辿るは夢十夜8
「…………」
――文月は、原稿をそっと畳に置く。朗読している際には気が付けなかったが、いつの間にか七瀬の唇は僅かに開いたまま、声を発していなかった。それは聖譚病が治ったからなのか、それとも彼女が力尽きてしまったからなのか、すぐには判断が出来ない。七瀬の細い手首を、文月は優しく引っ張った。
「起きてください、七瀬さん」
七瀬の乾いた唇がゆっくりと震えて、大きめに開かれる。文月は「七瀬さん」と繰り返し呼びかけた。お、の形に口を動かした彼女の腕は、力なく文月の手から落ちていこうとする。
「…………んな、夢を……」
高く綺麗な、けれどもざらついた声で紡がれたのは、第一夜の冒頭。だらりと落ちる彼女の小さな手の平を、文月は逃すことなく掴んだ。震えるくらい力が込められる。彼が吸った一息、その空気さえも、寒空の下みたく痙攣していた。
音一つ無い室内で、御厨が文月に歩み寄ろうとした。しかし、凛然と響いた彼の声に、御厨は全身を固め、思わず鳥肌を立てる。
「起きろ榊田七瀬! 君は姉を待つ必要なんてない! 桔梗の花言葉が『永遠の愛』であることを知っているんだろう!? 君と彼女の間の愛は途切れないんだ! 物語に縋らなくとも、君はここで生きていける! 目を開け、七瀬ッ!」
懇願の響きを伴う叫び。あまりに慟哭に似ていて、文月が泣き出すのではと思うくらい、聞いている者の心臓を大きく揺さぶるくらい、尖った声だった。風の鳴くような音が立てられ、御厨は息を呑む。七瀬に掛けられていた布団が、文月に取り払われていた。
「おい文月!」
文月が七瀬の肩を揺さぶろうとする寸前で、御厨は声を張り上げる。その声が聞こえたからか、それとも別の理由によってか、文月は七瀬に触れる前に止まり、そのまま固まっていた。
しんと静まった中で鳴っている速い拍動音は誰のものであったのだろう。御厨は人知れず震えた息を飲み下して、文月の背を見つめる。
「――夢を、見ていたの」
丸い真珠みたいな潤んだ瞳が、文月を見上げていた。申し訳なさそうに下げられた眉と、笑っている口元はちぐはぐだ。目を見開いてそれを見つめる文月に、彼女――七瀬が目を細めて笑みを咲かせてみせた。
「すごく、あったかくて、お姉ちゃんが近くに居るような、そんな夢だった」
睫が白い頬に影を落とす。瞬きをした刹那、その頬を涙が伝った。何か言葉を掛けようとした文月は、しかし息を詰まらせる。
長い黒髪を揺らした七瀬の頭は、文月の胸元に押し付けられていて、細い両腕がしっかりと背中に回されていた。小刻みに震える体を前に、文月は戸惑いつつも、右手でそっとその頭を撫でてやる。堪えたような泣き声を文月の衣服に全て押し付けて、七瀬はそれから長い間、幼子のように叫び続けていた。「お姉ちゃん」という言葉を、何度も何度も繰り返し、それこそ、数え切れないくらい繰り返していた。
異変に気付いたのだろう、何事かといった様子で廊下を駆けてきた榊田に、文月は七瀬を撫でたまま、困ったように微笑んだ。
(四)
ガラスペンとインク瓶が鳴らした音は、澄んだ空気に呑まれて行く。文月は出窓の傍に置かれたテーブルで、原稿用紙と向き合っていた。書いているのは贋作ではなく、彼のオリジナルの作品だ。先へ書き進められないのか、ガラスペンは紙の上を彷徨っている。
結局、インクを付けたものの一文字も書かなかったペンをペン置きに乗せて、文月は台所に向かった。湯を沸かしてインスタントのコーヒーを淹れていたら、本棚から台所を覗き込んだ闖入者がいきなり注文をし始めた。
「俺にも一杯、ブラックで」
面倒くさそうに細めた目をそちらに向けてみれば、文月の予想通り、そこにいたのは御厨だ。乾いた舌打ちを響かせ、文月はカップをもう一つ取り出して、コーヒーの粉末と湯を注ぎ、スティックシュガーを流し込む。一本に止まらず、二本、三本、四本と入れられるのを見て、御厨が慌てて文月の腕を掴んだ。
「待て、待て待て待て! ブラックって言っただろーが! 一本なら許してやったのに何本分入れてんだよ!」
「大サービスだ、喜んで飲め」
御厨の手を振り払った文月が、素早くもう一本手に取って、その上部を噛み千切り、御厨のコーヒーへ余すことなく注ぎ込む。
流し台の下に置かれているゴミ箱へ、砂糖が入っていた袋を捨てると、文月は自分のコーヒーカップに人差し指を引っ掛けて机の方へ戻っていった。恨めしげに彼の姿を追いかけ続けていても意味が無いと悟った御厨は、仕方なしにコーヒーを一口啜る。
今にも文句を垂れそうなほど顔を歪めて、文月の正面の椅子を引いた。広げられている原稿用紙に容赦なくカップを置いたのは、コーヒーを甘くした文月への仕返しだろう。不快そうに眉を寄せている文月をにやりと見て、御厨は何かを思い出したように「あ」と口を開けた。
「そうだ、昨日はお疲れさん。頬の痛みは引いたか?」
「当たり前だろう。それほど強く打たれたわけではないからな。大体、あの時笑いを堪えていた君に心配されたくないんだが」
長い嘆息を吐き出した文月の脳裏を掠めたのは、昨夜、七瀬に抱きつかれていた時の記憶だ。
あの後泣き止んだ七瀬が、恐る恐るといった様子で顔を上げて文月と数秒見つめ合い、今更目が覚めたように「誰?」と問いかけた。綴者であることや成り行きを説明しようとした文月に平手打ちが飛ぶなど、あの場の誰が予測出来ただろう。
変態のような扱いを受け、叩かれた後に突き飛ばされた文月だが、落ち着いた七瀬が榊田の説明を聞いて、文月に一切の非が無いことを理解するとすぐに頭を下げてくれた。
何度も謝罪をした七瀬に「元気そうで安心しました」と返した文月を、御厨は部屋の隅でずっと笑いながら見ていたのである。
文月と同じように御厨もあの出来事を思い返していたのか、彼の笑声が文月の意識を現在に引き戻した。
「あれは傑作だったな。まさか文月が変態呼ばわりされて叩かれる日が来るなんて……あんなに呆然としてるお前を見たのは初めてだったぜ」
「御厨が痴漢の容疑で逮捕される日はいつ来るだろうか……」
「冤罪で捕まるのだけは御免だぞ!?」
「実際にやるなよ? 俺は取材を受けても『良い人だったのに……』なんて言ってやらないからな」
「やらねぇよ!」
飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになったのを堪え、御厨は声の勢いに任せてカップをテーブルに叩きつける。跳ねたコーヒーが茶色い染みを広げたのは、文月の原稿用紙の上に、だ。
室内に蔓延し始めた沈黙の中で、鈴の音が一つ響いたが、文月も御厨もそれが聞こえていないかのように固まっていた。頬を引き攣らせながらも笑って弁解をしようとした御厨の前で、文月が立ち上がる。そんな彼の手が握り締めたのは、空席となった椅子の背もたれだ。
「御厨……これはアルエットの恨みだ!」
「アル……なんだって? というかそれはやめろ! 暴力反対! 悪かった、わざとじゃないんだ!」
「彼の物語に染みを作った罪は重いぞ!」
「お前に椅子を投げつけられる痛みの方が俺にとっては重く思えるんだけどなぁ!」
艶のある木製の椅子はそれほど軽くないようで、文月はやっとのことで持ち上げたものの、彼の右手から椅子は滑り落ち、耳を塞ぎたくなるような衝撃音を響かせた。落とした際に指を負傷したらしく、手を握って呻いた文月が御厨に怒鳴ろうとした。大きく開かれた彼の口は、「あの!」という高い声を耳にして、吃驚で何も発せなくなる。
次第に唇を閉じていき、文月は声の方――廊下を背にして立っている、セーラー服姿の少女をじっと見た。彼女が身に着けているのは、茶と緑を混ぜたような、所謂国防色と、白を基調としているセーラー服だ。
「榊田七瀬……?」
仕事時のスイッチが入っていなかったため、文月の声は色を変えずに流れた。花弁を広げるように笑った七瀬の胸元で、紺色のスカーフが揺れる。彼女が深く頭を下げたのだ。
「昨日は、ありがとうございました。私、文月先生に憧れて、綴者になりたいっていう夢が出来たんです。だから是非、先生の傍で色々と学ばせてください!」
言い終えて上げられた顔は、太陽みたいな輝きを纏っていた。期待と羨望の眼差しを向けられている文月がどう返すのか、御厨は興味津々といった様子に見える。
文月の整った顔立ちが次第に顰められて行き、彼は、溜息混じりに吐き出した。
「……勝手にしてくれ」