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【完結】「年収900万はゴミ」と俺を捨てた元港区女子の末路。年収3000万の俺を見て、時給1150円のコールセンターで発狂中  作者: 崖っぷちしゃちょー


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3/3

最終話 20年間、私は自分の気持ちを封印していた 〜弟妹のために青春を捧げた私が、ずっと好きだった彼と幸せになるまで〜

 私の人生は、20歳で一度終わった。


 大学2年の冬。


 父と義母が、交通事故で亡くなった。


 居眠り運転のトラックに突っ込まれた。


 即死だった。


 ◇


 私の実の母は、私が3歳の時に病気で亡くなった。


 父は、私が17歳の時に再婚した。


 義母には、連れ子が二人いた。


 翔太と、美優。


 血は繋がっていない。


 でも、3年間一緒に暮らして、本当の家族になった。


「お姉ちゃん」と呼んでくれる二人が、私は大好きだった。


 ◇


 葬儀の日、私は泣けなかった。


 泣いている暇がなかった。


 弟の翔太は5歳。


 妹の美優は3歳。


 二人とも、まだ幼かった。


「お姉ちゃん、お父さんとお母さんは?」


 美優が、私の服の裾を掴んで聞いた。


「……もう、いないの」


「いないって、どこに行ったの?」


「……」


 翔太は、何も言わなかった。


 5歳の男の子が、何かを堪えるように下を向いていた。


 私は、二人を抱きしめた。


「大丈夫。お姉ちゃんが、二人を守るから」


 その時、私は決めた。


 この子たちを、私が育てる。


 何があっても、私が守る。


 ◇


 親戚たちは、施設に入れることを勧めた。


「由美子ちゃん、まだ20歳でしょ」


「大学もあるのに、子供二人なんて無理よ」


「しかも血の繋がらない子供を……」


「施設に預けた方が、みんなのためよ」


 私は、断った。


「私が育てます」


「でも、血が繋がってないんでしょ?」


「関係ありません。この子たちは、私の家族です」


 親戚たちは、呆れた顔をした。


 でも、私は曲げなかった。


 血なんて関係ない。


 3年間、一緒に暮らした家族だ。


「お姉ちゃん」と呼んでくれる二人を、見捨てられるわけがない。


 ◇


 大学は中退した。


 勉強している余裕なんてなかった。


 すぐに働かないと、生活できない。


 幸い、父と義母の生命保険があった。


 でも、それだけじゃ足りない。


 弟妹の学費、生活費、将来の教育資金。


 計算すると、気が遠くなった。


 私は、就職活動を始めた。


 20歳、大学中退、扶養家族あり。


 条件は最悪だった。


 何社も落ちた。


 それでも、諦めなかった。


 諦めたら、弟妹を守れない。


 ◇


 なんとか、中堅のITコンサル会社に就職できた。


 事務職。


 給料は安かったけど、定時で帰れる。


 それが一番大事だった。


 毎日、定時で帰って、弟妹の世話をした。


 朝、二人を起こして、朝ごはんを作る。


 学校に送り出して、会社に行く。


 定時で帰って、夕飯を作る。


 宿題を見て、お風呂に入れて、寝かしつける。


 休日は、二人の習い事に付き添う。


 自分の時間なんて、なかった。


 恋愛する余裕なんて、もっとなかった。


 ◇


 10年が過ぎた。


 弟は15歳で、中学3年生。


 妹は13歳で、中学1年生。


 二人とも、真っ直ぐに育ってくれた。


 それだけで、私は幸せだった。


 でも、まだまだこれからだ。


 高校、大学。


 お金も、時間も、まだまだかかる。


 ◇


 さらに3年が過ぎた。


 私は33歳になっていた。


「お姉ちゃん、いつもありがとう」


 翔太が、大学の入学式の日に言った。


「俺、絶対いい会社に入って、お姉ちゃんに恩返しするから」


 私は、泣いた。


 13年間、頑張ってきて良かった。


 ◇


 でも、私自身の人生は、空っぽだった。


 33歳、独身、彼氏なし。


 恋愛経験、ほぼゼロ。


 合コンに誘われても、断り続けた。


「由美子、たまには来なよ」


「ごめん、弟妹がいるから」


「もう高校生と大学生でしょ?一人で留守番できるじゃん」


「……でも」


 私は、自分の幸せを後回しにすることに慣れてしまっていた。


 弟妹が完全に独立するまでは、自分のことは考えない。


 そう決めていた。


 ◇


 そんな私に、一つだけ秘密があった。


 会社に、気になる人がいた。


 鈴木健一くん。


 私より4つ年下の後輩。


 ◇


 健一くんが入社してきたのは、私が26歳の時だった。


 新人研修が終わって、私の部署に配属された。


「鈴木健一です。よろしくお願いします」


 第一印象は、「真面目そうな子」だった。


 背が高くて、顔は悪くない。


 でも、特別目立つタイプじゃない。


 大人しくて、控えめで、地味な印象。


「鈴木くん、分からないことがあったら何でも聞いてね」


「はい、ありがとうございます」


 健一くんは、素直な子だった。


 教えたことは、ちゃんと覚える。


 分からないことは、ちゃんと聞いてくる。


 失敗しても、言い訳しない。


 私は、健一くんを気に入っていた。


 ……最初は、ただの「いい後輩」として。


 ◇


 健一くんに、初めてドキッとしたのは、入社半年後のことだった。


 その日、私は珍しく残業していた。


 遠くに住んでいる祖母が、たまたま泊まりに来ていて、弟妹の面倒を見てくれていた。


 久しぶりに、時間に追われない夜だった。


「由美子さん、まだいたんですか」


 振り返ると、健一くんがいた。


「鈴木くん、あなたも残業?」


「はい、ちょっと資料が終わらなくて……」


「そう。頑張ってね」


「はい。あの、由美子さん」


「なに?」


「コーヒー、飲みますか?自販機で買ってきます」


「……いいの?」


「俺も買うんで、ついでに」


 健一くんは、缶コーヒーを2本買ってきてくれた。


「はい、どうぞ」


「ありがとう」


 温かい缶コーヒーを受け取った時、指が触れた。


 健一くんの手は、大きくて、温かかった。


 ……ドキッとした。


 何これ。


 私、何を意識してるの。


 相手は4つも年下の後輩なのに。


 ◇


 それから、健一くんのことが気になるようになった。


 仕事中、つい目で追ってしまう。


 話しかけられると、嬉しくなる。


 自分でも、おかしいと思った。


 私は26歳。


 健一くんは22歳。


 しかも、私には弟妹がいる。


 恋愛なんて、している場合じゃない。


 私は、自分の気持ちを封印した。


 気のせい、気のせい。


 ただの後輩として、可愛がってるだけ。


 そう、自分に言い聞かせた。


 ◇


 でも、封印は何度も破られそうになった。


 ある日、私は風邪をひいて会社を休んだ。


 熱が38度あって、起き上がれなかった。


 弟妹は学校に行っている。


 一人で、布団の中でうなっていた。


 夕方、インターホンが鳴った。


「……はい」


「由美子さん、鈴木です。大丈夫ですか?」


 玄関を開けると、健一くんが立っていた。


 手に、スーパーの袋を持っている。


「あの、ポカリとか、ゼリーとか、買ってきました。熱、大丈夫ですか?」


「え……」


「病院は行きました?」


 私は、泣きそうになった。


 弟妹の世話は、いつも私がしてきた。


 でも、私が倒れた時、世話をしてくれる人はいなかった。


 それが当たり前だと思っていた。


 なのに、この子は。


「ありがとう……」


「いえ、早く元気になってください。由美子さんがいないと、みんな困るんで」


 健一くんは、照れたように笑った。


 私は、本当に泣きそうになった。


 ◇


 もう一つ、忘れられない出来事がある。


 入社2年目の健一くんが、大きなミスをした。


 取引先への見積書に、桁を一つ間違えてしまったのだ。


 健一くんは真っ青になっていた。


「すみません、すみません……」


 上司は激怒した。


「お前、何やってんだ!」


「すみません……」


「これ、どうやってリカバリーするんだ!」


 健一くんは、何も言い返せずに俯いていた。


 私は、見ていられなかった。


「課長」


「なんだ、山田」


「この見積書、私がチェックしました。確認不足は、私の責任でもあります」


「……」


「取引先への説明は、私も同行します」


 課長は、渋い顔をした。


「……分かった。二人で行ってこい」


 取引先への謝罪は、大変だった。


 でも、なんとか許してもらえた。


 帰り道、健一くんが言った。


「由美子さん、すみませんでした」


「いいよ。次から気をつければ」


「でも、由美子さんは悪くないのに……」


「私も確認したんだから、私の責任でもあるよ」


「……」


 健一くんは、立ち止まった。


「由美子さん」


「なに?」


「俺、由美子さんみたいな人になりたいです」


「え?」


「仕事ができて、後輩のフォローもできて、責任感があって。由美子さん、本当にすごいです」


 健一くんの目が、真っ直ぐだった。


「俺、頑張ります。由美子さんみたいになれるように」


 その目を見た時、私の心臓が跳ねた。


 ダメ、ダメ。


 この子は後輩。


 4つも年下。


 私には、弟妹がいる。


 恋愛なんて、できない。


「……ありがとう。頑張ってね」


 私は、それだけ言って、歩き出した。


 ◇


 健一くんへの気持ちは、どんどん大きくなっていった。


 でも、私は何もしなかった。


 できなかった。


 私は26歳で、健一くんは22歳。


 年上の女から告白なんて、迷惑だろう。


 それに、私には弟妹がいる。


 結婚したら、弟妹はどうなる?


「お姉ちゃんの彼氏」なんて、気まずいだろう。


 私は、弟妹が独立するまで、恋愛はしない。


 そう決めていた。


 ◇


 入社5年目のある日。


 私は、自分から壁を作った。


「鈴木くん、彼女いないの?」


 健一くんは、驚いた顔をした。


「え?いないですけど……」


「もったいないなあ。鈴木くん、優しいし、真面目だし。絶対モテるでしょ」


 何を言ってるんだ、私は。


 健一くんに、彼女を作れと言っている。


 自分で自分の首を絞めている。


「由美子さんは……」


 健一くんが、何か言いかけた。


 私は、遮った。


「私?私は、弟と妹がいるから。恋愛とか、当分無理かな」


 嘘だ。


 本当は、好きな人がいる。


 目の前にいる、この人が好き。


 でも、言えない。


「二人が独立するまでは、私のことは後回し」


 私は、笑った。


 精一杯の、作り笑い。


「鈴木くんは若いんだから、いい人見つけなよ」


「……そうですか」


「うん。鈴木くんなら、すぐ見つかるよ」


 健一くんの顔が、少し曇った。


 ……何を期待してるの、私。


 健一くんが私を好きなわけないでしょう。


 4つも年上で、弟妹を抱えてて、地味で、化粧っ気もない。


 そんな女、誰が好きになる?


 私は、健一くんを遠ざけた。


 これでいい。


 健一くんには、若くて可愛い彼女ができるだろう。


 私のことなんて、すぐ忘れる。


 ……そう思ったのに、胸が痛かった。


 ◇


 数ヶ月後、健一くんに彼女ができたと聞いた。


 クルージングパーティーで出会ったらしい。


「すごい美人らしいよ」


「へえ、よかったね」


 私は、笑顔で答えた。


 笑顔で答えるしかなかった。


 だって、「彼女作りなよ」と言ったのは、私だから。


 ◇


 健一くんが結婚すると聞いたのは、私が34歳の時だった。


「鈴木くん、結婚するんだって」


 同僚から聞いた。


 頭が真っ白になった。


「へえ、そうなんだ。おめでとう」


 声が震えないように、必死だった。


「相手、すごい美人らしいよ。元港区女子だって」


「そうなんだ」


 私は、笑顔を作った。


 トイレに駆け込んで、泣いた。


 馬鹿みたい。


 何も言わなかったのは、私なのに。


 何もしなかったのは、私なのに。


 勝手に好きになって、勝手に失恋して。


 本当に、馬鹿みたい。


 でも、泣いてばかりはいられない。


 私は、顔を洗って、化粧を直した。


 そして、健一くんの席に向かった。


「鈴木くん、結婚おめでとう」


 健一くんは、少し驚いた顔をした。


「あ、ありがとうございます」


 私は、精一杯の笑顔を作った。


「幸せにね」


「はい」


 それだけ言って、私は自分の席に戻った。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。


「彼女作りなよ」と言ったのは、私だ。


「恋愛は無理」と嘘をついたのも、私だ。


 健一くんを、女の人のところに追いやったのは、私だ。


 ……だから、笑って祝福するしかない。


 ◇


 健一くんは、結婚した。


 奥さんは、本当に綺麗な人だった。


 派手で、華やかで、キラキラしていた。


 私とは、正反対。


 そりゃそうだ。


 健一くんが選ぶのは、ああいう女性だよね。


 地味で、化粧っ気もなくて、弟妹を抱えてる私なんか、眼中にないよね。


 私は、健一くんを遠くから見ることしかできなかった。


 幸せになってね。


 心の中で、そう祈った。


 でも、健一くんは幸せそうに見えなかった。


 結婚してから、健一くんは変わっていった。


 笑わなくなった。


 覇気がなくなった。


 ミスが増えた。


 会議で発言しなくなった。


「鈴木、最近どうした?元気ないな」


 上司に言われても、健一くんは「大丈夫です」としか言わなかった。


 私は、心配だった。


 でも、何もできなかった。


 健一くんには奥さんがいる。


 私が口を出すことじゃない。


 ◇


 年月が経った。


 私は40歳になった。


 弟の翔太は25歳で、IT企業でエンジニアをしている。


 妹の美優は23歳で、社会人になった。


 二人とも、立派に独立した。


 20年間、私は二人のために生きてきた。


 やっと、肩の荷が下りた。


「お姉ちゃん、今まで本当にありがとう」


 翔太が言った。


「お姉ちゃんがいなかったら、俺たちは施設に入ってた」


「血も繋がってないのに、俺たちを育ててくれた。感謝してる」


 私は、泣いた。


 20年間、頑張ってきて良かった。


 でも、同時に思った。


 ……私の人生は、これからどうすればいいんだろう。


 40歳、独身。


 恋愛経験、ほぼなし。


 今更、結婚なんてできるのかな。


 このまま一人で生きていくのかな。


 それでもいい、と思っていた。


 弟妹が幸せなら、それでいい。


 私の人生は、そのためにあったんだから。


 ◇


 そんな時だった。


 会社で、健一くんが気になっていた。


 健一くんは36歳になっていた。


 でも、昔の健一くんとは、全然違った。


 目に光がない。


 覇気がない。


 いつも疲れた顔をしている。


 会議では、一言も発言しない。


 昔の健一くんは、もっと真っ直ぐで、一生懸命だったのに。


 何があったんだろう。


 ……奥さんと、うまくいってないのかな。


 ある日、健一くんの姿を見て、私は凍りついた。


 昼休み、社員食堂で。


 健一くんは、隅の席で一人で食べていた。


 コンビニのおにぎり、1個だけ。


 ……え?


 お昼ご飯が、おにぎり1個?


 健一くんは、それを黙々と食べていた。


 食べ終わると、水を飲んで、席を立った。


 胸が痛くなった。


 何があったの。


 なんで、おにぎり1個なの。


 それから、私は健一くんを観察するようになった。


 健一くんは、毎日おにぎり1個だった。


 たまに、菓子パン1個の日もあった。


 同僚にランチに誘われても、断っていた。


「ごめん、ちょっと……」


 いつも、そう言って断る。


 私は、気づいた。


 健一くん、お金がないんだ。


 なんで?


 なんでお昼ご飯も食べられないの?


 ◇


 健一くんは、明らかにおかしかった。


 顔色が悪い。


 痩せた。


 目の下にクマがある。


 笑わない。


 昔の健一くんを知っている私には、分かった。


 この子、壊れかけてる。


 放っておいたら、危ない。


 私は、決心した。


 声を、かけよう。


「鈴木くん、最近疲れてない?」


 健一くんは、びっくりした顔をした。


「え?」


「なんか元気ないなって思って。余計なお世話だったらごめんね」


「大丈夫?顔色悪いよ」


「あ、いや、ちょっと寝不足で……」


「無理しないでね」


 私は、それだけ言って、去った。


 本当は、もっと聞きたかった。


 何があったの?


 なんでそんなに辛そうなの?


 私に、何かできることはない?


 でも、踏み込めなかった。


 健一くんには、奥さんがいる。


 私が口を出すことじゃない。


 ◇


 でも、放っておけなかった。


 次の日、私は声をかけた。


「鈴木くん、お昼一緒にどう?」


「あ、いや、俺は……」


「迷惑だった?」


「違うんです。ちょっと、昼飯代が……」


 健一くんは、恥ずかしそうに俯いた。


「今日、財布忘れちゃって……」


 ……嘘だ。


 毎日おにぎり1個なのに、財布を忘れたわけがない。


 私は、気づかないふりをした。


「じゃあ、私のお弁当、少し分けようか?作りすぎちゃって」


「え、いいんですか?」


「迷惑じゃなければ」


 健一くんは、少し迷ってから、頷いた。


 ◇


 社員食堂の隅で、一緒にお弁当を食べた。


 私の卵焼きを、健一くんに分けた。


 健一くんは、それを食べて、泣きそうな顔をした。


「美味しい……」


「本当?良かった。弟たちに作ってたから、男の人の好みは分かるかなって」


「……ありがとうございます」


 健一くんの声が、震えていた。


 この子、どれだけ辛い思いをしてきたんだろう。


 私は、胸が締め付けられた。


 ◇


 それから、私は毎日健一くんの分のおかずを作るようになった。


「鈴木くん、今日は唐揚げだよ」


「ありがとうございます……」


「遠慮しないでね。弟たちが独立してから、作る量が減っちゃって。誰かに食べてもらえると嬉しいの」


 健一くんは、毎日私の料理を食べてくれた。


「美味しい……本当に美味しいです」


 その言葉を聞くたびに、私は嬉しかった。


 そして、切なかった。


 この子の奥さんは、料理を作ってあげないのかな。


 この子の奥さんは、この子のことを見てあげてないのかな。


 ◇


「鈴木くん、仕事大変そうだね」


「まあ、いろいろあって……」


「愚痴とか、いつでも聞くよ。私でよければ」


 健一くんは、少しだけ話してくれた。


 会議で発言できないこと。


 自分に自信が持てないこと。


 何をやっても、うまくいかないこと。


 私は、聞いていて辛くなった。


 新人の頃の健一くんは、こんな子じゃなかった。


 真っ直ぐで、一生懸命で、素直だった。


 この子を、こんなにしたのは、何?


 ◇


 ある日、健一くんが泣いた。


 私が「奥さんと、うまくいってないの?」と聞いた時。


 健一くんは、堰を切ったように話し始めた。


 毎日否定されること。


「稼ぎが悪い」と言われ続けること。


 小遣いが2万円しかないこと。


 友達の前で「うちの旦那は無能」と言われたこと。


 実家を「田舎の汚い家」と罵倒されたこと。


 私は、信じられなかった。


 ちゃんと働いてるのに。


 なんで、そんなことを言われなきゃいけないの?


 私は、黙って聞いた。


 健一くんは、泣きながら話し続けた。


「俺、自分がダメな人間だと思ってました」


「……」


「美咲の言う通り、俺は無能なんだって。使えない男なんだって」


「……」


「俺みたいな人間は、生きてる価値がないんだって……」


 私は、健一くんの手を握った。


「鈴木くんは、悪くないよ」


「……え?」


「悪くない。鈴木くんは、何も悪くない」


 健一くんの目から、涙が溢れた。


「ずっと、俺が悪いんだと思ってました」


「悪くないよ」


「俺が無能だから、俺が使えないから……」


「違うよ。鈴木くんは、悪くない」


 私は、健一くんを抱きしめたかった。


 でも、できなかった。


 この子には、奥さんがいる。


 私が抱きしめていい相手じゃない。


 だから、手を握ることしかできなかった。


「鈴木くん」


「……はい」


「逃げていいんだよ」


 その言葉を言った時、私は覚悟を決めていた。


 この子を、救いたい。


 たとえ、何を犠牲にしても。


 ◇


 それから、私は健一くんを支え続けた。


 毎日、お弁当を作った。


 愚痴を聞いた。


「鈴木くんならできるよ」「鈴木くんはすごいよ」と言い続けた。


 健一くんは、少しずつ元気を取り戻していった。


 私は、嬉しかった。


 そして、怖かった。


 私は、健一くんを好きだ。


 20年近く、ずっと好きだった。


 でも、健一くんには奥さんがいる。


 私がしていることは、不倫を助長してることになるのかもしれない。


 でも、放っておけなかった。


 このままじゃ、健一くんが壊れてしまう。


 死んでしまうかもしれない。


 それだけは、絶対に嫌だった。


 ◇


 そこから、私たちの関係が変わるのに、時間はかからなかった。


 20年間、封印してきた気持ち。


 20年間、誰にも触れられなかった体。


 健一くんに抱かれた時、私は泣いた。


 嬉しくて、怖くて、罪悪感で、幸せで。


 全部が混ざって、涙が止まらなかった。


「由美子さん……」


「ごめんね、泣いて」


「俺こそ、ごめんなさい」


「違うの。嬉しいの」


 私は、健一くんの胸に顔を埋めた。


 こんな幸せ、知らなかった。


 こんな温もり、知らなかった。


 20年間、私は何を我慢してきたんだろう。


 ……でも、後悔はなかった。


 弟妹を育ててきたことも、恋愛を諦めてきたことも。


 全部があったから、今、健一くんと一緒にいられる。


 ◇


 私たちの関係は、不倫だった。


 不倫は、ダメだ。


 どんな理由があっても、人の夫に手を出すのは間違っている。


 分かっていた。


 頭では、ちゃんと分かっていた。


 でも、私は健一くんを助けたかった。


 あのまま放っておいたら、健一くんは壊れてしまう。


 死んでしまうかもしれない。


 それだけは、絶対に嫌だった。


 ……そして、正直に言えば。


 私は、健一くんが好きだった。


 20年間、ずっと好きだった。


 助けたいという気持ちだけじゃなかった。


 自分の気持ちに負けた部分もあった。


 弱さだと思う。


 言い訳はしない。


 私は、不倫をした。


 それは事実だ。


 ◇


 ある日、健一くんが言った。


「由美子さん」


「なに?」


「俺、離婚する」


 私は、息を呑んだ。


「……本当に?」


「うん。俺、幸せになりたいんだ。由美子さんと一緒に」


 健一くんの目は、真っ直ぐだった。


 昔の、あの真っ直ぐな目だった。


 私は、泣いた。


「私も一緒に戦うよ。健一くんは、一人じゃない」


 ◇


 離婚は、簡単じゃなかった。


 健一くんは、解放された。


「由美子さん、ありがとうございました。俺、由美子さんがいなかったら、逃げ出せませんでした」


「私は何もしてないよ。鈴木くんが頑張ったんでしょ」


「違います。由美子さんが『逃げていい』って言ってくれたから、俺は逃げられたんです」


 健一くんの目が、真っ直ぐだった。


 昔の健一くんの目だった。


 私は、泣きそうになった。


 戻ってきた。


 私の好きだった、あの真っ直ぐな目が。


 ◇


 半年後、健一くんにプロポーズされた。


「由美子さん、俺と結婚してください」


 私は、びっくりした。


「え?」


「俺は、由美子さんと一緒にいたいです」


「でも、私、40歳だよ」


「関係ないです」


「健一くんより4つも年上だよ」


「関係ないです」


「子供も、産めないかもしれないよ」


「関係ないです」


 健一くんは、私の手を握った。


「俺は、由美子さんがいいんです」


 私は、泣いた。


 20年間、封印してきた気持ち。


 諦めていた未来。


 叶わないと思っていた夢。


 全部が、今、目の前にあった。


「……はい」


「え?」


「私も、健一くんと一緒にいたい」


 健一くんの顔が、パッと明るくなった。


「本当ですか!?」


「本当」


 私たちは、抱き合った。


 ◇


 結婚式は、小さなものだった。


 親族だけの、アットホームな式。


 弟の翔太と、妹の美優が来てくれた。


「お姉ちゃん、おめでとう」


「やっと、お姉ちゃんが幸せになる番だね」


 二人とも、泣いていた。


 私も、泣いた。


 40歳で、初めての結婚。


 遅いスタートかもしれない。


 でも、私は幸せだった。


 ◇


 結婚してから、健一は変わった。


 どんどん自信をつけて、仕事で成果を出すようになった。


 転職して、年収が倍以上になった。


 マネージャーに昇進した。


 そして、起業した。


「由美子、コンサル会社を立ち上げたいんだ」


「いいね。健一ならできるよ」


「本当に?」


「私、経理やるよ。一緒に頑張ろう」


 ◇


 最初の半年は、大変だった。


 クライアントが取れない。


 営業しても、断られる。


 健一が落ち込んでいた。


「やっぱり、無理だったかな……」


 私は言った。


「大丈夫。健一ならできるよ」


「でも、このままじゃ……」


「私、経理だけじゃなくて営業サポートもやるから。健一は仕事に集中して」


 私は、できることを全部やった。


 請求書の発行、経費の管理、スケジュール調整、資料作成。


 健一が仕事に集中できるように。


 余計な心配をしなくていいように。


 20年間、弟妹を育ててきた経験が活きた。


 家計管理も、スケジュール管理も、人のサポートも。


 全部、やってきたことだった。


 ◇


 半年後、転機が来た。


 健一の前職の先輩から、仕事を紹介してもらえた。


 健一は必死でやった。


 私も、できる限りサポートした。


 結果が出た。


 紹介が紹介を呼んだ。


 いい仲間も集まってきた。


「鈴木さんの会社で働きたい」と言ってくれる人が増えた。


 気づいたら、軌道に乗っていた。


 二人で始めた会社は、どんどん大きくなった。


 健一の目に、光が戻っていった。


 あの時、死にそうな顔をしていた健一が、毎日笑うようになった。


「由美子、今日も頑張ったな」


「健一もね」


 仕事の後、二人でご飯を食べながら、その日あったことを話す。


 健一は、よく笑うようになった。


 冗談を言うようになった。


 自信を持って、堂々と話すようになった。


 私は、それが嬉しかった。


 お金なんて、正直どうでもよかった。


 健一が元気になってくれること。


 健一が笑ってくれること。


 それだけで、私は幸せだった。


 ◇


 ある夜、健一に聞かれた。


「由美子、なんで俺に優しくしてくれたの」


「え?」


「あの時、俺はボロボロだった。誰も見向きもしなかった。なのに、由美子だけが声をかけてくれた」


「……」


「なんで、俺なんかに」


 私は、少し迷った。


 そして、決めた。


 言おう。


 20年間、隠してきたことを。


「……健一」


「うん」


「私ね、健一のことが好きだったの」


「知ってる。俺も由美子が好き」


「違うの」


 私は、健一の目を見た。


「昔から。健一が入社してきた時から、ずっと好きだったの」


 健一の目が、大きくなった。


「……え?」


「新人の頃から、ずっと。でも、言えなかった」


「……」


「私、4つも年上だし。弟と妹もいたし。健一にとって、迷惑だろうなって」


 健一は、黙っていた。


 私は、続けた。


「健一が風邪の時に、ポカリ買ってきてくれたでしょ」


「……覚えてる」


「あの時、私、すごく嬉しかった。私のこと、気にかけてくれる人がいるんだって」


「……」


「見積書のミスの時、健一が『由美子さんみたいになりたい』って言ってくれたでしょ」


「言った」


「あの時、本当に嬉しかった。ドキドキして、どうしようかと思った」


 私は、泣きそうになった。


「でも、言えなかった。弟と妹がいるから。年上だから。迷惑だろうから」


「……」


「健一が結婚した時、トイレで泣いたの」


 健一が、息を呑んだ。


「好きなのに、何も言えなかった自分が情けなくて。でも、言う勇気もなくて」


「……」


「健一がボロボロになっていくのを見て、辛かった。助けたかった。でも、奥さんがいるから、何もできなかった」


「由美子……」


「声をかけた時、私、覚悟してたの。不倫だって言われてもいい。嫌われてもいい。でも、健一を助けたいって」


 私は、泣いていた。


「20年間、ずっと好きだった。やっと、言えた」


 健一が、私を抱きしめた。


 強く、強く。


「……ごめん」


「え?」


「俺、気づかなかった。由美子の気持ちに、全然気づかなかった」


「……」


「俺は、由美子のことを『優しい先輩』としか見てなかった。ずっと、憧れの人だったのに」


「憧れ?」


「うん。俺にとって、由美子はずっと高嶺の花だった。俺なんかが声をかけていい人じゃないって」


「……」


「でも、今は違う」


 健一が、私の顔を見た。


「今の俺は、胸を張って言える。俺は、由美子が好きだ。ずっと一緒にいたい。由美子と一緒に、歳を取りたい」


 私は、泣いた。


「……私も」


「うん」


「私も、健一と一緒に歳を取りたい」


 私たちは、抱き合った。


 ◇


 41歳で、子供が生まれた。


 諦めていた。


 もう無理だと思っていた。


 でも、奇跡が起きた。


「由美子、見て。可愛い」


 健一が、赤ちゃんを抱いている。


 私は、泣いた。


 20年間、弟妹を育ててきた。


 自分の子供は、諦めていた。


 でも、今、私には家族がいる。


 夫と、子供と、私の家族。


 ◇


 会社は順調に成長して、健一の年収は3000万を超えた。


 ある日、私は健一に言った。


「健一、マンション買わない?」


「マンション?」


「うん。子供のために、資産を残しておきたいの」


 健一は、じっと私を見た。


「私、20歳で両親を亡くしたでしょ。あの時、本当に大変だった。お金のことで、すごく苦労した」


「……」


「だから、私たちに何かあっても、この子が困らないようにしておきたい」


 健一が、私の手を握った。


「分かった。いい物件、探そう」


「ありがとう。贅沢したいわけじゃないの。ただ、この子の将来のために」


「うん。由美子の気持ち、分かるよ」


 結局、タワマンを買った。


 資産価値が落ちにくいから。


 贅沢がしたいわけじゃない。


 ただ、この子に、私と同じ苦労をさせたくなかった。


 ◇


 今、私は46歳。


 健一は42歳。


 子供は5歳。


 会社は順調に成長している。


 でも、私にとって大切なのは、数字じゃない。


 毎朝、健一が笑顔で「おはよう」と言ってくれること。


 子供を抱き上げる健一の優しい目。


 夜、三人で食卓を囲む時間。


 それが、私の幸せだ。


「由美子、今日もありがとう」


「こちらこそ。健一がいてくれて、幸せ」


 毎日、そう言い合う。


 時々、思う。


 あの時、声をかけて良かった。


 健一を、見捨てなくて良かった。


 20年間、気持ちを封印してきたけど。


 最後には、こんな幸せが待っていた。


 ◇


 私の人生は、20歳で一度終わった。


 父と義母を亡くして、血の繋がらない弟妹を育てて、自分の幸せは後回しにしてきた。


 でも、40歳で、新しい人生が始まった。


 健一と結ばれて、結婚して、子供が生まれて。


 遅いスタートだったかもしれない。


 でも、私は幸せだ。


 弟の翔太が言った。


「お姉ちゃん、幸せそうで良かった」


 妹の美優が言った。


「お姉ちゃんが笑ってると、私も嬉しい」


 私は、泣いた。


「ありがとう。あなたたちがいたから、私は頑張れた」


「お姉ちゃん……」


「あなたたちを育てられて、幸せだった。後悔なんて、一つもないよ」


 私は、本心からそう言えた。


 ◇


 夜、健一と子供と三人で、窓から夜景を見る。


 街の灯りが、静かに輝いている。


「綺麗だね」


「うん」


「由美子と一緒に見れて、幸せ」


「私も」


 健一が、私の手を握った。


 子供が、私たちの間で眠っている。


 健一の横顔を見る。


 穏やかで、幸せそうな顔。


 あの時、死にそうだった人が、今、こんなに幸せそうに笑っている。


 それが、何より嬉しい。


 20年間、私は自分の気持ちを封印していた。


 でも、最後には、こんな幸せが待っていた。


 遠回りしたけど、たどり着けた。


 私は、幸せだ。



(完)


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

これにて完結となります。


健一と由美子が幸せになり、元妻が因果応報を受ける結末、楽しんでいただけましたでしょうか。


もし「スカッとした!」「面白かった!」「由美子さん幸せになってよかった!」と思っていただけましたら、

広告の下にある【☆☆☆☆☆】から、評価ポイントを入れていただけると作者が泣いて喜びます。

感想もお待ちしております!

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