16、婚約を、破棄しても構わない
「……ル、ルキウス様……」
木の影から姿を現したのは、ルキウス様だった。
胸が、ひくりと跳ねる。
――聞かれて、いたのだろうか。
セラフィナとの会話。
あんなふうに、彼を否定するような言葉を。
もし耳にしていたのなら、傷つかないはずがない。
「すまない……話を聞くつもりはなかった」
そう言って、ルキウス様は視線を逸らした。
「だが……君が倒れてしまわないか心配でな。つい、後を追ってしまった」
その声音は、どこまでも静かで。
責める色など、欠片もなかった。
あるのは、淡々とした声音と――私を気遣う気配だけ。
その事実が、胸を締めつけた。
「そんな……私のために……」
謝る言葉しか、見つからなかった。
沈黙が落ちる。
噴水の水音だけが、遠くで響いている。
――何か、言わなければ。
無能王子と蔑まれ、心ない噂を向けられ続けてきた人だ。
慣れてしまったのかもしれない。
……それでも。
傷つかないわけが、ない。
「ルキウス様……」
意を決して、口を開く。
「前にも言いましたが……私は、ずっとそばにいますから」
彼の目が、はっと見開かれた。
けれどすぐに、その瞳は苦しげに歪む。
「だが……君は、世間を知らない」
低く、抑えた声。
「俺と婚約してから……色々な噂を聞いただろう。俺が、どういう男かも」
「……いいえ」
即座に、首を振る。
「私は、自分の目で見たものを信じます。噂なんて……知りません」
一歩、距離を詰める。
「ルキウス様は……優しいです」
彼が、わずかに息を呑んだ。
「それに……」
私は、少しだけ無理に笑ってみせる。
「私のこと、監視する必要があるのでしょう? それでいいじゃないですか」
「監視……そうだったな」
自嘲するような声。
「……君と過ごした時間は短い。それでも、君が軽々しく秘密を漏らすような人ではないと……理解している」
そして、静かに。
「……婚約を、破棄しても構わない」
その言葉に、胸がぎゅっと縮む。
――だめ。
それだけは、だめ。
「ねえ、ルキウス様……」
声が、少し震えた。
「そんな、ひどいことを言わないでください」
一歩、踏み込む。
「私、最初に言いましたよね?」
彼の顔を、真っ直ぐに見つめる。
「あなたのことが……好きだって」
「……いや……だが、それは……」
「目を逸らさないでください」
必死だった。
離れられない。
離されたら、私は――生きていけない。
だから。
「すきです……!」
思わず、声が大きくなる。
「一緒にいてください……!」
――なんて、ずるい言葉だろう。
本心と打算が、絡み合った告白。
自分でも、その境界がわからない。
一瞬の沈黙。
彼は目を見開き固まっていた。そして小さく、息を吐く。
「……ああ」
その一言で、全身から力が抜けた。
この時の私は、何が本心なのか、わかっていなかった。
生き残るための言葉だったのか。
それとも、すでに彼に惹かれていたのか。
――ただひとつ確かなのは。
彼のそばにいるために、
この言葉しか、思いつかなかったということ。
後になって思えば、それはとても残酷だった。
自分の気持ちも定かでないまま、「好き」だなんて――。
けれどこの時の私は、それが正しいと信じて疑わなかった。
離れたくない。
ただ、その一心だった。
この言葉を、いつか後悔することになるなど。
この時の私は、想像すらしていなかった。




