第1話 モラハラ妻と別れたら人生が好転した 〜小遣い2万・おにぎり1個の地獄から、年収3000万の天国へ〜
「その程度の稼ぎで偉そうにしないで」
今日も、妻の美咲に言われた。
年収900万。
世間的には悪くないはずだ。
でも、美咲には足りない。
「友達の旦那は2000万超えてるのに、なんであなたはこんなに無能なの」
俺は何も言い返せない。
言い返すと、もっと酷くなるから。
◇
結婚して3年目。
俺は、完全に壊れかけていた。
朝、目が覚める。
……また、朝が来た。
布団から出たくない。
会社に行きたくない。
でも、家にいたくない。
どこにも、俺の居場所がない。
◇
「遅い。何してたの」
「残業で……」
「嘘でしょ。浮気?」
「してないよ」
「じゃあ証明して。今すぐ同僚に電話して」
夜10時。
俺は、震える手で同僚の田中に電話をかけた。
「あ、田中?ごめん、今日残業してたよな?……うん、ちょっと確認で……ありがとう」
電話を切ると、美咲が手を差し出した。
「履歴見せて」
「え?」
「今の電話、本当に田中って人にかけたか確認するから」
俺は、スマホの履歴を見せた。
美咲は無言で確認し、「ふん」と鼻を鳴らした。
「今回は許してあげる」
……許す?
俺は、何も悪いことをしていないのに。
◇
美咲と結婚したのは、30歳の時だった。
クルージングパーティで出会った。
美咲は綺麗だった。
華やかで、自信に満ちていて、キラキラしていた。
俺みたいな地味な男には、もったいないくらいの女性だと思った。
◇
結婚式は、美咲の希望で盛大にやった。
「一生に一度なんだから、ケチらないでよね」
費用は500万近くかかった。
ご祝儀を引いても、自己負担は200万以上。
30歳まで必死に貯めた400万の貯金が、半分になった。
でも、美咲が喜んでくれるなら、それでいいと思った。
この時は、まだそう思えた。
◇
結婚してすぐ、地獄が始まった。
「ねえ、今月のお小遣い、30万でいい?」
「30万?」
「え、少ない?本当は50万欲しいんだけど、我慢してあげてるの」
俺の手取りは56万。
30万渡したら、残り26万。
家賃18万、光熱費、食費……毎月赤字だ。
美咲が「最低でもこのくらいの部屋じゃないと」と選んだマンション。
貯金を切り崩す生活が始まった。
「ちょっと厳しいかな……」
美咲の目が、変わった。
氷のような、冷たい目。
「は?私に我慢しろって言うの?」
「いや、そうじゃなくて……」
「あなたの稼ぎが悪いからでしょ。なんで私が我慢しなきゃいけないの」
「でも、30万は……」
「じゃあ、もっと稼いでよ。転職すれば?副業すれば?」
「俺なりに頑張ってるけど……」
「頑張ってその程度なの?」
美咲の声が、部屋に響いた。
「使えない。本当に使えない」
俺は、黙るしかなかった。
◇
結局、俺の小遣いは月2万になった。
昼食代込みで、2万。
1日800円。
コンビニのおにぎり1個と、お茶。
それが、俺の昼飯だった。
同僚たちが「ランチ行こうぜ」と誘ってくれる。
でも、俺は断るしかない。
「ごめん、ちょっと……」
「鈴木、最近いつも断るよな。金欠?」
「まあ、ちょっと……」
「嫁さんに絞られてんの?」
笑い話のつもりだろう。
でも、俺は笑えなかった。
◇
俺には、小さな夢があった。
いつか、レクサスに乗りたい。
学生の頃から憧れていた。
街で見かけるたびに、いいなあと思っていた。
いつか自分で稼いで、買うんだ。
そう思っていた。
でも、そんな夢は、とっくに諦めていた。
小遣い月2万円。
車なんて、夢のまた夢だ。
◇
美咲は、友達の前で俺を晒し者にした。
「うちの旦那、年収900万なんだよね」
「え、少なくない?」
「でしょ?麻衣の旦那は2000万なのに」
「由香の旦那は起業して年商5億だよ」
「いいな〜。なんでうちはこんなに無能なんだろ」
俺は、リビングでその会話を聞いていた。
美咲は、俺がいることを分かっていて言っている。
「ねえ健一、お茶入れて」
「……分かった」
「あ、お菓子も。あと、静かにしてね。大人の話してるから」
友達がクスクス笑っている。
俺は、使用人みたいにお茶を運び、部屋に引っ込んだ。
惨めだった。
でも、何も言えなかった。
◇
俺の実家は、地方の小さな町にある。
両親は農家で、決して裕福ではないけど、温かい家庭だった。
でも、美咲はそれを許さなかった。
「お盆?行かないよ」
「え、でも、両親が……」
「あなたの実家、田舎でしょ。虫いるし、汚いし」
「……」
「私の肌が荒れたら、どうしてくれるの」
「でも、親が会いたがってて……」
「じゃあ、一人で行けば?私は行かない」
美咲は一度も、俺の実家に来なかった。
母から電話が来る。
「健一、お嫁さん元気?今度連れておいでよ」
「うん、また今度ね……」
俺は、嘘をつき続けた。
本当のことを言ったら、母が悲しむから。
◇
結婚4年目。
俺は、限界だった。
会社でミスが増えた。
会議で発言できなくなった。
上司に「最近元気ないな」と言われた。
元気なんてあるわけない。
毎日、否定され続けてるんだから。
「使えない」
「無能」
「なんでこんな男と結婚しちゃったんだろう」
「友達の旦那は2000万超えてるのに」
「あなたといると、私まで惨めになる」
美咲の言葉が、頭の中でリピートする。
俺は、本当に無能なのかもしれない。
俺は、本当に使えない男なのかもしれない。
俺という人間には、価値がないのかもしれない。
美咲の言う通りなのかもしれない。
◇
ある日の帰り道。
駅のホームで、電車を待っていた。
ホームの端に立つ。
黄色い線の外側。
電車が近づいてくる。
轟音。
風。
……このまま、一歩前に出たら。
楽になれるのかな。
美咲に「使えない」と言われなくて済む。
「無能」と言われなくて済む。
もう、何も感じなくて済む。
……
電車が通過した。
俺は、動けなかった。
汗が、背中を伝う。
……俺は今、何を考えてたんだ。
◇
家に帰りたくなかった。
でも、帰らないと美咲に何を言われるか分からない。
「遅い。どこ行ってたの」
「ちょっと、残業で……」
「嘘。また浮気でしょ」
「してないって……」
「じゃあ、スマホ見せて」
俺は、毎日スマホをチェックされた。
LINE、通話履歴、写真フォルダ。
「この女、誰」
「同僚の佐藤さん。グループLINEで……」
「ブロックして」
「え、仕事で使うから……」
「ブロックしてって言ってるの」
俺は、仕事のグループLINEから佐藤さんを削除した。
翌日、佐藤さんに謝った。
「ごめん、ちょっと事情があって……」
佐藤さんは困惑していた。
当然だ。
でも、本当のことは言えなかった。
◇
心療内科に行こうかと思った。
でも、行けなかった。
「俺がおかしいんじゃない。美咲の方がおかしいんだ」
そう思いたかった。
でも、自信がなかった。
美咲は「私は正しいことを言ってるだけ」と言う。
「あなたのために言ってあげてるの」
「もっと稼げって、当然のことでしょ」
「友達の旦那はみんな1500万超えてるのに、あなただけ900万」
「恥ずかしくないの?」
……俺が悪いのか?
俺の努力が足りないのか?
もう、分からなかった。
◇
ある日、俺はスマホで検索した。
「妻 文句ばかり 辛い」
検索結果に、見慣れない言葉があった。
「モラルハラスメント」
「モラハラ妻の特徴」
震える手で、クリックした。
記事を読んだ。
・夫を否定する
・夫の稼ぎに文句を言う
・夫を他人と比較する
・夫の行動を監視する
・夫に罪悪感を植え付ける
・夫の自尊心を破壊する
・夫を孤立させる
……全部、美咲だ。
全部、全部、美咲がやってることだ。
俺は、画面を見つめたまま、涙が出た。
俺は、モラハラを受けていたのか。
俺は、被害者だったのか。
俺が悪いんじゃなかったのか。
◇
その日から、俺はXで裏アカウントを作った。
アカウント名は「モラハラ妻から逃げたい男」。
誰にも言えないことを、ここに書くことにした。
『今日も「お前の稼ぎが悪い」と言われた。年収900万じゃ足りないらしい』
投稿してすぐ、通知が来た。
いいね。
リプライ。
『それ、完全にモラハラですよ』
『経済的DVじゃないですか?』
『あなたは悪くないです。逃げてください』
『てか、経済的には勝ち組』
……え?
俺は悪くないの?
逃げていいの?
◇
フォロワーが増えていった。
100人。
1000人。
5000人。
俺が投稿するたびに、たくさんの人が反応してくれた。
『妻のお小遣いは30万。俺は2万。昼飯はコンビニのおにぎり』
リプ。
『完全に経済的DVです』
『その年収でその扱いはおかしい』
『証拠を集めてください。録音が有効です』
『弁護士に相談を!』
『「友達の旦那は2000万超え」が口癖。俺の存在価値って何だろう』
リプ。
『あなたの価値は年収じゃない』
『何度も言うが、900万は経済的には勝ち組』
『比較してくる時点でモラハラ確定』
『逃げて。このままだと壊れる』
俺は、一人じゃなかった。
同じような経験をした人が、たくさんいた。
そして、みんなが俺の味方をしてくれた。
◇
5ちゃんねるにもスレッドを立てた。
【相談】嫁のモラハラが酷い。離婚したい
1: 名無しさん
年収900万
嫁の小遣い30万、俺は2万
毎日「稼ぎが悪い」と言われる
友達の旦那と比較される
実家を「田舎の汚い家」と罵倒された
離婚したいけど、どうすればいい?
レスがたくさんついた。
12: 名無しさん
証拠集めろ。録音しまくれ
34: 名無しさん
弁護士に相談。モラハラは離婚事由になる
56: 名無しさん
900万で足りないとか、嫁の金銭感覚おかしい
78: 名無しさん
逃げろ。このままだと壊れる
98: 名無しさん
俺も同じだった。離婚して人生変わった。頑張れ
123: 名無しさん
実家を「汚い」とか言うのヤバすぎ
お前の親を馬鹿にしてる女だぞ
156: 名無しさん
小遣い2万で昼飯おにぎりとか泣ける
お前は奴隷じゃない
みんなの言葉が、俺の背中を押してくれた。
◇
俺は、証拠を集め始めた。
スマホの録音アプリを、常にオンにした。
『その程度の稼ぎで偉そうにしないで』
録音。
『友達の旦那は2000万超えてるのに、なんであなたはこんなに無能なの』
録音。
『使えない。本当に使えない。なんで私がこんな男と結婚しなきゃいけなかったの』
録音。
『あなたの実家?行くわけないじゃん。田舎だし、汚いし』
録音。
『私のお小遣い30万で足りるわけないでしょ。50万にして』
録音。
2年間、コツコツと証拠を集めた。
LINEのスクショも撮った。
日記もつけた。
いつか、この証拠が俺を救ってくれる。
そう信じて。
◇
そんな時、由美子さんが声をかけてきた。
由美子さん。
俺が入社した時から、ずっと憧れていた人だった。
◇
由美子さんは、俺より4つ年上の先輩だった。
新人の頃、俺は由美子さんの下についた。
「鈴木くん、分からないことがあったら何でも聞いてね」
由美子さんは、仕事ができた。
頭の回転が速くて、判断が的確で、周りからの信頼も厚かった。
それでいて、偉ぶらない。
後輩の面倒見も良くて、俺は何度も助けられた。
「由美子さん、この資料の作り方が分からなくて……」
「ああ、これね。ここをこうして……」
由美子さんは、いつも丁寧に教えてくれた。
俺が失敗しても、責めなかった。
「大丈夫、誰でも最初は失敗するから。次、頑張ろう」
その言葉に、何度救われたか分からない。
◇
由美子さんは、ナチュラル美人だった。
切れ長の目に、シャープな顔立ち。
凛とした雰囲気があって、どこか近寄りがたい。
派手な化粧はしない。
ブランド物も持たない。
でも、それでいて綺麗だった。
素のままで、十分に美しかった。
笑うと、クールな印象が少し和らいで、目元がふっと優しくなる。
その笑顔が、俺は好きだった。
正直、俺は由美子さんに憧れていた。
……いや、好きだったのかもしれない。
でも、高嶺の花だった。
仕事ができて、美人で、優しくて。
俺みたいな平凡な男が、声をかけられる相手じゃなかった。
◇
入社半年後のことだった。
その日、俺は資料作成で残業していた。
ふと顔を上げると、由美子さんがまだいた。
珍しいな。由美子さんは、いつも定時で帰るのに。
「由美子さん、まだいたんですか」
「鈴木くん、あなたも残業?」
「はい、ちょっと資料が終わらなくて……。あの、コーヒー、飲みますか?自販機で買ってきます」
「……いいの?」
「俺も買うんで、ついでに」
俺は自販機に向かって、コーヒーを2本買った。
由美子さんの席に戻って、缶コーヒーを渡した。
その時、指が触れた。
由美子さんの手は、細くて、少し冷たかった。
「ありがとう」
由美子さんが、笑った。
俺は、なぜかドキッとした。
……なんだ、今の。
由美子さんは先輩だぞ。4つも年上だぞ。
俺は、自分の席に戻りながら、心臓がバクバクしているのを感じた。
◇
もう一つ、忘れられないことがある。
ある日、由美子さんが風邪で休んだ。
「由美子さん、今日お休みだって。熱が38度あるらしい」
俺は、心配になった。
由美子さん、大丈夫かな。
仕事が終わった後、俺はスーパーに寄った。
ポカリスエット、ゼリー、おかゆ。
風邪の時に必要そうなものを買い込んで、由美子さんの家に向かった。
アパートの前で、少し迷った。
……迷惑かな。
後輩が突然来たら、困るかな。
でも、心配だった。
インターホンを押した。
「……はい」
弱々しい声が返ってきた。
「由美子さん、鈴木です。大丈夫ですか?」
玄関が開いた。
由美子さんは、顔が真っ赤だった。
「あの、ポカリとか、ゼリーとか、買ってきました。熱、大丈夫ですか?」
「え……」
由美子さんの目が、潤んでいた。
え、なんで泣きそうなの?
「病院は行きました?」
「ありがとう……」
由美子さんの声が、震えていた。
「いえ、早く元気になってください。由美子さんがいないと、みんな困るんで」
俺は、照れくさくて、そう言うのが精一杯だった。
由美子さんは、スーパーの袋を受け取りながら、何度も「ありがとう」と言っていた。
帰り道、俺は考えた。
由美子さん、泣きそうだったな。
あんなに小さなことで。
……なんでだろう。
ポカリ買ってきただけなのに。
分からなかったけど、俺は由美子さんのことが、もっと気になるようになった。
◇
入社2年目、俺は大きなミスをした。
取引先への見積書に、桁を一つ間違えてしまった。
明細の1000万円が、100万円になっていた。
気づいた時、頭が真っ白になった。
「すみません、すみません……」
上司の田村課長が激怒した。
「鈴木、お前何やってんだ!」
「すみません……」
「これ、どうやってリカバリーするんだ!」
俺は、何も言えなかった。
言い訳なんてできない。
完全に、俺のミスだ。
その時、由美子さんが立ち上がった。
「課長」
「なんだ、山田」
「この見積書、私がチェックしました。確認不足は、私の責任でもあります」
「……」
「取引先への説明は、私も同行します」
え……?
由美子さん、何してるの?
これは、俺のミスなのに。
課長は、渋い顔をした。
「……分かった。二人で行ってこい」
取引先への謝罪は、大変だった。
由美子さんは、俺の横で一緒に頭を下げてくれた。
丁寧に説明して、なんとか許してもらえた。
帰り道、俺は言った。
「由美子さん、すみませんでした」
「いいよ。次から気をつければ」
「でも、由美子さんは悪くないのに……」
「私も確認したんだから、私の責任でもあるよ」
由美子さんは、さらっと言った。
俺は、胸が熱くなった。
自分のミスを、一緒に背負ってくれた。
こんな先輩、他にいない。
俺は、立ち止まった。
「由美子さん」
「なに?」
「俺、由美子さんみたいな人になりたいです」
由美子さんが、振り返った。
少し驚いた顔をしていた。
「仕事ができて、後輩のフォローもできて、責任感があって。由美子さん、本当にすごいです」
俺は、真っ直ぐに由美子さんを見た。
「俺、頑張ります。由美子さんみたいになれるように」
由美子さんは、少し黙った。
それから、ふっと笑った。
「……ありがとう。頑張ってね」
そう言って、由美子さんは歩き出した。
俺は、その背中を見つめながら思った。
由美子さん、かっこいいな。
……こういうのを、「惚れた」って言うのかもしれない。
でも、俺には無理だ。
由美子さんは、俺なんかには手が届かない人だ。
◇
それに、由美子さんには「近寄りがたい空気」があった。
飲み会には来ない。
残業もしない。
定時になると、必ず帰る。
「由美子さん、今日飲み会あるけど来ない?」
「ごめんね、ちょっと用事があって」
いつも、そう断っていた。
◇
由美子さんの事情を詳しく知ったのは、入社3年目の時だった。
ある日、由美子さんが会社を早退した。
珍しいことだった。
由美子さんは、体調が悪くても休まない人だったから。
翌日、先輩に聞いた。
「由美子さん、昨日どうしたんですか?」
「ああ、弟さんが熱出したらしくて」
「弟さん、中学生でしたっけ」
「そうそう。由美子さん、大変だよな。一人で二人を育ててるんだから」
「え?ご両親は……」
「知らなかった?由美子さん、大学2年の時に両親を亡くしてるんだよ」
俺は、驚いた。
「お父さんと、再婚相手のお母さんが、交通事故で」
「再婚……?」
「そう。弟と妹は、義理のお母さんの連れ子だったらしい」
「え……」
「それで、5歳と3歳だった弟妹を引き取って、一人で育ててきたんだって」
俺は、言葉を失った。
「血の繋がらない子供を、20歳で引き取ったんだぞ。普通、できないよ」
「……」
「だから、由美子さん、ずっと結婚しなかったんだよ。弟妹の学費とか生活費とか、全部一人で稼いでたから」
「すごいな……」
「な。俺も尊敬してる」
俺は、由美子さんを見る目が変わった。
両親がいないこと、血の繋がらない弟妹を一人で育ててきたこと、何も知らなかった。
由美子さんは、たった一人で、二人の子供を育ててきたんだ。
◇
それから、俺は由美子さんのことを、もっと意識するようになった。
定時で帰るのは、弟妹の世話をするためだったんだ。
飲み会に来ないのは、家で待ってる家族がいるからだったんだ。
由美子さんは、ずっと一人で頑張ってきたんだ。
俺は、由美子さんのことを、ますます尊敬するようになった。
そして、ますます好きになった。
でも、告白はできなかった。
由美子さんには、弟妹という家族がいる。
俺みたいな男が入り込む隙間なんて、ないと思った。
◇
入社5年目のある日。
由美子さんに、聞かれた。
「鈴木くん、彼女いないの?」
「え?いないですけど……」
「もったいないなあ。鈴木くん、優しいし、真面目だし。絶対モテるでしょ」
俺は、心臓が跳ねた。
……今だ。
今、言うべきだ。
「由美子さんは……」
「私?」
由美子さんが、少し困ったような顔をした。
「私は、弟と妹がいるから。恋愛とか、当分無理かな」
「……」
「二人が独立するまでは、私のことは後回し」
由美子さんは、笑っていた。
でも、その笑顔が、俺には壁に見えた。
「鈴木くんは若いんだから、いい人見つけなよ」
「……そうですか」
「うん。鈴木くんなら、すぐ見つかるよ」
……そうか。
由美子さんは、俺のことをそう見てるんだ。
――若い。
――いい人見つけなよ。
つまり、俺は対象外ってことだ。
俺は、諦めた。
由美子さんへの気持ちは、心の奥にしまい込もう。
そう決めた。
◇
その次の正月、実家に帰省した。
俺の実家は、地方の田舎だ。
周りは、25歳くらいで結婚するのが当たり前。
30歳で独身だと、「何かあるんじゃないか」と噂される世界。
母親に言われた。
「健一、彼女はできた?」
「まだだよ」
「もう26でしょ。そろそろ考えなさいよ」
「……分かってるよ」
父親も言ってきた。
「お前、いつまで独身でいるつもりだ」
「いや、別に……」
「隣の息子、もう子供2人いるぞ」
「……」
「孫の顔が見たい」
「早く身を固めろ」
「いい人いないのか」
正直、うんざりだった。
でも、両親の気持ちも分からなくはない。
田舎では、結婚して一人前なのだ。
……由美子さんには、振られた。
親は、早く結婚しろと言っている。
なら、前に進むしかない。
◇
正月明け、同僚の佐藤に誘われた。
「鈴木、今度クルージングパーティーあるんだけど、来ない?」
「クルージングパーティー?」
「船の上でやるパーティー。女の子もたくさん来るらしいよ」
普段なら、断る。
そういう場は苦手だ。
でも、あの時の俺は、由美子さんのことを忘れたかった。
「……行く」
佐藤は驚いた顔をした。
「え、マジで?珍しいな、お前が来るなんて」
俺も、自分で驚いていた。
でも、このままじゃダメだと思った。
由美子さんは、俺を選ばない。
両親は、早く結婚しろと言っている。
なら、前に進むしかない。
由美子さんへの気持ちは、心の奥にしまい込もう。
◇
クルージングパーティーで、美咲と出会った。
美咲は、キラキラしていた。
華やかで、自信に満ちていて、俺とは正反対の世界の人間に見えた。
「私、港区で遊んでたの。インスタのフォロワー、5万人いたんだよ」
そう言う美咲は、眩しかった。
俺みたいな地味な男には、もったいないくらいの女性だと思った。
……今思えば、俺は由美子さんの代わりを探していたのかもしれない。
手の届かない、キラキラした女性。
自分には釣り合わないと思える相手。
だから、美咲に惹かれた。
由美子さんへの想いを、上書きしたかったのかもしれない。
◇
俺がプロポーズした時、美咲は少し考えてから言った。
「……まあ、いいよ」
今思えば、あの「まあ」に全てが詰まっていた。
俺は最初から、「妥協された相手」だったのだ。
でも、あの時の俺には分からなかった。
結婚すれば、両親も安心する。
由美子さんのことも、忘れられる。
そう思っていた。
◇
結婚報告をした時、会社のみんなが祝ってくれた。
「鈴木、結婚おめでとう!」
「相手、美人らしいな」
「やるじゃん」
俺は、照れながら頭を下げた。
その時、由美子さんが近づいてきた。
「鈴木くん、結婚おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
由美子さんは、笑っていた。
いつもと同じ、穏やかな笑顔。
「幸せにね」
「はい」
由美子さんは、それだけ言って、自分の席に戻っていった。
俺は、その背中を見つめた。
……これでいいんだ。
由美子さんは、俺の結婚を祝ってくれた。
俺は、前に進んだんだ。
そう、自分に言い聞かせた。
◇
それから10年以上が経った。
由美子さんは40歳になっていた。
弟妹は、もう独立していた。
弟は25歳で、IT企業でエンジニアをしている。
妹は23歳で、社会人になった。
由美子さんは、二人を立派に育て上げたのだ。
血の繋がらない弟妹を、20年間、たった一人で。
でも、由美子さん自身は、ずっと独身のままだった。
弟妹のために、自分の人生を捧げてきたから。
恋愛する暇なんて、なかったのだろう。
俺は、由美子さんのことを、ずっと遠くから見ていた。
声をかける勇気なんて、なかった。
俺には美咲がいる。
由美子さんは、相変わらず高嶺の花だ。
そう思っていた。
◇
そんな由美子さんが、俺に声をかけてきた。
「鈴木くん、最近疲れてない?」
俺は、びっくりした。
「え?」
「なんか元気ないなって思って。余計なお世話だったらごめんね」
由美子さんが、俺のことを気にかけてくれている。
あの由美子さんが。
「大丈夫?顔色悪いよ」
「あ、いや、ちょっと寝不足で……」
「無理しないでね」
由美子さんは、それだけ言って、去っていった。
美咲は、俺が疲れていても「私の方が疲れてる」としか言わない。
由美子さんは、違った。
俺のことを、ちゃんと見てくれている。
……なんだろう、この温かさは。
◇
由美子さんとは、また少しずつ話すようになった。
「鈴木くん、お昼一緒にどう?」
「あ、いや、俺は……」
「あ、ごめん。迷惑だった?」
「違うんです。ちょっと、昼飯代が……」
俺は、恥ずかしかった。
憧れの由美子さんの前で、金がないなんて言えない。
でも、嘘をつきたくなかった。
「今日、財布忘れちゃって……」
苦しい言い訳。
由美子さんは、少し考えてから言った。
「じゃあ、私のお弁当、少し分けようか?作りすぎちゃって」
「え、いいんですか?」
「迷惑じゃなければ」
俺たちは、社員食堂の隅で、一緒に昼食を食べた。
由美子さんの卵焼き。
甘くて、優しい味がした。
「美味しい……」
「本当?良かった。弟たちに作ってたから、男の人の好みは分かるかなって」
由美子さんが、笑った。
その笑顔を見た時、俺は泣きそうになった。
◇
それから、由美子さんとは毎日一緒に昼食を食べるようになった。
由美子さんは、いつも俺の分のおかずを多めに作ってきてくれた。
「鈴木くん、今日は唐揚げだよ」
「ありがとうございます……」
「遠慮しないでね。弟たちが独立してから、作る量が減っちゃって。誰かに食べてもらえると嬉しいの」
俺は、毎日由美子さんの料理を食べた。
肉じゃが。
ハンバーグ。
サバの味噌煮。
全部、美味しかった。
家では、コンビニ弁当か出前ばかりだったから。
「由美子さんの料理、本当に美味しいです」
「そう言ってもらえると嬉しいな。弟たちにも、よく作ってたの」
由美子さんは、弟と妹の話をよくしてくれた。
弟が大学受験に落ちた時、一緒に泣いたこと。
妹が初めて彼氏を連れてきた時、嬉しくて泣いたこと。
弟がIT企業に就職した時、やっと肩の荷が下りたこと。
由美子さんは、20年間、弟妹のために生きてきた。
自分の人生を犠牲にして。
◇
「由美子さんは、すごいですね」
俺は、思わず言った。
「え?」
「20歳で親を亡くして、弟さんと妹さんを育てて。俺には、絶対できないです」
「……」
「由美子さんは、本当にすごい人です」
由美子さんは、少し困ったように笑った。
「すごくなんかないよ。必死だっただけ」
「……」
「でも、後悔はしてない。弟も妹も、立派に育ってくれたから」
由美子さんの目が、潤んでいた。
「私の20年間は、無駄じゃなかった。そう思えるの」
俺は、由美子さんを見つめた。
この人は、本当に強い人だ。
そして、本当に優しい人だ。
由美子さんと話していると、心が楽になった。
「鈴木くん、仕事大変そうだね」
「まあ、いろいろあって……」
「愚痴とかあったら、聞くよ。私でよければ」
俺は、少しだけ話した。
家のことは言えない。
でも、仕事の悩みなら。
「最近、会議で発言できなくて……」
「そうなの?鈴木くん、いい意見持ってると思うけど」
「え?」
「前に企画会議で言ってたこと、すごく的確だなって思った」
俺は、驚いた。
俺の意見を、ちゃんと聞いてくれてる人がいる。
覚えてくれてる人がいる。
「でも、俺なんかが発言しても……」
「『なんか』って何」
由美子さんの声が、少し強くなった。
「鈴木くんの意見、もっと聞きたいな。私だけじゃなくて、みんな」
……俺の意見を、聞きたい?
美咲に言われ続けた「無能」「使えない」という言葉。
それが、少しだけ薄れていく気がした。
◇
由美子さんには、不思議な力があった。
俺の話を、否定しない。
俺の意見を、ちゃんと聞いてくれる。
俺のことを、認めてくれる。
「鈴木くん、それいい考えだね」
「鈴木くん、頑張ってるね」
「鈴木くん、すごいね」
そんな言葉を、美咲から聞いたことがない。
一度も。
由美子さんと話していると、俺は「俺でいいんだ」と思えた。
「俺は、ここにいていいんだ」と思えた。
「生きていて、いいんだ」と思えた。
◇
ある日、由美子さんに聞かれた。
「鈴木くん、奥さんいるんだよね」
「……はい」
「幸せそうに見えないんだけど、余計なお世話かな?」
俺は、黙った。
由美子さんは、続けた。
「ごめんね。でも、鈴木くん、会社に来る時いつも辛そうで。家で何かあるのかなって、ずっと思ってた」
俺は、泣きそうになった。
俺のことを、こんなに見てくれてる人がいる。
気にかけてくれてる人がいる。
「……実は」
俺は、話し始めた。
美咲のこと。
毎日否定されること。
「稼ぎが悪い」と言われ続けること。
小遣いが2万円しかないこと。
友達の前で「うちの旦那は無能」と言われたこと。
実家を「田舎の汚い家」と罵倒されたこと。
話しながら、涙が出た。
止まらなかった。
由美子さんは、黙って聞いてくれた。
俺が泣き終わるまで、何も言わなかった。
そして、静かに言った。
「鈴木くんは、悪くないよ」
その一言で、俺は崩れ落ちた。
「ずっと、俺が悪いんだと思ってました」
「悪くない」
「俺が無能だから、俺が使えないから……」
「違うよ。鈴木くんは、悪くない」
「でも……」
「鈴木くん」
由美子さんが、俺の手を握った。
「逃げていいんだよ」
その言葉が、俺を救った。
◇
そこから親密になるのに、時間はかからなかった。
由美子さんとの関係は、不倫だった。
それは分かってる。
世間的には、許されないことだと思う。
でも、俺にはもう由美子さんしかいなかった。
美咲といると、死にたくなる。
電車のホームで、一歩前に出ようとする。
由美子さんといると、生きていていいと思える。
明日も頑張ろうと思える。
◇
ある夜、一人で考えた。
俺にとって、幸せって何だろう。
年収900万。
都内のマンション。
美人の妻。
世間的には、十分「成功」のはずだ。
でも、俺は毎日死にたいと思っている。
由美子さんと一緒にいる時だけ、生きていていいと思える。
……これって、おかしくないか?
俺は、何のために働いてるんだろう。
何のために生きてるんだろう。
美咲に「無能」と言われないため?
美咲の小遣いを稼ぐため?
……違う。
俺は、幸せになるために生きたい。
笑って暮らしたい。
「ありがとう」と言い合える人と、一緒にいたい。
その人は、美咲じゃない。
俺は、決意した。
離婚する。
この地獄から、逃げ出す。
◇
「由美子さん」
「なに?」
「俺、離婚する」
由美子さんの目が、大きくなった。
「……本当に?」
「うん。俺、幸せになりたいんだ。由美子さんと一緒に」
由美子さんは、泣いた。
「私も一緒に戦うよ。健一くんは、一人じゃない」
◇
弁護士に相談した。
2年分の録音データを渡した。
弁護士は、録音を聞きながら顔をしかめた。
「……これは酷いですね」
「離婚できますか?」
「できます。十分、モラハラの証拠になります」
「慰謝料は……」
「こちらから請求できる可能性もあります。相手が不倫を主張してきた場合、相殺になるでしょうが」
俺は、希望が見えた。
「鈴木さん」
弁護士が言った。
「よく、6年も耐えましたね」
「……」
「普通なら、壊れてます。あなたは強い」
俺は、泣いた。
強くなんかない。
ただ、由美子さんがいてくれたから、耐えられただけだ。
◇
離婚を切り出した日。
美咲は激怒した。
「は?離婚?ふざけないで」
「もう決めたんだ」
「私が何したって言うの!?」
「……君の言動で、俺は壊れかけてた」
「はあ?私は正当なことを言っただけじゃん」
「正当……?」
「そうでしょ。『もっと稼げ』『頑張れ』って、妻として当然のことを言ってただけ」
俺は、静かに言った。
「美咲といると、俺は自分が無価値な人間だと思わされる」
「は?」
「何をしても否定される。何を言ってもバカにされる。俺の存在自体を、否定されてきた」
「そんなこと言ってないけど」
「言ってた」
俺は、美咲の目を見た。
「『その程度の稼ぎ』『使えない』『役立たず』『無能』『なんでこんな男と結婚しちゃったんだろう』……全部、美咲が言った言葉だよ」
「……」
「俺は、美咲の奴隷じゃない」
美咲の顔が、歪んだ。
「もう、解放されたい」
◇
美咲は泣いた。
泣き喚いた。
「待って、やり直せるよ」
「無理だ」
「私、変わるから」
「もう遅い」
「お願い、離婚だけは……」
俺は、動じなかった。
この涙も、演技だと分かっていたから。
「……あの女のせいでしょ」
美咲の声が、変わった。
「由美子って女でしょ。知ってるんだから!あの女に洗脳されたんでしょ」
「由美子さんは関係ない」
「嘘。あの女が私たちの仲を壊したんだ」
「違う。俺が自分で決めたことだ」
「あのおばさんのどこがいいの!?40歳だよ!?私より6歳も年上じゃん!」
美咲が叫んだ。
「化粧もしてない、服もダサい、ブランド物なんて一つも持ってない!私の方が絶対綺麗なのに!」
俺は、静かに答えた。
「綺麗かどうかじゃないんだ」
「……は?」
「由美子さんは、俺の話を聞いてくれた。俺を否定しなかった。俺といて、笑ってくれた」
「……」
「美咲といると、俺は消えてしまいたくなる。でも由美子さんといると、俺は俺でいいんだって思える」
「……私だって……」
「無理だよ。美咲には」
俺は、最後に言った。
「俺たちは、もう終わりだ」
◇
離婚調停は、修羅場だった。
最初、美咲は強気だった。
「不倫したんでしょ?慰謝料300万は払ってもらうから」
「浮気されて、捨てられたのは私の方。私は被害者なの」
美咲は、自分が被害者だと本気で思っていた。
俺の弁護士が、静かに資料を出した。
「こちらも資料がございます」
大量の録音データ。
再生ボタンが押された。
『その程度の稼ぎで偉そうにしないで』
美咲の声が、会議室に響いた。
『友達の旦那は2000万超えてるのに、なんであなたはこんなに無能なの』
『私のお小遣い30万で足りるわけないでしょ。50万にして』
『あなたの実家?行くわけないじゃん。田舎だし、汚いし』
『使えない。本当に使えない。なんで私がこんな男と結婚しなきゃいけなかったの』
美咲の顔が、青ざめていった。
「え、いつ録ってたの……」
「依頼人は2年以上前から記録を取っていました」
2年前。
そんな前から、俺が離婚を考えていたとは、美咲は思っていなかったのだろう。
◇
さらに、弁護士はタブレットを出した。
「こちらもご確認ください」
X(旧Twitter)の画面だった。
アカウント名は「モラハラ妻から逃げたい男」。
フォロワー、3万2000人。
美咲の目が見開かれた。
「依頼人が運営していたアカウントです」
スクロールしていく。
美咲のことが、全部書かれていた。
『今日も「お前の稼ぎが悪い」と言われた。年収900万じゃ足りないらしい』
いいね、2.4万。
『妻のお小遣いは30万。俺は2万。昼飯はコンビニのおにぎり』
いいね、3.1万。
『「友達の旦那は1000万超え」が口癖。俺の存在価値って何だろう』
いいね、2.8万。
『実家を「田舎の汚い家」と言われた。親を馬鹿にされた。許せない』
いいね、4.2万。
リプライ欄。
『それ完全にモラハラですよ。逃げてください』
『経済的DVじゃん。証拠集めて離婚した方がいい』
『900万で足りないとか、どんな嫁だよ』
『親を馬鹿にする女は最低。逃げろ』
美咲は、震えていた。
「3万人以上が、依頼人の証言を支持しています」
弁護士が、静かに言った。
「これでも、奥様は『被害者』ですか?」
◇
美咲は、泣き崩れた。
「私は……私は悪くない……」
「正当なことを言っただけ……」
「夫のために言ってあげてたの……」
でも、録音には全部残っている。
美咲がどんな言葉を俺に浴びせてきたか。
どんな態度で俺を踏みにじってきたか。
「依頼人は、奥様の言動により精神的に追い詰められ、自殺を考えたこともあります」
弁護士の言葉に、美咲の顔が凍りついた。
「駅のホームで、電車に飛び込もうとしたこともある。診断書もあります」
俺は、黙っていた。
由美子さんに勧められて、心療内科に行っていた。
「適応障害」の診断が出ていた。
「これは、精神的DVの明確な証拠です」
弁護士が言った。
「慰謝料は、むしろこちらから請求することも可能です」
美咲は、何も言えなくなった。
◇
結局、慰謝料は100万円になった。
美咲が請求した300万から、俺のモラハラ被害200万を差し引いて。
財産分与も、ほぼなかった。
美咲が全部使い込んでいたから。
6年前、400万あった貯金。
結婚式で半分になり、毎月の赤字で削られ続け、残っていたのは100万ちょっと。
それを慰謝料で払って、俺の手元には何も残らなかった。
6年間、必死に働いて、貯金ゼロ。
でも、それでいい。
金より大事なものを、俺は取り戻したんだから。
「ふざけないで!6年も一緒にいたのに、100万円だけ!?」
美咲は最後まで叫んでいた。
「私は被害者なのに!」
「不倫されたのは私なのに!」
「あの女に夫を奪われたのに!」
俺は、何も言わなかった。
ただ、書類にサインした。
これで、終わる。
この地獄が、終わる。
◇
離婚が成立した日。
俺は、Xに投稿した。
『報告です。本日、正式に離婚が成立しました』
5分で、通知が鳴り止まなくなった。
いいね、8.7万。
リプライが溢れた。
『おめでとうございます!!!』
『ずっと応援してました!』
『これからの人生、幸せになってください!』
『あなたは何も悪くない。新しい人生の始まりですね』
『モラハラから逃げられて本当に良かった』
『奥さんとお幸せに!』
俺は、泣いた。
3万人以上の人が、俺を祝福してくれている。
俺は、一人じゃなかった。
ずっと、一人じゃなかった。
◇
離婚から半年後。
由美子さんと再婚した。
小さな式だった。
親族だけの、アットホームな結婚式。
「健一くん、これからよろしくね」
「こちらこそ……本当に、ありがとう」
俺は、泣いていた。
「やっと、本当の家族ができた」
由美子さんがいなかったら、俺は逃げ出せなかった。
由美子さんが「あなたは悪くない」と言ってくれたから、俺は自分を取り戻せた。
由美子さんが「逃げていい」と言ってくれたから、俺は生きている。
◇
由美子さんとの生活は、美咲との生活と全く違った。
「健一くん、今日の仕事どうだった?」
「うん、まあまあかな」
「そっか。お疲れ様。ご飯できてるよ」
由美子さんは、毎日料理を作ってくれる。
美咲は一度も作ってくれなかったのに。
「健一くん、これ食べて。新しいレシピ試してみたの」
「美味しい……」
「本当?良かった」
由美子さんは、笑う。
ただ、笑ってくれる。
それだけで、俺は幸せだった。
◇
ある日、由美子さんが言った。
「健一くん、転職考えたことある?」
「転職?」
「健一くん、もっとできる人だと思うの。今の会社、健一くんの良さを分かってない気がして」
美咲は「転職しろ」「もっと稼げ」と言った。
でも、それは俺を否定する言葉だった。
お前はダメだから、もっと頑張れ。
そういう意味だった。
由美子さんは違う。
俺を信じて、背中を押してくれてる。
「でも、俺なんかが……」
「『なんか』って言わないで」
由美子さんの目が、真剣だった。
「健一くんは、すごい人だよ。私は知ってる」
……俺を、信じてくれてる。
本気で、信じてくれてる。
◇
俺は、転職活動を始めた。
外資系のコンサル会社に応募した。
面接で、自分の経験を話した。
前の俺なら、緊張して何も言えなかっただろう。
「俺なんかが」と思って、黙っていただろう。
でも、今は違う。
由美子さんが「健一くんはすごい」と言ってくれた。
俺は、自分を信じることができた。
「ぜひ、うちに来てください」
内定が出た。
年収は、900万から1500万になった。
倍増だ。
◇
「健一くん、おめでとう!」
由美子さんが、抱きついてきた。
「由美子のおかげだよ」
「私は何もしてないよ。健一くんが頑張ったんでしょ」
「違う。由美子が信じてくれたから、俺は頑張れたんだ」
美咲といた時、俺は自分を信じられなかった。
「無能」「使えない」と言われ続けて、本当にそうだと思っていた。
でも、由美子さんが俺を認めてくれた。
「健一くんはすごい」「健一くんならできる」と言ってくれた。
その言葉が、俺を変えた。
◇
外資系での仕事は、刺激的だった。
会議で発言を求められる。
アイデアを出すと、ちゃんと評価される。
「鈴木さん、いい提案ですね」
「これ、進めましょう」
俺の意見が、採用される。
美咲といた時は、会議で一言も発言できなかった。
「お前の意見なんて誰も聞きたくない」と思い込んでいたから。
でも、そんなことなかった。
俺の意見には、価値があった。
俺には、価値があった。
◇
1年後、マネージャーに昇進した。
チームを率いる立場になった。
「鈴木さん、リーダーシップありますね」
上司に言われた。
リーダーシップ?
俺に?
美咲に言われ続けた「使えない」という言葉が、嘘だったと分かる。
俺は、使える人間だった。
ただ、美咲に潰されていただけだった。
◇
毎日、由美子さんがお弁当を作ってくれた。
「健一くん、今日も頑張ってね」
「ありがとう」
仕事で辛いことがあっても、家に帰れば由美子さんがいる。
「お帰り。今日はどうだった?」
「ちょっと大変だったかな」
「そっか。話聞くよ」
由美子さんは、俺の愚痴を聞いてくれる。
否定しない。
「大変だったね」「頑張ってるね」と言ってくれる。
それだけで、俺は回復できた。
美咲といた時は、愚痴を言おうものなら「私の方が大変」と返された。
俺の辛さは、否定された。
由美子さんは違う。
俺の辛さを、受け止めてくれる。
◇
再婚から1年後、由美子さんとの間に子供が生まれた。
由美子さんは、41歳で初産だった。
「健一くん、見て。可愛い」
由美子さんが、赤ちゃんを抱いている。
俺は、二人を見つめた。
こんな日が来るとは、思わなかった。
美咲といた時、俺は「子供欲しいな」と何度も言った。
でも、美咲は「まだいい」と断り続けた。
「子供なんか作ったら自由がなくなる」
「体型崩れるし」
「お金かかるし」
俺は、諦めていた。
でも今、俺は父親になった。
由美子さんと、子供と、家族になった。
◇
2年後、俺は起業を決意した。
「コンサル会社を立ち上げたいんだ」
由美子さんに相談した。
美咲なら、絶対に反対しただろう。
「失敗したらどうするの」「安定を捨てるなんてありえない」と言っただろう。
由美子さんは、違った。
「いいね。健一くんならできるよ」
「本当に?」
「うん。私、経理やるよ。一緒に頑張ろう」
由美子さんは、俺と一緒に戦ってくれると言った。
俺は、泣きそうになった。
◇
株式会社を設立した。
俺が代表で、由美子さんが経理。
最初は二人だけの会社。
正直、最初の半年は地獄だった。
クライアントが全然取れない。
営業しても、断られる。
「実績がないので……」
「大手さんにお願いしてるので……」
貯金が減っていく。
「やっぱり、無理だったかな……」
弱音を吐いた時、由美子が言った。
「大丈夫。健一くんならできるよ」
「でも、このままじゃ……」
「私、経理だけじゃなくて営業サポートもやるから。健一くんは仕事に集中して」
由美子は、本当に何でもやってくれた。
請求書の発行、経費の管理、スケジュール調整、資料作成。
俺が仕事に集中できる環境を、全部作ってくれた。
美咲だったら、こうはいかなかった。
「失敗したらどうするの」「私の生活はどうなるの」
そう言って足を引っ張っただろう。
由美子は違った。
俺を信じて、支えてくれた。
◇
転機は、半年後に来た。
前職の先輩から、仕事を紹介してもらえた。
「鈴木、お前の仕事ぶりは知ってる。うちの案件、手伝ってくれないか」
必死でやった。
期待以上の成果を出した。
その先輩が、別の会社を紹介してくれた。
そこでも結果を出した。
また紹介が来た。
ITコンサルは、人脈と信頼がすべてだ。
俺の仕事ぶりを見て、「一緒にやりたい」と言ってくれる人が増えた。
いい仲間も集まってきた。
前職で一緒だったエンジニアが、「鈴木さんの会社で働きたい」と言ってくれた。
気づいたら、軌道に乗っていた。
1年目、年商5000万。
2年目、年商1億。
3年目、年商3億。
社員も増えた。
俺の役員報酬は、2000万を超えた。
美咲が「最低ライン」と言っていた年収に、俺は到達した。
皮肉なものだ。
美咲といた時は、900万で「無能」と言われていたのに。
由美子さんといたら、2000万を稼げる男になった。
◇
会社のパーティで、俺はスピーチをした。
「この会社があるのは、妻のおかげです」
会場を見ると、由美子さんがいた。
「僕は、妻と出会って人生が変わりました。妻が僕を信じてくれたから、僕は自分を信じることができました」
由美子さんは、照れたように笑っていた。
「僕は、妻と一緒に歳を取りたいです。これからも、よろしくお願いします」
会場から、拍手が起きた。
俺は、幸せだった。
◇
Xに、投稿した。
家族3人で、公園にいる写真。
俺が子供を抱いて、由美子さんを見つめている。
『この子と、この人と、一緒に歳を取りたい』
いいね、5.8万。
リプライが溢れた。
『幸せそうで良かったです!』
『モラハラから逃げて、本当に正解でしたね』
『奥様素敵です。お幸せに!』
俺は、返信した。
『ありがとうございます。あの時、皆さんが背中を押してくれたから、今の俺があります』
◇
会社は、さらに成長した。
年商5億を超えた。
俺の年収は、3000万になった。
ある日、由美子が言った。
「健一、マンション買わない?」
「マンション?」
「うん。子供のために、資産を残しておきたいの」
由美子の目が、少し真剣だった。
「私、20歳で両親を亡くしたでしょ。あの時、本当に大変だった。お金のことで、すごく苦労した」
「……」
「だから、私たちに何かあっても、この子が困らないようにしておきたい」
俺は、由美子の手を握った。
「分かった。いい物件、探そう」
「ありがとう。贅沢したいわけじゃないの。ただ、この子の将来のために」
「うん。由美子の気持ち、分かるよ」
結局、タワマンを買った。
資産価値が落ちにくいから、という由美子の判断だった。
由美子は、自分のためには何も欲しがらない。
でも、子供のためなら、真剣に考える。
そういう人なんだ。
◇
由美子に、カルティエのネックレスをプレゼントした。
「健一くん、こんな高いもの……」
「由美子のおかげで、今の俺があるから」
由美子さんは、泣いていた。
「ありがとう。私も、健一くんと出会えて幸せ」
◇
そして、俺は夢を叶えた。
レクサスを買った。
学生の頃からずっと憧れていた車。
美咲と結婚していた頃は、小遣い月2万円。
車なんて、夢のまた夢だった。
でも、今は違う。
自分で稼いだ金で、自分の夢を叶えられる。
納車の日、俺は運転席に座って、しばらく動けなかった。
ハンドルを握りながら、泣きそうになった。
由美子が助手席に乗り込んできた。
「健一、嬉しそうだね」
「……うん」
「よかったね。ずっと欲しかったんでしょ」
「なんで知ってるの?」
「健一、前にちょっと話してたから。学生の頃から憧れてたって」
俺は、そんなこと話したっけ。
覚えてないけど、由美子は覚えていてくれた。
「これくらいの贅沢、いいと思うよ。健一、ずっと我慢してきたんだから」
「……ありがとう」
俺は、由美子の手を握った。
美咲といた頃、俺は何も持てなかった。
夢も、希望も、自分の金も。
全部、搾り取られていた。
でも今、俺は自由だ。
自分の夢を、自分で叶えられる。
それが、こんなに幸せなことだとは思わなかった。
◇
ある日、5ちゃんねるを見ていた。
ふと、検索してみた。
「モラハラ妻 港区女子」
スレッドが見つかった。
【悲報】さげまんの教科書と呼ばれた女、40歳になっても婚活で高望みしてる模様
……さげまんの教科書?
スレを開いた。
1: 名無しさん
例の「年収900万で文句言ってた嫁」の末路が悲惨すぎる
23: 名無しさん
>>1
あー、あのXで有名になったやつか
夫がモラハラから逃げて成功したやつ
45: 名無しさん
元嫁の現在
・40歳
・バツイチ
・コールセンター勤務、時給1150円
・実家暮らし
・まだ婚活で「年収1000万以上、初婚」を条件にしてるらしい
67: 名無しさん
>>45
学習能力ゼロで草
89: 名無しさん
元旦那は年収3000万でタワマン住みなのにな
どこで差がついたのか
112: 名無しさん
さげまんの教科書として語り継がれてるの草
134: 名無しさん
「私は悪くない」が口癖らしい
一生そう言ってればいいんじゃね
156: 名無しさん
元旦那のXフォロワー5万人超え
元嫁は40歳でコールセンター
人生の明暗分かれすぎだろ
俺は、スマホを置いた。
なぜか分からないが、個人情報が洩れている。
多分、美咲の友達だろう。
美咲は今、40歳でコールセンターで働いているらしい。
時給1150円。
俺が小遣い2万円でおにぎりを食べていた時、美咲は毎月30万使っていた。
今は、立場が逆転している。
……でも、何も感じなかった。
ざまあみろ、とも思わない。
可哀想だ、とも思わない。
ただ、「もう関係ない人」だと思った。
◇
数ヶ月後、知らない番号から電話が来た。
「……もしもし」
『健一?私、美咲だけど』
……美咲?
なぜ、俺の番号を知っている?
『ねえ、あなた最近すごく稼いでるみたいじゃない』
「……」
『私、復縁してあげてもいいかなって思って』
「……」
『私と一緒にいた時は全然ダメだったのに、やっとまともになったみたいね』
俺は、黙っていた。
『私、前みたいなこと言わないようにしてあげるから』
「……」
『ね、どう?私、あなたのこと支えてあげるよ?』
『……ねえ、聞いてる?』
俺は、静かに言った。
「美咲」
『なに?』
「俺は、もう前に進んでるんだ」
『……え?』
「由美子と、子供と、幸せに暮らしてる」
『……』
「美咲のことは、もうどうでもいい。恨んでもいないし、許してもいない。ただ、もう関係ない」
『……ちょっと待って』
「電話してこないでくれ。番号も変えるから」
『健一!待って!私……』
俺は、電話を切った。
そして、番号をブロックした。
美咲は、まだ「私は悪くない」と思っているのだろう。
「やり直せる」と思っているのだろう。
でも、俺にとって美咲は、もう過去の人だ。
思い出すこともない人だ。
◇
家に帰ると、由美子さんが出迎えてくれた。
「お帰り、健一くん」
「ただいま」
子供が、走ってきて抱きついた。
「パパ、おかえりー!」
俺は、二人を抱きしめた。
これが、俺の幸せだ。
美咲といた時は、家に帰るのが怖かった。
今は、家に帰るのが楽しみだ。
由美子さんが聞いてきた。
「健一くん、今日なんかあった?」
「……なんで分かるの?」
「顔に出てる」
俺は、笑った。
「実は、元嫁から電話があった」
「……」
「やり直したいって」
由美子さんの顔が、少し曇った。
「断ったよ。もう関係ないって言った」
「……そう」
「由美子」
俺は、由美子さんの手を握った。
「俺は、由美子と子供といる。それだけでいい」
由美子さんは、泣いていた。
「ありがとう、健一くん」
「こちらこそ。由美子がいなかったら、俺は今ここにいない」
俺たちは、抱き合った。
◇
今、俺は42歳。
会社の社長で、年収3000万。
タワマンに住んで、レクサスに乗って、可愛い子供がいて、優しい妻がいる。
美咲が「港区女子に相応しい男」と言っていたスペックに、俺はなった。
でも、隣にいるのは美咲じゃない。
由美子さんだ。
俺は、幸せだ。
モラハラ妻から逃げて、本当に良かった。
あの時、電車のホームで一歩前に出なくて、本当に良かった。
由美子さんに出会えて、本当に良かった。
◇
Xのアカウントは、まだ続けている。
フォロワーは、5万人を超えた。
時々、同じような境遇の人からDMが来る。
『妻のモラハラで辛いです。毎日死にたいと思ってます。どうすればいいですか』
俺は、返信する。
『あなたは悪くないです。証拠を集めて、逃げてください。一人じゃないです。俺も同じでした。逃げたら、人生が変わりました』
俺も、あの時、同じ言葉に救われた。
今度は、俺が誰かを救う番だ。
◇
5ちゃんねるのスレッドは、まだ続いていた。
【朗報】モラハラ妻から逃げた男、年収3000万で幸せな家庭を築く
287: 名無しさん
逃げて正解だったな
342: 名無しさん
嫁変えたら年収4倍とかあげまん効果すごすぎ
456: 名無しさん
元嫁は今頃どうしてるんだろうな
512: 名無しさん
>>456
40歳でコールセンター、時給1150円だってよ
534: 名無しさん
さげまんの末路
567: 名無しさん
元旦那は年収3000万、嫁は優しい、子供もいる
元嫁は40歳独身コールセンター
どこで差がついたのか
589: 名無しさん
>>567
相手を大切にしたかどうか、だろ
612: 名無しさん
元嫁、「私は悪くない」ってまだ言ってるらしいぞ
634: 名無しさん
>>612
だから40歳で独身なんだよ
学習能力ゼロ
俺は、スレを閉じた。
美咲のことは、もうどうでもいい。
俺は、俺の人生を生きている。
由美子さんと、子供と、幸せに生きている。
それだけでいい。
◇
今日も、家に帰る。
「お帰り、健一くん」
由美子さんが、笑顔で迎えてくれる。
「ただいま」
子供が、走ってきて抱きつく。
「パパ、おかえりー!」
俺は、二人を抱きしめる。
温かい。
幸せだ。
美咲は、俺を否定し続けた。
「稼ぎが悪い」「無能」「使えない」
その言葉で、俺は壊れかけた。
電車のホームで、一歩前に出ようとした。
由美子さんは、俺を肯定し続けた。
「健一くんはすごい」「健一くんならできる」「信じてる」
その言葉で、俺は生き返った。
人は、言葉で壊れる。
でも、言葉で立ち直れる。
俺は、由美子さんの言葉に救われた。
窓の外を見る。
東京の夜景が広がっている。
タワマンからの眺め。
美咲が憧れていた景色。
でも、この景色を見ているのは、俺と由美子さんと子供。
美咲じゃない。
俺は、幸せだ。
本当に、幸せだ。
モラハラ妻と別れて、本当に良かった。
生きていて、良かった。
(第二話につづく)
お読みいただきありがとうございます。
この物語は全3話の構成です。
次は第2話、元妻・美咲の視点です。
「なぜ彼女はここまで夫を見下していたのか」「離婚後どうなったのか」
その転落ぶりを描きます。
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