第九話
レジ袋は覚悟を決める必要はないといわんばかりに、雲と雲の間にあるアリの巣ほどの穴に向かって、あっさりひょいと飛び込みました。尻込みしてはいられません。目指すは空と同じくらい青く青い海なのですから。
しかし飛び込んだはいいものの、どこを見ても真っ白なので、袋はすっかり上下盲になってしまったのでした。そのため、雲の海を抜けた時に天と地がひっくり返っていることに気づかず、「何てことだ!妙な場所に出てしまったぞ!足下には雲の海で空には真逆さまになって京都市だなんて!」と独り叫ぶ始末です。間もなく真相に気づいてひたすら赤面したことは綴るに及びませんでしょう。
天地をもう一度覆して上目遣いに雲の海を一瞥すると、気を取り直して海を目指しました。ちなみにこの時レジ袋は、普段人間があれやこれや入れる方を上にし、そこに空気をしこたま蓄えながら気球のようにふわふわと浮遊しています。
雲のすぐ下からだと、わざわざ首を動かすまでもなく視界に入り込んできますので、海がどこにあるかはすぐに分かりました。しかしながら、海のなんと雄大なことか。レジ袋は思わず息をのみました。ここからでは民家はもちろんのこと、あの比叡山ですらカップケーキほどの大きさしかありません。それに対して海は際限なく東へ向かって伸びています。トンビの言っていた自由の国とやらは影も見えません。何よりも驚いたのは、その巨大さにもかかわらず、海は全くそれを鼻にかける様子もなく、太陽の光を反射して懸命にキラキラと自らを輝かせながら、青々とした波を西へ東へ寡黙に流し続けていることです。その流麗さに心打たれないものは存在しないと言っても言葉が過ぎることはありません。
海の姿はすでに見えているため、体を東へ傾けていればすぐにたどり着けるだろうと思っていましたが、事はそう都合よく運ばれませんでした。空中を飛び回る小さな風たちが袋の進路を阻むのです。東へ進もうとしても、北から東から南から、あちこち行き交う小風に巻き込まれるのです。そのため、東へ一直線で済むものを、わざわざ南へ西へ北へと風の機嫌に合わせてわざわざ遠回りをしたのでした。
海はすぐそこにいるにもかかわらず、迂遠な道を選ばなければならないのは袋を大変もどかしくさせました。それでも彼ははやる気持ちを抑え、辛抱強く、少しずつでも東へと進んでいきました。
そのうち、比叡山にも劣らないほど大きな山脈たちの頭上を通り過ぎました。ずいぶんと北上してしまったようですが、それでも確実に東へと進んでいます。また、意図したわけではないのですが、風にもまれるうちにじわじわと下降しておりましたので今では地上との距離は百メートルもありません。全身を絞って大きな声をだせば、きっと海に気づいてもらえる距離でしょう。
ここまで来る頃にはレジ袋はもうヘトヘトでした。百回生まれ変わっても体験し得ないようなことを半日も経たないうちにまとめて経験したのですから、無理もありません。何度も全力で大声を出す体力なんてものはもう残っていませんでした。もし一度目の呼び声が届ききらなければ、二度目の機会は地上に着くまでの間にやってこないでしょう。そうなってしまってはもうおしまいです。レジ袋は全身の感覚を澄まして機をうかがいました。
ふと、空白が訪れました。深夜の交差点のように、あらゆる音が過ぎ去りました。東から吹く風は袋を避けてあさっての方へ飛んでいき、北から来る風と南から来る風は袋のすぐ横でぶつかり、跳ね返り、新たに北から南から吹いてきた風の軌道を逸らしたのです。一瞬だけ周囲を包んだ静寂に、袋はほうけて、まるでその静寂の一部になったような気さえしました。しかし、それは一瞬の間の一瞬のことです。彼はすぐに正気に戻り、全身全霊の声を張り上げました。奇跡のような静寂を自らの手で破ってしまうことへの後ろめたさが亡霊のように体をすり抜け、発声と同時に背中がぶるりと震えました。
「海さぁん!海さぁん!聞こえますか!北風さんからあなたの場所へ向かえと言われました!海さぁん!僕です!宙に浮いてる白くて小さいレジ袋です!聞こえますか!」
空にひびが入りそうなほどの大声です。あまりの大きさに、まわりにいた小風たちは目を丸くして袋の方を見ていました。袋自身もとても驚きました。自分の声で脳がひどく揺さぶられ、目眩がし、本当に自分の声なのか疑わしく感じたのです。
不意に体の制御を失いました。赤子にもてあそばれるゴムボールのように、ふらふらとなすがままで落下していきます。暗くなっていく視界に、波のしぶきが太陽の光をはじいて星屑のように輝くのが映りました。遠くなっていく耳に、波が優雅に流れる音と波同士のぶつかる猛々しい音が聞こえました。
「よく頑張ったね。あとは海風に身を任せて、君は少しお休み」
優しい声がしました。透き通った声です。袋の目が意思と関係なしに動くと、海と目が合いました。綺麗な瞳です。とても黒く、底が全く見えないほど深い瞳ですが、そこにはどんなものでも受け入れようとする慈愛の色がありありと広がっていました。
袋の真下はちょうど陸と海の境界線のようでした。体がふわりと持ち上がり、海の方へ引き寄せられる感覚がありました。冬の海風は不思議と温かく、鼻を通ってくる潮の匂いは新天地への期待を湧かせました。袋は海風たちに、ありがとう、と言いたかったのですが、もうクタクタで言葉を紡ぐどころか口を開くこともできず、困ったように笑いました。彼のそんな苦笑もしらず、海風はご機嫌に鼻歌をしながら袋を海へと運んでいきます。懐かしい歌です。聞いたことがあるような、ないような、しかしとにかく微かな哀しさと儚さと特別の安らぎを与えてくれる、郷里のような歌です。
なんだかとっても心地良いや。一眠りして、それから海さんと海風さんにお礼を言おう。とにかく眠いや。目が覚めたらいろんな話を聞こう。自由の国のことや海さんと海風さんが見てきたものについて、いろいろ・・・。いろんな話をしよう。アスファルトさん、パンジーさん、落ち葉さんと街路樹さん。それに北風さんと雲さんとトンビさんと綿毛さんと・・・。もちろん、太陽さんのことも。僕が会ってきたみんなの話をしよう。みんなとっても優しくて素敵だったって伝えよう。それから、それから・・・。
レジ袋はまぶたの重さに耐えきれなくなっており、思考のまとまりも疎かになっていました。きっと楽しい夢を見よう。彼の微笑みはそう語っていました。夢の前も最中も後も、幸せでいっぱいだ。口の外側と内側、どちらでそれを言ったのかさえおぼろげでした。
パァン、バァン、と鋭い音が二度立て続けに鳴り響きました。どうやら、レジ袋は自衛隊だか在日米軍だかの基地の上を通り、レーダーか何かに引っかかってしまったようです。人間は満足げな様子で引っ込んでいきました。耳を澄ませば、「頭にジャストだ!」と楽しそうに笑う声が聞こえたかもしれません。
皆泣いていました。レジ袋の頭部を貫いた銃弾も、それを放った銃さえ、泣いていました。穴の開いたレジ袋がひらりひらりと海へ落ちていきます。まるで慌てんぼうの天使が、横着にも翼で雲から雲へ飛び移ろうとして、うっかり雲の隙間から下界に落としてしまった羽根のようでした。