第五話
レジ袋は北風にしがみつくのに精一杯でした。北風は体験したこともない速度で地上を走り、袋の顔中には次から次へと風が叩きつけられて、バザバザバザ、と聞いたこともない音が鳴っています。通りを抜ける頃には、先ほどまで話していた落ち葉たちが細胞ほどの大きさに見えるくらいの高さまで飛んでいました。ようやく風の動きになれてきた袋は、身を乗り出して北風に尋ねました。
「もしもし!もしもし!北風さん!どちらに向かっているんですか!」
しかし北風は何も言いません。もう一度、さっきよりも大きな声を出そうと思って口を大きく開くと、たくさんの寒風が肺の中になだれ込んでしまい、袋は咳き込みました。皮肉なことに、その咳によって初めて北風は彼の存在に気がつきました。
「おいおい!大丈夫か!はやてに巻き込まれちまったんだな!うっかり屋め!一人で降りられるか!?」北風は大声で言いました。
「いえ、ゴホッ、大丈夫です、ゴホッ。このまま・・・」袋は咳混じりに返しました。
「なぁにぃ!?聞こえないぞ!大声で頼む!」
咳のせいで呼吸は苦しい上に冷たい暴風が全身にぶつかるせいで袋はもう気が滅入ってしまい、やけくそに言いました。
「大丈夫です!このまま遠くまで連れてってください!」
「遠くまでって、どこまでさ!?さすがの俺も宇宙までは連れてけないぜ!」
「それじゃあ、行けるところまでお願いします!」
「了解!しかしまあ、どうして!?生きるのが嫌になっちまったのかい!?悩み事なら聞いてやるぜ!」
「ありがとうございます!でも違うんです!死にたくないからこうやってあなたにしがみついているんです!」
「いいねぇ!なかなか酔狂じゃないか!そういうの、俺は大好きだぜ!気に入った!」
北風はそう言うと、更にグンと加速しました。ザザザザザ、と体中から滅茶苦茶な音が絞り出されて、もうちぎれてしまいそうでした。
やにわに北風が止まって袋は慣性のまま前に放り出されてしまいました。どうにか北風のあごあたりに掴まることができましたが、ふと下を見るともう地上とは何百メートルも距離があり、袋は血の気が引きました。
「むむ、こりゃあ参ったな」と北風は言いました。
「どうしたんですか!急に止まったりなんかして!」袋は見上げながら言いました。
「とりあえずあんたを雲の上まで飛ばしてやろうと思ってたんだが、雲のやつが凍ってるせいで通り抜けられないんだ」
「それじゃあ雲さんが動けるようになるまでここで待っていましょうよ!」
「それは無理なんだよ。俺は同じ場所にとどまれない。あと三〇秒くらいでバラバラに飛び散ってしまう」
「え!それじゃあどうするんですか!」
「それを今考えてるんだよ。あと、声がでかいぞ。十分聞こえてるんだから」
「・・・すみません」
北風は少しだけ考え込むように黙りましたが、すぐに大声を上げました。
「おぉい!雲!起きてるか!おぉい!」
風が弱まったことで、袋はようやく周囲の気温が地上とは比べものにならないくらい低いことに気づきました。体に付いていた水滴はとうに凍っています。これでは雲が凍り付くのも無理ありません。
「んん、ああ、北風か、おはよう。まだお日様は眠っているのかい?信じられないほど寒いよ」目を覚ました雲が、か細い声でゆっくりと言いました。
「悪いが、ほんのちょっぴりでいいから体を動かしてくれないか?小さな隙間を作るだけでいいからさ」北風は早口でまくしたてました。
「それくらい構わないよ。・・・あれ、変だぞ、体が動かないな。まさか凍っちゃったのか?うう、困ったぞ。今日は南太平洋にピクニックへ行く約束を友達としていたのに・・・」
「きっとあんたの友達も凍ってるから気にすんな。・・・はぁ、畜生。北西の雲は綿毛みたいにふわふわだったのに、どうして南方の雲はカチコチになってるんだ?」
「そんなこと僕に言われても困るよ。第一、僕らは雲なんだから個体差があるのは当たり前じゃないか。それにしても北風はどうしてそんなにカリカリしているんだい?」
「こいつが見えるだろ?」北風は顔を上げてあごにぶら下がっている袋を見せました。「詳しい事情は知らないんだが、こいつはとにかく遠くへ行かなきゃならないらしいんだ。だから雲の上まで連れて行ってやろうと思ってな」
「む、そうなんだ。確かに地上には煩わしいものがたくさんあるものね。けど、ごめんよ。よりにもよって今日に限って凍ってしまうなんて」雲は袋に言いました。
「いえ、そんな。雲さんは何も悪くないですよ!北風さん、ありがとうございます。ここから滑空していけば十分遠いところへ行けると思います」袋は慌てて言いました。
「いや、だめだ。俺は一度決めたら絶対にやり遂げる主義でな。絶対にあんたを雲の上まで飛ばしてやるぞ。・・・とは言うものの、どうしたもんかね」
その時、遠い声が風に乗って彼らのもとに届きました。
「おぉい!北風!こんなとこで居眠りかぁ!?気をつけろよ!あと少しで風に巻き込まれて揉みくちゃになるところだっただろ!」
声のした方を見ると、ずっと下方、地上から一〇〇メートルほどの位置で数匹のトンビが翼を広げていました。それを見た雲はハッとして北風に言いました。
「ねぇ、北風。いいことを思いついたよ」
「・・・何だ、言ってみろ」
「あの鳥たちにその袋を連れてお日様を起こしに行ってもらうっていうのはどうかな?そうすれば僕は自由に動けるようになるし、君は一休みできて、袋も安全に移動できる」
「・・・だが、鳥どもが素直に頼みを聞いてくれるとは思えんな」
「まあ任せておいてよ」と雲はトンビたちに向き直りました。「おぉい!トンビ!聞こえるかぁい!」
「雲も起きていたのか!どうしたぁ!」トンビは返事しました。
「一つ頼み事を聞いてくれないかぁ!?」
「嫌だ!雲からの頼みはろくなことにならないから聞くなって母ちゃんから教えられてるんだ!」
「まあまあ!そんなこと言わずに!これは北風からのお願いでもあるんだ!君らも北風には世話になってるだろう!?ここらで借りを返すっていうのも良いと思うんだけど!」
「そう言われると弱ったな!とりあえず要件だけでも聞いてやるよ!」
「比叡山へお日様を起こしに行ってくれないか!このままじゃ、あまりの寒さに何もかも凍りづけになっちゃうからさ!」
「それくらいならお安いご用さ!ちょうど山へ朝ご飯を獲りに行くところだったからね!」
「ありがとう!」雲はレジ袋をチラリと見てから言いました。「ついでにそこのレジ袋も一緒に山へ連れて行ってくれるかい!」
「レジ袋!?北風にぶら下がってる白いちんちくりんのことか!?嫌だよ!面倒くさい!」
「まぁまぁ、そう言わないで!彼は北風の客なんだ!それに、山まで送ってくれるだけでいいんだよ!そうすれば後で北風に迎えに行かせるから!」
「本当に!?本当に山まで運ぶだけでいいんだね!?その後で飛んでいっちゃっても僕らは知らないよ!」
「構わないさ!その時はその時だよ!」
「はぁ・・・、やれやれ。分かったよ!」
そう言った一番大きなトンビがスッと北風に乗って雲の近くまでやってきました。
「うぅ・・・、寒い。これじゃあ雲が凍るのも無理ないよ。それで?このレジ袋でいいの?」
「そう、それだよ。くちばしで破かないように気をつけてね」雲が言いました。
「分かってるさ」トンビは上下のくちばしでレジ袋の体を挟みました。「うっかり飲み込んじゃいそうだな・・・。痛くないかい?」
「はい、大丈夫です。すみません、立派なくちばしを塞いでしまって・・・」レジ袋はゴミバサミで挟まれたことを思い出したせいか、少しおどおどしながら答えました。
「飛んでる時はくちばしなんて使わないから構わないよ。さてと、こんな寒いところとはさっさとおさらばだ。このままだと剥製みたいになっちまう」
大きなトンビはレジ袋を咥えたまま仲間のいる場所まで降りました。そして、三匹のトンビたちは、ピョーロロロ、と鳴きながら翼に風を受けて下降を始めました。
「北風さん!僕を空へ連れてってくれてありがとう!雲さん!トンビさんたちと話してくれてありがとう!」
雲は手を振ろうとしましたが、自分が凍っていることを思いだしたのか、諦めて見送るようににっこりと笑いました。北風はもう消えかかっていて声も出せないようでしたが、申し訳なさそうに微笑んで手を振りました。