第八話
袋はもう泣いていません。体中にぶつかる乱暴な寒風に、涙はこぼれるや否や後ろへ吹き飛ばされ、涙の跡もすぐに乾いたのでした。
「よぉおし!さっきは不甲斐ねえところを見せちまったからなぁ!今度は思い切ってあの一番でけえ雲を突っ切ってやるかぁ!」とずっと黙っていた雲は出し抜けに言いました。
袋が慌ててそちらを見ると、そこには夏にしか見かけないような、雪男みたいな形の大きな積乱雲がどすんと身構えているではありませんか。
「一番大きな雲って・・・、北風さん!もしかして、あの雲を通るつもりなんですか!?無茶ですよ!あんな比叡山みたいな雲!」
「比叡山だって!?ははは!こりゃいい!空の比叡山だ!見てろ!俺にかかりゃ比叡山だろうが琵琶湖だろうが、一吹きさらいよ!」
よくつかまってな!と短く言って、北風はリニアモーターカーだって目をむくほどぐんぐんと加速し、喉を大きく開いてうんうん唸り、制止するまもなく大雲に肉薄しました。袋と雲の間には、もう手のひら程度の距離しかありません。そこで袋は、大変惜しいことのように思われますが、とっさに目と口を固く閉じたのでした。
雲に突入した瞬間は容易に判別することができました。なにしろ、ベッドへ飛び込んだときのような、ボフン、という音がしたと思うと、たんぽぽの綿毛のようなふわふわとした軽いものが全身へぶつかり、体を優しく撫でながら去ってゆくのですから。袋はどこもかしこもこそばゆくて堪りませんでしたが、必死に我慢して北風にしがみつきました。
綿毛のようなものはとうとう袋の耳にまで入ってきました。耳に水が入ってしまったときのような不快感と音の遠くなる感覚が襲います。さすがの袋も耐えられなくなって耳に指を突っ込もうとしましたが、その時、耳の中で綿毛が飛び回る音と一緒に何か聞こえてきました。初めのうちは空耳かとも思いましたが、やはり聞き取ろうと意識すればするほど、それに応えるようにはっきりとした声が聴こえてきました。笑い声です。とても無邪気で陽気な、だからこそ無慈悲で容赦のない、子供の笑い声です。キャハハハ、キャッハハハ、という心底楽しそうな声が体の中のあちこちへ伝導し、これではまるで笑い袋です。レジ袋は頭に響く笑い声に顔をしかめ、その無遠慮な声に少し腹が立ち始めました。全く、こっちの気も知らないで。もうすぐ雲を抜けるぞぉ!という北風の声が聞こえた気がします。ようやくか、と袋は安堵しましたが、この瞬間にも耳の穴は綿毛で埋まり、耳のある場所には小さな白い山がこんもりとできていました。
暗幕の垂れ下がっていた視界がまばゆく白滅しました。北風が雲を抜けたようです。成層圏の新鮮な風が流れ込んできています。レジ袋は、あの綿毛たちに一言くれてやるぞ、と思いながら振り向きました。
「ありがとう、太陽さんを起こしてくれて、カチコチ雲を溶かしてくれて、ありがとう。いつでも遊びに来てね」
そう聞こえるや否や、耳にまとわりついていた綿毛たちは一斉に離れていきました。
北風は尾が雲に触れるか触れないかのところで袋の方へ振り向き、
「おい、どうした?そんな、初恋の相手が実は親類だったときみたいな顔して」と素っ頓狂な声で言いました。
「いえ、何でもないです。綿毛さんたちがくすぐったくって」
「それより、すごくきれいな場所なんですね、雲の上って。絵の具をひっくり返したみたいに青いや」と袋はあたりを見回しながら言いました。
「まあ、そうだな。俺も詳しい理屈は知らないが、そういうことになっているらしい。ところで、おまえ、これから行くあてはあるのか?」
「行くあて・・・。僕、自由の国に行ってみたいです」レジ袋はトンビとの会話を思い出しながら答えました。
「自由の国?なんじゃそりゃ」
「トンビさんが言うには、海を渡ったずっと東に自由の国があるらしいんです」
「ほお、そりゃナイスタイミングだな。ちょうどここに来る前に、海や海風と話してきたところなんだ。真っ白なレジ袋がやってくるだろうから、そいつをとにかく遠くまで運んでくれってな」
「え!本当ですか!?」袋は思わず大声で叫んでしまいました。何もない成層圏では声はありのまま響きます。
「・・・あぁ、わざわざ嘘なんかつくかよ。む・・・、ここからだと雲が邪魔で見えないな。とにかくあっちだ。あっちの方を目指していけば海に着くはずだ」
袋は北風が指した方を見ましたが、確かに雲の海が絶えず続いているばかりで、綿のちぎり端のように薄くなっているところから辛うじてクッキーの食べカスみたいに小さな民家や車が見えるのでした。
「・・・すぐそこの隙間から落ちていけば、雲のガキどもにちょっかいかけられずに済むと思うぜ。いいか?海ってのはこの空とおんなじくらい真っ青な水だからな。・・・それじゃ、元気で。またな」
「はい!北風さんもお元気で。何度もお世話になってしまって本当に感謝しきれません」
袋は北風へ向き直りましたが、もうそこに彼はいませんでした。ろうそくが尽きる寸前の熾烈の閃きのように激しく、強い風が一瞬だけ体を持ち上げたのもつかの間、もうそこにはさっきまでの浮遊感はなく、風を切る落下の感覚があるばかりでした。恐怖を感じることはありませんでした。
袋はもう一度だけ感謝を述べました。何もない成層圏には、十分に大きな声がより一層大きく染み渡っていきます。それが遠くへ、きっと北風もいるところまで、届いてしまうと、雲の上はより濃密な無で満たされました。袋の声がそれまで周囲を漂っていた何かと結合して飛んでいってしまったからでしょう。