30、紙切れひとつで、あっけなく
目を開けると、視界に広がるのは、いつもの見慣れた景色だった。
いつもの匂い。見慣れた家具に、柔らかな絨毯。
(……私の、部屋)
安全なはずの場所。
なのに、胸の奥がひどく冷える。
ちゃんと話せていない。
何も伝えきれていないまま、ルキウス様の異能で送り返された――
その事実が、遅れて胸に突き刺さった。
……拒まれたのだ。
喉が、きゅっと鳴る。
「…………」
何か言おうとして、声が出ない。
代わりに、視界の端が滲んだ。
「……っ」
堪えようとしたのに、だめだった。
熱が、目に集まる。
瞬きをした瞬間、ぽたり、と雫が落ちる。
「あ……れ……」
頬を伝う感覚が、はっきりわかる。
「私……泣いて……?」
指先が震えた。
さっきまで、あんなにも強く掴まれていたはずの腕が、今はひどく軽い。
――あの手は、もう、ここにはない。
そう思った途端、堰が切れた。
「……っ、……っ……」
声を殺しても、涙は止まらない。
離れたほうがいいと、何度も考えた。
これが正しい選択だと、自分に言い聞かせてきた。
それなのに。
「……こんな、終わり方……」
望んでなんて、いなかった。
そのとき――
ひらり、と視界の前に白いものが落ちてきた。
「……?」
床に落ちた紙を拾い上げ、震える指で文字を追う。
――婚約破棄。
一瞬、息が止まる。
「……ルキウス、様……」
言葉も、説明も、何もない。
ただ、この紙だけが送られてきた。
「……本気、なのね」
呟いた声は、驚くほど小さかった。
涙で滲んだ視界が、さらに歪む。
これは、私が始めたこと。
私が、彼を突き放した結果だ。
逃げることは、できない。
ふらつく足で机に向かい、椅子に腰を下ろす。
ペンを握る指に、力が入らない。
それでも、名前を書いた。
(……ああ)
たった一枚の紙で、
あんなにも近かった人との関係が、終わってしまう。
「……早すぎるわ……」
呟きは、誰にも届かない。
身体は、不思議なほど軽い。
ルキウス様の異能のおかげで、体調は嘘みたいにいい。
なのに――
心だけが、今にも張り裂けそうだった。
その時。
勢いよく、ドアが開いた。
「リリー!」
聞き慣れた声に、肩が跳ねる。
「ここにいたんだな……! 王宮に迎えが来たのに姿がなくて、捜索したと聞いて驚いたんだぞ……!」
兄はそう言いながら部屋に入ってきて――
途中で、ぴたりと足を止めた。
「……リリー?」
私の顔を見て、目を見開く。
そして、視線がゆっくりと、私の手元へ落ちる。
「あ......」
書類に、兄の視線が留まった。
「お兄様......っ」
声が震えた。
「……何も言わなくていい」
兄は、静かにそう言った。
「辛かったな、リリー」
その一言で、堪えていたものが崩れ落ちた。
「――――っ」
喉の奥から、声が溢れる。
「うわあああん……!」
私は、この時初めて――
誰かの前で、声をあげて泣いたのだった。
ずっと長生きするために行動してきたのに、もうそんなことは考えていなかった。
それよりも、本当はルキウス様と離れたくなかった。
その思いが鋭く突き刺さる。
離れた方がいいと、伝えたのは自分なのに。
(私、本当にルキウス様が......好きだったのね)
そんな風に思う資格なんて、私にはないのに。
次回、ルキウス視点です。




