揺れない前髪
翌日、いつものように部室でぼんやりとしていると、椿が姿を見せた。
「今日は部活がないのに珍しいね」と軽くからかうと、「お前は頭脳明晰な鳥のようだな」と彼女は妙な例えを返してきた。
椿は教壇の前に立ち、片手に資料を持っている。いつもの自信に満ちた振る舞いだが、その表情にはどこか浮ついた気配が漂っていた。
「こちらは、ちゃんと顧問の承諾を得てきた。まぁ、事前の根回しもあって楽勝だな。それでお前の方はどうだ?」
「デザインは後輩が美術部の知り合いに頼んでる。文言はまだ考え中だけど、その辺のチラシと似たような感じでいけるでしょ。まず大事なのはデザインだからね。」
正直、いい加減な答えだったが、僕は何事もなかったかのように適当に流した。
「流石だな。行動が早い。文言は明日の部活で皆の意見を聞くのがいいだろう。現時点ではその程度がちょうどいいな。お前はなかなかできる男だ。」
予想外に褒められて、妙に気恥ずかしかった。
「よし、目処はついた。いつもありがとうな。」
「お、おう。」
さらりと伝えられた感謝の言葉に、僕はつい視線を逸らした。普段偉そうな椿だが、こういう節目ではきちんと礼を言う。ずるいと思いつつ、内心では少し嬉しかった。
すると突然、彼女の口調が微妙に変わった。
「そ、それでだな。お前に、ちょっと質問がある。」
声にわずかな震えが混じっている。握っている資料の端がかすかに揺れているのが見えた。
「何か用?」と僕は軽く返したが、その一言で椿の表情がほんの少し固まった。
「お、お前はどういう人間だ? どんなことに興味がある。」
唐突な質問だった。椿の瞳はまっすぐに僕を捉え、問いというより何かを確認しているかのようだった。
戸惑いながらも、僕はすぐに答えた。
「急に聞かれても困るなぁ。僕は椿さんみたいに優秀じゃなくて、普通の人間だね。興味はこれってのはなくて、いろいろ。椿さんはホントにすごいよねぇ。頭もいいし、天文部でも情熱的で。学年一の才女って噂もあるし。」
言葉を選んだつもりだったが、その奥にはわずかな劣等感が潜んでいたかもしれない。
椿の反応は、予想外だった。
「お、お前の興味はそんなものか!……ほんと、つまらない男だな。お前には情熱ってものがないんだ。」
突然の強い言葉に、僕は一瞬言葉を失った。
「そんなことないよ。僕も情熱を持って生きてるって。……どうしたの、急に?」
「本当にそうか? そうだといいな。だが、わたしにはお前の情熱が伝わってこない。」
椿の声は強く響きながらも、どこか寂しげだった。何か期待していたことが裏切られたような、そんな響きがあった。
「えっ、そうかな? どうすれば伝わると思う?」
戸惑いつつ問い返す。
「どうすればいいかだって?!」
椿の声が高く跳ね、抑えきれない感情が溢れ出した。
「そんなこと自分で考えるべきだ。お前が情熱を持っているとわかったら、私に教えるんだな。それで……これから話を続けられるかどうか決める。」
椿の頬が薄く赤く染まる。それは怒りなのか羞恥なのか、あるいは別の何かなのか、僕にはわからなかった。
「……は、はい。わかりましたよ。情熱を持っていることがわかったら、ちゃんと伝えますよ。」
素直に返したが、椿の言った「話を続けられるかどうか」という言葉が妙に胸に引っかかっていた。
「ふん。それじゃあ今日はこれで切り上げる。また今度、時間があるときにでも話をしよう。」
椿は振り向き、いつも通り揺れない前髪を揺らしながら部室を出ていった。閉じかけたドアの隙間から、外の木々が冬の風にざわめくのが見えた。
その夜、布団に横になりながら僕は天井をじっと見つめていた。
椿があそこまで感情を抑えきれずに声を上げるのは初めてだった。あの言葉にはただの怒り以上のものがある気がした。
彼女があんな質問をした理由は何だろう? 一体何を期待していたのだろう? どうしてあんなに苛立っていたのだろう?
明確な答えは出なかったが、ふと椿との思い出が浮かんだ。
僕たちが少しずつ親しくなり始めた頃のことだ。
たしか、去年の今頃だった気がする。