部屋で<3>
ちょっと長いです。
「夜遅くごめんね。どうしても健に用事があって」
……今この人、『健』って言った。
どことなく、今日はじめて大学であったような雰囲気がない。
ああ、もしかして、やっぱ健、彼女いるのか。
「ち、ちょ、青葉さん、名前、やめてください」
健があわてた様子で頭をかいた。
「……健? あたし、帰ったほうがいい?」
疑問符なんかつけなくても、帰ったほうがいいよね、この場合は。
健はっとしたようにあたしのほうを振り返る。
「カレーごちそうさま。見学のとき、よろしくね。
青葉さんも、よろしくお願いします」
青葉さんにだけ、ぺこりと頭を下げる。
「あれ、小堀さん、仲いいんだ。健と」
……あたしには、関係ない。健が誰と付き合おうと、誰に『健』って呼ばれようと、
あたしにそれを問いつめる権利はない。
だけど。
なんだろう。この胸のざわめきは。
あたしは今、確かに青葉さんに対して何かイラついている。
無意識のうちに、あたしはどこかで、健にとって一番近い人はあたしだって、どこかで、どこかで思っていたのかもしれない。
……そんなはずはない。
「……家、近所だっただけです。すいません、なんか邪魔しちゃって、帰りとか」
思ってもいないことを吐き出すように言った。
「おい……」
一瞬、健の困った表情が、もっと辛そうな顔に変わったのは気のせいだろうか。
「……あたし帰るね」
その辺に散らかしていた荷物を鞄にまとめて、玄関に出て行く。
健の横をすっと通り過ぎる。
もういちど青葉さんにぺこりと頭を下げて、ノブをひねって外に出た。
外は当然のことながらもう真っ暗で、ひんやりと冷たい夜風が頬を包んだ。
きょろきょろと辺りを見回してエレベーターを探す。
エレベーターが見つかって、乗込むと、何だか泣きたい気持ちになった。
「……帰り道、わかんない」
エレベーターを降りて、マンションの入り口に出ると、もう右も左も分からなくなった。
一緒につれて帰ってくれなかった鈴木先生を恨んだ。
それにしても、馬鹿なことをしたものだ。
青葉さんが帰るまで部屋に引っ込んでおいたらよかったのに、意地を張って出てきて。
しかも家までの道のりが分からずに呆然として、今更健のいるマンションに戻るわけにも行かないし。
でも、出て行かずにはいられなかった。
あの場所にいることは、どうしてかとても歯がゆくなって、居心地が悪くなる。
彼女、か。
あたしも、彼氏がいればこんな妙な思いもせずに済んだのかな。
突然、携帯電話のバイブが鳴って、思考回路が途切れた。
画面のディスプレイを見ると、自宅からだった。
健かも、という淡い期待など、優に砕けた。
もしかしたら、帰る時間が遅くて心配して電話をくれたのかもしれない。
「……もしもし」
「亜紀? 今どこにいるの?」
健の家を出てきた、なんて言えずに必死に何か答えを考えていた。
「えーっと……健のマンション……」
嘘ではない。まだ入り口を抜けていない。
言うと、電話の向こうでお母さんのよかった〜という気の抜けた返事があった。
「え? 良かったって、なにが」
「いや、あのね。さっき友達から電話があって、今日同窓会だったの忘れていたのよ。
もう九時半なんだけど、今出掛けていて、家の鍵、もう閉めちゃったのよ。
亜紀あんた、家の鍵のスペア持っていたかしら」
「何でそんな大事なこと忘れてるのよ。鍵ならたぶんあると思う……探すからちょっと待って」
受話器を肩と耳とではさんで、鞄の中をごそごそと探る。
しかし、いくらごそごそと探しても、それらしいものはない。
「……亜紀? 鍵あった?」
「…………ない。あ、今日遅刻したから慌ててて、それで忘れたんだ」
「あら。そう」
まるで呑気なお母さんの返事に脱力した。
「何でそんな呑気な返事するのよ」
「別に鍵がなくてもいいじゃない。健君に泊めてもらえば。明日土曜日だからあんた学校休みでしょ。
お母さんが頼んであげる。ちょっと代わりなさいよ、健君に」
一瞬、聞き間違いだと思った。というより、そうであってほしかった。
そうであってほしかったので、もう一度聞いた。
「ごめん、今何て言ったの?」
あらそうなの。それじゃあ今すぐお母さん家に帰るから、あんたも帰ってきなさい。
……って言ってください、お願いします。
「健君の家に泊まって帰りなさいって言ってるのよ。
あんたからお願いしにくいでしょうから代わりなさいって」
できない。できるわけがない。
「ちょっと待って。そんなことできるわけないじゃん。
健の家に泊まるなんて……健も一応男だしさ、そこは母親として心配じゃないの?」
「全然」
あたしの必死の言い訳は、たった一言で片付けられた。しかも即答で。
「ちょっと? 亜紀? 聞いてるの? ということで今日は……
ってごめん、誰か呼んでるわ。それじゃ。健君によろしく言っておくのよ」
プツ。と電話が切れた。
「ちょ、え、お母さん?」
そうだ。昔からお母さんは健に対して絶大な信頼を寄せていた。
健君がいるから大丈夫よね〜、というのが口癖だった。
だからあたしが健の家に泊まることなんか、親戚の家に泊まるようなものだと思っているんだ。
……どうすればいいんだ。
「帰ったんじゃねーのかー」
呆然としていると、不意に頭上から声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、ニヤニヤしている健の顔があった。
「……いつからいたのよ」
ふい、と顔をそむける。まともに顔を見ることができない。
「電話してるときくらいから。ていうか俺んち泊まるの?」
「……お母さんがね、家出てて……鍵閉めちゃったから健のマンション泊めてもらえって。」
うつむいてつぶやくように話す。
「ほうほう。まあ、まずは部屋でゆっくりしましょ。
ここにいても寒いだけだしな」
言われてみると、さっきより風が強くなっていて、肌寒い。
「うん」
呟いて、健の隣を歩いた。