熱意の瞳
「おい、お前。」
静まり返った部室に、張りのある声が飛び込んできた。
椅子の背にもたれていた身体をゆっくりと回すと、扉の向こうに彼女が立っていた。胸元まで伸びた艶やかな黒髪。揃えられた前髪がきちんと額を覆い、わずかに大きい制服のブレザーが、彼女の幼さをより際立たせている。
「椿さんじゃないか。今日は天文部が休みなのに珍しいね。」
僕は机の上の教科書をぱたりと閉じながら答えた。
「珍しくもないだろう。……まぁなんだ。お前と話をしたかった。」
彼女はゆったりと部室の真ん中まで歩いてくる。革靴の音が静かな室内に響いて、空気が少しだけ引き締まる。
「僕は椿さんの暇つぶしの相手じゃないんだけどな。」
軽くからかうと、彼女の眉がわずかに動いた。怒りというより、拗ねたような表情だ。その顔を見ると、僕の心にふっと安心感が広がった。
椿は学年一の才女だ。成績優秀で口も達者だが、感情を隠すのは下手で、すぐに表情に出る。その不器用さに、つい目を奪われてしまうことがあった。
「大丈夫だ。今日は暇つぶしじゃない。お前に話したいことがある。」
彼女は机の縁に腰掛け、少しだけこちらを見下ろすような視線を投げかけた。
「うーん、僕には話すことがないんだけどなぁ。」
そう言いつつ、僕は鞄を少しずらして横に置き直す。長話になることを覚悟した。
「また、そんなことを言って。今回は重要な話だ。」
彼女がスカートの裾を指でつまんで整えながら背筋を伸ばす。その何気ない仕草が妙に印象的で、僕は思わず視線を逸らした。
「また、何か企んでる?」
「企んでるわけじゃない。お前、この部活の活気のなさ、嫌じゃないのか?」
「嫌じゃないってか、この活気のなさがいいんだよ。」
僕は椅子の背にもたれ直し、天井の蛍光灯をぼんやり見つめた。部室は今も僕ら以外誰もいない。聞こえる音といえば、窓の外で木の枝が風に揺れる音くらいだ。
「ふふふ、素直じゃないな。観望会にはいつも参加してるじゃないか。」
「まあ、せっかくだからね。」
口では適当に流しつつも、心の中では苦笑する。何も活動がない部活にいるのは嫌だが、将棋部や化学部のような賑やかなところも苦手だ。結局、この程よい静けさが僕にはちょうど良かった。
彼女は机の縁から滑り降りると、部室の前方にある教壇まで歩いた。振り返って両手を腰に当て、大きく息を吸い込む。
「そこでだ。部活活性化と部員勧誘のため、クリスマス観望会をやる。」
その姿はまるで、小さな演説を始めたようだった。
「はぁ? クリスマスにそんな地味なイベントやっても誰も来ないでしょ。」
「そんなことないぞ。クリスマスに星を眺めるイベントだぞ。ロマンチックじゃないか。」
自信満々な口調で、彼女の視線が天井の先へと向かう。その瞳には、まるで星空が映っているかのようだった。
「でかい望遠鏡で星をのぞくだけでしょ?」
無表情を装って答えたが、口にした直後に少し罪悪感を覚えた。屋上の観測ドームは学校案内の売りだが、実際には夜間の活動がほとんど許可されていない形だけの施設だ。
「そのでかい望遠鏡で星をじっくり観察して、二人で感想を言い合うんだ。しかも年に一度のことだぞ。こんな体験、他にない。私はすごく興奮するぞ。」
椿はそう言って教壇を軽やかに降り、長い髪を揺らしながら部室内を歩き回った。スカートをつまんで回る姿は、どこか夢見心地のように見えた。
……やっぱり、面倒なことになりそうだ。
「顧問が許さないんじゃない?」
牽制のつもりで聞いた。クリスマスの夜に学校でイベントを開催するのは現実的に難しいだろう。
しかし、椿は得意気な笑みを浮かべて即答した。
「それは、大丈夫だ。すでに打診して仮の許可は得てある。お前、知ってるか? あの顧問、娘が中学生で絶賛反抗期中だ。そこで中学生に見えるわたしが目を潤ませて頼んだら、いちころだった。まあ、単純に家に居場所がないのかも知れないが。」
椿は内ポケットから使用許可書を取り出し、ひらひらと誇らしげに見せた。
「ホント、どんなやり方してるんですか。」
僕は思わず苦笑をこぼす。顧問も顧問だが、彼女の交渉術にも舌を巻く。
「ふふふ、これも、わたしの魅力がなせる技だ。まぁ、別に脅しているわけでもないし、顧問も嬉しかったんじゃないか?」
彼女の顔に微かな優しさが滲んだのを、僕はこっそりと目を伏せてやり過ごした。
……とはいえ、この企画はたぶん成功しないだろう。少なくとも現状のままでは。僕の頭には、うつむく彼女の姿がちらりと浮かんだ。
それでも、もし僕がやるなら──。
「それよりも、学校の近くにある港で恋愛にまつわる星座の話をして、その後近くの山手の神社で星を見る方がロマンチックだと思うけどな。」
脳裏には、明治時代から残るレトロな街並みとイルミネーションの煌めく港が浮かんでいた。
椿が僕を見て、小さく口角を上げる。
「だめだな。港は人が多すぎるし、山手の神社は海峡の橋が明るすぎる。顧問の手前、高校のアピールも必要だ。まぁ、星座にまつわる恋愛の話は悪くないないな。」
否定されたが、不思議と嫌な気分はなかった。彼女が少しだけ僕の意見を取り入れてくれた気がしたからだ。
椿は満足げに言った。
「よし、準備をしよう。まず広報としてチラシを作る。担当はお前だ。」
僕は思わず目を見開いた。
「えっ、僕もやるの?」
「そうだ。お前は副部長だろう? それに“観望会の改善案まで考えてくれた”んだから、参加させないわけにはいかない。」
彼女の瞳には決意が宿っていた。
結局、僕はいつも通り椿のペースに巻き込まれていた。
「そ、それにな。どうせお前はクリスマス暇だろ?」
椿が唐突に付け加える。
「寂しく過ごすくらいなら、みんなで何かやったほうが楽しいと思わないか?」
当然と言わんばかりの表情で僕を見つめる。確かに、今年のクリスマスは暇だった。いや、去年もそうだった。胸の奥に、鈍い痛みがじんわりと広がった。
「……いやまぁ、暇だけどさ。」
言葉が微かに震えながら口をついた。その微妙な間を、椿はしっかりと感じ取ったようだ。
「よし決まりだな! わたしはもう一度、顧問と話をしてくる。また明日、部室で会おう。」
そう言うと、彼女は今日一番の明るい笑顔を浮かべて、くるりと踵を返した。制服のスカートが軽く揺れて、足音だけが静かに余韻を残した。
クリスマスまであと一ヶ月。イベントの準備期間としては短すぎる。けれど、不思議なことに椿の計画は着実に進んでいた。……いつも通り、結局僕は彼女のペースに飲み込まれているようだった。
窓の外を眺めると、校庭の木々が夕暮れの風にざわめいている。数枚の落ち葉が、グラウンドを滑るように横切っていった。
帰り道、レトロ通りを歩きながら、この一年の天文部での出来事をぼんやり思い返していた。
椿とは入部のタイミングが同じだった。入学直後の見学の時点から、彼女は先輩の説明に真剣に質問を投げかけ、その姿勢に先輩たちが戸惑うほどだった。
聞くところによると、彼女はもっと上位の高校にも行けたらしい。それでもこの高校を選んだのは、天文部があったからだ。ところが実際には、部活はほぼ幽霊部だった。彼女がどれほど失望したか、今なら少し理解できる気がする。
それでも椿は諦めなかった。活動を不定期から週一に変え、自らイベントを企画し、部員を巻き込もうとした。
……しかし僕を含め、ゆるさを求めて入部した同級生たちは、その熱量についていけず、徐々に部室から足が遠のいていった。
彼女は、自分の情熱が誰にも伝わらないことに、ずっと悩んでいたに違いない。
家に着いた頃には、すっかり夜の帳が降りていた。
靴を脱いで部屋に入り、ブレザーを椅子の背に掛ける。今日の椿との会話を反芻するたびに、小さな後悔が胸に積み重なっていく。
とりあえず、チラシについて考えよう。そう思ってパソコンを起動したものの、美術センスのない僕の頭はすぐに限界を迎えた。
ふと、後輩が美術部に知り合いがいると言っていたのを思い出す。
僕はスマホを手に取り、その後輩にメッセージを送った。