もどれない
オフィスと店が交ざりあって並んでいるビルの通路に、私はいた。買い物に来たのか、他に何かしようとしていたのかと思うけれど、よくわからない。どちらでもないのかもしれない。ビルといってもかなり大きくて、一つの町のように必要なものは何でもそろっているような、とても大きなビルだ。目の前にはコンビニがあるし、通路の反対側には銀行のATMがある。
私は、どうやら一つ上の階に行きたいようなのだ。ところが、階段が見当たらない。あたりを見回して、あきらめた。エレベーターがすぐそばにあったからだ。一階上がるだけだが、乗ろうかどうしようか。エレベーターは六基あった。ところが、どのエレベーターに乗ればいいかわからない。それぞれのエレベーターは止まる階がちがうようだ。しかし、このエレベーターは何階に止まりますというような案内はどこにも見当たらなかった。あちこちに説明の紙をはっていては美しくないし、ふとどき者がたやすく入りこめないようにしているのだろう。私のように慣れないと、時間ばかりかかって歯がゆい。来たエレベーターに乗ってみよう。私が乗ったエレベーターは、すぐ上の階には止まらなかった。気づいた時には、ずいぶん上の階まで連れてこられてしまった。エレベーターの中に私一人だけだったのをよいことに、あわててエレベーターの階数ボタンを手当たり次第におしたら、やっと止まった。さて降りてみたけれど、おや、ここが何階かわからない。初めに目についたのはガラスのかべだ。吸い寄せられるように外の景色をながめた。よほど高いらしく、まるで宙にうかんでいるようで、足がすくんだ。今度は下りるエレベーターに乗らなくてはならないのだが、さてどれに乗ったらよいかわからない。エレベーターは他の階で止まったままなのか、一つもやって来ない。長いこと待ったが、もうエレベーターで下りるのをあきらめた。それなら階段で下りればいいのだ。しかし、またもやこの近くに階段など見当たらない。
エレベーターホールをはなれて、曲がりくねった道を歩き始めた。だれかにたずねたいのだが、人がいないのだ。仕方なくずんずん歩いた。ビルの中の割に道がまっすぐでなく、とっくに方向がわからなくなっていた。しばらく歩くと道がふたてに分かれた。さあてどちらに進んだものか。私は困ってしまった。するとどこからか女の人が現れた。小太りで人がよさそうだ。これをのがしてなるものかと、すがるようにその人に近づいて行くと、そのしゅんかん何かをたずねられることをさとったものか、立ち止まってくれた。
「すみません。下りる階段を探しているのですが、どちらにあるのでしょう?」
私は正直あわてていたのだが、気づかれないようにゆったりと話しかけた。
「階段は無いんですよ」
女の人はまっすぐに私を見て言った。まさかそんなことはないだろう。からかわれているんだろうか。
「それでは下の階へはどのように行くのでしょう?」
まともな答えが返って来なかったら他をあたろうと思って、聞いた。
「この道を右に折れてまっすぐ進むとバス停がありますから、やって来たバスに乗ると順番に下の階までぐるぐるめぐりながら下りて行きます」
ビルの周りをバスがめぐって下りて行くのだって?とても信じられなかったが、ここに居続けるわけにもいかない。
「どうもありがとう」
私はとにかく言われたとおりに進んでみることにした。とちゅうで別の人に出会ったら、また聞いてみればいいのだと思った。右に折れて、まっすぐ…。まっすぐ…。もうずいぶん歩いたけれど、まだバス停のようなものは見当たらない。もしかしたら通り過ぎてしまったのだろうか。いやそんなはずはない。道はばが少しづつ広がっているようだ。バス停もないが、人も来ない。まったくこのビルはどうなっているんだ。私はだんだんいらだち始めていた。見た目を工夫して、しゃれた案内板を出してもよさそうなものなのに。なんとなく歩くスピードが上がっていた。そこへ、つえをついたおじいさんが道を横切った。あ、人だ。おや、お年寄りのようだが、この際ぜいたくは言っていられない。のがしてなるものかと、私はそのおじいさんをめがけてかけ出した。もともとつえをついてゆっくりと歩いていたおじいさんだったが、目をつり上げものすごい勢いで走り寄って来る私におどろいて、つえをにぎりしめたままかたまってしまった。
「す、す、すみません…」
私は息が切れて、すぐには話せなかった。おじいさんは、目をまん丸くして声も出ない様子だった。
「あの、下の階に行きたいんですが、バス停はどちらでしょう?」
一息にたずねてしまったが、わかってもらえただろうか。もっとゆっくりていねいに話しかければよかった。おじいさんの反応はまだない。もう一回大きい声で聞きなおそうとしたその時、おじいさんのつえが動いた。どうやら道の反対側を指しているようだ。私はつえの先を見た。遠くから小さなバスが近づいて来た。
「あのバスですね。ありがとうございました!」
私はあわてて道の反対側にわたった。そこに、目立たない小さなバス停があった。簡単に担いで移動できそうなバス停だ。ようやく止まったバスには、行き先が書かれていなかった。本当に下りられるのだろうか。もちろん私は、運転手に大声でたずねた。
「下の階に停まりますか?」
運転手は制服を着てのんびりと答えた。
「もちろん停まります。とちゅういくつも停まりますので、少々お時間がかかりますが」
いったいどれくらいの時間がかかるのか気になったが、これで下の階まで行くより方法がないのだから、乗らないわけにはいかないのだ。
「料金は後ばらいです」
運転手は早く乗るようにと、私をうながした。機械から出てくる小さな紙を受け取り、うしろの席についた。このバスにはすでにお客が二人乗っていたが、二人ともこのバスに慣れている様子で、外の景色に見とれていた。バスはすぐに走りだした。私はどのバス停で下りればよいかわからず、窓の外をながめるゆとりなどなかった。二度とこのバスには乗らない気がしていたが、もし万が一そのようなことがあったら、きっとこのような探検を楽しむことができるのだろう。今の自分には、ゆとりというものがまるでなかった。バスはゆっくりと細い道をくねりながら、少しづつ下りて行った。このバスに乗った時はオフィスばかりで人もあまり見かけなかったが、下るにつれぽつりぽつりと店が増え、お客らしい人も出入りしていた。どれくらい時間が経っただろう。バスに大勢の人がどっと乗りこんできた。大人だけでなく子供も何人かいる。店も人も増えた。ずいぶん下ったらしい。さて私はいまだに不安の中にいる。どこで下りたらよいか、そして下りた後どこに向かって歩いたらよいか、わからないのだ。このビルのきおくは、下の階の通路からだったが、さて何階のどこだったのだろう。近くにバス停のようなものはなかったはずだ。いや目立たないバス停だから、気づかなかっただけかもしれない。その通路になんとかもどろうとして、今もあせっているのだが、果たしてもどってどうなるというのだろうか。私は困り果ててしまった。足を前に出していいのか後ろに引っこめていいのか、わからないのだ。わからないならじたばたせずにじっとひとところにいればいいと、あなたは思っているのではないか。わからないということは、こんなにもおそろしいことなのだ。
「終点ですよ」
運転手が一人で座っている私のそばに来て、言った。私はバスを下りるしかなかった。
バスを下りたら、みな同じ方に歩いて行く。私も後に続いた。せんたくしがないことに、私は救われた。どうも見覚えのある道ではない気がする。一番後ろからついて行く私に、白衣姿の男の人が話しかけてきた。
「お疲れ様でした。あちらで少しお休みください。落ち着かれたころにお話ししましょう」
指し示された方には、優しい色合いのソファがあり、何人かがこしかけていた。男の人はあたたかいコーヒーを私の目の前に置き、去って行った。気がついてからの私は、どこかにもどろうと必死になっていた。でももうどこにも行かなくていいらしい。ようやく気が楽になった。目の前のコーヒーを一口飲んだ。するとどうだろう。おぼろげに、きおくがよみがえってきた。
「ご気分はいかがですか、倉田さん。」
「倉田、ですか?」
さっきの男の人が、向かいでほほえんでいる。私は倉田みつるという名前だった。みずからおうぼして、ある実験を受けていたという。この実験は大いに世の中のためになるということであった。一日か二日できおくがもどるので、それまでこのホテルで楽しんで欲しいとのことだった。きおくが完全にもどるのを確認したら、家まで送ってくれるという。家族が待ちかねているらしい。ふだん通りの生活に、すぐに慣れるそうだ。もう何も心配しなくていい。私は、ほっとしてコーヒーを飲みほした。