最終話 20年間、私は自分の気持ちを封印していた 〜弟妹のために青春を捧げた私が、ずっと好きだった彼と幸せになるまで〜
私の人生は、20歳で一度終わった。
大学2年の冬。
父と義母が、交通事故で亡くなった。
居眠り運転のトラックに突っ込まれた。
即死だった。
◇
私の実の母は、私が3歳の時に病気で亡くなった。
父は、私が17歳の時に再婚した。
義母には、連れ子が二人いた。
翔太と、美優。
血は繋がっていない。
でも、3年間一緒に暮らして、本当の家族になった。
「お姉ちゃん」と呼んでくれる二人が、私は大好きだった。
◇
葬儀の日、私は泣けなかった。
泣いている暇がなかった。
弟の翔太は5歳。
妹の美優は3歳。
二人とも、まだ幼かった。
「お姉ちゃん、お父さんとお母さんは?」
美優が、私の服の裾を掴んで聞いた。
「……もう、いないの」
「いないって、どこに行ったの?」
「……」
翔太は、何も言わなかった。
5歳の男の子が、何かを堪えるように下を向いていた。
私は、二人を抱きしめた。
「大丈夫。お姉ちゃんが、二人を守るから」
その時、私は決めた。
この子たちを、私が育てる。
何があっても、私が守る。
◇
親戚たちは、施設に入れることを勧めた。
「由美子ちゃん、まだ20歳でしょ」
「大学もあるのに、子供二人なんて無理よ」
「しかも血の繋がらない子供を……」
「施設に預けた方が、みんなのためよ」
私は、断った。
「私が育てます」
「でも、血が繋がってないんでしょ?」
「関係ありません。この子たちは、私の家族です」
親戚たちは、呆れた顔をした。
でも、私は曲げなかった。
血なんて関係ない。
3年間、一緒に暮らした家族だ。
「お姉ちゃん」と呼んでくれる二人を、見捨てられるわけがない。
◇
大学は中退した。
勉強している余裕なんてなかった。
すぐに働かないと、生活できない。
幸い、父と義母の生命保険があった。
でも、それだけじゃ足りない。
弟妹の学費、生活費、将来の教育資金。
計算すると、気が遠くなった。
私は、就職活動を始めた。
20歳、大学中退、扶養家族あり。
条件は最悪だった。
何社も落ちた。
それでも、諦めなかった。
諦めたら、弟妹を守れない。
◇
なんとか、中堅のITコンサル会社に就職できた。
事務職。
給料は安かったけど、定時で帰れる。
それが一番大事だった。
毎日、定時で帰って、弟妹の世話をした。
朝、二人を起こして、朝ごはんを作る。
学校に送り出して、会社に行く。
定時で帰って、夕飯を作る。
宿題を見て、お風呂に入れて、寝かしつける。
休日は、二人の習い事に付き添う。
自分の時間なんて、なかった。
恋愛する余裕なんて、もっとなかった。
◇
10年が過ぎた。
弟は15歳で、中学3年生。
妹は13歳で、中学1年生。
二人とも、真っ直ぐに育ってくれた。
それだけで、私は幸せだった。
でも、まだまだこれからだ。
高校、大学。
お金も、時間も、まだまだかかる。
◇
さらに3年が過ぎた。
私は33歳になっていた。
「お姉ちゃん、いつもありがとう」
翔太が、大学の入学式の日に言った。
「俺、絶対いい会社に入って、お姉ちゃんに恩返しするから」
私は、泣いた。
13年間、頑張ってきて良かった。
◇
でも、私自身の人生は、空っぽだった。
33歳、独身、彼氏なし。
恋愛経験、ほぼゼロ。
合コンに誘われても、断り続けた。
「由美子、たまには来なよ」
「ごめん、弟妹がいるから」
「もう高校生と大学生でしょ?一人で留守番できるじゃん」
「……でも」
私は、自分の幸せを後回しにすることに慣れてしまっていた。
弟妹が完全に独立するまでは、自分のことは考えない。
そう決めていた。
◇
そんな私に、一つだけ秘密があった。
会社に、気になる人がいた。
鈴木健一くん。
私より4つ年下の後輩。
◇
健一くんが入社してきたのは、私が26歳の時だった。
新人研修が終わって、私の部署に配属された。
「鈴木健一です。よろしくお願いします」
第一印象は、「真面目そうな子」だった。
背が高くて、顔は悪くない。
でも、特別目立つタイプじゃない。
大人しくて、控えめで、地味な印象。
「鈴木くん、分からないことがあったら何でも聞いてね」
「はい、ありがとうございます」
健一くんは、素直な子だった。
教えたことは、ちゃんと覚える。
分からないことは、ちゃんと聞いてくる。
失敗しても、言い訳しない。
私は、健一くんを気に入っていた。
……最初は、ただの「いい後輩」として。
◇
健一くんに、初めてドキッとしたのは、入社半年後のことだった。
その日、私は珍しく残業していた。
遠くに住んでいる祖母が、たまたま泊まりに来ていて、弟妹の面倒を見てくれていた。
久しぶりに、時間に追われない夜だった。
「由美子さん、まだいたんですか」
振り返ると、健一くんがいた。
「鈴木くん、あなたも残業?」
「はい、ちょっと資料が終わらなくて……」
「そう。頑張ってね」
「はい。あの、由美子さん」
「なに?」
「コーヒー、飲みますか?自販機で買ってきます」
「……いいの?」
「俺も買うんで、ついでに」
健一くんは、缶コーヒーを2本買ってきてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
温かい缶コーヒーを受け取った時、指が触れた。
健一くんの手は、大きくて、温かかった。
……ドキッとした。
何これ。
私、何を意識してるの。
相手は4つも年下の後輩なのに。
◇
それから、健一くんのことが気になるようになった。
仕事中、つい目で追ってしまう。
話しかけられると、嬉しくなる。
自分でも、おかしいと思った。
私は26歳。
健一くんは22歳。
しかも、私には弟妹がいる。
恋愛なんて、している場合じゃない。
私は、自分の気持ちを封印した。
気のせい、気のせい。
ただの後輩として、可愛がってるだけ。
そう、自分に言い聞かせた。
◇
でも、封印は何度も破られそうになった。
ある日、私は風邪をひいて会社を休んだ。
熱が38度あって、起き上がれなかった。
弟妹は学校に行っている。
一人で、布団の中でうなっていた。
夕方、インターホンが鳴った。
「……はい」
「由美子さん、鈴木です。大丈夫ですか?」
玄関を開けると、健一くんが立っていた。
手に、スーパーの袋を持っている。
「あの、ポカリとか、ゼリーとか、買ってきました。熱、大丈夫ですか?」
「え……」
「病院は行きました?」
私は、泣きそうになった。
弟妹の世話は、いつも私がしてきた。
でも、私が倒れた時、世話をしてくれる人はいなかった。
それが当たり前だと思っていた。
なのに、この子は。
「ありがとう……」
「いえ、早く元気になってください。由美子さんがいないと、みんな困るんで」
健一くんは、照れたように笑った。
私は、本当に泣きそうになった。
◇
もう一つ、忘れられない出来事がある。
入社2年目の健一くんが、大きなミスをした。
取引先への見積書に、桁を一つ間違えてしまったのだ。
健一くんは真っ青になっていた。
「すみません、すみません……」
上司は激怒した。
「お前、何やってんだ!」
「すみません……」
「これ、どうやってリカバリーするんだ!」
健一くんは、何も言い返せずに俯いていた。
私は、見ていられなかった。
「課長」
「なんだ、山田」
「この見積書、私がチェックしました。確認不足は、私の責任でもあります」
「……」
「取引先への説明は、私も同行します」
課長は、渋い顔をした。
「……分かった。二人で行ってこい」
取引先への謝罪は、大変だった。
でも、なんとか許してもらえた。
帰り道、健一くんが言った。
「由美子さん、すみませんでした」
「いいよ。次から気をつければ」
「でも、由美子さんは悪くないのに……」
「私も確認したんだから、私の責任でもあるよ」
「……」
健一くんは、立ち止まった。
「由美子さん」
「なに?」
「俺、由美子さんみたいな人になりたいです」
「え?」
「仕事ができて、後輩のフォローもできて、責任感があって。由美子さん、本当にすごいです」
健一くんの目が、真っ直ぐだった。
「俺、頑張ります。由美子さんみたいになれるように」
その目を見た時、私の心臓が跳ねた。
ダメ、ダメ。
この子は後輩。
4つも年下。
私には、弟妹がいる。
恋愛なんて、できない。
「……ありがとう。頑張ってね」
私は、それだけ言って、歩き出した。
◇
健一くんへの気持ちは、どんどん大きくなっていった。
でも、私は何もしなかった。
できなかった。
私は26歳で、健一くんは22歳。
年上の女から告白なんて、迷惑だろう。
それに、私には弟妹がいる。
結婚したら、弟妹はどうなる?
「お姉ちゃんの彼氏」なんて、気まずいだろう。
私は、弟妹が独立するまで、恋愛はしない。
そう決めていた。
◇
入社5年目のある日。
私は、自分から壁を作った。
「鈴木くん、彼女いないの?」
健一くんは、驚いた顔をした。
「え?いないですけど……」
「もったいないなあ。鈴木くん、優しいし、真面目だし。絶対モテるでしょ」
何を言ってるんだ、私は。
健一くんに、彼女を作れと言っている。
自分で自分の首を絞めている。
「由美子さんは……」
健一くんが、何か言いかけた。
私は、遮った。
「私?私は、弟と妹がいるから。恋愛とか、当分無理かな」
嘘だ。
本当は、好きな人がいる。
目の前にいる、この人が好き。
でも、言えない。
「二人が独立するまでは、私のことは後回し」
私は、笑った。
精一杯の、作り笑い。
「鈴木くんは若いんだから、いい人見つけなよ」
「……そうですか」
「うん。鈴木くんなら、すぐ見つかるよ」
健一くんの顔が、少し曇った。
……何を期待してるの、私。
健一くんが私を好きなわけないでしょう。
4つも年上で、弟妹を抱えてて、地味で、化粧っ気もない。
そんな女、誰が好きになる?
私は、健一くんを遠ざけた。
これでいい。
健一くんには、若くて可愛い彼女ができるだろう。
私のことなんて、すぐ忘れる。
……そう思ったのに、胸が痛かった。
◇
数ヶ月後、健一くんに彼女ができたと聞いた。
クルージングパーティーで出会ったらしい。
「すごい美人らしいよ」
「へえ、よかったね」
私は、笑顔で答えた。
笑顔で答えるしかなかった。
だって、「彼女作りなよ」と言ったのは、私だから。
◇
健一くんが結婚すると聞いたのは、私が34歳の時だった。
「鈴木くん、結婚するんだって」
同僚から聞いた。
頭が真っ白になった。
「へえ、そうなんだ。おめでとう」
声が震えないように、必死だった。
「相手、すごい美人らしいよ。元港区女子だって」
「そうなんだ」
私は、笑顔を作った。
トイレに駆け込んで、泣いた。
馬鹿みたい。
何も言わなかったのは、私なのに。
何もしなかったのは、私なのに。
勝手に好きになって、勝手に失恋して。
本当に、馬鹿みたい。
でも、泣いてばかりはいられない。
私は、顔を洗って、化粧を直した。
そして、健一くんの席に向かった。
「鈴木くん、結婚おめでとう」
健一くんは、少し驚いた顔をした。
「あ、ありがとうございます」
私は、精一杯の笑顔を作った。
「幸せにね」
「はい」
それだけ言って、私は自分の席に戻った。
振り返らなかった。
振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。
「彼女作りなよ」と言ったのは、私だ。
「恋愛は無理」と嘘をついたのも、私だ。
健一くんを、女の人のところに追いやったのは、私だ。
……だから、笑って祝福するしかない。
◇
健一くんは、結婚した。
奥さんは、本当に綺麗な人だった。
派手で、華やかで、キラキラしていた。
私とは、正反対。
そりゃそうだ。
健一くんが選ぶのは、ああいう女性だよね。
地味で、化粧っ気もなくて、弟妹を抱えてる私なんか、眼中にないよね。
私は、健一くんを遠くから見ることしかできなかった。
幸せになってね。
心の中で、そう祈った。
でも、健一くんは幸せそうに見えなかった。
結婚してから、健一くんは変わっていった。
笑わなくなった。
覇気がなくなった。
ミスが増えた。
会議で発言しなくなった。
「鈴木、最近どうした?元気ないな」
上司に言われても、健一くんは「大丈夫です」としか言わなかった。
私は、心配だった。
でも、何もできなかった。
健一くんには奥さんがいる。
私が口を出すことじゃない。
◇
年月が経った。
私は40歳になった。
弟の翔太は25歳で、IT企業でエンジニアをしている。
妹の美優は23歳で、社会人になった。
二人とも、立派に独立した。
20年間、私は二人のために生きてきた。
やっと、肩の荷が下りた。
「お姉ちゃん、今まで本当にありがとう」
翔太が言った。
「お姉ちゃんがいなかったら、俺たちは施設に入ってた」
「血も繋がってないのに、俺たちを育ててくれた。感謝してる」
私は、泣いた。
20年間、頑張ってきて良かった。
でも、同時に思った。
……私の人生は、これからどうすればいいんだろう。
40歳、独身。
恋愛経験、ほぼなし。
今更、結婚なんてできるのかな。
このまま一人で生きていくのかな。
それでもいい、と思っていた。
弟妹が幸せなら、それでいい。
私の人生は、そのためにあったんだから。
◇
そんな時だった。
会社で、健一くんが気になっていた。
健一くんは36歳になっていた。
でも、昔の健一くんとは、全然違った。
目に光がない。
覇気がない。
いつも疲れた顔をしている。
会議では、一言も発言しない。
昔の健一くんは、もっと真っ直ぐで、一生懸命だったのに。
何があったんだろう。
……奥さんと、うまくいってないのかな。
ある日、健一くんの姿を見て、私は凍りついた。
昼休み、社員食堂で。
健一くんは、隅の席で一人で食べていた。
コンビニのおにぎり、1個だけ。
……え?
お昼ご飯が、おにぎり1個?
健一くんは、それを黙々と食べていた。
食べ終わると、水を飲んで、席を立った。
胸が痛くなった。
何があったの。
なんで、おにぎり1個なの。
それから、私は健一くんを観察するようになった。
健一くんは、毎日おにぎり1個だった。
たまに、菓子パン1個の日もあった。
同僚にランチに誘われても、断っていた。
「ごめん、ちょっと……」
いつも、そう言って断る。
私は、気づいた。
健一くん、お金がないんだ。
なんで?
なんでお昼ご飯も食べられないの?
◇
健一くんは、明らかにおかしかった。
顔色が悪い。
痩せた。
目の下にクマがある。
笑わない。
昔の健一くんを知っている私には、分かった。
この子、壊れかけてる。
放っておいたら、危ない。
私は、決心した。
声を、かけよう。
「鈴木くん、最近疲れてない?」
健一くんは、びっくりした顔をした。
「え?」
「なんか元気ないなって思って。余計なお世話だったらごめんね」
「大丈夫?顔色悪いよ」
「あ、いや、ちょっと寝不足で……」
「無理しないでね」
私は、それだけ言って、去った。
本当は、もっと聞きたかった。
何があったの?
なんでそんなに辛そうなの?
私に、何かできることはない?
でも、踏み込めなかった。
健一くんには、奥さんがいる。
私が口を出すことじゃない。
◇
でも、放っておけなかった。
次の日、私は声をかけた。
「鈴木くん、お昼一緒にどう?」
「あ、いや、俺は……」
「迷惑だった?」
「違うんです。ちょっと、昼飯代が……」
健一くんは、恥ずかしそうに俯いた。
「今日、財布忘れちゃって……」
……嘘だ。
毎日おにぎり1個なのに、財布を忘れたわけがない。
私は、気づかないふりをした。
「じゃあ、私のお弁当、少し分けようか?作りすぎちゃって」
「え、いいんですか?」
「迷惑じゃなければ」
健一くんは、少し迷ってから、頷いた。
◇
社員食堂の隅で、一緒にお弁当を食べた。
私の卵焼きを、健一くんに分けた。
健一くんは、それを食べて、泣きそうな顔をした。
「美味しい……」
「本当?良かった。弟たちに作ってたから、男の人の好みは分かるかなって」
「……ありがとうございます」
健一くんの声が、震えていた。
この子、どれだけ辛い思いをしてきたんだろう。
私は、胸が締め付けられた。
◇
それから、私は毎日健一くんの分のおかずを作るようになった。
「鈴木くん、今日は唐揚げだよ」
「ありがとうございます……」
「遠慮しないでね。弟たちが独立してから、作る量が減っちゃって。誰かに食べてもらえると嬉しいの」
健一くんは、毎日私の料理を食べてくれた。
「美味しい……本当に美味しいです」
その言葉を聞くたびに、私は嬉しかった。
そして、切なかった。
この子の奥さんは、料理を作ってあげないのかな。
この子の奥さんは、この子のことを見てあげてないのかな。
◇
「鈴木くん、仕事大変そうだね」
「まあ、いろいろあって……」
「愚痴とか、いつでも聞くよ。私でよければ」
健一くんは、少しだけ話してくれた。
会議で発言できないこと。
自分に自信が持てないこと。
何をやっても、うまくいかないこと。
私は、聞いていて辛くなった。
新人の頃の健一くんは、こんな子じゃなかった。
真っ直ぐで、一生懸命で、素直だった。
この子を、こんなにしたのは、何?
◇
ある日、健一くんが泣いた。
私が「奥さんと、うまくいってないの?」と聞いた時。
健一くんは、堰を切ったように話し始めた。
毎日否定されること。
「稼ぎが悪い」と言われ続けること。
小遣いが2万円しかないこと。
友達の前で「うちの旦那は無能」と言われたこと。
実家を「田舎の汚い家」と罵倒されたこと。
私は、信じられなかった。
ちゃんと働いてるのに。
なんで、そんなことを言われなきゃいけないの?
私は、黙って聞いた。
健一くんは、泣きながら話し続けた。
「俺、自分がダメな人間だと思ってました」
「……」
「美咲の言う通り、俺は無能なんだって。使えない男なんだって」
「……」
「俺みたいな人間は、生きてる価値がないんだって……」
私は、健一くんの手を握った。
「鈴木くんは、悪くないよ」
「……え?」
「悪くない。鈴木くんは、何も悪くない」
健一くんの目から、涙が溢れた。
「ずっと、俺が悪いんだと思ってました」
「悪くないよ」
「俺が無能だから、俺が使えないから……」
「違うよ。鈴木くんは、悪くない」
私は、健一くんを抱きしめたかった。
でも、できなかった。
この子には、奥さんがいる。
私が抱きしめていい相手じゃない。
だから、手を握ることしかできなかった。
「鈴木くん」
「……はい」
「逃げていいんだよ」
その言葉を言った時、私は覚悟を決めていた。
この子を、救いたい。
たとえ、何を犠牲にしても。
◇
それから、私は健一くんを支え続けた。
毎日、お弁当を作った。
愚痴を聞いた。
「鈴木くんならできるよ」「鈴木くんはすごいよ」と言い続けた。
健一くんは、少しずつ元気を取り戻していった。
私は、嬉しかった。
そして、怖かった。
私は、健一くんを好きだ。
20年近く、ずっと好きだった。
でも、健一くんには奥さんがいる。
私がしていることは、不倫を助長してることになるのかもしれない。
でも、放っておけなかった。
このままじゃ、健一くんが壊れてしまう。
死んでしまうかもしれない。
それだけは、絶対に嫌だった。
◇
そこから、私たちの関係が変わるのに、時間はかからなかった。
20年間、封印してきた気持ち。
20年間、誰にも触れられなかった体。
健一くんに抱かれた時、私は泣いた。
嬉しくて、怖くて、罪悪感で、幸せで。
全部が混ざって、涙が止まらなかった。
「由美子さん……」
「ごめんね、泣いて」
「俺こそ、ごめんなさい」
「違うの。嬉しいの」
私は、健一くんの胸に顔を埋めた。
こんな幸せ、知らなかった。
こんな温もり、知らなかった。
20年間、私は何を我慢してきたんだろう。
……でも、後悔はなかった。
弟妹を育ててきたことも、恋愛を諦めてきたことも。
全部があったから、今、健一くんと一緒にいられる。
◇
私たちの関係は、不倫だった。
不倫は、ダメだ。
どんな理由があっても、人の夫に手を出すのは間違っている。
分かっていた。
頭では、ちゃんと分かっていた。
でも、私は健一くんを助けたかった。
あのまま放っておいたら、健一くんは壊れてしまう。
死んでしまうかもしれない。
それだけは、絶対に嫌だった。
……そして、正直に言えば。
私は、健一くんが好きだった。
20年間、ずっと好きだった。
助けたいという気持ちだけじゃなかった。
自分の気持ちに負けた部分もあった。
弱さだと思う。
言い訳はしない。
私は、不倫をした。
それは事実だ。
◇
ある日、健一くんが言った。
「由美子さん」
「なに?」
「俺、離婚する」
私は、息を呑んだ。
「……本当に?」
「うん。俺、幸せになりたいんだ。由美子さんと一緒に」
健一くんの目は、真っ直ぐだった。
昔の、あの真っ直ぐな目だった。
私は、泣いた。
「私も一緒に戦うよ。健一くんは、一人じゃない」
◇
離婚は、簡単じゃなかった。
健一くんは、解放された。
「由美子さん、ありがとうございました。俺、由美子さんがいなかったら、逃げ出せませんでした」
「私は何もしてないよ。鈴木くんが頑張ったんでしょ」
「違います。由美子さんが『逃げていい』って言ってくれたから、俺は逃げられたんです」
健一くんの目が、真っ直ぐだった。
昔の健一くんの目だった。
私は、泣きそうになった。
戻ってきた。
私の好きだった、あの真っ直ぐな目が。
◇
半年後、健一くんにプロポーズされた。
「由美子さん、俺と結婚してください」
私は、びっくりした。
「え?」
「俺は、由美子さんと一緒にいたいです」
「でも、私、40歳だよ」
「関係ないです」
「健一くんより4つも年上だよ」
「関係ないです」
「子供も、産めないかもしれないよ」
「関係ないです」
健一くんは、私の手を握った。
「俺は、由美子さんがいいんです」
私は、泣いた。
20年間、封印してきた気持ち。
諦めていた未来。
叶わないと思っていた夢。
全部が、今、目の前にあった。
「……はい」
「え?」
「私も、健一くんと一緒にいたい」
健一くんの顔が、パッと明るくなった。
「本当ですか!?」
「本当」
私たちは、抱き合った。
◇
結婚式は、小さなものだった。
親族だけの、アットホームな式。
弟の翔太と、妹の美優が来てくれた。
「お姉ちゃん、おめでとう」
「やっと、お姉ちゃんが幸せになる番だね」
二人とも、泣いていた。
私も、泣いた。
40歳で、初めての結婚。
遅いスタートかもしれない。
でも、私は幸せだった。
◇
結婚してから、健一は変わった。
どんどん自信をつけて、仕事で成果を出すようになった。
転職して、年収が倍以上になった。
マネージャーに昇進した。
そして、起業した。
「由美子、コンサル会社を立ち上げたいんだ」
「いいね。健一ならできるよ」
「本当に?」
「私、経理やるよ。一緒に頑張ろう」
◇
最初の半年は、大変だった。
クライアントが取れない。
営業しても、断られる。
健一が落ち込んでいた。
「やっぱり、無理だったかな……」
私は言った。
「大丈夫。健一ならできるよ」
「でも、このままじゃ……」
「私、経理だけじゃなくて営業サポートもやるから。健一は仕事に集中して」
私は、できることを全部やった。
請求書の発行、経費の管理、スケジュール調整、資料作成。
健一が仕事に集中できるように。
余計な心配をしなくていいように。
20年間、弟妹を育ててきた経験が活きた。
家計管理も、スケジュール管理も、人のサポートも。
全部、やってきたことだった。
◇
半年後、転機が来た。
健一の前職の先輩から、仕事を紹介してもらえた。
健一は必死でやった。
私も、できる限りサポートした。
結果が出た。
紹介が紹介を呼んだ。
いい仲間も集まってきた。
「鈴木さんの会社で働きたい」と言ってくれる人が増えた。
気づいたら、軌道に乗っていた。
二人で始めた会社は、どんどん大きくなった。
健一の目に、光が戻っていった。
あの時、死にそうな顔をしていた健一が、毎日笑うようになった。
「由美子、今日も頑張ったな」
「健一もね」
仕事の後、二人でご飯を食べながら、その日あったことを話す。
健一は、よく笑うようになった。
冗談を言うようになった。
自信を持って、堂々と話すようになった。
私は、それが嬉しかった。
お金なんて、正直どうでもよかった。
健一が元気になってくれること。
健一が笑ってくれること。
それだけで、私は幸せだった。
◇
ある夜、健一に聞かれた。
「由美子、なんで俺に優しくしてくれたの」
「え?」
「あの時、俺はボロボロだった。誰も見向きもしなかった。なのに、由美子だけが声をかけてくれた」
「……」
「なんで、俺なんかに」
私は、少し迷った。
そして、決めた。
言おう。
20年間、隠してきたことを。
「……健一」
「うん」
「私ね、健一のことが好きだったの」
「知ってる。俺も由美子が好き」
「違うの」
私は、健一の目を見た。
「昔から。健一が入社してきた時から、ずっと好きだったの」
健一の目が、大きくなった。
「……え?」
「新人の頃から、ずっと。でも、言えなかった」
「……」
「私、4つも年上だし。弟と妹もいたし。健一にとって、迷惑だろうなって」
健一は、黙っていた。
私は、続けた。
「健一が風邪の時に、ポカリ買ってきてくれたでしょ」
「……覚えてる」
「あの時、私、すごく嬉しかった。私のこと、気にかけてくれる人がいるんだって」
「……」
「見積書のミスの時、健一が『由美子さんみたいになりたい』って言ってくれたでしょ」
「言った」
「あの時、本当に嬉しかった。ドキドキして、どうしようかと思った」
私は、泣きそうになった。
「でも、言えなかった。弟と妹がいるから。年上だから。迷惑だろうから」
「……」
「健一が結婚した時、トイレで泣いたの」
健一が、息を呑んだ。
「好きなのに、何も言えなかった自分が情けなくて。でも、言う勇気もなくて」
「……」
「健一がボロボロになっていくのを見て、辛かった。助けたかった。でも、奥さんがいるから、何もできなかった」
「由美子……」
「声をかけた時、私、覚悟してたの。不倫だって言われてもいい。嫌われてもいい。でも、健一を助けたいって」
私は、泣いていた。
「20年間、ずっと好きだった。やっと、言えた」
健一が、私を抱きしめた。
強く、強く。
「……ごめん」
「え?」
「俺、気づかなかった。由美子の気持ちに、全然気づかなかった」
「……」
「俺は、由美子のことを『優しい先輩』としか見てなかった。ずっと、憧れの人だったのに」
「憧れ?」
「うん。俺にとって、由美子はずっと高嶺の花だった。俺なんかが声をかけていい人じゃないって」
「……」
「でも、今は違う」
健一が、私の顔を見た。
「今の俺は、胸を張って言える。俺は、由美子が好きだ。ずっと一緒にいたい。由美子と一緒に、歳を取りたい」
私は、泣いた。
「……私も」
「うん」
「私も、健一と一緒に歳を取りたい」
私たちは、抱き合った。
◇
41歳で、子供が生まれた。
諦めていた。
もう無理だと思っていた。
でも、奇跡が起きた。
「由美子、見て。可愛い」
健一が、赤ちゃんを抱いている。
私は、泣いた。
20年間、弟妹を育ててきた。
自分の子供は、諦めていた。
でも、今、私には家族がいる。
夫と、子供と、私の家族。
◇
会社は順調に成長して、健一の年収は3000万を超えた。
ある日、私は健一に言った。
「健一、マンション買わない?」
「マンション?」
「うん。子供のために、資産を残しておきたいの」
健一は、じっと私を見た。
「私、20歳で両親を亡くしたでしょ。あの時、本当に大変だった。お金のことで、すごく苦労した」
「……」
「だから、私たちに何かあっても、この子が困らないようにしておきたい」
健一が、私の手を握った。
「分かった。いい物件、探そう」
「ありがとう。贅沢したいわけじゃないの。ただ、この子の将来のために」
「うん。由美子の気持ち、分かるよ」
結局、タワマンを買った。
資産価値が落ちにくいから。
贅沢がしたいわけじゃない。
ただ、この子に、私と同じ苦労をさせたくなかった。
◇
今、私は46歳。
健一は42歳。
子供は5歳。
会社は順調に成長している。
でも、私にとって大切なのは、数字じゃない。
毎朝、健一が笑顔で「おはよう」と言ってくれること。
子供を抱き上げる健一の優しい目。
夜、三人で食卓を囲む時間。
それが、私の幸せだ。
「由美子、今日もありがとう」
「こちらこそ。健一がいてくれて、幸せ」
毎日、そう言い合う。
時々、思う。
あの時、声をかけて良かった。
健一を、見捨てなくて良かった。
20年間、気持ちを封印してきたけど。
最後には、こんな幸せが待っていた。
◇
私の人生は、20歳で一度終わった。
父と義母を亡くして、血の繋がらない弟妹を育てて、自分の幸せは後回しにしてきた。
でも、40歳で、新しい人生が始まった。
健一と結ばれて、結婚して、子供が生まれて。
遅いスタートだったかもしれない。
でも、私は幸せだ。
弟の翔太が言った。
「お姉ちゃん、幸せそうで良かった」
妹の美優が言った。
「お姉ちゃんが笑ってると、私も嬉しい」
私は、泣いた。
「ありがとう。あなたたちがいたから、私は頑張れた」
「お姉ちゃん……」
「あなたたちを育てられて、幸せだった。後悔なんて、一つもないよ」
私は、本心からそう言えた。
◇
夜、健一と子供と三人で、窓から夜景を見る。
街の灯りが、静かに輝いている。
「綺麗だね」
「うん」
「由美子と一緒に見れて、幸せ」
「私も」
健一が、私の手を握った。
子供が、私たちの間で眠っている。
健一の横顔を見る。
穏やかで、幸せそうな顔。
あの時、死にそうだった人が、今、こんなに幸せそうに笑っている。
それが、何より嬉しい。
20年間、私は自分の気持ちを封印していた。
でも、最後には、こんな幸せが待っていた。
遠回りしたけど、たどり着けた。
私は、幸せだ。
(完)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
これにて完結となります。
健一と由美子が幸せになり、元妻が因果応報を受ける結末、楽しんでいただけましたでしょうか。
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