邪馬台国
九州説、畿内説どっちか?そういう話じゃない。どうも畿内説が今の多数派なのは隠れた前提条件があるからになる。そこに私は大きな違和感がある。その隠れた全体条件とは天皇家と卑弥呼が繋がってるって話しになる。またはニギハヤヒと卑弥呼が繋がってるとなる。このニギハヤヒは天皇家じゃないならって条件付になる。
後は九州から東征だが、これを語るならそのまま九州説を語ったほうがマシ。では私は九州王朝説なのか?と言うと全く違う。単純に2つの王朝は平行して存在したになる。何故その立場なのか?と言うと、天皇家とニギハヤヒだけでヤマトに大きな王朝があったのは説明がつくから。何故これに邪馬台国などと言うややこしいものを絡める必要があるのか?となる。
何故ももその姫が卑弥呼ならそうやって古事記に書かないのか?になる。記紀に何故卑弥呼が触れてないか?で畿内ならどうして書かない理由があるのか?が理解できない。魏によって認められた出来事をあえて外す意味がさっぱり分からない。それはニギハヤヒだからじゃないか?となる。なら神武が無かったのか?となる。
祟神天皇が天皇家を国内を代表する王朝にした英雄だと見てる。で、それがイキナリできたのか?となる。準備期間から考えて邪馬台国と天皇家を大きくした間の人が並列して居たに決まってるんだ。ここにニギハヤヒと物部が絡む。しかもここにながすねひこ=出雲も絡む。こんな複雑な事あるだろうか?邪馬台国を九州にどけてしまえばすごくすっきりする。
今多数派は、この問題を天皇家に繋がるとして処理してしまっている。ヤマト王権に自然に組み込まれるためこういった並列して複数の勢力が存在する事を排除している。畿内説と言うのはこのメンドクサイこうして解決してるだけなんだ。それに対してニギハヤヒー>物部はどういう理由か?は分からないが、天皇家と物部氏が組んで出雲を追い出してヤマト王権を創ったのが大体分かってるからすごくすっきりする。
これのどこに邪馬台国が入り込む余地があるのか?天皇家を中国がどうみるか?って解釈になってしまっている。そしてそれらがすべて記紀には触れられない不自然さ。考えられる事は、おそらく邪馬台国は畿内に無かったから触れないんだとすればすべて解決できる。
結局畿内説の問題はどこにあるのか?それは考古学と文献の対立にある。私はそういう考え方自体は間違って無いと思う。だが考古学は文献に記される邪馬台国を探してるんだ。これは明らかな矛盾だ。その矛盾が今の多数派になってる根底にある。これが過去の文化の発達を調査してるなら全く問題が無いんだ。それなら考古学の視点で良い。
だが、文献に書かれた邪馬台国を探すのに文献を基本無視するというのが矛盾してるんだ。その矛盾がどこに現れているか?と言うとまきむく=邪馬台国だってことになる。これを決定付けることは今の見つかってる材料では出来ない。その点では九州説に劣っている。これらの発見はよりニギハヤヒ=物部、から天皇家に流れるヤマト王権の発掘をただしてるだけになる。
何故これが多数派になるのか?がさっぱり意味が分からないが、その答えがおそらく文献を軽視して考えるとこうなるなとなってくる。それ以外にこれらの遺跡を合理的に邪馬台国であるとする主流の説になるのは考えられない。夏王朝も問題だが、発掘してる王朝と呼べるような巨大都市が文献に書かれた特定の都市であるのを証明するのは、考古学としては普通の遺跡の発掘とはちと違う。
結構コレ勇み足で進んでしまっている。
現在見つかっている遺跡から文献を考慮に入れて総合的に見るなら、大和王権と邪馬台国は畿内と九州で独立して存在したが一番合理的な解釈だと思う。それはそもそも文献に記された特定の王朝を考古学的に発見するというのが難易度が高すぎるからになる。まきむくが邪馬台国であると言うのは天皇家や物部氏に卑弥呼が組み込まれるって前提があって初めて成り立つもので。
そうじゃないと、今やってるのは邪馬台国ではなくて、ヤマト国の発掘調査でしか無い。その前提条件を無視したくなるのが、記紀に邪馬台国があまりに触れて無さ過ぎる。日本書紀には一応触れられている。そうなると、魏志倭人伝をすでに書き手は読んでいることは絶対になる。読んでいてここまで無視すると言うのは、邪馬台国の関係者じゃないからってのが一番自然な答えなんだ。
隠してるとしても、それは多分自分と関係ないからなんだと見てる。関係ないのに魏志倭人伝に認められた王朝があるのは触れたくないだろう。かつもし先祖が繋がってるなら、折角神話にしたのに、わざわざ歴史にされてしまう邪魔なだけの存在なんだ。
邪馬台国が畿内で天皇家と独立した存在じゃない。って前提条件は苦しいと思う。その前提条件を無視するなら正直何故これが多数派なのか?は考古学の文献解釈軽視の立場だとしか言えない。そのくせ最後の決定打は文献のなかから物証との照らし合わせをするんだろう矛盾を抱えている点。
考古学的な文献軽視をあまり良い選択だと思わないなら、正直畿内説って私は否定的だ。畿内説が根拠にしてるもので、鏡は国内産じゃないか?と否定的になりつつある。当初は大量に見つかった事でこれだとなったが、逆に大量すぎて胡散臭くなってきた。中国で畿内で見つかる鏡は作られてない。
全く別の王朝だから独自の物なんだと考えればすごくすっきりする。次に全国から集められた土器に九州産が皆無である点。九州が独立した範囲であるのが明白になる。
けいこう天皇から神巧皇后までの間に九州と戦いが関わる事件が多い。その後雄略天皇らしき人物が唐に手紙を送っていて、関東九州を制圧したとの内容になっている。確かに実在が疑われる系図の部分だが、時系列的には九州が後から組み込まれたのがこれで分かる。
文献に記された様々な事はすべて九州だとすると都合が良い。海と密接に絡んだ習俗。次に、九州の小国家と繋がるような邪馬台国の説明。何故ここから突然畿内に飛ぶ?
当時のヤマト王朝はおそらく卑弥呼と同時か?後の祟神天皇から突然大きな勢力範囲になってくる。それまで田舎の小国家に過ぎない。おそらくこの歴史の後九州とヤマト王朝は深く関わる事になると見ている。
天皇家と邪馬台国が畿内で同一の物として存在した合理的な何か?が見つからない限り、私は畿内説は苦しいと見ている。知れば知るほど九州説に傾いてしまう。何故それが畿内説が主流派になってしまってるか?で文献軽視で総合的に見る判断の人たちじゃない考古学系の人のどくどくの発想法が原因だと見ている。
これは遺伝学でも同様だったが、素人的にはどうしても総合的に見てしまうが、専門家は自分のジャンルを中心に思考を形成するので、そうじゃない人はまず畿内説に違和感を覚えると思う。それが本当の意味の多数派じゃないのか?と思う。文献による先入観を排除するためだと分かるのだが、考古学の中でこういったケースはちと特殊だと思う。
似た例ならシュリーマンのトロイ遺跡発掘だろう。後は殷王朝になる。結局最後に文献にしるされた古代国家の発掘になる。これはちと古代の文献に照らし合わせない発掘と違う。
ただまきむくの調査は一切無駄にならないと思う。何故なら、それは邪馬台国の発掘ではなくて、おそらく邪馬台国と全く関係ない初期天皇家の歴史を調査する事になるだろうと見てるから。