聖女とは何か知っていますか?
この世界の人間は、それぞれ自分に適した属性の魔力を持っています。
火属性、水属性、風属性、土属性。その四つより希少な光属性、闇属性。たいていの人間はこの六つの属性のうち一つ、稀に二つの魔力を持ってこの世に生を受けます。
魔力とは、魔法を使うために必要な力。
魔法により発展してきたこの世界、この国ではとても重要な力です。
こんな言い伝えがあります。
六つの属性、その全てに当てはまり、その全てに当てはまらない力を持つ者。
それこそが聖女であり、国に繁栄をもたらすであろう、と。
わたくしラーラニカは生まれつき、その“六つの属性、その全てに当てはまり、その全てに当てはまらない力”を有しておりました。
わたくしはネーヴェ伯爵家の第一子として生を受けました。父からは青い目を、母からは灰褐色の髪を貰いました。
父も、母も、とてもやさしい人でした。わたくしのことを第一に考え、たくさん愛してくださいました。
わたくしが初めてふしぎな力を使った時に、これはとても大事な力だから、おまえが心から信頼する人にしか見せちゃいけないよ、と教えてくださいました。
それでも、この力で人を助けたい、この力でなくては助けられないと思ったのなら、迷わず使いなさい、とも言ってくださいました。父様と母様が守るからね、と。
わたくしは両親のおかげで、この神から授かった特別な力を、両親のような優しい人のため使いたいと思いました。
とても、大切で、大好きな両親でした。
愛していました。
それでも、ある日突然、別れは来るものです。
わたくしの四歳の誕生日の日、両親は馬車の事故に遭い、この世を去りました。
両親にきょうだいはおりません。縁を辿って、わたくしは当時子のなかった遠い親戚のベルス伯爵家に養子として迎えられることになりました。以前、ベルス伯爵とは一度お会いしたことがあったらしいのですが、わたくしは幼く人見知りで、ベルス伯爵の顔も朧気にしか覚えておりませんでした。これから一緒に暮らすなら何度も遊びに来てくれた父の友人が良いと訴えましたが、父の友人は隣国に住む独身男性で、自国の貴族令嬢を任せるには不適切だと却下されました。
幸せだった日々は、わたくしの人生においては生まれてからの数年だけ。
ベルス伯爵夫妻はわたくしを引き取ってからすぐ、わたくしが新しい家に慣れる前に子宝に恵まれました。夫人によく似た男の子です。
伯爵夫妻がわたくしを迎える時に口にした、私達を本当の親と思っていいからね、という言葉は偽りで、跡取りとなる男児が生まれてからわたくしは邪魔者として扱われ、不満や怒りの捌け口に使われるようになりました。誰のおかげで生きていられると思っているのだと、何度も鞭で叩かれました。
わたくしは、それでも寝床があり、衣服があり、食事があることが幸運だと思うようにしました。
少し背が伸びて、メイドと同じような仕事をさせられるようになった九歳のある日。買い出しに行かされた街の中で、荷車を引いていた馬が興奮して暴れ出すという事件が起こりました。暴れ馬に蹴られては怪我ではすまないかもしれないと思うと、大人たちも簡単には手が出せません。そこへ、転がったリンゴを追いかけて、わたくしよりも少し小さい男の子が飛び出してきました。
わたくしは、両親の言葉を思い出しました。
わたくしだけの魔法を使って、子供を守り、馬を落ち着かせました。どの属性でもないその魔法を、大人たちは不思議そうに見ていました。
わたくしは、冷静ではありませんでした。
両親からは、信頼できる人にしか見せてはいけない魔法だと言われていました。使っていいとも言われたけれど、その後には、私たちが守るからと続いていたのです。もう、守ってくれる両親はいないのに、わたくしは魔法を使ってしまったのです。
わたくしは混乱して、すぐにその場を去りました。わたくしに冷静さのひとつでも残っていたのなら、その場にいた全員の記憶を奪うなりできていたでしょう。わたくしの力は人が思いつくおおよそを叶えることが出来るのですから。
一年後、ベルス伯爵に教会に連れていかれ、わたくしは“聖女”になりました。あの日、あの騒ぎを見ていた誰かが噂をし、噂を聞きつけた伯爵家の誰かが報告したのでしょう。
わたくしは、邪魔者から、ベルス伯爵家のための道具になりました。
第二王子との婚約がわたくしの意志とは関係のないところで結ばれたときに、嬉しいだろう、喜びなさいと目で訴える伯爵を見て、わたくしはそう気付きました。
婚約。夫婦になるということです。
わたくしの両親は愛に溢れていました。ベルス伯爵夫妻も、わたくしには冷たいですが、夫婦仲は良好です。
わたくしも、フレードリヒ第二王子殿下とそうなれるでしょうか。夫婦があたたかいものならば、勝手に結ばれた婚約でも、今よりも少しだけ幸せな気持ちになれるかもしれません。
そう思っていましたが、初めてフレードリヒ殿下と顔を合わせたときに、それは無理なのだと思い知らされました。
「泥と灰にまみれた、薄汚れた頭」
母譲りの髪を、殿下はそのように侮辱されました。
わたくしと殿下が分かり合うことはないのでしょう。
しかたがないことだ、とわたくしは運命を受け入れました。
わたくしにとってこの婚約が望まぬものであるように、殿下にとってもそうなのでしょう。この国の王子として、国に繁栄をもたらすとされる聖女と繋がりを持っておかなければなない。もしかしたらいつか、わたくしの父にとっての母のように、ベルス伯爵にとっての夫人のように、まっすぐ愛を伝えあえるような相手と出会えるかもしれないのに、わたくしとの婚約によってその機会を奪われる。そう考えると、王子殿下も可哀想な人なのだと思いました。
わたくしは、期待することをやめました。ベルス伯爵夫妻に、義弟に、婚約者たる第二王子殿下に、使用人たちに。
言葉を交わすことを諦めました。
聖女信仰を掲げる教会の人も、善人の顔をした街の人も、貴族も、王族も、わたくしを人として扱ってはくれません。聖女の苦痛は、天より課せられた試練なのだそうです。
道具としての自分を受け入れました。淑女として、王子の婚約者として、聖女として、良いように扱われるのが天命なのだと思うようにしました。期待するのは、疲れるし、痛みが伴います。道具には不要で、無駄なことなのだと思います。
あの優しくて暖かい両親のもとに生まれることができたのは、これから先の人生を道具として全うすることになるわたくしへの慈悲だったのでしょう。
十五歳を迎え、わたくしも学園に通うことが許されました。
貴族に生まれた子供は皆、この学園で学問や魔法を習います。基礎的なことは王子との婚約が決まってから家庭教師に叩き込まれ、魔法に関しては習うまでもなくこの身についているので、不要といえばそうなのですが、伯爵家から離れ寮で暮らすのは少しだけ息がしやすいような気がします。
同い年である第二王子殿下もこの学園に通われています。
わたくしが聖女であることも、第二王子の婚約者であることも周知されていますので、いらぬ噂をされぬためにも交流をしておかなければと王子に近付きますと、案の定睨みつけられ、野良犬を追いやるような仕草であしらわれました。
自分よりも身分が上の方にそうされては、もうこちらからはどうすることもできません。王子殿下がそれでいいとおっしゃられるのですから、王家と聖女の関係が悪いなどと噂されても構わないのでしょう。確かに、そんな噂が流れたところでわたくしは第二王子殿下の婚約者ということに変わりがないのですから。
わたくしはただ、淑女として、王子の婚約者として、恥ずかしくないよう勉学に励みました。その間王子が何をしていようと、わたくしには関係のないことです。王子が何やら女性と仲睦まじくしているらしいというのも風の噂で耳にしましたが、特に心が揺らぐようなことはありませんでした。わたくしは王子殿下を愛しておりませんし、彼もわたくしを愛してはおりませんので、当然のことです。
冷たい女だと誰かに言われました。
無関心なふりをして、裏では何を考えているかわからないと噂されるようになりました。
それでも、わたくしはそう生きるしかないので、学年一位の成績を維持するためにただひたすらに勉強しました。学生の本分でもあるので。
それの何がいけないのか、人々がわたくしを見る目は厳しくなるばかりでした。
十八歳になりました。
学園を卒業する年です。卒業したら、わたくしは王宮で暮らすことになります。ベルス伯爵家よりは温かい部屋が与えられると良いのですけれど。
その前に、今日は建国記念のパーティが開かれます。伯爵家のメイドにコルセットをきつく締められ、胸元の開いた真っ赤なドレスを身に纏います。
婚約者である第二王子と会場に入るのがしきたりですが、彼はいつになっても迎えには来ません。来ないと分かっていても待たなければならないのが面倒なところです。
入場の時間に間に合わなくなるギリギリまで待ってから、わたくしは部屋を一人で出ます。メイドのクスクスという笑い声を背後に、わたくしは会場に繋がる廊下を歩きだしました。
「失礼、レディ」
途中、声をかけられました。
髪の短い、素朴な雰囲気の青年です。服装から、見習い騎士だということが分かりました。
騎士は、警護のため会場と各出入り口に配置されているはずです。このような廊下の途中にいるのは連絡役か、もしくは迷子……でしょうか。騎士に扮した曲者というようには見えませんので、そのどちらかでしょう。わたくしには、あまり関係のない話ではありますが。
「顔色が悪いようなので、声をかけさせてもらいました。どこか……体調でも?」
「いいえ」
コルセットは内臓を圧迫していますが、慣れているのでこんなものは苦痛のうちにも入りません。
「では、その、精神的な……。つらいときは、それを口に出すだけでも楽になる……と思います。……すみません。いきなり、俺みたいなのが不躾に」
「構いません」
青年は何かまだ言いたげな様子でしたが、先を急いでいましたのでわたくしは青年の言葉を待つことなくその場を後にしました。
王子を待っていた分、時間に遅れが生じています。急がなくてはなりません。
わたくしの控室は会場から一番遠くに配置されているので、会場までにいくつもの部屋の前を通り過ぎることになります。
だからそれは、必然だったのかもしれません。後から考えると、不用心ではあるのですが。
とある部屋の前で、話し声が聞こえました。
普段は気にしないのに、つい足を止めてしまったのはそこにわたくしの名が出ていたからでしょうか。
盗み聞きは淑女のすることではありませんが、わたくしは部屋の中で交わされる会話に耳を澄ませます。幸い、見える範囲には誰の姿もなく、わたくしの行為を咎める者はおりません。
「ベルス伯爵も運がいいよな。養子に迎えたラーラニカ嬢が聖女だったなんて」
「いいや、運だと言うのなら、聖女だと知ったことだろうよ」
「どういう意味だ?」
「……ここだけの話だがよ」
片方が声を潜めます。
わたくしは、二人の会話がよく聞こえるように集中しました。
「ネーヴェ伯爵夫妻の死は、事故じゃねえんだ」
わたくしは、声を上げそうになるのを必死で堪えました。
――どういうこと? 事故じゃないとするならば、まさか……。
「おいおい……。またお得意の噂話か」
「違う。俺も……もう抱えきれねえからよ、この際言っちまうが……。ネーヴェ伯爵夫妻が亡くなったすぐ後くらいに、俺はベルス伯爵家に行くことがあったんだ。それでその時、伯爵夫妻の会話を、盗み聞いちまって」
ああ、そんな。
「……それで、伯爵夫妻は、何て?」
「はっきり覚えてるのはこれだけだ。“これで聖女が手に入る”……ってな」
耐えきれず、わたくしは部屋の扉を開きました。
身綺麗な男性が二人、わたくしを見て驚いています。
「ベ、ベルス伯爵令嬢!? 何故ここに、会場はこちらでは、あ、ありませんよ」
「黙って」
わたくしに聞かれるとよくない話をしていた自覚があるのでしょう。男性は早口で捲し立てますが、わたくしが黙るように言うとぴったりとその口を閉じました。勿論、それは彼の意志ではなく、わたくしの魔法がさせたものです。汗ばんだ肌と、指で口を無理やりこじ開けようとする姿に、彼の焦りを感じました。
もう一人……ベルス伯爵夫妻の会話を聞いたという男性は、怯えた目でわたくしを見ていました。彼には口を閉ざす魔法はかけていないのに、言葉を失っています。
わたくしはゆっくりと手を伸ばし、彼の、皺の寄った額に人差し指を当てます。
確認、しなければなりません。
本当に、ベルス伯爵夫妻がそのようなことを言っていたのか。
魔法で、男性の記憶を読み取ります。
わたくしの、両親が亡くなったあとのこと。十四年前の彼の記憶を、覗き見させてもらいます。
十四年前。まだ細身のベルス伯爵と、その隣にはゆったりとしたドレスを纏った夫人の姿が歩いて来るのが遠くに見えます。伯爵家の中庭を見せてもらっていた男性は夫妻よりも先に姿を認識し、挨拶へ向かおうとしますが、茂みに袖を引っ掻け、ボタンを落としてしまいます。そして、それを拾おうとしゃがみこんだことで茂みが男性の姿を隠し、夫妻は“二人きり”の会話をすることになったようです。
「なんだか拍子抜けですわ。こんなに上手くいくなんて」
「ああ、これで聖女が手に入る。ネーヴェも馬鹿なことをしたよ。娘が大事なら吐息の一つも漏れないような箱にしまっておくべきだった」
クスクスと夫人が口元に手を当てて、上品に笑う。
「人が好いというのも罪ですわね。娘が利用される未来を想像しながら、具体的に誰がそう企んでいるのか考えもしないのですから」
「あいつらの愚かさには参る。いや、助けられたというべきか。しかしこれで……すべては私たちの思い通りだ」
笑っている。良く晴れた日の、色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園に、とても朗らかな笑い声が響いている。
「聖女を手に入れたらとずっと前から進めていた話も、十になったら婚約を結ぶよう決まった。それまではせいぜいこき使って、躾けて、逆らえないように可愛がってやろうじゃないか。おまえも大変だろうからな」
伯爵が夫人のお腹をそっと撫でた。あまりにも慈愛に満ちた行動で――吐き気がした。
指を、男性から離します。
記憶を読み取らせていただいたお礼に、一瞬で、意識を奪い取ってあげました。気を失った男性の身体が、ぐにゃりと床に倒れ込みます。彼が再び目覚める時には、もうすべて終わっているでしょう。一緒にいた男性は、おまけで。
わたくしはまっすぐに、パーティ会場へと歩き出しました。もうパーティは始まっている時間でしょう。きっと大勢のかたが、思い思いにパーティを楽しんでいるはずです。
けれど、もう、わたくしにはどうでもいいことです。
会場に入ると、一斉に、たくさんの目がわたくしに向けられました。いやらしい目をしています。わたくしを嘲り、哀れみ、拒絶し、汚物を見るような目です。
「ようやく来たか……。下品な女だ。そうして注目を浴びようとでもしているのか」
フレードリヒ第二王子殿下が声をあげました。クスクスと笑い声が沸き上がります。王子の傍らには、学園で王子と良くしていた女性生徒が立っていました。
「お前は聖女としての務めを何一つ果たさず、王子の婚約者としての地位に甘え、悪逆非道を繰り返してきた! このメイリース男爵令嬢にひどい言葉を浴びせ、暴力まで振るったこともそうだ! そんな者を婚約者とはしておけない、いや、この国に置いておけない!」
「聖女の務め、ですか……」
婚約者の地位に甘えたことも、王子の言うような悪逆非道を繰り返したこともありませんが、王子の言葉でひっかかりを覚えたのはそこでした。
「そうだ! お前は聖女として持って生まれたその力を民に還元することなく、」
「いいえ」
王子の言葉を遮ります。それは八年間学んできた淑女としての在り方に反するものでした。
けれど、わたくしの天秤はすでに傾いておりました。
「聖女とは何か、王子殿下は誤解していらっしゃるよう」
わたくしが手をかざすと会場の灯りがすべて消え、真っ暗になります。王室お抱えの魔法灯職人がこの日のために調整したシャンデリアも、その美しい輝きを届けることはありません。テーブルの燭台にだけ、再び火を灯します。手遊びに、緑、紫、青、と炎の色を変えてみました。少し、心が躍るような気がします。今まで、何故こうしなかったのだろうと思うほどに。
「聖女の力は、人のためのものではありません」
「な……! やはり本性を現したな、この醜い魔女め! 恵まれた力を自分一人のために使おうとするその性根、国外追放では生ぬるい。お前のようなものが国に繁栄をもたらす聖女だなどと、一体だれがそんな戯言を」
ふ、と吐息が漏れました。
……いえ、それは吐息ではなく、笑い声でした。笑うことなどもう十四年ぶりですから、すっかり忘れていました。笑ってしまいたいことなど、何度かあったはずですが、結局わたくしはこの十四年間一度も笑うことがなかったのですね。それほどまでに、それほどまでに、愛していたのです。
「国外追放で生ぬるいのなら、死ぬまで出られない禁魔の塔に幽閉でもしますか? それとも即刻処刑でもいたしますか? いずれにせよわたくしに罰を、ああ、婚約破棄もですか。王家の、国の決定と捉えてよろしいですね?」
「当たり前だ!」
「うふふ」
馬鹿みたい。笑ってしまいます。
人の――親を殺して――それを了承の上で――そうまでして結んだ婚約を簡単に破棄する。何がしたかったのかしら。この人は。この国は。ベルス伯爵も国王も婚約破棄に了承していないとしても、もうそんなこと知りません。
「でもでもぉ、可哀想じゃないですかあ? ずっとぉ、殿下のこと好きだったのに、愛してもらえなかったから、殿下のぉ……イッチバン近くにいた私につらく当たるのも、しかたないかなってぇ……」
「ああ、君はなんて優しいんだ。見た目だけじゃなく、心根まで美しいなんて!」
何か始まりましたが、付き合うのも馬鹿らしいので会場を後にしようとしたら、呼び止められました。槍を持った衛兵がわたくしを囲みます。王子殿下はまだわたくしに話があるようです。
わたくしにはないのですが。
「彼女の優しさに感謝するんだな。一度だけ、選ばせてやろう。このまま殺されるか、新たに王子妃となる彼女の侍女として聖女の力を使い誠心誠意尽くすか」
「どちらもお断りですわ」
「なっ……貴様にその権利があると」
「ええ」
十歳のときに、好きにしていいって言われたの。わたし。
わたくしが指を鳴らせば、衛兵はその場に倒れ込みました。
え、と戸惑う声が上がります。最初に冷静さを取り戻した――と言っていいんでしょうか、ともかく、ふたたび動き出したのは王子殿下が早く、彼の掛け声で追加の衛兵と騎士が慌ててわたくしの前に躍り出ました。光と闇の属性を掛け合わせてできた精神攻撃無効の魔術印が刻まれた貴重な鎧を纏っている彼らは、騎士の中でも力があるほうなのでしょう。
騎士の腕を捻じり上げたら、思ったより脆くて、変な方向に曲がってしまいました。
それを見て、パーティに参加していた貴族女性が悲鳴を上げたので、上唇と下唇を縫い付けて、静かにさせました。
残りの騎士は、転ばせて、床に並べました。
危ないので、参加客は全員、その場から動けないようにしました。
王家に仕える魔術師たちが出てきました。はじめに衛兵を寝かせてからあまり時間はたっていないように思いますが、やはり、動きが洗練されています。王家に仕えるとはそういうことなのでしょう。わたくしは関わらせてもらえなかったのでよくわかりません。
撃ってきた魔法を、倍の大きさで、倍の魔力密度で返してやりました。きっちり倍にする、と考えると手加減もしやすいですね。
「聖女の務めとおっしゃいましたね」
王子は怯えた表情を浮かべています。八年の婚約生活で、そんな表情は初めて見ました。いつもの表情よりはずっと魅力的に思います。
「聖女とは、神の触覚なのですよ」
間違いを正すのは優しさでしょうか。わたくしの中にも、まだ彼らに対してそのような情があったことに驚いています。
何も知らないひとが聖女の務めについて語るのも、聖女の苦痛は天より課せられた試練だなんて宣うのも、今ならわたくし、下品かもしれませんが、大笑いしてしまいそう。
「神の創られたこの世界に新しい風を入れる。そのための力を与えられただけ。その力を使うかどうかも、どのように使うかも、自由なのです」
聖女が国に繁栄をもたらすのも本当です。
わたくしも、愛する者の為にこの力を使いたいと思っていた。聖女が国を愛せば、自然とそうなります。聖女にできないことはないのですから。
愛していました。
父を、母を。
両親の生まれ育ったこの国を守ることに繋がるならばと、ずっと我慢していました。
両親からの愛情と、世界のすべてを秤にかけて、ずっと水平を保っていました。
きっとわたくしに近い誰かがわたくしにひとかけらでも愛を向けてくれていたら、わたくしは何があっても、何をされてもこの国を愛したでしょう。
けれど、わたくしに与えられたものは十四年前の真実でした。
天秤は、傾いてしまったのです。
「今の王家がどこまで続くかはわかりませんが……次の聖女は国を愛せるといいですね」
呟いた声はきっと誰にも届いていません。届けようとも思いません。聖女が国を愛するかどうかも、自由ですから。
最後にパーティ会場の天井を破壊します。後始末は大変でしょうが、そのくらいは我慢してください。
悲鳴にならない悲鳴が上がります。心配せずとも、瓦礫は参加客の頭上には落ちないようにしてあります。ついでに寝かしつけた衛兵たちのところにも。それがわたくしの優しさ……というか、両親が与えてくれた、最後の理性でしょうか。
王子と男爵令嬢は、まあ、運が良ければ瓦礫の下敷きにはならないんじゃないですか。
「それでは、ごきげんよう」
礼をして、会場を後にする。
晴れやかな気分だ。我慢することを選んだけれど、わたくし、全然納得していなかった。自由じゃなかった。これからはちゃんと自由に生きなければなりません。それが、聖女の務めですから。
会場の異変を聞きつけたのか、会場に行く途中で出会った見習い騎士のかたがわたくしの前に現れました。額に汗をかいています。
「大丈夫ですか!?」
青年はまず、わたくしの身を案じる言葉を口にしました。
異変の起こったパーティ会場から命からがら逃げだしてきたと思われたのでしょうか。
……国を発つ前に大きな嵐でも起こそうかなと思っていましたが、やめておきます。
やめるのもわたくしの自由なので。
「お気遣いどうもありがとう。あなた、瞳がとても綺麗ね」
気に入ったので、魔法でドレスを彼の瞳と同じアイスブルーに染めてみる。うん、悪くない。今の気分と同じ、澄んだ色だ。
「さて、おじさまは元気にしているかしら。久しぶりだから、きっとびっくりするわね」
父の友人であった彼を訪ねて隣国へ行こう。治安もいいし、食事も美味しいらしいからきっと向こうの暮らしは楽しいはずだ。何か仕事を見つけて人々と同じように暮らしてもいいし、のんびり暮らしてもいいし、ああ、旅をしてもいい。
わたくしは自由に生きるのが務めなのだから。
ベルス伯爵夫妻が毒によりこの世を去った。恐怖と苦痛に歪んだその表情は第一発見者であるメイドが悲鳴を上げ気を失うほどだったという。
同じく毒を口にしたひとり息子である令息は命こそ助かったものの、重度の記憶障害を引き起こし、赤子同然の生活を送っている。
――犯人は、まだ判明していない。ベルス伯爵の関係者からも一人として容疑者があがってこないことから、美食趣味で珍味を愛した伯爵が誤って毒を持つ食材を口にしたのではないかとする声も――
「お前、いつの新聞読んでんだよ。そんなに面白いこと書いてあんの?」
「いや。……たいしたことじゃ、ない」
「ふうん。にしても、お前も馬鹿だよなあ。せっかく鍛錬して、勉強して、騎士になったのに。見習い騎士を辞めて今度は見習い商人か」
「……まあ、騎士になっても何も守れないから」
「ああ、あの事件な。災難だったな。天井が急に崩れて……奇跡的に大怪我したヤツはいなかった……んだっけ? あ、一人だけ、どっかの令嬢が顔の半分潰れたみたいな……可哀想だよなあ」
「……」
「第二王子も責任追わされて実質切り捨てられたようなもんだし、はあ、悪い話ばっか。世の中どうなってんのか。この国が良い方に向かう日は来るのかね」
「さあ……それは、この国次第じゃないか」
「それもそうか」
「さあ。そろそろ行こう。遅れると叱られる。隣国まで足を運ぶんだ、荷が多い」
今日も頼むぞ、相棒。そう言って男は馬の首を撫でた。
新たな旅の始まりだ。