頬色の情熱
月曜日の午後、予定されていた補習が急に休講になった。早く帰れると知っても、すぐに家へ向かう気になれなかった。ふと気づくと、足は自然とレトロ通りへと向いていた。冷たい冬の風が街角をすり抜け、コートの裾をそっと揺らした。
通りに差し掛かった時、ふいに見慣れた横顔が視界に入った。
椿だった。
彼女は小さな雑貨店のガラス扉を押し開け、出てきたところだった。
──どうしてここに?
椿の通学路はまったくの反対方向だ。この通りで彼女の姿を見るのは初めてだった。
僕は思わず軽く駆け寄り、彼女の名前を呼んだ。
「椿さん。」
彼女の足がぴたりと止まった。遠くから、港の汽笛が静かに響いてきた。
「前に言ったよね。僕が情熱を持っていることが分かったら、教えるって。」
椿は振り返るまで少し間を置いた。そして、ゆっくりとこちらを見つめ返した。
「そ、そう……だったな。お前は約束を守る側の人間だったようだ。」
少し意地を含んだ口調。でもその瞳の奥には、微かに揺れる何かがあった。
「ははは、厳しいね。もちろん守りますよ。守れる約束ならね。」
椿の表情が、何かを思い出したようにふと変わった。
「そうか……そうだな。あの時のお前は、必死に約束を守ろうとしていた。……わかった。それで、お前の“情熱”はなんなんだ?」
約束……?
彼女の瞳を見て、ようやく理解した。椿が「約束」と言った瞬間、一年前のあの日が胸に蘇った。
でも……彼女が「約束」とだけ言って、迷いなくあの出来事を思い浮かべていたことに、僕は驚いていた。
僕自身ですら、その言葉でそのことを思い出すこともなかったのに。
ああ、彼女は、ずっと気にしていたのか。僕があの日をどう過ごすのかを。
今、この時期に彼女が観望会を企画した本当の意味を、僕は初めて理解した気がした。あの日の続きを――僕がまだ向き合えずにいる何かを、椿は取り戻させようとしていたのだ。
納得が胸の中で静かに広がるのを感じながら、僕は彼女に向き直った。
「……あの日、『情熱がない』って言われてから、考えたんだ。なんでそんなこと言ったんだろうって。君はいつも偉そうなことを言うけど、実は誰にでも優しいこと、僕は知ってる。」
街灯がひとつ、ふたつと灯り始め、石畳を温かく照らしていく。
「去年のクリスマスイブ、僕は叶わぬ約束を守って公園でひとり待ってた。……そんな僕を、君が迎えに来てくれた。星を見に来た、なんて下手な言い訳をして。」
そのときの椿の歩き方も、言い方も、はっきりと覚えている。
「それ以来……僕は君と話すのが、楽しみになってた。君をからかいながら話すのが、楽しくて仕方なかった。」
椿はしばらく黙っていた。そして、視線を静かにこちらへ向けた。
「それで、何が言いたいんだ?」
問い返す声が、少しだけ震えていた。
「君は、きっと僕の気持ちに気づいていたんだと思う。だから、あの日、君が僕に『情熱がない』って言ったのは──」
「僕が君に対して持っている情熱に、気づいて欲しい。もっと、目を向けて欲しいって……そういう意味だったんだろう?」
街灯が連なって灯りを放ち、椿の表情を柔らかく浮かび上がらせていった。
「……そ、そうだ。お前の表情から、お前の好意には気づいてた。」
椿の声は微かに震え、その頬には淡く朱色が差していた。
「……椿さんのことだから、もっと確信があるのかと思ってたよ。」
「わたしも……お前と話すと、いつも胸が熱くなる。偉そうに振る舞ってる私の話を、ちゃんと聞いてくれるのは……お前だけだ。」
椿は静かにそう言うと、ゆっくりと視線を落とした。
その顔には、先ほどまでの強気な表情とは違う、弱々しい陰りが滲んでいた。
日が暮れて、通りの灯りが一層輝きを増していくなか──
椿の姿が、まるで光と影の狭間に溶けていくように見えた。
「それなのに、お前に『情熱がない』なんて……なんて酷い言葉を……。
わたしは……、私は人の感情も理解できない、本当に最低な女なんだ。お前に好かれる価値なんて、ない。」
椿の言葉は、責めるようでいて、自分自身を切り刻むようだった。肩がかすかに震えていた。まるで、自らを嫌わせることで、傷つくことから身を守ろうとしているようだった。
彼女は、怖いのだ。嫌われることに。否定されることに。そして、何より、自分の弱さを認めることに。
僕はそれを、ずっと前から感じ取っていた。強く振る舞いながら、どこかで不安げに他人の顔色をうかがっていた彼女の姿を、何度も見てきた。
「そんなことないよ。そのおかげで、僕は自分の気持ちに気づけたんだ。」
僕が言うと、椿は首を振った。
「違う……私は勝手に、お前が私に好意があるって思い込んで、プレッシャーをかけた。お前はそれに負けて、あんなこと言っただけだ。気づいたとか、そんなの嘘だ。確信なんてなかったんだ。私はバカだ……いつもそうだ……素直になればよかったのに、自分を守るために偉そうにして……」
言葉が次第にかすれていく。冬の空気が深く沈む中、ガス燈の光だけが通りの輪郭を保っていた。
彼女は、ずっと自分を許せないでいる。たぶん今も──。
このままだと、彼女は自分自身をどんどん嫌いになっていく。僕が、早く言わないと。
彼女が彼女自身を嫌いになってしまう前に。
「椿さん、僕は君のこと──」
「だ、だめだ。最後は私が言う。素直になれない私なんて、もう要らない!」
僕の言葉をさえぎり、彼女は声を震わせながら言い切った。
「私は、知ってる……私は、その辺の男には惹かれないんだ。お前には……私が本気で惚れるくらいの価値がある。でもな! 私には、お前と付き合うだけの価値も資格もない。素直になれないせいで、お前まで傷つけて……。結局、私は可愛げなんてひとつもない。ただ偉そうなだけの女なんだ! お前だって、こんな面倒くさいバカな女と付き合いたいなんて、思わないだろ!?」
言葉が途切れると、しんとした空気が辺りを包んだ。張り詰めていた緊張が、一気にほどけていく。
「……ん?」
僕は肩の力を抜き、少し笑いながら言った。
「つまり、それって……一緒にいたいってこと?」
「ち、違う……!」
「でも、そんな言い方されたら、『そんなことないよ』って返すしかないよ。情熱については言わされたかもしれないけど、一緒にいて楽しいっていう僕の気持ちは本物だよ? そう、言ったでしょ?」
彼女は答えないまま、目をそらしていた。ガス燈が連なって灯っていく。通りが、少しずつ温かくなっていくようだった。
「椿さん、こんな時、普通なら素直に『付き合って欲しい』とか、『他に好きになってくれる人がいるかもしれない』とか、そんなこと言うんだよ。」
「そ、そんなこと。」
僕は小さくため息をついた。
嫌われたくなくて褒めたり、振られたくなくて質問したり、他の誰かに取られたくなくて黙っていたり──。
それで『素直になります』って、どこまで素直じゃないんだか。
「あぁ、もう。わかったよ。気持ちはよくわかった。付き合いますよ、椿さん。」
笑いながら、僕はでも真っ直ぐに、そう告げた。
たぶん椿は、自分の素直じゃないところも含めて、ずっと誰かに受け入れてほしかったんだ。
「なっ!? わたしは真剣に悩んだんだぞ。こんなんだから『情熱がない』とか言われるんだ。バカ。」
頬を赤らめながら、彼女は不満げに呟いた。
「ごめんごめん。椿さんのそんな素直じゃないところが、本当に可愛いんだ。」
その瞬間、遠くで鐘の音が響き始めた。
静まり返っていた街に、一斉にイルミネーションが灯り出す。
柔らかな光が街を包み、椿の表情を優しく浮かび上がらせる。
彼女は目を大きく見開いた。まるで、自分の性格を初めて認められたように。
「……僕も知ってる。プライドがバカ高いところとか、そのくせ優しくて純粋なところとか――ずっと見てきたんだから。」
……その言葉を口にして、ようやく僕は気づいた。
──本当は、ずっと前から彼女のことを見ていたんだ。
気持ちを隠していたのは僕のほうだった。
彼女の優しさに甘えて、何も言えずにいたのは、僕のほうだった。
「だから僕は、全部……全部受け入れますよ。そんな君のことが、好きでたまらないんだから。」
静かに、けれど確かな想いを込めて告げた。
椿は恥ずかしげに顔を伏せ、ちらりと僕を見上げた。木々の合間からこぼれるイルミネーションの光が、彼女の横顔を儚く照らし出す。
その静寂の中、椿は顔を伏せたまま、ゆっくりと僕に歩み寄った。
「椿さ─」
名を呼ぼうとした瞬間、彼女はそっと手を伸ばし、悔しそうにキスをした。
桟橋から駅へと続く通りのイルミネーションが、椿の頬を伝う涙を静かに照らすのが、見えた気がした。
【関連作品のご案内】
本作は別視点作品『偉そうな私、キレながらクリスマス観望会開きます。』とリンクしています。
『頬色の情熱と青』は【彼視点】から描く、静かで内省的な青春小説(文芸風)です。
『偉そうな私~』は【彼女視点】から描く、テンポの良いラブコメディ(ライトノベル調)です。
ぜひ2作あわせてお楽しみください。
偉そうな私、キレながらクリスマス観望会開きます。
https://ncode.syosetu.com/n6419kl/
※このあとに、あとがきがありますので、相互作品を先に読まれることをおすすめします。
【あとがき】
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
2作を通してこの物語の“全体像”に触れていただけたなら幸いです。
そして、すべてを読み終えたあとで、もしよければこの問いについて思いを巡らせてみてください。
──椿が迎えに来た“あの日”の少し前。
晴人は、どんな気持ちで、どんな言葉を彼女にかけたのでしょうか?
誰の記憶にも残らない一言が、誰かの一年を、静かに変えることがあります。
それは、きっとあなたのすぐそばでも──。