9、どうしようもなく、心が揺さぶられた
馬車での移動は、驚くほど揺れが少なく快適だった。
それに、時折ルキウス様がそっと手を握り、静かに力を送ってくれる。
「......ありがとうございます」
「預かっている身だ。倒れられても困る」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その手は温かい。
胸の奥が、じんわりとほどけていく。
――こんな感覚、知らない。
「ふふ、ルキウス様は本当に優しいですね」
「……そういうつもりはない」
「......ふふ」
言葉がなくても、心地よかった。
このまま時間が止まってしまえばいいのに、とさえ思う。
やがて馬車が止まる。
静かな森の中。
木々の間から、やわらかな光が差し込んでいた。
美しい――けれど、なぜか胸の奥が微かにざわつく。
ルキウス様に手を引かれ、馬車を降りると、澄んだ空気が肺いっぱいに広がった。
「......空気が、気持ちいいですね」
「王都とは違うだろう」
「はい。家に閉じこもることが多かったので……空気だけで、こんなに心が軽くなるなんて」
そう言うと、彼が小さく息を漏らした気がした。
「本番は、ここからだ」
次の瞬間、視界がふわりと揺れる。
身体が宙に浮いたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
「ル、ルキウス様……っ! わ、私、歩けます……!」
「湖の周辺は足場が不安定だ。君には危険だろう」
有無を言わせぬ口調だった。
……いつの間にか、随分と過保護になっている気がする。
けれど、転んで泥だらけになる自分を想像して、何も言えなくなった。
「......よろしく、お願いします」
「ああ、そうしていてくれ」
横抱きにされたまま、木々の間を進んでいく。
言葉はなかったけれど、不思議と落ち着いていた。
そして――木々が途切れた、その先に。
「ル、ルキウス様......」
「ん? どうしたんだ」
言葉が、続かなかった。
目の前に広がっていたのは、陽光を受けてきらきらと輝く、大きな湖。
前世でも湖を見たことはある。
けれどそれは、遠い記憶でしかない。
今の私は、リリアーナで。
長い間、世間から切り離されて生きてきた。息苦しさを抱えたまま、閉じた世界の中で。
だからこそ――
この光景は、あまりにも眩しくて。
どこまでも広がる景色に、どうしようもなく心が揺さぶられた。
「……世界には、こんなにも美しい場所があったのですね」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
悲しいわけじゃない。
ただ、心が追いつかなかっただけ。
「君は……本当に、大袈裟だな」
「えへへ。でも……見てください。とても、綺麗です」
ルキウス様はしばらく何も言わず、私を見つめていた。
そして、ぽつりと。
「……ああ」
低く、静かな声で。
「――美しいな」
その視線が、湖に向いていたのか。
それとも、別のものを映していたのか。
湖を見つめたままの私には、知る由もなかった。
***
同じ頃、とある屋敷にて。
ひとりの女性が、新聞を手にして呟いていた。
「え......? ルキウス殿下と、リリアーナ様が......婚約......?」
その声は、驚愕に満ちている。
「どうして……? 私、そんな話……知らない……」
「だめ......そんなの、だめだわ......!」
彼女は勢いよく立ち上がった。
「こうしちゃいられないわ。早く......彼に会わなきゃ」
決意を帯びたその声は、
誰にも聞かれることなく、静かに空気に溶けていった。
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