1. 世界の約束
アスファルトを包む雨上がりの水面。写し出される雑多なネオン──。満月──。そして強張る私の眉間──。そんなものを気にしている暇はない。磨きをかけたピンヒールに厚手のリップ。誰もいない夜中の商店街でそんな身なりだからといって、熱いデートを楽しみたいわけじゃない。
研ぎ澄まされた第六感が、今か今かと待っているだけだ あの忌々しい〝吸血鬼〟が私の首筋目掛けて盲目に跳んでくる無様な姿を。
「名付けて『水々しいJKひなり、囮になっちゃえ作戦』!!」
「・・・」
気持ちいい風が事務室を抜ける。春の香気が彩ったホットココアの湯気を見ると、恋する女の子を無償に応援したくなる。こんな清々しい日に、まさか幼少から私を世話してくれたルナちゃんが、この私を危険に晒す作戦を立てるはずがあるまい!
「何か言いなさいよひなり。」
さほど似合っていない丸眼鏡に不機嫌そうな瞳が映る。
「ルナちゃんって、なんかズレてんだよなぁ。」
「あたしは技術担当の天才肌だから。あたしの開発したガントレットをつけたら、吸血鬼なんて一網打尽よ!なんせ吸血鬼が嫌いな〝太陽の周波数〟を放出する刃が仕込んであるんだから。それとも何?これ程精巧な武器を身につけておきながら、怖くて戦えないってわけ?」
「うるさい!」
吸血鬼が怖い?まさか。奴らへの憎しみが沸々と湧いてくる。
十年間、奴らを殺して殺して殺しまくる瞬間だけを夢見て、生きてきたんだ。そのために特訓だってしてきた。今更何を怖がる必要があるんだ。
「やってやるよ。奴らを誘き寄せて、このガントレットで切り刻んでやる。」
──数年間かけてとある吸血鬼の情報を探し出し、ようやく生息域の特定までできた。だけどどうしても、吸血鬼本体に接触するには及ばなかった。どうにかして誘き出さなきゃいけない中、私を囮にするだって!?奴らは女や子どもの血が大好物な上、若ければ若いほど興奮するそうだけど、よりによってなんで私が──。
いやダメだ。思い出せ。奴らへの憎しみを。私たちがされた仕打ちを。怖くはない。そうだ、私は怖くない。集中して、ただこの商店街を歩き、吸血鬼が来たら不意をついて喉元を掻っ切ればいいだけだ。
第六感を研ぎ澄ませて待つんだ。あの忌々しい吸血鬼が私の首筋目掛けて盲目に跳んでくる無様な姿を。
雑居ビルに挟まれた多湿な裏路地から、微かな物音が聞こえる。奴が来やがったか!?急上昇する心拍数が、強張った身体を音のなる方へ捻らせる。
──いや違う、ただのネズミだ。これのどこが美しいんだか。
今度は雑居ビルの屋上から微かな物音が聞こえる。まるで鳥の羽ばたくような、風を仰ぐ音と一緒に。次もどうせ、カラスか何かだろう。だが今の私は吸血鬼ハンターだ。一瞬の変化も取り逃すと命取りになる。目を合わせるように音を見上げる。
──やはり、カラスだ。世界を見透かす満月を背に、羽ばたいている。
しかし、最近のカラスはやたらと羽根が大きい。まるでコウモリのように風を受けるマントが、段々と近づいてくる。近づいてくる──。大きい。あまりにも大きすぎる!
その瞬間、煌々と満月に照らされたソイツの顔が見えた。尖った耳──。青白い肌──。血走った目──。肉食獣のような犬歯──。ヨダレに塗れて、憎たらしく嗤いながらこちらを目掛けて落下してくるアイツは、間違いない。吸血鬼だ!!
まずい。瞬時に殺さなければ勝ち目はない。即座に、忍ばせたガントレットから太陽の周波数を帯びながら発光する刃を取り出した。
気色の悪いコウモリ野郎め!腹の奥に忍ばせておいたありったけの憎悪と共に、奴が私の元にくる瞬間を狙って刃をぶん回してやった。太陽の周波数を帯びた閃光の刃が、まるで鞭を振るうかの如く鋭い音を立てながら、獲物へと切り込んでいく。
だがダメだ──。刃は奴の首に当たることなく僅かにズレて、奴の左肘から下を斬り落とした。吸血鬼は何世紀ぶりかの驚愕した表情を見せながら地面に落下した。
首を落とせていない──。奴は生きている──。しまった!しくじった!
いや待てよ──。そんなことはない。吸血鬼の腕を斬り落とせたんだぞ!?そうだ、私は十分やってみせた。人類を食い物にする化け物に一刃報いてやったんだ!勝てる──。このガントレットがあれば、絶対に勝てる!!地面に立ち込める煙の中から、左腕を無くした無様な化け物がこちらを睨みつけてきた。
「太陽の周波数を刃に仕込むとは・・・。大した技術力だ。」
コイツ──。一丁前に人間らしく知識を垂れていやがる。せいぜい、最期の会話を楽しむといいさ!奴は続けて憎たらしい口を開いた。
「お前まさか〝黒雨〟か?」
片腕を失っているくせに、私を見透かすような嘲笑顔で何か言っていやがる。黒雨?何だそれは。化け物の言うことは分からない。そんなものに構っていられるか。今の私は十年ぶりに「ハツラツ」とは何かを味わっているのだから!
切り刻んでやる。波打つアドレナリンが、全身の血流を押し流す。覚醒を迎えたこの身体はピンヒールなどものともせず、奴の首筋を狙う。まずは一発──。二発──。三発!自分でも追いつけないほどのスピードで刃を突き動かす。
おかしい!なぜ一発も当たらないんだ!それどころか、奴は異様に口角を上げている。
「いや違うなァ。〝黒雨〟してはあまりに弱すぎる。」
その瞬間、腹に何かが添えられた。奴の折り畳まれた左脚──。まずい!これは蹴りの体勢だ。だが脳が理解した時には、すでに手遅れだった。空間が歪むほどの圧力──。気づいた時には何メートルも先に吹き飛ばされ、コンクリートの壁に打ち付けられていた。
頭がクラクラしてくる。生温かい液体が頬を伝うのが分かる。まさか、この私が出血しているのか。思考が死んでいくのと同時に奴の言葉が頭蓋骨を何度も何度も跳ね返る。
「〝黒雨〟にしては、あまりに弱すぎる。」
弱すぎる──。弱すぎる──。手足が痺れるほどの怒り。吸血鬼に対する。己に対する。なんだこの結果は──。私が驕り高ぶったとでも言いたいのか!?
革靴がアスファルトを蹴る音が近づいてくる。
「科学に依存し己を顧みない愚かさよ。正義か見栄か首を突っ込み、無様に朽ちる滑稽さ。いつの世にもいる。」
私の上にまたがり、残された右手から生えた鋭く長く、ドス黒い爪を構える。
「目障り極まりない。失せろ。」
侮っていた。殺される──。奴の爪が鋭く私の頸動脈に吸い込まれてくる。
そう思っていた。その時、激しい閃光と共にビーム状の光が私と吸血鬼の間を通過した。思わず仰け反りながらも、光を完璧に回避する吸血鬼が見える。光の出所を睨みつける奴のこめかみには、激しく脈打つ血管が浮き出ている。私も半目で奴の視線を追った。
「ひなりに手を出すな!」
目の前が真っ白になった気がした。私のみぞおち程の背丈に生意気なツーブロックのスポーツ刈り。なぜか小洒落たカーデガンに半ズボンを穿いた少年。間違いない──。
「アキ!!ここで何してんの!?あんた相手が誰だか──。」
「分かってる!でも僕は男だ!例え相手が吸血鬼だろうが、ひなりを一生守り抜くんだ!!」
アキ──。小さい頃から慕ってくれるけど、どうして助けにきた!?教えてないのにどうやって吸血鬼のことを知った!?その武器はルナちゃんが開発したレーザー付きガントレット──。何で持ってる!?
「ナメやがって。」
突如全身の骨が振動した。これまでの二倍も三倍も低い重低音を吸血鬼が発した。
「この下僕共がァ!!絶望すら生ぬるいと思え!!!」
マントルまで到達する勢いの雄叫びが耳をつんざく。
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なんだ?何処か懐かしい風が吹く。
その時、私もアキも、吸血鬼すらも気が付かないうちに、細く白く美しい人差し指が闇より伸びてきた。人差し指は全く無駄な軌道を取ることなく、一点に吸血鬼の眉間へと吸い込まれていく。
何故かカラスの羽が重苦しい空間を舞っている。真っ黒だ。この世の裏側のように真っ黒だ。そんなものを疑問に思う間もなかった。
「悪いがちょっと、足をどけてくれるかい?」
人差し指の持ち主が吸血鬼に声をかけた。徐々に視線を上げていくと、黒い仮面を付けた男が立っている。フードを被るが、隙間から長い黒髪が垂れている。黒を基調としたレザーのジャケットに、末広がりなフレアのパンツ、ハイヒールのブーツが目立つ。
彼はふわりと浮くように軽く、吸血鬼の眉間に人差し指を当てている。
何故、吸血鬼は動かないんだ?吸血鬼の表情を見ると、冷や汗をかき、丸くなった目が戻っていない。
違う。動こうとしても動けないのだ。私では認識できないほど高次元な攻防が行われているに違いない。僅か数秒の沈黙が、永遠に感じた。暑さを取り戻すように、吸血鬼が重苦しい口を開く。
「きッ・・・・貴様が〝黒雨〟か!我が同胞を殺して回れるわけだ」
黒雨?吸血鬼が先ほどから口にしていた言葉──。この人の通り名だったようだ。しかしこの人は吸血鬼を殺して回っているのか!?そんなことができるのか!?いや、人差し指一本で吸血鬼を牽制し、その実力を理解させるほどの圧倒的オーラ。
この人なら可能かもしれない。
彼は人差し指を吸血鬼の眉間から外し、こちらを振り向いた。私に手を伸ばし、仮面越しに微笑みかけているように思える。初対面の人と触れ合う性分ではないが、何処がノスタルジックな香りを漂わせる彼の手を取り、再び大地を踏み締めることにした。
だがその瞬間、彼の肩越しに圧倒的な殺意が押し寄せてきた。憎悪が頚椎を駆け抜け、地の底へ叩き落とされるような恐怖が、本能で私の足を震わせる。
ダメだ──。やっぱり殺される!奴は地面を蹴る爆音と共に、私を蹴り飛ばしたことが可愛いと思えるほどの速度で、襲いかかってきた。
「う・・・後ろ!」
私が思わず情けない声で警告する──必要はなかった。
「明和流初段。〝天照〟正拳中段突き。」
まるで心の声が漏れたかのように、彼が小声で呟いた。その瞬間、彼の右腕が激しい閃光と共に吸血鬼の腹を貫いた。それから僅かに遅れて、「ドゴォン!」という音が、雷のように神経を走った。
この閃光は見慣れている。ルナちゃんが開発してくれたガントレットに仕込んだものと同じ、太陽の周波数だ。だが、私たちのガントレットとは明らかに違う。それは、彼が武器を使用して閃光を発したのではなく、彼自身の右腕が内側から発光しているということだ。
吸血鬼は抜け殻のように脱色していき、いずれ塵となって大地へ帰した。
「う・・・うそ・・・・・。」
私の意図しない言葉が、声帯を通して溢れ出た。あまりに奇々怪界。現実とは思えない。だが何故だろうか、妙に落ち着いている。「呆気に取られる」とはこのことだろうか?
「ひなりぃ!!大丈夫だった!!?」
アキが抑えていた鼻水を撒きながら私に抱きついてきた。アキの存在をすっかり忘れていた。でもごめんね。あんたのことは後回しだ。呼吸も忘れ、〝黒雨〟を探した。だがどれだけ首を回したところで、彼は現れない。
黒塗りの羽が宙を舞う。彼の姿はもうない。残されているのは、一件落着のハッピーエンドに相応しくない哀愁だけだった。
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左のポケットに妙な違和感がある。何だろう──。考える前に手を突っ込み、取り出した。一枚の・・・・紙──?何か書いてある。
時代が来た
これは小説ではない
まだ見ぬあなたへ言伝です
思い出のうちにあなたはいない
木漏れ日の午後の別れのあとも 消して終わらない世界の約束