「女! なにをした!?」
目の前でいきなり仲間が死んだのです。動揺したアクス・デュラハンが、メルの肩をつかんで揺すぶります。
でも、メルにも何が起きたのか解らないのです。自分が何かをしたわけではないのですから。
「さっきの下級魔法に何かが…いや、しかし、そんなことができる魔法など…!」
「『レイジングファン!!』」
いきなり廊下から、レイが黄金のオーラを放ちつつ突進してきました!
「オオッ!?」
いきなりの襲撃に驚いたアクス・デュラハンでありましたが、上手く手斧でそれを受け止めて直撃を避けます。
「メルーッ!!!」
ノアの声です。そして、彼女たちが連なって居間に雪崩れこんできました!!
「ノア…。ノアーッ!!」
メルは思わず叫んでしまいます。それは喜びに満ちていました。ノアたちが自分のために戻ってきてくれたのです。嬉しくないはずがありません。
「ゴメン! メル! アタシどうかしてた!! メルを置いて先に行っちゃうなんて!」
レイに反撃を仕掛けようとしていたアクス・デュラハン。それを思いっきり蹴っ飛ばしながらノアが言いました。
「ううん。私…私こそ、謝らなければいけないわ。勝手なことをしたんですから」
メルがそう言うのに、ノアもレイもニッと笑います。
「うぐぐぐぬ! 貴様ら、いったい!?」
「ニャーン! これで皆元通りの仲良しニャー!」
クルクルと回転しながら飛んできたミャオが、アクス・デュラハンの肩口をガリッと引っ掻きます。そこにあった肩当てが悲鳴をあげました。鬼のような顔が描かれていたのですが、それが苦痛に顔を歪めます。
「うがああー! お、俺の顔を…よ、よくも!!」
肩当てが怒ります! てっきり装飾だと思っていた肩当てが、実はアクス・デュラハンの本体であり弱点だったのです。実はこれがさっきから喋っていたのですね。
「ああ! もう!! うるさいな!! 今取り込み中だよ! 『ストライクアタック!!』」
ノアの全体重を乗せたヒジ撃ちが決まります!
ミャオの1撃でヒビの入っていたアクス・デュラハンの顔がパリーンと砕け散ってしまいました。そして鎧はガクンと膝をつき、ピクリとも動かなくなります。
「な…なんだぁ……」
いきなり仲間がやられて、臆病風に吹かれたグレムリンでした。逃げるタイミングを見測るよう少しずつ後退します。
「これは報告して…ギュゥ!?」
ですが、そのグレムリンの小さな体を、暗闇から伸びた手がワシ掴みにします!
そして、クッと力を入れると、ポキリと折れる音がしてぐったりしました。
「だ、誰だ!?」
メルをかばうように、ノアとレイが進み出ました。
手は台所から伸びています! あの悪魔たち以外に誰かがいたのです!
「…騒がしいネズミどもが」
台所の影から進み出てきた男を見て、ノアたちは目を丸くします。
「オ・パイ!?」
それは、オ・パイでした。その後ろには、青白い顔をしたアホンとダラもいます。
「な、なんで…あなたが…あなたがここに!?」
ひときわ驚きが大きいのはメルでした。口に手を当てて半ば叫ぶように言います。
それには答えず、オ・パイは倒れているベヒモスをチラッと見やりました。
ノアはそれで気づきました。ベヒモスの身体にあるのは死至突の痕ではありませんか。同じ技を受けたことのあるノアだからこそ解ったのです。
「オ・パイ…。アンタ、もしかしてメルを…?」
「助けたの?」とノアは聞こうとしましたが、オ・パイがギロッとにらみつけてきたのでその先の言葉は言えませんでした。
「…神王の加護とやら、どうやらガセだったようだな」
オ・パイは独り言のようにポツリと言います。
その言葉の意味はノアたちには解りませんでした。
それだけでなく、後ろにいるアホンとダラも不安そうに顔を見合わせています。やはり部下のこの2人でも解らないのでしょう。
「悪魔の考えなどくだらぬ。…行くぞ」
オ・パイは鼻を鳴らし、ノアたちの横を通り過ぎて、そのまま行ってしまおうとしました。
それをメルが止めます。なんと、すれ違いざまにオ・パイの腕をつかんだのです!
メルが攻撃されるものと、ノアたちに戦慄が走りました。
しかし、オ・パイは相変わらずの冷たい目でメルを横目に見やるだけです。殴るどころか、振り払うこともしませんでした。
「お…お父さん。シャリオ、シャリオの…両親は?」
胸を抑えつけ、不安と恐怖と悲しみが入り交じった複雑な目で、メルは…父を、オ・パイを見やります。
「…両親? この小屋には、子供が1人いただけだ。私と、あの悪魔が来たせいで、慌てて逃げていったようだがな」
オ・パイの言葉に、メルは眉を寄せます。
なぜオ・パイたちが悪魔とここにいたのか。そういう謎もありましたが、それよりもシャリオの両親がいなかったとはどういうことでしょうか。
ベヒモスは、両親を食べたと言っていました。メルはそれをちゃんと聞いていました。
「…フン。どういうことかは知らんが、あの馬鹿どもは…あそこにある人形を美味そうに喰らっていたようだがな」
オ・パイが台所の中を指さします。のぞき込むと、木製のマネキンが…ええ。なぜか倒れているマネキンが2体あったのです。
その2体は、頭から囓られたような跡があります。頭と上半身がまるまる無くなっているのです。残った下半身の衣装から、どうやら男性と女性をそれぞれ模しているようでした。
「…どういうこと? これが、シャリオの両親?」
ノアはメルに尋ねますが、メルも解らないと首を横に振ります。
その時でした。誰かが玄関から入ってくる音がします。
「…あーらら。ちょっと来るタイミングが早かったか。1つ上手くいかないと、2つめもダメなもんだね」
ビシュエルです。ノアたちとオ・パイを見て大げさに両手を広げたかと思うと、居間の柱に手をかけながら、額をおさえて嘆く仕草をしてみせます。
「……話が違うぞ。ビシュエル」
オ・パイがビシュエルをにらみ付けます。ビシュエルはフフフと笑いました。
「私だって、まさか派遣した潜入者と…私たちが鉢合わせるなんて思っていなかったさ」
親しげに話している2人を見て、ノアたちの身体が強張ります。
床に倒れてたグレムリンが、目をギョロッと動かし、ムクリと起きあがりました。なんとまだ生きていたのです。すごい生命力です。
「キ、キィ! ビシュエル様!! オ、オ・パイ様が乱心を!! わ、私や…このベヒモスを手にかけ…」
グレムリンは最後まで言い切ることなく、ボッとその身を炎で焦がしました。そのまま溶けて蒸発してしまいます。ビシュエルが魔法を使ったのでした。
「黙って死んどけよ。おしゃべりなヤツだ…。ま、どうせ、こうなってしまっては計画はおじゃんだけどね」
肩をすくめ、ビシュエルは高笑いをあげます。
「…計画?」
もう聞かなくても解るような気がします。それでも、ノアは聞かずにはおられませんでした。ビシュエルは残酷に笑います。
「ラグナロク遺跡の場所…だよ。ここに私も何年もいるが、その場所だけは解らないのさ。スタッドのヤツが何か魔法をかけて隠しているのかもしれない。君たちなら、その場所を知っている。だから、丁重に案内してもらおうと思ったのさ」
みるみるうちに、ビシュエルの肌が青白くなっていきます。耳も尖り、頭から山羊の角のようなものが生えてきます。その姿は人型の悪魔でした。
「じゃあ、アタシたちを…。魔神に操られていないってのは作り話だったていうのか!?」
「フフン。そうさ。騙していたのさ! このまま騙されていれば、ラグナロク遺跡までは生きていられたのに…まったく、バカな子たちだよね!」
ビシュエルが口笛を吹くと、トカゲに甲冑をつけたような姿をしたアークデーモン2体が姿を現します。どうやらずっとビシュエルの側で隠れていたようです。
「…くだらぬ茶番だ。最初から締め上げて吐かせればよかったものを」
オ・パイが気に入らなさそうに言います。
「それじゃ、つまらないよ。それに、力づくで口を割る連中じゃないさ」
ビシュエルが、すでに戦闘態勢のノアたちを見て面白そうに言います。
「フン。貴様に頼った私が愚かだった…。私は私でラグナロク遺跡を見つける」
「好きにしなよ。ただし…私の邪魔だけはさせないよ。もし邪魔をすれば魔神様に…」
オ・パイとビシュエルがにらみ合います。
しかし、オ・パイが先に目を逸らし、そのまま脇をすり抜けて行ってしまいました。慌ててアホンとダラもそれに続きます。
「…ビシュエル!!」
「フフン。魔神バルバトス様の復活を阻む者には容赦しないよ! 知の四天王ビシュエルの美しさと恐ろしさ、思う存分に味わうがいい!」
☆☆☆
小屋から出て、雪原を平地とほぼ変わらぬスピードで歩く上司に耐えかね、ついにアホンとダラが悲鳴を上げました。
「ボス!! 待ってほしいチョ!」
「ほしいベー!」
不快感を隠すことなく、オ・パイは振り返ります。その距離はかなり開いていましたが、容赦なくアホンとダラのいるところまで殺気が叩きつけられます。
しかし、それでもアホンたちは気力を振り絞って向き合いました。
「なんなんだチョ! さっきの、悪魔といい! なんで、ボスはあんなのと知り合いなんだチョ!?」
アホンの必死の抗議でした。しかし、オ・パイは顔色一つ変えません。
「…ノアたち死ぬべー」
ダラがぼそりと言います。アホンは苦々しい顔をしました。
「そうだチョ! あのビシュエルって悪魔…普通じゃなかったチョ!!」
アホンが両手を振り回して言います。ダラも大きく頷きました。
「…だとしたら、どうしたというのだ?」
そう冷徹に言うオ・パイです。アホンとダラはもどかしそうに口をモゴモゴとさせます。どう説明すればオ・パイに解ってもらえるのか解らないのです。
オ・パイの服がグイッと引っ張られます。オ・パイはチラッと下を見やりました。
「ヒックヒック…」
それはシャリオでした。シャリオが、オ・パイの服の裾をつかんで泣いているです。
オ・パイは眉間にシワを寄せました。
「ボ、ボクの家に行った…お姉ちゃんが、悪魔に。悪魔に殺されちゃうよ! た、助けて…お願いだよぉ!」
シャリオは泣きじゃくりながら必死で言います。
オ・パイは何故かきつく目を閉じました。聞きたくないと言わんばかりです。歯を食いしばっているせいで、アゴにはエラが張ります。額には血管が浮き出ます。
しかし、グッと堪え、しばらくして開いた目は、それら全ての感情を呑み込んでいました。いつもの暗殺者の顔です。
「…もうすでに死んでいる。いま行ってももはや手遅れだ」
シャリオは衝撃を受けます。茫然自失《ぼうぜんじしつ、》愕然とした表情です。散った涙がポタポタッと下の雪をわずかに溶かしました。
オ・パイはそのシャリオの顔すら見ません。口をへの字にし、つかんでいるシャリオの手を振り払います。
「こ、こんな子供に何を言うチョ!」
「あんまりだべー!」
頭からボンと煙を吹き出したアホンが怒ります。しかし、オ・パイは何も答えません。
アホンは肩をいからせてオ・パイの元に近づきます。
「…見損なったチョ。ボス! お仕置きでもなんでも後で受けるチョ! 俺たちはノアを助けに行くチョ!!」
アホンがそう言うと、ダラが槍を背中から取り出します。そして、アホンはシャリオの手を取りました。
「俺たちと一緒に行くチョ! お姉ちゃん…ノアやメルメルは、俺とダラが助けてやるチョ!」
シャリオの目に光りが戻ります。大きく頷いて、アホンの手を強く握り返しました。
アホンとダラ、そしてシャリオは…小屋への道を引き返します。途中で一度だけ振り返りましたが、オ・パイが身じろぎもしないのを見て取るとそのまま行ってしまいました。
ポツンと取り残されたオ・パイは、小屋をチラッとみやり、それから自分の足下の雪原をにらみ付けます。
シャリオの涙の跡、そして小さな靴の跡が残されていました。その側にはちょっと大きなアホンの靴跡です。これらがオ・パイの心をざわつかせていました。
先ほどすべて呑み込んだはずの全ての感情を拳に握り込めます。
ズッドオオオオンッ!!
雪原に向けて拳の1撃!
雪が、土が吹き飛び…地面が揺れ、小さなクレーターが出来上がります。
「…さすがはオ・パイ殿。無敵の四天王と呼ばれるだけはありますね」
「む!? 誰だ!!?」
すぐ横から声がします。気配は全く感じませんでした。オ・パイは目を見張ります。自分が気づかないうちに、これだけ接近してこれるなんて武術の達人でもない限りあり得ないことだったからです。
「はじめまして、かな。どうも」
木立の影から、男が姿を現します。決して武人とか達人とかいう類の人物ではありません。
強いていうなればまるで特徴のない、みすぼらしいデムの男でした。古びた丸メガネの奥からは温厚な笑みが浮かんでいます。
「まさか、スタッド……? 貴様は…スタッドなのか!!?」
オ・パイは聞いていた情報を思い起こし…それがすべて当てはまる人物であると、それがスタッドであることを察します。
スタッドの容姿は聞いていたものの、オ・パイも会うのは初めてだったのです。
何も返事をしないことが証明であると、オ・パイは不敵に笑います。
「これは好都合! 貴様を捜すのに、ラグナロク遺跡とやらに行かずともすむとはな!! ここで引導を渡してくれよう!!」
オ・パイが構えます。身体中から凄まじい殺気のオーラが迸りました。
それでも、スタッドは怯むことがありません。さすがは魔神バルバトスを封印した男だと、オ・パイは思いました。相手にとって不足はありません。
「…オ・パイ殿。戦う理由がないですよ」
「フン! 貴様がそうでも、私には戦う理由があるのだ!! シェイ!!」
一瞬で間合いを詰め、オ・パイの目にも止まらぬ拳突きが繰り出されました!
それはスタッドの真芯を捉えていました。しかし、フッとスタッドの身体が消えます。
「な、なに!?」
「『憂う女神の願い。浄化の言霊。聖なる水。悪しき者の意を流したまえ…セインリカバー』」
スタッドが魔法を唱えます。そして、戸惑うオ・パイの額を軽くチョンと突きました。
「ぬッ?!」
パーーンと何かが弾け、光が飛び散ります。
オ・パイは一瞬だけ視力を失い、よろめきました。
「お、おのれっ!! な、何をした!?」
オ・パイは慌てて後方に飛び跳ねます。
痛みはありません。しかし、何か魔法がかけられたのに違いがありませんでした。
「…魔神の呪いを解きました」
スタッドは人差し指を立てて笑います。その呑気な姿は、オ・パイの一撃を避けた人物のようには見えません。
「な…んだと?」
オ・パイは自分自身を見やります。何も変わったことはありません。
「もう魔神バルバトスに聞かれることはありません。もう“野望を抱く無情の暗殺者”なんて振りはしなくてもいいんですよ」
自信満々に言うスタッドでしたが、オ・パイは訝しげな顔をします。
しかし、スタッドの表情からは『僕を信用して下さい』という言葉しか読みとれません。
「あなたの力が必要です。ノアを…いや、ノアたちを助けてやってください」
スタッドはニコッと笑ってそのまま立ち去ってしまいます。
「お、おい! 待て! スタッド!!」
オ・パイはその背を追いかけますが、すぐに見失ってしまいます。
「こ、この私がまかれるだと?」
周囲を捜しますが、どこかに隠れているわけでもなさそうです。でも、さっきのスタッドは間違えることもない実体でした。
「呪いが…解けた? そんなことを信じれるはずが…」
そんなことを言いつつも、オ・パイはスタッドが嘘をついているわけがないと思います。わざわざ“自分の背後にいる”はずの魔神を相手に、そんな危険なことするのは割に合わないと思えたからです。
自分の拳を見つめます。それは何度も人々を追いつめてきた、死に満ちた邪悪な拳です。
しかし、今のオ・パイには何よりもそれが頼もしく思えていました。
「……ふ、ふははははは! 見事、私を出し抜きおったわ。スタッドめ。私もヤツの手の上で踊っていたネズミだったというわけか」
オ・パイは大きく笑い、そして小屋のある方向に振り返りました。
「よかろう! スタッド!! 貴様の手の平で踊ってやるわ!! 死の舞踏ならぬ…死の武闘をな!!!」
そのオ・パイの目はもはや、あの冷徹な暗殺者のそれではなかったのでありました…………。