序章
初連載です。お手柔らかにお願いします。
その日はよく晴れていた。海面には朝日が当たり、無数の小さな光が規則的に産まれては消えていく。起床後に体に残る鈍い疲れも大分取れた。クーラーボックスを肩にかけ、竿を担ぎながら釣り場へ向かう。
つきだした岬と防波堤に挟まれて入江のような形になっているそこは、もともと漁港だったようだ。コンクリートが打たれ波打ち際の傾斜ではその名残か、朝焼けを浴びてオレンジが強くなったブイが水遊びを楽しんでいる。足下を見ると、コバルトブルーの水面にせわしなく魚影が動いている。日曜日なのに早くからご苦労さん、と言いたくなったが、よく考えれば彼らに曜日の概念はないのだった。
バイト先の店長から聞いたこの場所は、釣り場としては穴場らしい。だが既に先客が二人いた。
「なんでお前がここにいるんだよ!」
レジャー用の小さなイスに腰掛けて釣り糸を垂らすその女の姿を見たとき、思わずそう叫んでいた。
「別にいいじゃん。なんでここで釣りをするのにの許可が要るの?」
八重は漁協じゃあるまいし、と笑うその女の名前は藁蕗一絵。保育園からの幼なじみで、私がこの世界で最も嫌いな人間だ。
「場所が被るくらいいいじゃない。わざわざ釣りじゃなくてもヒマはつぶせるわけだし。」
確かに一絵の言うとおり、今は7月の下旬の日曜日。期末テストも終わっていざ夏休みという最も嬉しいはずの時期だ。しかも私は釣りが趣味ではない。それなのに何故わざわざこんなところに赴いているのか?それには私たちの通うキャンパスの立地が関係している。
私の通う農学部がある青龍大学岩卵キャンパスは、文字通り某県の岩卵市にある。珍しい名前をしているこの市は、肥沃な土壌と豊かな海のお陰で農業と漁業は盛んである。しかし、それとトレードオフになっているのかは不明だが、いかんせん大学生向けの娯楽施設がほとんど存在しない。生真面目な僧侶が沢山集合し、合同禁欲修行をするために開拓した場所なのか、はたまたあまりにも昔の住人が仕事を放置して遊びほうけていたため、神様が天罰を下して娯楽を奪ったのか。そんな妙な妄想をしてしまうほどだ。さらに鉄道、バス、自家用車などの交通網の穴が奇跡的に集中しているため、行くにも来るにもアクセスは最悪だ。市の外に遊びに行こうとしようものなら、楽しむことの倍の労力が移動に費やされることとなる。囚人の如く市内に閉じ込められた学生の娯楽といえば、恋人を作っていちゃいちゃするか、海に出て釣りをするほかないのだ。
実は私も、今年の2月までは前者の条件を満たしていたのだ。つまり彼氏がいた。いたのだが・・・
「お前が台無しにしたんだろうが!」
そう、この女に奪われたのだ。連絡の返事が遅くなったり、デートの約束が先伸ばされたりして薄々怪しいと思っていたのだが、別れを切り出された。そして、私との連絡を放置している時に一絵と付き合っていることを、つまり二股をかけていたことをキャンパス内の食堂で告白されたのだ。
「取ったのは悪かったけどさ、だからってあんなことしちゃうガサツな暴力女なら遅かれ早かれ破局してたでしょ?」
あんなこと、そう今私が絶賛後悔していることだ。他に女が出来たのはまだしも、相手がよりにもよって一絵というのがどうしても許せなかった。幼いときから私と一絵は性格の相性が最悪で、顔を合わせる度に衝突してきた。しかしいつも一絵が一枚上手で、どうしても一歩及ばないのだ。大学に来て恋人を作り、ようやく一歩リードしたかと思いきや、それもまた儚い夢だった。
頭にきた私は左腕であいつの襟首をつかんで立ち上がるや否や、すかさず右腕でショートレンジのラリアットを打ち込んだ。そしてイスごと仰向けに倒れたヤツの顔面に、敬愛するプロレスラーである真壁刀義のフィニッシュホールド、キングコングニードロップを机の上から見舞ったのだ。この軽率な行動により、彼と同じサークルだったために気まずくなって脱退、サークルの友達とも疎遠になる、などの散々な結果となった。
「うるせぇ!とにかくお前がいるなら私は帰るぞ!」
「いいけどさ、帰ってこれからずーっと家でゴロゴロするの?」
既に一絵に背を向けて立ち去ろうとしていたが、そう言われて思わず立ち止まる。確かに、朝早くわざわざ準備して来たのに、すぐ帰るのはもったいない。隣にコイツがいるのは癪だが、少し粘ってみてもいいかもしれない。
私は一絵の左、少し離れた場所に立って釣りをしていた女の子のそのまた左に移動した。できるだけ不快感を抑えるためだ。そして竿と仕掛けを準備し始めた。
趣味ではないと言った通り、私は釣りの経験はさほどない。今使っている道具も、父のお古を実家から送ってもらったものだ。そんな初心者でも、それなりの大きさの魚が何匹も釣れる。ビギナーズラックというやつなのか、この場所が良いお陰だろうか。
「しまった、絡まった。」
引き上げたしかけが絡まり、見るも無残な姿となっていた。新しいものに付け替えた方がよさそうだ。
「あの・・・」
「ん?」
「少し貸してもらっていいですか?」
今まで注意を向けていなかった、隣の女の子が声をかけてきた。
「あぁ・・・どうぞ」
手元にあった半透明の毛玉を渡す。すると彼女は鮮やかな手つきでそれをほぐしていき、瞬く間に元の仕掛けに戻った。
「すごい・・・ありがとね」
「いえいえ、どういたしまして」
控えめにほほえむその娘を改めて見る。身長はかなり小さい。高校生、下手すると中学生だろうか?大きめのメガネと厚底の靴が、より小ささを際立たせているように感じる。
「じゃじゃじゃじゃ~ん。こんなに大きいのが釣れちゃった。」
不快な声が背後から聞こえてくる。この声も一絵の嫌いな所だ。一絵の声が高く柔らかい、まるで妖精のような美声なのに対して、私の声は男に間違われるほどに低い。はっきり言うと嫉妬しているが、それを認めたくはない。
渋々後ろを向くと、一絵が獲物をぶら下げ、満面の笑みで立っていた。さらに腹が立つことに、それは私が釣ったどの魚よりも大きかったのだ。
「あぁはいはい。すごいね。」
挑発に乗るまいと流そうとする私を尻目に、一絵は無遠慮にクーラーボックスをのぞき込んだ。
「うわぁ・・・どの魚も小さいじゃん。やっぱり遅れて来るような人間はダメだねぇ。」
「は?宮本武蔵だって遅れてきたけど佐々木小次郎に勝ったじゃねぇか。上等だよ、それよりデカいの釣り上げてやるよ!」
また売られた喧嘩を衝動買いしてしまった。困惑するメガネの娘をサンドイッチして、戦いの幕が切って落とされた。
「大きい口叩いた割には苦戦してるじゃん。」
「うるさい。ここから逆転するんだよ。」
太陽が昇り、焼けた釘をジリジリと刺されるような痛みを肌が感じ始めた頃。大きさ対決は私が追いつけば一絵が追い越す、という接戦となっていた。
「八重さ~ん?そろそろ降参したら?」
どうしても一歩及ばないもどかしさ、そして1秒でもヒマができたらおちょくってくる一絵の態度に、私はフラストレーションがたまっていた。
「こんにゃろう!」
そもそもここにいるのは一絵のせいなのだ。ここでも負けたら、何かが完全に終わってしまう。そんな確信と苛立ちを込めて仕掛けを海に投げる。
するとそれに答えるがごとく、竿に今までに無い大きな反応が来た。
「うおっ!」
思わず声が漏れるほどの手応えだ。竿が先端と持ち手がくっつきそうになるほどしなる。大物に期待が高まる。しかし、奇妙なことに気付く。アタリが来た時特有の、手にぶるぶると伝わってくる振動がない。そして、リールを巻こうとすると異常な抵抗を感じる。
「根掛かりしたんじゃないの?」
一絵がそう聞くが、底に引っかけた時の感触とは明らかに違う。引いてもびくともしないのは同じだが、海底はただそこから動こうとしないだけだ。こちらはその対象が動き、こちらを水の中に引き込まんとしているのだ!
一絵にムキになるあまり冷静さを失っていた私は、無理矢理引き上げようとしてしまった。腰を反って竿を引き上げ、リールを巻く手に力をこめる。それに耐えきれなかった糸がぷつんと切れる。
「うわっ!」
体重を後ろにかけていたせいか、反動で尻もちをつく。横を見ると、一絵の様子がおかしいことに気付く。
「うそ・・・」
海面を見つめて絶句する一絵。何を見ているのか気になり、這うようにして防波堤のへりに向かう。すると、「それ」の姿が目に入った
「えっ・・・」
私が見たのは、防波堤の前を通って港の奥に進む、とても大きななにかの影だった。暗い海の色に紛れて詳細な姿はつかめないが、流線型のフォルムであることは辛うじて理解出来た。海の中にいて、空気中には一切その体を出していない。にもかかわらず、鼻の先からV字状の泡立つ白線を、青いキャンバスに描いている。魚たちは爆撃機の空襲から避難する市民のごとく、てんでんばらばらに散っていった。
クジラだろうか?それともサメ?はたまた潜水艦だろうか?そんな疑問も持つことさえしなかった。体の中から脊髄と心臓を圧迫されるような緊張感に支配され、動くことができない。頭と顔は熱いのに、腹の底から悪寒がじりじりとよじ登ってきていた。
1つ分かったのは、手の届かない存在を前にした人間には、逃げる、という選択肢さえ無くなるということだった。逃げることができない、というのではなく、逃げるという選択肢さえなくなってしまう。それどころか、ベルトコンベアに置かれたスナック菓子の袋のように、見えない力でどこかに動かされているようにすら感じた。
私は必死でそれから目を離した。逆に言うなら、必死になっても目を離すことくらいしか出来なかった。すると横で隣の娘が、海面に乗り出すようにして影を見ていた。今にも落ちそうな程に。
「危ないっ!」
金縛りを振り切って、四つん這いで走り出す。狩りを忘れた老いぼれ猫のような不格好さで彼女に飛びかかると、肩をつかんで後ろに倒した。
「あっ・・・ありがとう・・・ございます。」
肩が震え、呼吸のペースが速くなっている。その時、彼女に触れている私の手も震えていることに気がついた。彼女も恐怖していたのだ。万物の霊長などという言葉があるが、今の私たちはサルよりも無力で小さい。
海面に目を戻すと、謎の影は港の最奥部に行き着き、そのままUターンして大海原に悠然と戻っていった。
その後の海は、何事もなかったかのように静かだった。
「何なの・・・あれ・・・」
腰が抜け、地面にへたりこんだ一絵がつぶやく。こっちが知りたいくらいだよ、と言い返したい気持ちが湧いてこないほど、私は憔悴しきっていた。
もっと早くに投稿する予定でしたが、タイトルで悩みに悩んで遅れました。
悩んでコレなのか・・・と呆れないでくださると嬉しいです。