第九話
その日のある時点まで、少女にとっては比較的幸運な日々が続いていたと言える。
最近までは大分違う地域に住んでいたのであるが、新しく来た場所でも上手く馴染んで行けるのではという経験があったのだ。
大した事では無いかもしれないが、その後、異動先であった新しい部隊の面々との顔合わせはつつがなく終わり、むしろ友好関係が結べそうだなという予感すらしていた。
腫れ物を扱う様な事もされず、さっそく任された仕事に関しても、難易度は高く無く、一方で重要度もそれほど低く無い適材適所と言える仕事であり、今後、どれだけの事が出来るのかと正当に計られている。そんな状況であった。
だが、幸運は長続きしないとは言え、いきなり不運が襲ってくるのは何事だと思った。
偵察任務中。任された場所は化け物が発見された報告は少なく、あくまでしっかりと適切な動きが出来るかどうかを試されている、そんな任務の最中、乗っていたトラックが激しく揺れたのだ。
自分は助手席に座り、揺れてそのまま倒れたらしきトラックの中で、状況を把握するのには苦労した。
だが本当の不運はそこから始まる。何せ運転席側に居たはずの運転手が席ごと無くなっていたからだ。
すぐに化け物……ワニに襲われたのだと気づく。だってそのワニが何かを咀嚼しているのを見たからだ。
一体何を? そんな事を考える前に、少女はシートベルトを外して飛び出した。ワニが次の餌として少女を認識する前にだ。
だが、やはり不運は続いた。ワニは群れる化け物だという事は良く知っていたのに、その時は失念していたのだ。
いや、ぎりぎり、それが砂中より飛び出してくる前には気付けたが、その失態の対価として、足に怪我を負った。
切断までは行かないだろうが、鋭い牙が太もも近くを掠り、少し走った後に痛みに悶絶しそうになった。
(そのすぐ後、砂漠じゃ数少ない、隠れられる程度の岩を見つけられたのは幸運……幸運だよね?)
少女は自分に言い聞かせる。そうしなければ、恐怖と痛みでどうにかなってしまいそうだ。
岩のおかげでワニから身を隠せていると思いたい。しかし今の状況は、少しずつ自分に迫って来る死を、恐怖を担保に先延ばしにしているだけでは無いか。
(そんな事ない。そんな事無いはず。だってわたしは……)
前向きに生きようと思えたのだ。変わった環境の中で、それでも上手くやれそうと思えて来たのだ。
運なら……きっとまだ良いはずなのだ。
「けど……そんなのはきっと錯覚で―――
「見つけたっ! 生存者一名発見! って、あれ?」
運なら、確かに良かった。嘘でしょ? という運がそこにはあった。
自分が隠れている岩陰を覗く様に、化け物では無く、一人の少年が顔を見せて来たから。
「八加瀬くん……?」
「赤丸さん!? 嘘だろ。合流予定の偵察員って、君だったのか!?」
お互い、驚きながら見つめ合う。こういうのは幸運の範疇なのだろうか? いや、きっともっと、別な言い方があるはずだ。だから今はそれを、少女……赤丸・古野子は奇運と呼ぶ事にした。
「まあね、なんかすごい偶然ではあるけど、最近こっちに来たって言う君がうちの合流相手だったっていうのは納得する……するべきかな? とういう感じの思いはあるよ」
などと桃李は負傷しながら岩陰に隠れていた彼女、赤丸・古野子の応急処置を進めながら話しかける。
もっとも、止血くらいなら当人が既に行っており、桃李がやっているのは彼女の手が届かない範囲での、負傷部分の固定くらいだ。ワニの牙を掠めたであろう右足が酷く、良くまあこれで動けたなと思う程だった。
「こっちは驚きというか、申し訳なさというか、そういうのがあるよね、八加瀬くんには」
「なんで? こういう時に負傷者を助けるのはお互い様だよ」
逆に自分が追い詰められた時に誰も助けてくれないとなると困った事になる。故に桃李達みたいな戦争世代は、戦場での助け合いが基本だ。
「けど、こうやってお互いに追い詰められる事になってるし……」
「まあ、ここらはワニ連中の巣になってるみたいだね。最近になって縄張りを移動したみたいで、僕らは想定外の事態に陥ったって表現出来るかもしれない」
とりあえず状況的には、追い詰められていると表現出来るだろうか。桃李と赤丸は合流出来たが、トラックの運転役とトラックそのものは喪失してしまった。
客観的な状況を把握するなら、負傷者一名を抱えた状態で、桃李は敵が複数いる地点で立ち往生している事になる。
「重要なのは、この後に何をするべきかだ。まずここで隠れ続けるって選択だけど、君の足の怪我って、多分、長時間放置しておくべきじゃあない。早く本格的な治療をするべき怪我だ。さらに言えば、隠れ続けたって見つかる可能性もあるだろう。ここって、隠れ場所としては良い場所とは言えないからね」
岩陰をぐるりと見て回れば、簡単に見つかってしまう程度の場所。ワニ達はまだこちら側に来ていないものの、獲物の臭いを何時嗅ぎつけて来るか分かったものではあるまい。
「だから、これから言う二つ目の選択肢を僕は選ぼうと思ってる。と言っても、君を抱えて後方の基地に撤退ってだけなんだけどさ」
細かい作戦案すらない。ただワニを極力避け、出会えば仕留め、ひたすらに後方へ逃げるのみだ。
大丈夫。方角は見失っていないし、体力だってまだ温存出来ている。
「三つ目があるよ、八加瀬くん」
「何か妙案が?」
「わたしを見捨てて。少なくとも八加瀬くんは生き残る可能性が―――
「血生臭くって嫌だな、それは。僕と君とで意見が分かれたからそれは無しだ。僕の方が無事なんだから僕の判断が優先」
お涙頂戴も、誰かを見捨てるのも嫌だ。そんな重いものを抱えるくらいなら、目の前の少女一人を担いで砂漠を走り抜ける方が、余程足取りが軽くなる。
「け、けど……」
「死にたくないだろう? 赤丸さん」
「勿論そうだけど……」
「なら、生きようよ。少なくとも僕の方は毎日、生きようとはしてる。死にたがりじゃあない」
「……八加瀬くんって、そうなんだ」
意外そうな目で見て来る赤丸であるが、そんな目を向けられる事こそ、桃李にとっては意外だった。
世の中、生きたくないと思える人間の方が少数派だろうに。
「よし。こんなもんかな。足はどう? 痛みは我慢できる程度?」
「背負われて、揺らされたって、歯を食いしばれる程度には……かな」
上等な返答だった。彼女だって戦争世代。多少の痛みを耐えられる精神力と、生来からの特性がある。
「じゃあこれからここから逃げよう。僕が背負う事になるから、武装なんかは持ってれば置いて行って欲しい。もったいないけどね」
「理由は分かるけど、八加瀬くんの方は特に、コート以外の装備は持っていないでしょう? 大丈夫なの?」
「僕はほら、自分でそういうの用意出来るタイプの」
「ああ。確か……第73部隊って……」
「あれ? 結構こっちについて知ってる?」
赤丸の反応を意外に思う。彼女の納得は、桃李の特性より、所属する部隊の方に向いていたからだ。
「まあまあある程度は……そっか。じゃあワニについても、八加瀬くんはそこまで怖くは無いんだ」
「そうでも無いよっと」
言いながら、手持ちの武装を解除した赤丸を背負う。解除した武装は手投げ爆弾と単発式のライフル。戦争世代の武装としては一般的なもの。桃李みたいに重く分厚いコートを羽織ってもいない。どちらかと言えば軽量のプロテクターを付けている。
そっちは装備して貰ったままだ。そんなプロテクターごと、桃李は彼女を背負える。
「うう……」
赤丸の苦悶が聞こえるが、聞こえないフリをした。彼女が歯を食いしばる以上、心配するのは後回しにするべきだ。
「ワニは怖い。っていうか、インディ全般は怖いさ。だから逃げるんだ。全力で。行くよ、赤丸さん。もうちょっと我慢して」
足を曲げ、砂地へと押し付け、足場から一気に跳ねさせる。
疾走と跳躍が半々と言った走り方で、結構な速度を出せているはずだ。赤丸を背負ってはいるが、コートの重さを思えば誤差……みたいなものだと言う事にしておこう。
時と場合に寄れば、もっと重い装備で行動する時があるのも事実だ。
コートの機能を発揮させれば、自分に掛かる重さも緩和出来た。後はただ、砂漠の暑さを我慢するだけ。
いや、もう一つ課題があったか。
「八加瀬くん! 右!」
「了解! 悪いけど片方の腕は放すから掴まってて!」
背負う赤丸の腕が強くなるのを感じながら、桃李は赤丸が言っている方向に向けて腕を伸ばす。
こうやって派手に移動していれば、勿論、周囲のインディだって反応してくる。
現れるのはその中でもワニばかり。やはりここら一帯はワニの縄張りになってしまったらしい。
(それはなんでかって、今考えてる暇も無い……か!)
襲い来るワニも極力無視したいが、進行方向を塞いでくるのなら撃退する必要がある。
自由になった片方の腕を伸ばし、意識を集中させて黒い杭を発生させ……放つ。
「脳天直撃! 一発で仕留めると気分が良いね!」
「すごい……噂には聞いてたけど」
さすがに戦争世代。これをして怯えられないどころか感心されている。ところで噂ってどんな噂だろうか?
「あとでさ! 色々話をしようよ! お互い、まだまだ知らない事が沢山あって、それを知らないままで居るのは勿体ない!」
そう叫びながら、桃李は砂漠を駆け、ワニを仕留め、やはり後方の基地へと向かっていく。叫ぶ声は気楽なものだが、集中を切らさないための自身への発破でもあった。
ついでに、背負っている赤丸の元気にだって変われば良いのだが。
「八加瀬くんってさ……」
幾らか進み、ワニの襲撃が納まって来た頃、ふと、赤丸が言葉を漏らした。
「何? あと少しで後方基地だから、お腹空いたとかならそこで―――
「目、戦場だと鋭くなるんだね」